キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

出エジプト記 第18章

18章8節

モーセはしゅうとに、…途中で彼らに降りかかったすべての困難、また主が彼らを救い出された次第を語った。

アマレクに勝利した後、モーセは先に帰っていた家族と再会し、これまでの経過を説明しました。その中で「降りかかった困難(苦しみ・口語訳)」について語りました。

モーセの困難の始まりは、40年の平凡な羊飼いの生活の中で、突如ホレブの山で神に呼ばれて従ったからでした。人生は、どちらに歩んでも困難から逃れられません。しかし、自分の願いから出発して苦しむのと、神に従って苦しむのとは違います。

前者は、苦しんで努力し、達成した後、自分を誇ります。後者は、苦しみの中で必死に神を求め、達成した時は神をたたえます。同じように見える困難でも、前者は自分をさらに信じさせ、後者は神を信じさせます。モーセは神に従い、生死のふちを歩くほどに、神をさらに深く知り、神に依存することを知りました。

友よ。あなたの人生の苦難をもって、自分を語りますか、それとも神ですか。モーセのように、「主が彼ら(私)を救い出された」と語れるならば、人生の苦しみが大きいほど、神に愛されていた人です。

18章9~12節

イテロは…救い出してくださったことを喜んだ。…偉大であることを知り、…全焼のいけにえと神へのいけにえを持って来た…。

モーセが神の導きを証しすると、イテロは神を信じ、全焼のいけにえを捧げて礼拝し、皆と共に食事をし、神の家族となりました。

イテロが、神を「信じ・礼拝し・神の家族」となったのは、証しを聞いてでした。病気のいやし、奇跡、悪霊の追い出しなど、神の恵みを語るのが証しでしょうか。それらの恵み(御利益)のことならば、真実は別とし世の宗教の方が熱心で教会は負けます。

証しとは、自分が「イエスは主である」と証明することでなく、「この人は神の子です」と神に証明してもらうことです。パウロは、「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。…あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした」(Ⅰコリ2章4・5節)と。神が自分を証明してくださったと語りました。

友よ。主を推薦しているつもりで、自分を推薦(自己主張)していることがあります。「私が主を」の者は嫌われ、「主が私を」の人は信頼され、主イエスも信頼されます(Ⅱコリ10章18節参照)。

18章14節

「あなたが民にしているこのことは、いったい何ですか。なぜあなたひとりだけがさばきの座に着き、民はみな朝から夕方まであなたのところに立っているのですか。」

モーセのもとには、相談に来る民が一日中絶えません。それを見たしゅうとイテロは、それではあなたも民も疲れてしまい良くない、とモーセをたしなめました。

モーセと民の関係は、牧師と兄弟姉妹の関係でもあります。モーセは実に良き牧会者でした。良い牧会者の特徴は、自分の生活(ライフ)と仕事(ワーク)を分けず一つにしていることです。

教会のことは自分のことで、自分の存在は教会に直結し、「良い牧者、羊のためにいのちを捨てます」(ヨハ10章11節)。しかし、だからこそ問題も起こります。そのマイナスは、自分の考え感情を教会に入れてしまうことで、プラス面は命がけで教会に仕えることですが、良い牧会者であるからこそ、モーセのように疲れてしまいます。

友よ。この問題の根本は、民がモーセに一回一回聞かねばならないほど未熟だったことです。彼らが十戒(神の言葉)を良く理解できたら、それぞれ正しい判断ができたのです。牧師云々の前に、自分自身がみことばを正しく理解しているか否かを問う必要があります。

18章20節

「あなたは彼らにおきてとおしえとを与えて、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを彼らに知らせなさい。」

イテロはモーセに、あなたの仕事は人々の日常の相談係りではなく、皆に聖書の真理を教えることだと忠告しました。

キリストの体である教会には、手足のように行動し、聞いて話す耳や口、見えない所で支える内臓など様々の働きが必要です(Ⅰコリ12参照)。その中で特に重要な働きは、みことばを教えることです。

信仰によって歩むためには、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる」(ロマ10章17節)からです。奉仕や献金や行事や伝道も必要ですが、みことばを学ぶことは、教会の中で何よりも優先されねばなりません。

みことばを語る器なる友よ。「人が見た神」でなく「神が見た人」について語ってください。自分には賜物がないと思うなら、バランスある神の器のメッセージをまねて語っても恥ではありません。それは、主のものです。

みことばを聞く友よ。霊の食事を人任せにせず、自分でも整えることに努めてください。そして、モーセ(教える人・指導者)と主の恵みを分け合ってください(ガラ6章6節参照)。

18章22節

「大きい事件は…あなたのところに…、小さい事件は…彼らがさばかねば…。あなたの重荷を軽くし…ともに重荷をになうのです。」

イテロは、大きな事件はモーセが、小さな事件は1000人、100人、50人、10人の長たちを定め、彼らに担当させよと助言しました。

なにをもって、大事と小事を分けるのでしょうか。それは、「命を与えるのは、霊、である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(ヨハ6章63節・新共同訳)。 また、「霊によって霊の事を解釈する」(Ⅰコリ2章13節・口語訳)ともあります。生きる上で、霊の事と肉の事、先にする事と後にしてもよい事、神に聞くべき事と自分で判断してよい事、があります。

そして大事とは、「霊の事、先にする事、神に聞く事で、「神の国と神の義」(マタ6章33節)に関すること、とも言えます。

友よ。あなたが霊の人になることこそ最も大事です。それには、神の言葉を預かったモーセ(主イエス)に直接聞く以外にありません。千人の長も百人の長も教えることができません。ですから、一日の最初に主のもとに行ってみことばを聞き、それから世に出て行って様々の必要なことを学んでください。

18章25節

モーセは、イスラエル全体の中から力のある人々を選び、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民のかしらに任じた。

霊のことはモーセに聞き、その他の指導者たちは、賜物と能力によって働きが分けられました。パウロは、聖霊の満たしと賜物について語りましたが、両者の理解を間違うと信仰生活と教会に混乱が生じます。

聖霊の「満たし」は、一人ひとりの「人格」に必要なことで、だれにでも求められます。聖霊の「賜物」は、神の国をつくるための「能力」で、皆が同じに持つことはできません。さらに、「聖霊の賜物」は「聖霊の満たし」によって持ち運ばれないと、一人歩きして神の力を示せても、愛を示すことができません。

聖霊に支配された人格によって、神の能力が用いられる必要があります。特別な聖霊の賜物がなくても、その人が聖霊に満たされると、生来のもの(男女・体力・能力…存在の全て)が、聖別されて聖霊の賜物のようになり、神の働きに大きく用いられます。

友よ。千人・百人の長の役目や聖霊の種々の賜物を持つことは良いことですが、もっと必要なものは聖霊に支配された人格を持つことです。賜物は人を高慢にしがちですが、満たしは主と隣人を愛する者にします。

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