キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

出エジプト記 第12章

12章2節

「この月があなたがたの月の始まりとし、これをあなた方の年の最初の月とせよ。」

神が定める新しいこととは、大化の改新、明治維新、共産国家の崩壊などとは比べることのできない全く新しい始まりです。それは政治経済の変化でなく、いのちの変革です。

この世界は「空の空」で、世には新しいことはなく、同じことの繰り返しです。それは、「日の下(太陽の下=この世)」(伝道1章)の制約があるからですが、その太陽を超える新しいことが起こりました。神が人となり、十字架で罪人の身代わりに死に、三日後に復活したことです。これは、人を太陽の下(この世の制約・罪・死)から解放し、太陽の上(神の国・赦し・永遠・命)へと移します。ここに、本当に新しい時間・人生・出来事が始まります。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリ5章17節)。

だれも過去(古いもの)から逃れられないのは、過去を委ねるところがないからです。しかし神の子は、主の十字架に過去を委ねて、復活のいのち(新しいもの)に歩むことができます。

友よ。今日も新しい一日です。

12章3節

「羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。」

聖書の中で一番多く奇跡が出てくるのは、出エジプト記です。そして、聖書の奇跡中の奇跡は、罪人が救われ、神の子となることです。ここ12章とイザヤ書53章は、旧約聖書におけるゴルゴタの場面となります。

神は、見えない霊の世界を見えるように表わされます。ここに連れて来られた一頭の羊こそ、「彼(男性単数)は、おまえ(サタン)の頭を砕き…」(創3章15節)全ての人を罪とサタンと死の力から解放する、神の子イエス・キリストです。

世界も個人の変革も、環境や周りの変化でなく、罪が赦され神の子の命を受け取る霊の変化から始められます。430年間住んだエジプト(この世)から、新しい神の国へ出発させたのは、諸々の奇跡ではなく、罪の赦しの奇跡でした。

友よ。新しいことは、聖霊の傾注からではなく、十字架から始まります。困難に直面し、前に進めないならば、なおさら十字架の原点に戻ってください。十字架上の主のわき腹からは、世・肉・罪・サタン・死から解放する血が流れ、次に水(聖霊)が流れ出ました。小羊イエスの血が、解放への出発です。

12章5節

「あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。」

イスラエルの「新しい年と月」は、傷のない雄の一歳の小羊一頭から始まりました。新しいことの始まりとは、パロから神へ、奴隷から自由人へ、エジプトからカナンへ、死から命への移行です。そのために神は、雹、いなごの大軍、暗闇の力などを臨ませましたが、それらすら準備でした。

新しいことは、一歳の傷のない雄の羊(罪のない一人の男性)の御業によって起こされます。バプテスマのヨハネは、自分の方へ来られる主イエスを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハ1章29節)と言いました。西暦AD(紀元)とは、「キリストの日から」のラテン語頭文字で、その前はBC(ビフォア―・クライスト=キリストが来る前)でした。

友よ。古いこととは「自分の命(律法・行い)」で生きることで、新しいこととは「キリストの命(恵み・信仰)」で生きることです。主を信じた時から、あなたの人生はBCからADに移行したのです。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラ2章20節)。

12章6~7節

それをほふり、…その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱とかもいに、それをつける。

聖書は、神と人の「契約書」です。羊の血を、門柱とかもいに塗る「過ぎ越しの祭り」は、この後の聖書に繰り返し記されます。この契約は、「恵みと信仰」がテーマです。

契約に用いられる「血」は、「いのち」を表しますから、契約は命によるものです。この契約は、ギブ・アンド・テイクではなく、一方的な「神の行為(恵み)」を、「人が受け取る(信仰)」ことで結ばれます。契約を結ぶ、の「結ぶ」は、動物を「裂く=殺す」から派生したとも言われます。羊を殺し、その血を塗ることは、私の罪の身代わりに死の代価を払ってくださる神の行為(恵み)を受け取る、人の行為(信仰)です。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは…神からの賜物です」(エペ2章8節)。

友よ。教会では「恵み」が強調され、人の行為を「律法」と軽視するメッセージが好まれます。そして、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛せよ」(申6章5節)は隠されます。小羊イエスの血の恵みに、全身全霊(心・精神・力を尽して)でお応えするのが信仰ではないでしょうか。

