キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

出エジプト記 第11章

11章1節

主はモーセに仰せられた。「わたしはパロとエジプトの上になお一つのわざわいを下す。そのあとで彼は、あなたがたをここから行かせる。」

神とパロの戦いは、いよいよ最終章に入ります。最後に神は、今まで以上に厳しい「なお一つ」のことを敢行しようとします。

神とパロの今までの係わりから、パロの頑固さもさることながら、神の徹底ぶりにも凄さを感じます。一見、神は頑固なパロを憎み徹底的に復讐するかにも見えますが、その徹底ぶりは、徹底的な救いに関係します。

神がパロとエジプトに行うことは、じつに神御自身に降りかかってきます。なぜなら、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」(Ⅰテモ1章15節)とは、人にかかる裁きを御自分が受け取られるからです。

神が下す裁きは、「神(父なる神)が神(子なる神・イエス)を裁く」ことでした。「なお一つの災い」とは、長子が死ぬことでした。神は、最後の救いとして、御自分の長子イエスを十字架で殺しました。

友よ。神の裁きは厳しいですか。ハイ、神は厳しく徹底的に人の罪を裁きます。私とあなたの罪を、罪のない御子イエスに置いて、罪人となった御子イエスを厳しく裁きます。

11章3節

主はエジプトが民に好意を持つようにされた。モーセその人も、エジプトの国でパロの家臣と民に非常に尊敬されていた。

エジプト人は、モーセによって数々の災いを受けたのに、厄神的モーセと神の民を、なぜか家臣や民は尊敬しました。

「あの人は好い人なのに、あの人の信じている神さまは…」と聞くことがあります。史実をさかのぼると…AD300年頃のローマ帝国は、インフレと役人や軍人の腐敗で崩壊に向かっていました。コンスタンチヌス大帝が部下を見回すと、キリスト信者の役人たちは違っていました。皇帝は、「禁教キリスト教」と「良いキリスト信者たち」の現実の中で、後者を選びました。間もなく、ローマ帝国は313年にキリスト教公認、380年頃に国教としました。(国教への移行は、後により深い信仰の堕落を生み出すことになりますが…)

人々はキリストに関心がなくても、第5番目の福音書であるあなたに良い模範を見たいと期待しています。それを重荷でなく、良いプライドに代えてください。しかしそれは、神の子の命が、あふれ出ることで良い行いとなりますように。自分の行いでなく、キリストの命によって、です(ガラ2章16節参照)。

11章5節

エジプトの国の初子は、王座に着くパロの初子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の初子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。

神によって、最後の災いの内容が明らかにされます。それは、王から奴隷まで、差別なく初子が死ぬという恐ろしいものでした。

この災いは、頑固なパロが招き、民衆や奴隷ではないのにと思いますが、ここで神が扱う罪は、盗みや殺人罪などではなく、天国を閉ざす「罪からくる報酬は死です」(ロマ6章23節)という原罪です。それは、神を信じない罪のことで、王も奴隷もありません。

初子とは、「家の後継者=永遠の御国の相続者=永遠の命」を指します。罪が人を差別しないように、救いにも差別はありません。あるのは、信仰の有無です。死は自分の罪の責任を取ることで、救いは神に罪の責任を取っていただくことです。人は、「とこしえに生き…、その命をあがなうには、(罪の代価が)あまりに価高くて…できない」(詩49・8~9・口語訳)。

友よ。人生の最大の問題は、命に関することです。あなたには未解決の問題が多くあっても、「エジプトの初子」から「神の子」に移され、人生の最大の問題が解決しています。…それ以外の問題は、小さなものでは…。

11章4~5節

「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く。…エジプトの国の初子は…みな死ぬ。」

神の最後の御業が行われ、未だかつてない悲しみがエジプト全土を襲います。人を滅ぼすのが悪魔で、救うのが神、と思いがちですが、「私が出て行く」と神は言われます。

サタンは、罪を裁くどころか罪にエールを送ります。罪の裁きは、神御自身が「契約」に従って行われます。その契約とは、「信仰義認(創15章6節・ロマ3章22節・ヨハ3章16節)」であり、それ以外の条件はありません。

聖書は、神と人との救いの契約書です。命は「継がりと交わり=信仰」にあり、死は「断絶と孤独=不信」にあります(あえて「継」を用いたのは、継続を表すためです)。人と人が信じ合うと「人の命」を持ち、神を信じると「神の命」を持ちます。神の命だけが永遠です。従って、不信仰こそ、「信じない者はすでに裁かれている」(ヨハ3章18節)現実です。

友よ。神は人を裁く(判断)ために必ず出て行かれます。だからこそ、その前に過ぎ越し(罪を過ぎ越す)の羊(イエス)の血(十字架)を塗る(信仰)ように命じました。神に、自分ではなく御子イエスを差し出してください。それが、信仰義認であり、恵みにより、信仰によって救われることです。

11章7節

これは、主がエジプト人とイスラエル人を区別されるのを、あなたがたが知るためです。

神が、エジプトとイスラエルに起こしている一連の出来事の意味は、エジプト人とイスラエル人の区別を知ることだと言います。

これは、人種差別ではありません。神が導くイスラエルの歴史、人物、出来事の記録には一貫した目的があります。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」(Ⅱテモ3章16節)。

それは、①神について ②神と人の関係について ③人の命と死について教えることです。

とりわけ、目に見えない霊の世界を、イスラエル(霊の人)とエジプト(肉の人)の姿を通して語ります。両者は、エジプトの国土に、同時期に住んでいる二つの国民ですが、同じ出来事に直面しながら、イスラエルは命へ、エジプトは死へと向かいます。

両者の差別化は、人種や生活様式などの違いではなく、真理の違いです。神は、霊(神によって生まれた者)と肉(親から生まれた者)を分けます。「血肉のからだは神の国を相続できません」(Ⅰコリ15章50節)。聖書の史実は、一人ひとりの生涯の事実となります。

友よ。イスラエルの道を選んでください。

11章9節

「パロは・・・聞き入れない…。それはわたしの不思議がエジプトの地で多くなるためである。」

ここでも、パロの心をかたくなにされるのは神であると語ります。神がそうするのだから、パロの責任ではないと言えますか、それとも他に意味があるのでしょうか。

勿論そうです。神がパロとエジプトに行う計画は、彼らにも御自分が真の神であることを知らせるためです。それには、7つ目の災いまででは分かりませんが、10まで行ってこそ理解されます。それを一番よく知るのが神ですから、中途半端な理解を消すためにも、「神はパロの心を頑なにする」必要があります。

聞く耳のない者の耳を開くには、何度も語り、現実の痛みを受け取らせ、それを繰り返すことです。「彼はだれに知識を教えようとするのか…それは教訓に教訓、教訓に教訓、規則に規則、規則に規則。ここにも少し、そこにも少し教えるのだ」(イザ28章9~10節・口語訳)。

友よ。パロのように不従順のために神の不思議(災い)を多く体験することは恵みでしょうか。できれば、モーセのように、神の御心に従うゆえに、神の御業(愛・力)を受け続け、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に」(Ⅱコリ3章18節・口語訳)変えられたいものです。

ページトップへ