キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

出エジプト記 第25章

25章2節 ①

「わたしに奉納物をささげるように、イスラエル人に告げよ。」

25章からは、幕屋の建設や祭り(礼拝)の執り行い方について記します。そのために神は、私たちへ捧げものを持ってくるように勧めます。全地の所有者なのになぜでしょう。

幕屋の建設も諸々の祭りも、「礼拝」するためのものでした。幕屋の構造や、中に置かれる器具の一つひとつは、三位一体の神の姿と、神の能力、神の人への働き、神と人の関係を表すためのものでした。

礼拝は、「神と人の交わり」で、交わりは一方通行では成り立ちません。双方が与え合わねばなりませんが、ただし同じものを捧げ合わねばならないのではなく、男女、親子、子弟など、その立場、能力によって違います。しかし、愛の交わりにおける与え合うものは根本的に同じです。

それは、互いの「命」です。諸々の宗教も捧げることを求めますが、両者の違いは、聖書の神は人の「命」を求め、諸々の神々は人が捧げる「物」を求めます。

友よ。神が求めているのは、「あなたの物」でなく「あなた」です。あなたが捧げられていれば、あなたの物は神のものです。捧げると、相手(神)に対する愛は増すものです。

25章2節 ②

「わたしに奉納物をささげるように、イスラエル人に告げよ。」

神は、「金、銀、青銅、青色、紫色、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛」など、その他諸々の奉納物を求めています。

神は、捧げられたものを用いて御自身の姿や働きを表されますが、それらがなければ何もできないのでしょうか。いいえ、神はすでに御自分で全てをお持ちで、無から有を生み出すお方です。

神が奉納を求めるのは、御自分を、人に差し上げたいからです。金を差し出すなら、それは契約の箱を覆う金箔となります。契約の箱には、神の戒め(ことば)が入り、贖いの蓋(十字架)をし、ケルビム(聖霊)がおおいました。それらは捧げ物で造られ、神の姿を表しました。神の姿は捧げた人に見え、捧げない人には見えません。

友よ。神が求めるのは、もろもろの物ではなく信仰です。神の言葉に従い捧げることが信仰です。すると、その信仰が、罪の赦し、永遠の命、癒し、平和、愛などの神の恵みを受け取ります。捧げることは、神への手助けや援助ではなく、神が御自分をあなたに現してくださるための「提供」です。信仰(捧げる)は、神を見、神の御業を受け取ります。

25章2節 ③

心から進んでささげる人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。

神が捧げなさいと言いますが、「各自・進んで・喜んで」という条件が付いています。

西インド諸島の小さな教会の話…その教会は、献げ物に対する決まりを作った。
  • 各自は礼拝の時に必ず何かを持ってくる
  • 各自の力に応じて献げる
  • 喜んで献げる

さて、一人の金持ちが礼拝に来て、銀貨を献げたが会計係はそれを拒んだ。理由は②の力に応じて、が満たされていなかったからでした。

拒まれた金持ちは、さっそく金貨に取り換えて献げた。会計係はまたも拒んだ。理由は③の喜んでの条件に合わなかったから…。この教会の心温まる話は、一人ひとりの信仰において、また教会においても重要です。献げものに対する正しくない姿が、多くの神の子の心を痛ませている事実があるからです。

大事なことは、信仰は神と自分の2人だけの関係で、だれにも邪魔されてはなりません。そのために、無記名で献げる制度を作ることは、教会の大事な役目です。

友よ。あなたは、西インド諸島の教会の決まりに当てはめて、神に献金を受け取っていただけますか。

25章8節 ①

彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。

ソロモンの神殿が完成したとき、「神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など…」(Ⅱ歴代6章18節)とソロモンが言いました。それなのにここでは、「わたしの聖所を造るなら…住む」となっています。

神に捧げることの一面は、「提供・共有」です。献金、時間、祈り、奉仕、それらを捧げることは捨てることではなく、主に提供して用いていただくことです。夫が収入を得て妻に渡し、妻が家族の生活を整えることは、提供と共有であり、それが両者の命となります。ですから、多く捧げればそれだけ主との共有が大きくなります。