12章8節 ①

その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。

この過越しの食事が、「過越しの祭り」となり、「最後の晩餐」と「聖さん式」、「十字架の贖いと復活」に行きつきます。

過ぎ越しの食事は、「神の裁きを過越す」食事です。用意された小羊は、頭に手を置かれ、罪人の罪を受け取ります。罪の罰として頸(けい)動脈が切られ、血(命)を器に受けられ、家のかもいと門柱に塗られます。神が罪を裁くために来られる時、その家の中の者たちの罪の代価は支払い済なので、「主はその戸口を過ぎ越され」(23節)ます。「すべてのものは血によってきよめられる、…また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」(ヘブ9章22節)。

友よ。目の前で痛み苦しみ血を流しつつ死んでいく羊は、本当は罪人の私たちの姿です。そ れを過ぎ越させるために、主が身代わりの羊となられました。さらに、「私を食べよ」(ルカ22章19節参照)と言われます。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハ 15章13節・新共同訳)こそ、主イエス御自身が実行されました。

12章8節 ②

種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。

過越しの食事は、小羊の肉だけでなく、「種なしパン、苦菜」なども添えられました。さらに後には、「塩水の鉢、お菓子、ぶどう酒」なども準備されることがわかります。

「種入れぬパン」は、不純物を取り除くことを表し、「パリサイ人とサドカイ人たちのパン種(教え)に気をつけよ」(マタ16章11・12節)と主が言われ、エジプトの考えや習慣が生地の中で発酵(支配)することを避けさせました。

最後の晩餐の時、「イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、…『取って食べなさい。これはわたしのからだです』」(マタ26章 26節)と、小羊の肉はパンに置き換えられ、主の復活の命を表しました。さらに、「私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかる…。パンは一つですから、私たちは多数であっても、一つのからだです」(Ⅰコリ10章16・17節)と、キリストの体である教会へつなげます。旧約でも新約でも、礼拝の中心は「過越しの食事=聖さん式」=「イエス・キリストとの交わり」でした。

友よ。今日も、みことば(パン)と祈り(応答)によって、「過越しの食事」をしてから出掛けてください。

12章8節 ③

種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。

過ぎ越しの食事には、さらに「苦菜」、「塩水」、ハローシェトと言われる「お菓子」、それに「ぶどう酒」が添えられました。

  • 苦菜は、わさびやチコリやレタスやはっかなどを入れて作り、奴隷の苦しみを思い出すためです。
  • 塩水は、奴隷の時に流した悲しみの涙を表し、パンをこの塩水に浸して食べました(主の最後の晩餐でもこのようにしています…マコ14章20節)。また、紅海の塩水を表すとの説もあります。
  • お菓子は、リンゴやナツメヤシやイチジクで作り、奴隷としてレンガ造りを強いられていた時の粘土を表すためでした。

パンとぶどう酒を受け取る、恵まれた友よ。その前は、やはり苦しみ(苦菜)を食べ、悲しみの涙(塩水)を飲み、粘土(お菓子)を口に詰められるような、罪の奴隷の人生ではなかったですか。今は自由人の食物をいただいていますが、かつての奴隷の食べ物を忘れてはなりません。それらは、過去の苦しい人生を思い出させますが、今の生活が主の恵みであることをさらに強く教えます。

12章11節

「これは主への過越しのいけにえである。」

過ぎ越しの食事には、4つの杯に注がれた「ぶどう酒」が添えられました。ぶどう酒は、家の門に塗られた小羊の血・主イエスの十字架の血を表します。「食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です』」(ルカ22章20節)。

また、四つの杯は、「イスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。それゆえ、
  • エジプトの苦役の下から連れ出し…
  • 労役から救い出す…
  • あなたがたを贖う…
  • 私の民とし…アブラハム…に誓ったその地に…連れて行き…所有として与える」(出6章5~8節)
と四つの契約を表しました。神は、苦役から、奴隷の身分から、贖い(買い取り)、カナン(天国)に導かれます。

種々の保険の支払いは、全て約款(契約)通りで、以上でも以下でもないと言われます。しかし、主イエスが人となり、「過ぎ越しのいけにいえ」になられたことは、文字の契約(律法・行い)を超えた愛の契約(恵み・信仰)そのものでした。

