キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

出エジプト記 第32章

32章1節 ①

民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て…「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください…」

民をシナイ山のふもとに残したモーセは、四十日四十夜神の前に立ち、戒め、幕屋の建設、もろもろの儀式についての教えを受けていました。それを待つ民に不安がつのります。

四十日もモーセがいないことは、民には大きな試みの時でしたが、不完全な者が聖くなるためには試みが必要です。それは、自分の不完全さを知って、それに頼らず、主イエスに依存させるためです。

しかし、試みを受けて、神以外のものに進む者もいます。試練は、神に直結させ、依存させることもしますが、自分で自分を救うために偶像の神を作り出す方向へも進ませます。

モーセを見失った民が、偶像へ向かったのに対し、ユダの王ヨシャファトは、「私たちの神よ、…私たちには、攻めて来るこの大軍を迎え撃つ力はなく、何をなすべきか分からず、ただあなたを仰ぐことしかできません」(歴代下20章12節・新共同訳)と祈り、今まで以上に主に近づきました。

神の家族の友よ。今年出会うであろう全ての苦難と悲しみの涙を、主から受け取る恵みの泉とせよ!

32章1節 ②

「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が…」

急に信仰深くなり、試練を正しく受け止めることはだれにもできません。日ごろの信仰生活の積み重ねが、重大な出来事になればなるほど、その真価が表れるものです。

ヨシャファトが大試練に直面して(歴代下19~20章)いよいよ主に依り頼めたのは、常日頃から偶像を退け、部下にも「主を畏れ敬い、忠実に、全き心をもって務めを果たせ」(19章9節)と手本を示していたからです。

さらに彼は、敵を「恐れ、主を求めることを決意し、ユダのすべての人々に断食を呼びかけ、ユダの人々は主を求めて集まって」(20章3~4節)皆で祈りました。 それに比べこの時のイスラエルの民は、神と直接交わることができず、モーセを仲介しての信仰でした。

自分は幼子で指導者が必要だと思う友よ。本物の指導者は、あなたの前に立って引っ張る人ではなく、むしろ後ろから鞭をもって主に追い立てる人です。 神とあなたの間に、何人も入れてはなりません。パウロやペテロや多くの良き指導者たちは、みことばを用いて後ろから人々を主に押し出しました。みことばで押し出す人が、あなたに必要な指導者です。

32章2節

アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」

四十日の試練は、民の心を偶像に向かわせました。それは、自分で自分を救おうとすることであると同時に、自分の時を神の時に代えてしまうことでもあります。

サウル王は、圧倒的なペリシテの大軍に対峙し、震えながらサムエルの到着を待ちます。しかし待ち切れなくなり、祭司だけができる全焼と和解のいけにえを、自分の手で捧げました。やがてサムエルが到着し、「あなたはなんということをしたのか。…あなたは愚かなことをしたものだ。…今は、あなたの王国は立たない」(Ⅰサム13章8~14節)との宣告を受けねばなりませんでした。

彼は、自分の時(思い)を、神の時(御心)にしてしまったのです。イスラエルの民も焦り、神の助けを待てずに自分で動き出しました。

御心の成就が遅いと焦る友よ。神の確かな御心であっても、自分の業で成就させてはなりません。それが、民が金を差し出したような自己犠牲が伴う場合は、なおさら神の御心の時を見失いがちです。神はあなたの救いを用意しています。神の時を待ってください。

32章3~4節

金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。

息子や娘の装飾の金製品を持ち寄ったのは、鋳物で造った子牛を金箔で包むためでした。彼らは、金の子牛を神としました。

…ある所の泥池に、頭を出した石があった。誰かがしめ縄を張った。人々が手を合わせるようになった。誰かがさい銭箱を置いた。いつしか病気を治す神になっていた…。 これは根拠のない偶像ですが、イスラエル人の金の子牛には、聖書的な根拠がありました。子牛は神にささげられて罪を贖う犠牲で、金は神御自身を表すものです。すると、金の子牛は、贖いの神、を表します。従って、彼らは偶像ではなく神を崇めていると思い込んでいます。

この発想はどこから出てくるのでしょうか。それは、神御自身でなく、神の表れに目を注ぐからです。クリスチャンは石を神とはしませんが、神の表れ(教会・聖餐・洗礼・教職者・兄弟姉妹…)は偶像にできます。

友よ。神との人格的な直接的な交わりがなければ、何かを通して神を知る以外にありません。そこにクリスチャンの偶像が生まれます。交わりはことば(みことば)によるのです。みことばへ真摯に向き合ってください。

