キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

出エジプト記 第4章

4章2節

主は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は堪えた。「杖です。」

神は、モーセがエジプトに行き、神から要請された事を行うのに、杖一本あれば大丈夫だと言われます。どうして、杖一本で?

「杖」、これは地上と天国を直結させます。やがて、蛇になり、魔術師の蛇(杖)を飲み込み、ナイル川を血に変え、神の御業がこの杖によって行われます。杖は、神と人をつなぐパイプで、その中を聖霊の神が自由自在に行き交います。この杖を握った両手を海に差し出すと、海は割れ、罪と死の国から神の国へ渡って行きます。岩からいのちの水を出し、苦い水を甘い水に変えるのもこの杖です。この杖は、「望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信」(ヘブル11章1節)させます。なによりも、あなた自身を倒れないように支える杖です。杖こそ、神が人に与えた賜物、「信仰」です。「信仰がなくては神に喜ばれることはできません」(同6節)

友よ。信仰(杖)は、すでに「あなたの手にある」と、神が証印を押しています。今日、困難に立ち向かう友よ。杖を握れ!今まで以上に固く杖を握りしめよ!杖を困難に向かって差し出せ!海(恐れ)は退きます。

4章3節

「それを地に投げよ。」彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった。モーセはそれから身を引いた。

モーセは羊飼いなので、いつも杖を持って仕事をしています。ところが、この時から全く違う杖になりました。一本の木なのに、彼が地に投げると蛇になって動き回り、その尾をつかむと一本の杖に戻りました。

それは、「モーセの手」から「神の手」に、杖の持ち主が変わったからです。信仰は、自分自身から手を離し、神に自分を委ねることです。それは、自分が変わるのでなく、所有者が変わることです。神を信じることは、自分が変化するのでなく、所有者の神に、自分が御心のままに自由自在に造り変えられることです。さらに、神は杖(所有した人)を用いて、様々の奇跡を行い、他者へも絶大な影響を与えることができます。

友よ。私たちもどこにである一本の木です。しかし、小学生が使う一本の筆であっても、書の達人に握られると、あたかも生きもののように動き、書かれた文字が生きた言葉(いのち)となり、人々の心を神に引きつけます。今日も、神の手に握られた一本の杖でありますように。

4章4節

「手を伸ばして、その尾をつかめ。」彼が手を伸ばしてそれを握ったとき、それは手の中で杖となった。

自制のきかなくなった間違った宗教を見て、「信仰は怖い」と言う人も多くいます。事実、ある教祖を信じ殺人を犯しても、今なお罪意識の無い人々もいます。

モーセが杖を投げると蛇になり、その蛇を手で握ると杖に戻りました。「預言者たちの霊は預言者たちに服従する」(Ⅰコリ14章32節)とあり、「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊」(Ⅱテモ1章7節)です。従って、神の霊が信者を暴走させることはありません。しかし、神が人の意思を無視しないのをいいことに、自分勝手な、霊的、と称する行いに走るクリスチャンたちがいるのも事実で残念です。

神が、杖を「投げよ」と言われたら投げ、「元に戻せ」と言われたらその通りにすることこそ、私たちのあるべき姿です。全てにおいて、神の「然り」は「然り」、「否」は「否」(ヤコブ5章12節・新共同訳)として御足の跡に従う者こそ、御霊の賜物の一つ「自制」を持つ者です。その自制は愛の中にあります。神は愛なので、神を愛する者は自制することができます。

4章6節

「手をふところに入れよ。」…彼の手は…雪のようになっていた。

モーセが現した神の御業は、杖を蛇に変え、その蛇をもとの杖に戻しました。次は、手を懐に入れてツァラァト(重い皮膚病…新共同訳、らい病…口語訳)にし、病の手を再び懐に入れて元のきれいな手に戻しました。

「蛇・ツァラァト」の言葉に、聖書は重い意味を持たせています。蛇は人を誘惑した「サタン」を、ツァラァトは死に至る病、「罪」を表しました。ここで神が行われた、蛇とツァラァトのしるしは、神には、人類最大の敵さえも無力にすることがおできになることを教えます。

「だれが真の神か」が議論されますが、「罪とサタンを打ち破るお方」が正解です。聖書は、「彼(一人の男性・イエス)は、おまえ(サタン)の頭(中枢・権威)を踏み砕き(決定的破滅)」(創3章15節)と預言しました。

人生には多くの問題がありますが、私たちの最大の問題、「サタンと罪」そしてそこから来る「死」は、イエス・キリストによりすでに解決されています。魂を食い殺すライオン(サタン・罪)は、今なお存在していますが、牙はすでに抜かれています。

友よ。サタン・罪・死に勝利したお方が私たちの主です。

4章8節

「彼らが…、初めのしるしの声に聞き従わなくても、後のしるしの声は信じるであろう。」

神は、最初のしるし(杖を蛇に=悪霊からの勝利)を人々が信じなくても、後のしるし(ツァラァト=罪の赦し)のメッセージは受け取るであろうと言われました。

どの宗教も、除霊や病のいやしを宣伝します。聖書にも、「悔い改めを説き広め…悪霊を追い出し…病人に油を塗っていやし」(マコ6章12・13節)とあります。この中の、「悔い改めを宣べ伝え」は、諸宗教にないものです。諸宗教では、罪の赦しがないので、悔い改めは言いません。