主は今日もあなたに、「友よ。わたしはあなたの底にいる。今日もわたしの上を歩みなさい」と言われます。

12章21節

「あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越しのいけにえとしてほふりなさい。」

食事について教えられ、いよいよ実行に移しますが、それは羊を殺すことから始まります。当時は自分の手で羊や牛を殺しました。

罪が過ぎ越されるために、羊を殺せと命じるのは父なる神で、羊は御子イエスのことです。すると神は、私を「殺しなさい=十字架に付けよ」と言うことになります。人が主を十字架に付けるのは、偶像と自己中心を悔い「イエスを主」と信じた時、さらに「罪を言い表すなら…御子イエスの血は全ての罪から私たちをきよめる」(Ⅰヨハ1章7~9節)とある罪々の告白をする時でもあります。「主は贖う者として、シオンに来られる」(イザ59章20節・新共同訳)とは、「主はあなたに殺されるために来られる」ともなります。

友よ。人を食い物にする神と称するものは世に多くいますが、「わたしを殺して救いを得よ」という神は、主イエスお一人です。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」(マコ10章45節)。

12章23節

主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口過ぎ越され…打つことがない。

主が家々を行き巡り、玄関に血が塗られてあるか否かを見ます。血のある家は「裁きを過ぎ越し」、血がない家では断行します。右の「主が」とは、父なる神のことです。

父なる神がイスラエル人の家に到着し、門に血のあるのを見て「裁きを過ぎ越し」ますが、そこで何もせず引き返したのではありません。神はその家に入り、家の中に居る人々の罪の身代わりに、御自分の御子を殺したのです。イスラエル人の家では、神は御自分の御子を裁き、門柱に血がなかったエジプト人の家では、神は何もせず黙って立ち去りました。神が何もしなかったので、彼らは自分の罪の価を、自分自身で支払うことになります。「罪から来る報酬はは死です」(ロマ6章23節)。それが、その家の長子(永遠のいのち)の死です。

人の絶望は、神の干渉を拒むところにあります。愛の神は、うるさいほどあなたに干渉します。その最大の干渉こそ十字架です。友よ。神の干渉の御手を受け取ってください。すると、後に「平安な義の実」(ヘブ12章11節)を収穫することができます。

12章27節

「…主がエジプトを打ったとき、…イスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。…ひざまずいて、礼拝した。」

過越しは、永遠に守り(24節)、カナンに入っても守り(25節)、子供たちにこの儀式の意味を語り続けよ(27節)と命じられているように、とても重要なことでした。

「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」(マタ16章26節)とは、あらゆることよりも神との係わり(過越しの祭り=罪の赦し・神の子の命)が重要であることを教えます。特に過越しの祭りは、人の救いの原点に立ち返らせます。そのことをパウロは、「最もたいせつなこととして伝えたのは…、キリストは…私たちの罪のために死なれたこと、…三日目によみがえられたこと」(Ⅰコリ 章3・4節)と言われました。

友よ。私たちの罪は、小羊イエスの血によってすでに過ぎ越されています。日本で神の子は小人数ですが、「こうしてイスラエル人は行って、行なった。主がモーセとアロンに命じられた通りに行なった」(28節)ように、福音を伝えましょう。そのために、自分が福音の原点にいつも立ち続けましょう。

12章29節

真夜中になって、主はエジプトの地のすべての初子を、王座に着くパロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、…打たれた。

エジプトは、十度に及ぶ奇跡によって警告された結果を、今受け取ろうとしています。

自然界の命の法則を見ていると、命は自由で永遠であるような錯覚を持ちますが、それは一定の条件下で、しかも神の許しの範囲です。命は、だれの自由にもできません。創造主なる神だけに絶対的主権があります。だれもが肉体の死を迎えますが、それは「魂の死」と「永遠の御国」への門出に分かれます。エジプト人は前者に、イスラエル人は後者になりました。

霊の生死の決定は、王と犯罪者、老若男女も人種も差別はありません。ただ「小羊のいのちの書に名が書かれてある者だけが、入ることができる」(黙21章27節)という厳然たる基準だけがあります。

友よ。あなたはエジプト(罪人・死)から贖い出され、イスラエル(神の王子・御国の世継ぎ)とされました。ですから、現在が、たとえ惨めで孤独な立場に居るとしても、あなたの一番重要な問題(いのち)は解決されています。詩篇の記者と共に「神の義を高らかにうたいましょう」(詩145・7参照)。

12章30節

その夜、パロやその家臣および全エジプトが起き上がった。…激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである。