32章6~7節

彼らは全焼のいけにえをささげ…そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。…あなたの民は堕落してしまったから。

モーセが神と交わっている最中に、民は像に犠牲を捧げ、飲み食いし、踊っていました。

下半身の動かない人が、ある癒しの集会で何年も歩けなかった人が歩いたビデオを見ました。そして、「これは嘘だ」と言いました。自分の経験から、癒された人の足に筋肉があることは信じられなかったからです。

死人が生き返ったと、「生き返らせセミナー?」に大勢のクリスチャンが集まったとか、聖霊の賜物を受ける特訓をする集会があるとも聞きます。それらは、民と同じに「座って(自分の考えに)、飲み食いし(肉のために)、戯れ(自己満足)」ているように思えます。

それは、神御自身との交わりを求めるのでなく、神の恵みを慕う、神信仰ならぬ、恵み信仰だからです。多くの教会は、「…鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」という姿を失っています。鷲のようになれるのは、「主(主という御人格)を待ち望む者」(イザ40章31節)であって、主の「賜物」ではありません。

真理を求める友よ。みことばを御霊によって求めてください。

32章7~8節

「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、…『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」

(新共同訳)

エジプトの苦役から解放、奇跡の連続、過ぎ越し、紅海を渡らせ、岩から水を飲ませ、毎日マナを与えたのは、一体だれなのか。それは、ヤーヴェ(存在させる神)・エロヒーム(愛の神)ではなかったのか。

子を産み育て、全てを与え尽くしたのに、「あなたは私の親ではない」と言われることは耐えられない悲しみです。三位一体の神は、どれほどこの辛酸をなめ続けていることでしょうか。

エレミヤは、「私のはらわた、私のはらわた。私は痛み苦しむ。私の心臓の壁よ。私の心は高鳴り、私はもう、黙っていられない…」と、神の叫びを代弁しました。その叫びは、裏切られたこと以上に、愛する民が、やがて敵の「…角笛の音と、戦いの雄たけびを聞くから」(エレ4章19節)です。偶像礼拝は、神の守りの手を振りほどき、サタンに主権を渡すことになります。

友よ。あなたは「初めの愛」(黙2章4節)から後退していませんか。信じている、と言いながら神を失っていませんか。「悔い改めて、初めの行い」(5節)へ帰ってください。

32章9~10節

「私はこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。…わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。」 

聖書の神髄を知らない人々から、神は怒りの神で、いとも簡単に人を滅ぼしている、と誤解を受ける箇所がここにもあります。

人類史上、最も激しい戦いは、第一次、第二次世界大戦?否、それは愛の戦いです。遠くの戦闘で人が死んでいても、平和の中で愛する者に裏切られ、捨てられることがより激しい戦いです。

戦場にいても、愛する者と一体であれば耐えることができます。人は愛のために戦います。愛なる神は、それ以上に愛のために戦います。それが、神の方に振り向こうとしない「うなじのこわい民」を、振り向かせるための戦いです。

この戦いは、人の罪に向けられ、決して人格に向けられてはいません。だから神は、人を滅ぼそうとしているのではなく、人の罪を滅ぼすために戦われます。その戦いは、十字架上で行われました。

友よ。敵を憎むのは仕方ない人の弱さですが、愛してくださる方を信じないことは許されません。自分の思いでうなじを固くし、意固地にならないでください。あなたの罪を探して戸を叩く主に、心の戸を開けて入っていただき、罪を処断していただいてください。

32章12節

エジプト人が『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ。』と言うようにされるのですか。どうか…思い直してください。

神は、堕落する民へ、すぐに降りて行くようにモーセに命じます。しかし、モーセはすぐに降りず、神を説得しています。

ヤコブに、「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい」(ヤコ1章19節)と言われたのに、人は神の忠告を聞くに遅く、自己主張するに早く、他者を怒り、責めるのも早いものです。

実に、自分の罪を神に告白するに長時間かかり、他者に悔い改めを迫るのはハイスピードです。しかしモーセは、偶像に狂う民を裁き、怒鳴りたい心を抑え、山を下りる前に神を説得し始めました。彼は、民の罪を責めることでなく、神を説得すること、神の憐みにすがるより救いがないと知っていたからです。

聞くに遅く、裁き怒るに早い友よ。それが、罪を解決せず、自分もみじめになることは知っています。「主よ。彼らよりも前に、私自信を取り扱ってください」と祈り、次に「主よ、あの人にはあなたが必要です」と執り成し、その後から、罪に負けている愛する者のところへ下りて行ってください。