友よ。あなたは主に何を捧げますか。あなたという家の玄関を捧げれば、主はそこに来て「お客さん」になられます。居間を捧げれば、そこに座り「家族の一員」のようになられます。さらに、一番大事な心の寝室を捧げるならば、「夫」となってくださいます。主はあなたに全てを与えようとしていますが、あなたが捧げる以上の行動はできません。

25章8節 ②

彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。

神に捧げることは、提供であり共有でした。さらにそれは、肉なるものを霊のものに変えていただくことでもあります。

自分を自分で持つならば、それはどこまでも肉(自己中心)で、その実は不品行、汚れ、好色、偶像礼拝…になります。しかし、この肉なるものを神に捧げると、霊のものとされて御霊の実…愛、喜び、平安、寛容…を結びます(ガラ5章参照)。

それは、生まれ持った賜物でも、家族でも、さまざまの物であっても同じです。アブラハムは年老いて生まれた息子イサクが、神に代わる偶像になっていました。そこで神は、イサクを焼き尽くす献げ物とせよ、と命じます。アブラハムは御心に服従してイサクを献げました。その結果は、イサクは霊の存在とされ、神のものとなってアブラハムに返され、神とアブラハムの両方の子となる恵みとなりました(創22章)。

友よ。捧げることは、損でも失うことでもなく、むしろ霊の質をもった尊いものに代えられて受け取ることです。それ以上に、主が御自分のものとして用いてくださいます。捧げない損失を計算したことはありますか!

25章9節 ①

幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。

ここより、聖書中でもわかりにくい幕屋の建設について記されますが、「わたしの示すように」と、この後も何度も釘を刺します。

「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」(ヨハ4章24節)と言われても、三次元の者が四次元の世界を見るように難しいものです。そこで、見えないものを見えるように表したのが、幕屋とその中の器であり、大祭司の衣服や儀式です。

見えないことを見せる一つの方法は、人の日常の経験の中で理解できるようにすることです。幕屋の存在は、霊である神と、神の御業を、日常の中で理解できるようにしたものでした。しかし、それは見えない人が勝手に想像するのでなく、「神の示すように作る」ことが必要です。

友よ。聖書全体が、目で見えない霊なる神を見るために与えられました。そのためには、「求めよ・みことばを食べよ・祈れ・安息日を聖とせよ…」と、神が示すように「作る=実行する」ことです。同時に、エリシャのように、「彼の目を開いて、見えるようにしてください」(Ⅱ列6章17節)と祈ることです。

25章9節 ②

幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、…作らなければならない。

神は、「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない…どんな形をも造ってはならない」(20章)と言われるのに、さまざまのものを作るように言うのはなぜでしょうか。

旧約聖書が表そうとしているのは、神の子イエス・キリストであり、彼の罪の赦しと復活による人の救済です。新約聖書が表すことも全く同じですが、見る方向は正反対で、旧約は未来を表そうとし、新約は過去に戻そうとします。

未来を見ることは、過去を見ることよりも難しく、ここに旧約の限界があります。その限界の中での啓示が、幕屋であり儀式でした。

偶像は、神ならぬ神を造ることですが、幕屋と儀式は神を表そうとしたものですから、偶像とは言えません。しかし、後にエポデが偶像化される間違いも出てきます。

今日、旧約の幕屋はありませんが、新約の幕屋(教団、教会、礼拝、聖職制度、会員、奉仕、献金…)が造られます。それらは主イエスを知り交わるために必要ですが、偶像化する危険も秘めています。

友よ。私たちは、主イエスを身につけるのであり、新約幕屋?の中に入って満足していてはなりません。

25章10節 ①

アカシヤ材の箱を作らなければならない。長さは二キュビト半…高さは一キュビト半。

幕屋を造るさまざまの物がそろい、制作に入ります。最初に示されたのは「契約の箱」でした。家を建築するには、土台、柱、屋根、壁、内部の造作、食器棚や電化製品、そして最後に人が入りますが、幕屋の制作過程は反対です。幕屋の中心に置かれる「契約の箱」が最初に示され、その後に内部の器具、そして内幕、外幕…と続きます。これらの製造順序に、福音のいのちの法則が示されています。