真夜中、イスラエルの家からは静かな賛美が聞こえ、エジプトの家では悲痛な叫び声があがります。神への賛美と死への絶叫、だれもがどちらかを体験せねばなりません。

命は「継がりと交わり」のことで、死は「断絶と孤独」です。主は、「わたしにつながっていなさい…実(命)を結ぶ」と言い、「つながっていなければ実(命)を結べない」(ヨハ15章1~11節参照)と言われました。

人と人の継がりと交わりは「人の命」を作りますが、永遠はありません。神との継がりを拒んだ者は、長子(御国の跡継ぎ=永遠の生命)を失いました。肉体の死という体験がなくても、愛する者との断絶と孤独は、心の臨死体験です。その痛み・悲しみ・無力・絶望は、神から退けられる時の万分の一の予備体験です。

友よ、祈ろう。「神よ、我家から死人が出ませんように」と。そして、「時が良くても悪くてもみことばを宣べ伝え」(Ⅱテモ4章2節)させてください、とも。人生には苦しみと悲しみがありますが、肉体の死に際して、天国への希望を持てる神の子たちは幸いです。

12章31節

パロは…モーセとアロンを呼び寄せて言った。「…私の民の中から出て行け。おまえたちが言うとおりに、行って、主に仕えよ。」

とうとう奴隷から解放される日がやって来ました。この年は、ヤコブの時代にエジプトに移り住んでから430年目でした。

人がエデン(神の国)からこの世(エジプト)に追放されて以来、パロ(この世の君・サタン)に支配され、罪と死の奴隷とされていました。また、自らも自己中心を貫き、時にパロのように高慢に、時に民のように泣き叫びました。しかし、長く閉じ込められた現実を終わらせたのは、「父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、…小羊の…尊い血によったのです」(Ⅰペテ1章18~19節)とある神の小羊イエスの血潮の力でした。

「パロは強い手にしいられて、彼らを去らせるであろう。否、彼は強い手にしいられて、彼らを国から追い出す…」(出6章1節・口語訳)とある「強い手」も、主の十字架でした。

解放を待つ友よ。罪と死とパロの大問題を解決した主の血潮に、今あなたが抱える問題を解決できないことはありません。あの手この手を尽すことをしばし止め、主の十字架を仰ぎ見て、その血潮を受け止めてください。

12章32~33節

「…羊の群れも牛の群れも連れて出て行け。そして私のためにも祝福を祈れ。」…民をせきたてて、強制的にその国から追い出した。

パロの考えは何度も変わりました。ここまで追い詰められ、やっと最終的な決断ができましたが、「遅きに失する」です。

パロの行動は、その場しのぎの日和見主義でした。そのような者には、神の警告や愛も、「のれんに腕押し」です。一方ヨブは、神の激しい試練に悲鳴を上げ、ある時から神に激しく反発しました。しかし神は、「お前たちは…ヨブのようにわたしについて正しく語らなかった」(ヨブ記42章8節・新共同訳)と三人の友人を責めました。それは、友人たちは自分自身を抜いた建前論議に明け暮れ、ヨブは自分自身を神と人々に直球でぶつけたからです。

神が「ヨブのように…正しく」と言ったのは、ヨブの主張のことでなく、自分を隠さず本音で神と議論したことです。人の正しい姿勢とは、神の介入を許すことです。なぜなら、罪人が義人であり得るのは、神の介入によるからです。

友よ。主に正直に、悲しみ、悔しさ、怒り、惨めさを本音でぶつけるならば、神はそこに介入できます。義人とは、正しい人ではなくヨブのように神に介入していただける人です。

12章35~36節

イスラエル人は…エジプトから銀の飾り、金の飾り、それに着物を求めた。…こうして、彼らはエジプトからはぎ取った。

右の言葉は、聖書の中でも難解な箇所の一つです。しかも、金銀衣類を求めよ、と命じたのは神御自身でした( 11章2節)。

エジプト人から、金銀衣類を奪って出ていくのはなぜでしょか。それは、何も持たない民が長旅をするための物資でしょうか。あるいは、やがて神の幕屋を造るために必要だからでしょうか。さらに、奴隷として働いた報酬を貪欲に求めたのでしょうか。明確な答えはわかりませんが、一つの考え方に、「エジプトからはぎ取る、金、銀、衣類…それは苦しみ、悲しみ、痛み、絶望…の中で生きたことを、金銀衣類のような宝として持って出よ」との説がありますが、的外れではなさそうです。