32章13節

しもべアブラハム…を覚えてください。…彼らに誓い…「…約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え…相続地と…」

偶像礼拝する民のもとに下るために、モーセがしなければならないことは、我が身を顧みず、強引といわれても、ひたすら神の約束を握り、決して退かないことだけです。

「善をおこなう者はいない。ひとりもいない」(詩14・3)「義人はいない。ひとりもいない」(ロマ3章10節)と繰り返されても、失望してはなりません。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。…主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(ロマ10章11~13節)は、それに打ち勝つ神の約束です。

その根拠は、「アベルの血よりも力強く語るそそがれた血」(ヘブ12章24節・口語訳)であるキリストの血であり、その血潮の朱肉で押された父の神の実印(存在を賭けた約束)だからです。

私たちは完全にはなれませんが、神の約束に泣いてすがることはできます。「主よ、私は……ですが、あなたの約束です。私に・家族に・あの人に、アブラハム、イサク、イスラエルへの約束を成就して、立たせ、回復させてください…」と祈ることです。「主は私の泣く声を聞かれた…」(詩6篇8・9)。

友よ。父を信頼して泣く子は、よい子です。

32章19節

…子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして手からあの板を投げ捨て、…山のふもとで砕いてしまった。

モーセは、神御自身が直接書かれた、十戒の2枚の石の板を持ち山から下りてきました。しかし、偶像に戯れる民の姿に激怒し、十戒の2枚の石の板を砕きました。

モーセが大事な戒の板を砕いたのは、なぜでしょうか。怒り心頭!堪忍袋の緒が切れ!民への決別!神の召命の放棄!

いいえ、愚かな民を愛しているからです。さらに、神のみことばだからこそです。この戒めを、罪の民に突き出すことは、彼らがこの戒めによって裁かれ抹殺されねばなりません。

愛する者へ罰が下ることを、見過ごしにできません。主イエスこそ、「ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです」(エペ2章15節)。主は、律法を成就できない人への戒めを、御自分が受け取り、十字架上で裁かれ、戒めを成就されたのでした。

「彼は私たちの病を負い…痛みをになった。…罰せられ、…神に打たれ、…苦しめられ…刺し通され…砕かれた」ので、「私たちはいやされた」(イザ53章4・5節)のです。 友よ。だから、誰よりも、主イエスを愛してください。

32章24節 ①

「私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。」

アロンはモーセに、「民はもともと悪い…彼らが私に…先立つ神を造れ…モーセが居なくなったから…」(22~24節)、そして「火に投げたら子牛が出てきた」と弁明します。

神の子と教会にも、様々の責任転嫁が起こります。日本は伝道が難しい、牧師が霊的でない、教会の慣習、信徒が熱心でない、不況で献金が少ない…と止みません。

しかし、信仰の世界は、神と私の個人的な関係が基本であり、他者の責任にはできません。火に投げて出てきたものは表れであって、本当の偶像は彼らの心にあります。「神と私の関係」を第一に求める心に偶像は造られません。

友よ。教会や牧師に問題があるなら、教会を離れず、真剣に祈り行動してください。それで限界ならば、神と自分の関係を正しくできる教会を祈り求めてください。世界に教会は一つですから、…教会から離れてもキリストから離れないならば、同じ教会にいるのです。 しかし、自分流の信仰も危険です。「使徒の教え(聖書)、交わり、パン裂き、祈り」(使2章42節)の中にいないことは、事実上離れていることです。一番の無責任は、他者の責任にして、主に近づかないことです。

32章24節 ②

「私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。」

金の装飾品を火に投げ入れたら、金の子牛が出てきたとは、はたしてどんなマジックショーが行われていたのでしょうか、

貧しい民が、「金」をもっていたのは神の賜物でした。それは、エジプトから出るときに、神の計らいでエジプト人から得たものでした(12章35・36節)。その金銀や着物は、神を礼拝するために幕屋を造り、聖所を造り、燭台や香壇などを造るために必要だったからです(25章)。

しかし、神に捧げるものを、自分の所有物として持っていたことがマジックの正体でした。神のものを自分のものにすることは、金銭だけではなく、両親を通して与えられた肉体はじめ、能力や技能も、さらに聖霊の賜物でさえも偶像に変化します。

愛する友よ。あらゆるものは、あなたが神と近くなり、人々に神を知らせ、キリストのからだを建て上げるために用いるように授けられたものです。それらは、神に捧げる分だけ、より神の栄光を見ることができます。「すべて、心から進んでささげる人々から…」(25章1節)とあります。