契約の箱の中に置かれる「契約の石=十戒=神の言葉」は、さらにそれ以前に与えられていました(24章12節)。契約の箱は、「三位一体の神」を表しました(次項へ)。

友よ。信仰生活も、外側から内側を作るのでなく、内側(主イエス)から外側(自分)です。行いによる命ではなく、主の命による良い行いをさせていただくのです。ですから、神に癒し、金銭、家族愛、仕事を求める前に、キリスト御自身を求めるべきです。 幕屋は、契約の箱が最初でしたが、その中の言(みことば)がさらに先に与えられ、それによって造られました。みことば(主イエス)が最初にあるとき、あなたを主の御形にします。今日も、みことばから一日を始めてください。

25章10節 ②

アカシヤ材の箱を作らなければならない。長さは二キュビト半…高さは一キュビト半。

アカシヤ材の箱は、長さ1m20㎝、幅と高さが70㎝の小さなもので、契約の石(十戒)、アロンの杖、マナが入れられました。

これが「神の本質」です、と言われて理解できるでしょうか。諸々の宗教は、人が神の姿を表現したいと願い、人目を奪うほど立派なものを作ります。しかし、神は御自分を表すために、小さな箱(契約の箱)と、その中のわずかの物を示されました。

特に、その中でも重要なのが「十戒=神のことば」でした。「初めにことばがあった。ことばは神であった。その方は、初め神とともにおられた」(ヨハ1章1節)と記される「ことば=言」こそ、神の本質を表し、「この方」と呼ばれるお方こそイエス・キリストであり、父と聖霊と共におられる三位一体の神です。

箱の中のマナは永遠の食物を、芽を出したアロンの杖は復活を表しました(ヘブ9章4節参照)。

友よ。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊が…宿っておられる」(Ⅰコリ3章16節)と宣言されています。それは、あなたの外側(体・家族・生育過程・能力・収入・既婚・独身…)ではなく、内に宿っている命の神が、あなたを尊い者にしてくださるのです。

25章11節

これに純金をかぶせる。それは、その内側と外側とにかぶせなければならない。その回りには金の飾り縁を作る。

幕屋の至聖所の中に備えられる、契約の箱、贖いのふた、ケルビムと聖所に置かれるパンの机、燭台、香壇は、全て金で覆われました。

それらのものが純金で覆われるのは、豪華さや豊かさを誇るためではありません。「金」は、神の御性質を表すものでした。従って、神が御自分をより直接的に表す、契約の箱(ことばなる神)・贖いのふた(キリストの贖い)・ケルビム(聖霊)・燭台(光なるキリスト)・パンの机(命なるキリスト)・香壇(執り成すキリスト)・大祭司の額当(大祭司キリスト)などは純金で包まれました。

主イエスに贖われた神の子よ。神はあなたを、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザ43章4節)と言われます。なぜなら、貧しくても、知恵や知識に欠け、健康がすぐれず、人からのよい評価を得なくても、あなたは純金で覆われています。それは、主イエスの十字架(贖いのふた)、復活のいのち(パン)、まことの光(燭台)、執り成し(香壇))を受けたからです。

友よ。あなたは、神のものとされているので純金で包まれています。

25章12~14節

箱のために、四つの金の環を鋳造し、それをその四隅の基部に取りつける。…アカシヤ材で棒を作り…その棒は、箱をかつぐために…。

契約の箱には、四隅に環がつけられ、移動するときには、そこに棒を通して四人の祭司によって運ばれました。

イスラム教にはメッカ、仏教や神道や諸宗教にも中心となる神社仏閣があります。信者は、その場所まで行って参拝しますが、彼らの神々が信者の所に来ることはありません。それらは、人に仕える神ではなく、人を仕えさせるものだからです。