事実、彼らは砂漠に出てから、その金銀衣類で神の幕屋を作りました。私たちがキリストの体を建て上げるにも、多くの献げものが必要です。献げる力は、かつての苦しみ・悲しみ・痛み・絶望が、霊的な金・銀・衣類の財産となってこそ出てきます。

友よ。多くの金銀衣類(証し)をこの世から奪って、神の国へ出て行きましょう。

12章37節

イスラエル人はラメセスから、スコテに向かって旅立った。幼子を除いて、徒歩の壮年男子は約六十万人。

エジプトから出たイスラエルの民は、壮年男子だけで60万人と記されます。聖書の中の「数」は、理解に苦しむことが度々です。

父なる神がイスラエル人の家に到着し、門に血のあるのを見て「裁きを過ぎ越し」ますが、そこで何もせず引き返したのではありません。神はその家に入り、家の中に居る人々の罪の身代わりに、御自分の御子を殺したのです。イスラエル人の家では、神は御自分の御子を裁き、門柱に血がなかったエジプト人の家では、神は何もせず黙って立ち去りました。神が何もしなかったので、彼らは自分の罪の価を、自分自身で支払うことになります。「罪から来る報酬はは死です」(ロマ6章23節)。それが、その家の長子(永遠のいのち)の死です。

人の絶望は、神の干渉を拒むところにあります。愛の神は、うるさいほどあなたに干渉します。その最大の干渉こそ十字架です。友よ。神の干渉の御手を受け取ってください。すると、後に「平安な義の実」(ヘブ12章11節)を収穫することができます。

12章27節

「…主がエジプトを打ったとき、…イスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。…ひざまずいて、礼拝した。」

過越しは、永遠に守り(24節)、カナンに入っても守り(25節)、子供たちにこの儀式の意味を語り続けよ(27節)と命じられているように、とても重要なことでした。

「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」(マタ16章26節)とは、あらゆることよりも神との係わり(過越しの祭り=罪の赦し・神の子の命)が重要であることを教えます。特に過越しの祭りは、人の救いの原点に立ち返らせます。そのことをパウロは、「最もたいせつなこととして伝えたのは…、キリストは…私たちの罪のために死なれたこと、…三日目によみがえられたこと」(Ⅰコリ 章3・4節)と言われました。

友よ。私たちの罪は、小羊イエスの血によってすでに過ぎ越されています。日本で神の子は小人数ですが、「こうしてイスラエル人は行って、行なった。主がモーセとアロンに命じられた通りに行なった」(28節)ように、福音を伝えましょう。そのために、自分が福音の原点にいつも立ち続けましょう。

12章29節

真夜中になって、主はエジプトの地のすべての初子を、王座に着くパロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、…打たれた。

エジプトは、十度に及ぶ奇跡によって警告された結果を、今受け取ろうとしています。

自然界の命の法則を見ていると、命は自由で永遠であるような錯覚を持ちますが、それは一定の条件下で、しかも神の許しの範囲です。命は、だれの自由にもできません。創造主なる神だけに絶対的主権があります。だれもが肉体の死を迎えますが、それは「魂の死」と「永遠の御国」への門出に分かれます。エジプト人は前者に、イスラエル人は後者になりました。

霊の生死の決定は、王と犯罪者、老若男女も人種も差別はありません。ただ「小羊のいのちの書に名が書かれてある者だけが、入ることができる」(黙21章27節)という厳然たる基準だけがあります。

友よ。あなたはエジプト(罪人・死)から贖い出され、イスラエル(神の王子・御国の世継ぎ)とされました。ですから、現在が、たとえ惨めで孤独な立場に居るとしても、あなたの一番重要な問題(いのち)は解決されています。詩篇の記者と共に「神の義を高らかにうたいましょう」(詩145・7参照)。

12章30節

その夜、パロやその家臣および全エジプトが起き上がった。…激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである。

真夜中、イスラエルの家からは静かな賛美が聞こえ、エジプトの家では悲痛な叫び声があがります。神への賛美と死への絶叫、だれもがどちらかを体験せねばなりません。

命は「継がりと交わり」のことで、死は「断絶と孤独」です。主は、「わたしにつながっていなさい…実(命)を結ぶ」と言い、「つながっていなければ実(命)を結べない」(ヨハ15章1~11節参照)と言われました。