全てのものを、自分でなく、神の栄光のために用いてください。

32章26節

モーセは宿営の入口に立って「だれでも、主につく者は、私のところに」と言った。するとレビ族がみな、彼のところに集まった。

歴史が下ったエリヤの時、「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え」(Ⅰ列王18章21節)との問いは、今日も同じです。

一つの決断は人生を変えますが、特に、モーセとエリヤの問いに対する応答は、過去と現在と未来を決定づけることになります。

  • 過去…苦しかったから神に出会えた、と過去の事実は変えられないが意味は変わる
  • 現在…肉に従って(自己主張)ではなく、神の霊によって生きるように行動を正す
  • 「未来」…神の前に立つために、過去と今を用いる

モーセの質問は、未信者を超えて、神の子であるあなたに向けられています。仕事と信仰、趣味と礼拝、テレビと聖書、家族か主イエスか、教会か神か、行いか信仰か、そして自分の命か神のいのちか、の決断を常に求められています。この時、すぐにレビ族が皆モーセの所に来たのは、彼らが日頃から主に仕えていたからです。

友よ。毎日みことばを開き、神に従う思いを持っていなければ、大事な時に正しい決断をすることができません。

32章27~28節

「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、…おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」…その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。

神の命令により、偶像礼拝を止めない者たち三千人を殺すことになりました。ここでも、神なのになぜ、との思いを消せません。

しかし、これは霊的にはまったく真実です。聖書は、神を信じない者は死ぬ、と言い続けてきました。命は、他の人格とのつながりと交わりのことです。人と人がつながり交わって人の命があり、神につながり交わり永遠の命を受け取ります。

「主につく者」になることを拒む者は、神の子の命を失った、「肉に生きる霊的死者」に数えられます。「五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が…益である」(マタ5章29節・口語訳)のみことばを、「三千人(五体の一部)を失っても、民(霊・いのち)を失わない方がよい」と理解することは乱暴でしょうか。しかし、神は生きる道を教え、それを拒んだ責任は人にあります。

友よ。さらにこの記事は、「御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです」(ロマ8章13節)へと続きます。霊の剣を帯びて、肉の働きを切り捨てることに、臆病になってはなりません。

32章29節

「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ。主が、今日、あなたがたに祝福をお与えになる…。」 

外国へ行くには日本から、自立には親から、目標達成は怠惰から離れなければなりません。進むことは、あるものから離れることです。モーセは、神に近づくために、「子や兄弟(家族)」から離れ、自分自身からも離れて「主に身を献げよ」と勧めます。

自分の命に遠いものから離れても、近いものからは離れられません。そこから、趣味は捨てても仕事は、友人は捨てても家族は、家族を捨てても自分は捨てられません。最後まで残すのは自分自身です。

主イエスは、冒頭のみことばを次のように言い換えました。「わたしよりも父や母を愛する者…、わたしよりも息子や娘を愛する者…、自分の十字架を負って私について来ない者…、わたしにふさわしい者ではありません」(マタ10章37・38節)と。

友よ。「ぶどうは、いばらからは取れない」(マタ7章16節)ように、罪人から良きものは出てきません。しかし、神を命とするならば、自分が神の子となり、家族は神の家族となり、仕事や能力は聖霊の賜物に変えられます。神の命を持たない者は全てを失い、神を得る人は全てを得るのです。

32章32節

今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら―。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」

霊と肉の戦いの大嵐が一段落した後、モーセは独り主のもとに戻り、自分の命の代わりに民の罪の赦しを神に求めました。

フリードリッヒ・ボンフェッファーは、ヒットラー暗殺組織に身を置き、自ら軍隊に志願しました。一連の行動の半ばで捕えられ、獄中で処刑されました。それを聞いて、「クリスチャンが殺人?」といぶかります。 しかし、モーセが民の罪のために神から離されることを善しとし、パウロの、「私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたい」(ロマ9章3節)の生き方が彼の手本でした。 戦争という最大の社会悪を終わらせるために、彼は自分自身が殺人を行い地獄へ行くことを善しとしたのでした。しかし、人は人の罪の身代わりにはなれません。

このことを実行できるのは、主イエスだけです。主の、「父よ、彼らを赦して下さい」には、「わたしが彼らの身代わりとなりますから」の言葉が入っています。「この方以外には、だれによっても救いはありません」(使徒4章12節)。

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