しかし聖書の神は、神の民と共に移動しました(ヨシ3章11節)。主は「…高い所の大能者の右の座に着かれ」た(ヘブ1章3節)お方ですが、「死の陰の谷を歩くことがあっても」(詩23・4)、姦淫罪を裁かれる女にも来てくださいました(ヨハ8章)。主は、悲しみ病み罪に苦しむ者のところまで、移動される神(移動する契約の箱)です。

しかし友よ。箱(神)は、自分勝手に持ち運ぶのでなく、信仰によってです。その信仰とは、「信仰は(神が、私に)望んでいる事がら…」(ヘブ11章1節)を受け取ることです。神の御心に沿って生きたいと願い、神を求め、罪に悲しみ、弱さに泣く者のところへ、神は御自分から必ず来てくださいます。

25章17節

純金の「贖いのふた」を作る。長さは二キュビット半、幅は一キュビット半。

契約の箱の上に作られるふたは、箱の中身を守るための覆い、とは全く違うものでした。この二は「贖いのふた」と呼ばれました。

大祭司は、年に一度、雄牛の血を携えて至聖所に入り、このふたの上に注ぎました。これは、罪の贖い、神の御子イエス・キリストの十字架を表しました。

ことばなる神は、十字架を通して私たちのところへ来られ、私たちも贖いのふた・十字架を通って、三位一体の神との交わりに入れられます。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」(ヘブ9章22節)。「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られ…。多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられました…」(同26~28節)。

「贖いのふた・十字架」を受け取った友よ。そのふたは、罪を裁く法廷の門を塞ぐふた、地獄への通路を塞ぐふた、恨みと憎しみの泥沼へ落とす口を塞ぐふた、怒りと憤りの炉を塞ぐふた、仕返しのドアを閉じるふたです。主は、あなたの破れ口を、十字架についたからだをもって塞いでおられます。

25章18節

槌で打って作った二つの金のケルビムを『贖いのふた』の両端に作る。

「契約の箱」の上の「贖いのふた」の上に、一対の翼を広げたケルビムが、向かい合うように置かれました。ケルビムは、幕屋の幕にも織り込まれていました(26・36章)。

ある人々は、ケルビムを天使とみなしますが、ケルビムは置かれた位置と働きから、「聖霊の神」とすることが妥当です。それは、「わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう」(22節)と続くことからもわかります。

神は、贖いのふた=十字架を通して、さらに、ケルビム=聖霊によって民に語られます。また、民は聖霊=ケルビムに導かれて、主イエスによる罪の赦し=贖いのふたを通って、ことばなる神にまみえることができます。

父なる神は、御子イエスを、御子イエスは聖霊を遣わされます。また、聖霊が御子へ、御子が父の神に私たちを導きます。

「わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つになるためです」(ヨハ17章23節)。友よ。あなたは神のものです。

25章23~26節

机をアカシヤ材で作らなければならない。… これを純金でかぶせ、その回りに金の飾り縁を作り、…その環を取りつける。

幕屋の一番奥を至聖所と言い、そこには契約の箱だけが置かれました。手前の部屋を聖所と呼び、机、燭台、香壇が備えられました。

至聖所は三位一体の神の部屋で、聖所はキリストの部屋とも言えます。至聖所に向かって右側に机が置かれ、「机の上には供えのパンを置き、絶えずわたしの前にあるようにする」(30節)ためでした。

「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです」(ヨハ6章33節)。そして、主御自身が、「わたしがいのちのパンです」(35節)と言われました。

さらに、「これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます」(50・51節)。机は、キリストの永遠の命を表すものでした。

友よ。主は、「わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きる」(57節)、さらに「神の口から出る一つ一つのことばで生きる」とも言われました。聖所の机のパンは、みことばであり、復活のいのちです。今日も、このパンを食べてください。

25章30節

机の上には供えのパンを置き、絶えずわたしの前にあるようにする。

聖所では、7本のろうそくが金の机に並べられた12個のパンを照らしています。また、芳しい香りが満ち、キリストが満ちています。

机に乗るパンの形は、輪型で12個、それを6個ずつ2列に並べました(レビ24章5・6節)。諸宗教では、人が毎朝ご飯やさまざまの物を供えます。しかし、聖所のパンは、人が神に供えるのでなく、神が人に用意してくださるものでした。