人と人の継がりと交わりは「人の命」を作りますが、永遠はありません。神との継がりを拒んだ者は、長子(御国の跡継ぎ=永遠の生命)を失いました。肉体の死という体験がなくても、愛する者との断絶と孤独は、心の臨死体験です。その痛み・悲しみ・無力・絶望は、神から退けられる時の万分の一の予備体験です。

友よ、祈ろう。「神よ、我家から死人が出ませんように」と。そして、「時が良くても悪くてもみことばを宣べ伝え」(Ⅱテモ4章2節)させてください、とも。人生には苦しみと悲しみがありますが、肉体の死に際して、天国への希望を持てる神の子たちは幸いです。

12章31節

パロは…モーセとアロンを呼び寄せて言った。「…私の民の中から出て行け。おまえたちが言うとおりに、行って、主に仕えよ。」

とうとう奴隷から解放される日がやって来ました。この年は、ヤコブの時代にエジプトに移り住んでから430年目でした。

人がエデン(神の国)からこの世(エジプト)に追放されて以来、パロ(この世の君・サタン)に支配され、罪と死の奴隷とされていました。また、自らも自己中心を貫き、時にパロのように高慢に、時に民のように泣き叫びました。しかし、長く閉じ込められた現実を終わらせたのは、「父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、…小羊の…尊い血によったのです」(Ⅰペテ1章18~19節)とある神の小羊イエスの血潮の力でした。

「パロは強い手にしいられて、彼らを去らせるであろう。否、彼は強い手にしいられて、彼らを国から追い出す…」(出6章1節・口語訳)とある「強い手」も、主の十字架でした。

解放を待つ友よ。罪と死とパロの大問題を解決した主の血潮に、今あなたが抱える問題を解決できないことはありません。あの手この手を尽すことをしばし止め、主の十字架を仰ぎ見て、その血潮を受け止めてください。

12章32~33節

「…羊の群れも牛の群れも連れて出て行け。そして私のためにも祝福を祈れ。」…民をせきたてて、強制的にその国から追い出した。

パロの考えは何度も変わりました。ここまで追い詰められ、やっと最終的な決断ができましたが、「遅きに失する」です。

パロの行動は、その場しのぎの日和見主義でした。そのような者には、神の警告や愛も、「のれんに腕押し」です。一方ヨブは、神の激しい試練に悲鳴を上げ、ある時から神に激しく反発しました。しかし神は、「お前たちは…ヨブのようにわたしについて正しく語らなかった」(ヨブ記42章8節・新共同訳)と三人の友人を責めました。それは、友人たちは自分自身を抜いた建前論議に明け暮れ、ヨブは自分自身を神と人々に直球でぶつけたからです。

神が「ヨブのように…正しく」と言ったのは、ヨブの主張のことでなく、自分を隠さず本音で神と議論したことです。人の正しい姿勢とは、神の介入を許すことです。なぜなら、罪人が義人であり得るのは、神の介入によるからです。

友よ。主に正直に、悲しみ、悔しさ、怒り、惨めさを本音でぶつけるならば、神はそこに介入できます。義人とは、正しい人ではなくヨブのように神に介入していただける人です。

12章35~36節

イスラエル人は…エジプトから銀の飾り、金の飾り、それに着物を求めた。…こうして、彼らはエジプトからはぎ取った。

右の言葉は、聖書の中でも難解な箇所の一つです。しかも、金銀衣類を求めよ、と命じたのは神御自身でした( 11章2節)。

エジプト人から、金銀衣類を奪って出ていくのはなぜでしょか。それは、何も持たない民が長旅をするための物資でしょうか。あるいは、やがて神の幕屋を造るために必要だからでしょうか。さらに、奴隷として働いた報酬を貪欲に求めたのでしょうか。明確な答えはわかりませんが、一つの考え方に、「エジプトからはぎ取る、金、銀、衣類…それは苦しみ、悲しみ、痛み、絶望…の中で生きたことを、金銀衣類のような宝として持って出よ」との説がありますが、的外れではなさそうです。

事実、彼らは砂漠に出てから、その金銀衣類で神の幕屋を作りました。私たちがキリストの体を建て上げるにも、多くの献げものが必要です。献げる力は、かつての苦しみ・悲しみ・痛み・絶望が、霊的な金・銀・衣類の財産となってこそ出てきます。

友よ。多くの金銀衣類(証し)をこの世から奪って、神の国へ出て行きましょう。

12章37節

イスラエル人はラメセスから、スコテに向かって旅立った。幼子を除いて、徒歩の壮年男子は約六十万人。

エジプトから出たイスラエルの民は、壮年男子だけで60万人と記されます。聖書の中の「数」は、理解に苦しむことが度々です。

聖書を読むに、ある人は数字を字義どおり受け取り、他の人はメッセージとして読みます。字義的であれば、世界は7日で造られ、世界の始まりは今から6300~400年程前。エジプトを出たイスラエルの民は、成年男子が60万人ですから、老若男女全員で200万人ほどになります。ある試算では、200万人は、四列に並ぶとエジプトからカナンまで届くとか。また、200万人がシナイ山の周りに集うと、莫大な面積になり、莫大な食糧が必要になります。これらの数の解釈は、それぞれの信仰に委ねる他ありません。

しかし神は、イスラエルに3度国を失わせ(エジプトへ・バビロン捕囚へ・AD70年の敗北とパレスチナからの追放)、3度カナン帰還を実現させました。何よりも、私たちこそ、罪と死から回復(復活)させられた最大の奇跡の証人です。

友よ。自分の計算でなく、神の計算を信じて歩みましょう。

12章41節

四百三十年が終わったとき、ちょうどその日に、主の全集団はエジプトの国を出た。

徳川260年と言われますが、ヤコブ一族がエジプトに住んだ年月は、ローマ帝国の長さに匹敵する430年でした。

ヨセフの時の政権が代わって後は、奴隷の状態が昨日まで続き、自由はありませんでした。そして、エジプトの奴隷(サタンと罪と死)からの解放につける形容詞こそ「430年=絶対不可能」でした。それをモーセが破ったように、罪の奴隷から人を解放したのは、神から遣わされた御子イエスです。「彼(イエス)は私たちの病を…痛みをになった。…彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。…私たちのそむきの罪のため…咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(イザ53章4・5節)。

友よ。あなたの本来の自我(生きる拠り所)は「神の子」ですが、罪の生活が長くなると、 「罪人」が第二の自我となります。しかし、あなたの四百三十年は、「ちょうどその日(イエスを主と信じた日)」に、「キリストと共に十字架につけられ、…キリストが私のうち生きて」(ガラ2章20節)終わりました。

12章42節

この夜、主は彼らをエジプトの国から連れ出すために、寝ずの番をされた。この夜…イスラエル人は…主のために寝ずの番をする…。

自分の子が病の時、親は眠ることなく看病します。神はエジプトから出る民を、寝ずの番をして見守っておられました。

イスラエルの出国は、パロが「出て行け」と言ったからではなく、神が「この山で仕え(礼拝)なさい」(3章12節)と言われたことを、神自ら過越しの羊となって実現してくださったからです。

信仰による行動は、世の状況が整ったからでなく、神に従うからです。しかしこの時は、巣立ちする雛を「…敵である悪魔が、…食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回って」(Ⅰペテ5章8節)いる一番危険な時です。

今、神の御心に従って歩み出そうとしている友よ。まずは、その行動が「神を愛し、隣人を愛する」ためであるかを点検してください。そして、そこから外れていないならば、大胆に歩み出してください。詩篇の記者も、「主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない」(詩121・3)と約束しています。さらに、この時はあなたも眠らず、主に目を注ぎ続ける時です。

12章48節

もし…異国人が在留していて、主に過越しのいけにえをささげようとするなら、彼の家の男子はみな割礼を受けなければならない。

過越しの祭りには、イスラエル人だけでなく奴隷も異国人も参加できました。ただし、「割礼を受ける」という条件がありました。

割礼は、他民族から区別するために、男子の包皮の一部を切り取る儀式です。それは、「人の命を伝えるところを切る」ことで、「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです」(コロ2章11節)とパウロが霊的意味を教えています。

「肉の体を脱ぎ捨て」てイスラエル人になることは、「キリストと共に十字架で死に、キリストの復活にあずかり、キリストと共に生きる者」のことです。異邦人は自分の肉の命で生き、神の子は御霊によって生きます。

友よ。日本人として生まれた私たちが、イスラエル(神の王子・御国の世継ぎ)にされたのは、父なる神と私たちを結ぶ主イエスの十字架と復活(割礼)の恵みを受けたからです。それによって、遠慮することなく、「アバ、父」(ロマ8章15節)と神を呼ぶことができるようにされたのです。

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