聖餐の時、「これはあなたがたのための、わたしのからだです」(Ⅰコリ11章24節)と言って主がパンを渡してくださいます。人がパンを携えて聖所に入るのでなく、聖所に入ってパンを受け取って出てくるのです。ダビデが追われて神殿に入り、聖所のパンで力を得たように(Ⅰサム21章4節)、神が人にパンを与えてくださいます。

友よ。神は、あなたに今日必要なパン(みことば)を用意して待っておられます。今日の分を今日いただかないと、明日の分に取り替えられ、今日の恵みを失います。テレビや雑誌やインターネットなど、本当の命のないもので霊の飢え渇きを代用してはなりません。数節でも、一章でも、聖書を開いてください。

25章31節

純金の燭台を作る。その燭台は…、がくと節と花弁がなければならない。

聖所の燭台は、真ん中に1本のろうそくが立ち、その両側に3本ずつのろうそくがそろい、合計7本の光が聖所を照らしました。

燭台は、聖所で仕事をする祭司のためではなく、「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った」(マタ4章16節)という神が備えた救いの光です。そして、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハ8章12節・新共同訳)と主御自身が自己紹介した「光なるキリスト」です。

暗黒は恐怖ですが、暗闇の中に陥っていても、そこに光があるならば希望を持てます。その光とは、苦難、悲しみ、痛みを支配しているお方を知り、それらの意味を知ることです。キリストこそ、そのお方です。

ある詩人が…「キリストは、片手に光をもって人をすっかり照らし(罪を示し)、もう一方の手を人の足の下に置いている(救い)」と詠いました。

友よ。この光に自分をさらしてください。この光は、命なるキリスト(机の上のパン)と、執り成しているキリスト(香壇)へあなたを導く光(燭台)です。

25章31~36節

その燭台は…、がくと節と花弁がなければならない。 六つの枝をそのわきから…、節と枝とは燭台と一体にし…。

燭台には6本の枝があり、アーモンドの花弁にかたどった火皿の中で輝きました。7つの光が、1本の燭台の上で輝きます。

聖書は、三を神の数字とし、四を人の数字としています。三位一体の神は、父と御子と聖霊において完全ですから、完全数は「三」であるべきです。しかし神は、自分たちだけで完全とせず、人と一体となって完全だと言っているかのように、三と四が足された「七」、三と四が掛けられた「十二」を完全数と定めています。

聖所の燭台が、1本の大きなろうそくではなく、7つの光の一体であるように、光なるキリストが御自分だけで輝くのでなく、人も含めて輝こうとしています。従って、不完全な人も、神と交わって完全とされます。

友よ。神は、私たちを必要としています。私たちは、父なる神の子であり、キリストの花嫁だからです。7本のろうそくの真ん中に立つのがキリストで、後の6本は私たちであるかのようです。1本の大きなろうそく(主イエス)だけでなく、後の6本(神の子たち)と共に輝こうとしています。主はあなたを必要とし、あなたと共に輝きます。

30章1節

アカシヤ材で香をたく祭壇を造りなさい。

(新共同訳)

(注)25章に香壇の記事はないがここに入れます。

聖所に入ると、右側にパンの机、左側に燭台が置かれました。純金で覆われた香壇は、至聖所の幕を挟んで契約の箱の前に置かれました(ヘブ9章4節)。祭司は毎朝夕にかおりの高い香をたきました(出30章7・8節)。

ノアが舟から出て動物を捧げたとき、「主は、そのなだめのかおりをかがれ、…『わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい…』」(創8章21節)と約束されました。

香は香壇の炭で燃やすと、香りが立ちのぼります。キリストは肉体をとり、人々の罪を受け取り、十字架で死に(火に燃やされ)復活しました(よい香り)。

この一連の出来事は、父への「執り成し」の業でした。ノアが献げた動物は、主イエスの姿であり、その執り成しのゆえに、神は二度と人を裁かないと宣言されたのでした。香壇は「執り成すキリスト」を表しました。

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