聖書の奇跡は、神の愛と大能を現わしますが、その目的は「罪の赦し」です。主は、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために」(同2章10節)病人をいやされました。さらに、罪の赦しは「復活のいのち・神の子として生きるいのち」を与えるためです。

友よ。自分の何をもって神の子の証しをしますか。奇跡の体験、霊的賜物…、しかし、蛇とらい病の証しでも、エジプト人に通じませんでした。彼らが認めたのは、民がエジプトを出てからでした。私たちの聖別された日々こそ、人々の目を主に向けさせます。

4章9節

「ナイルから水を汲んで、…土に注がなければならない。かわいた土の上で血となる。」

神は、エジプトの民が、杖を蛇に、手をツァラァトにするしるしを見ても信じないならば、ナイル川の水を血に変えよ、と言われました。

第三のしるし「水が血に」は、「裁きと死」を表しました。ナイル川は、エジプトの命の源であり、エジプトの神でもありました。その川の水(命)が血(死)になることは、エジプトの神と民の死を意味します。

神のしるしは、人を驚かす奇術ではなく、命の本質を教えるものです。「蛇…悪魔・ツァラァト…罪・ナイルの水が血…死」のこれら三つは一つです。罪(原罪)は悪魔の働きを許し、悪魔は罪々を助長して死に導き、死の恐怖が悪魔礼拝へ向かわせ、その実はゲヘナ行きです。これらのしるしは裁きではなく、ゲヘナ・第二の死(黙20章6節)を避けさせる警鐘です。

しかし。神が私たちに注いでくださる十字架の血は、ナイルの水が血になったのと反対に、人の罪の「血」を、神の水(いのち)に変える御業です。

友よ。ナイル(祝福・世の命)が血(呪い・死)になる人生ではなく、血(主の十字架)によって、永遠のいのち(復活)に変えられる人生を選び取ってください。

4章10節

「ああ主よ。わたしはことばの人ではありません。なお口が重く、舌が重いのです。」

モーセは、自分の手を通して神の御業を行ったのに、なお口下手を理由に神から逃げようとしています。それに対し主は、だれが口や耳や目を与えたのか、とモーセに迫り、「わたしがあなたの口とともにあって、言うべきことを教えよう」(12節)と説得します。

ペテロは、「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい」(Ⅰペテ2章5節)と勧めました。石は信仰告白を表し(マタ16章18節参照)、「生きた石」とは「イエスを主として生きる者」のことです。

生きた石は、キリストの体(霊の家)の肢体として神の御業に参与します。すると、神の栄光を見ることができます。しかし、神を信じても、自分を主として生きる者は、神の子であるだけのただの石になってしまいます。

友よ。あなたも主イエスによって救われ、選ばれた、「貴い石」ですが、有機質(生きた)の石ですか、それとも無機質(死んだ)の石ですか。神には、「あなた」にして欲しいことがあります。家族を愛し、弱い人に仕えるなど、小さな事に忠実であると「生きた石」とされ、神の栄光を見ます。

4章13~14節

「ああ主よ。…他の人を遣わしてください。」…主の怒りがモーセに向かって燃え上がり…。

モーセが神の御期待に応えることができないと思い、「他の人を」とつぶやいた時、神の怒りが燃え上がりました。神は、しり込みする人を脅してまで、御自分の目的を果たそうとするお方でしょうか。

神の怒りは、モーセを犠牲にして自分の思いを遂げるためではなく、むしろ、モーセがエジプトに行くことが、彼自身に必要だからです。神が求めることは、誰よりもその人自身に必要なことです。試練にしても、なぜ私が、と思いますが、それが私に必要なのです。それは、人を「キリストのみかたち」にするためです。モーセが、エジプトに行き、パロに会い、民を連れ出すことは、彼がキリストの姿になるために必要なことです。

友よ。仕える、耐える、愛する…などは、他者の救いと成長以上に、あなたに必要なことです。主に在ってものごとを受け取る者には、「そうすれば…何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります」(ヤコ1章4節)との約束があります。どうか、今日、神が行けと言う所へ、自分の思いを乗り越えて行ってください。

4章14節

「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。…彼はあなたに会いに出て来ている。」

神は、モーセがエジプト行きを思案する間にも、それ以後に必要なことを備えておられました。モーセの口下手には、兄アロンが準備され、すでにここに向かっていました。

神の働きは、一人で実現するものではなく、キリストの体全体で行われます。時と場合によっては、特定の人が目立つこともありますが、それとても、目立たないところで支える人がいるからです。各自それぞれが、神の要請に応じると、主の体に組み合わされます。そしてその業が、主御自身一人が、直接行動しているように見えるのが理想です。私たちの働き全ては、「主ご自身の栄光のため」(Ⅱコリ8章19節)です。

友よ。あなたがモーセならば、アロンを求め、彼の口を借りてください。ただし、御声を聞くのは自分であってアロンではありません。友よ。あなたがアロンならば、モーセに代って語ってください。でも、モーセ(リーダー)になってはなりません。「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい」(Ⅰコリ14章40節)とあるように、御霊のコントロールを受け入れてください。

4章18節

モーセは…イテロに、…「どうかわたしをエジプトにいる親類のもとに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているかどうか見させてください。」

ここにいるのは、お婿さんモーセ?それとも神の人モーセ?もちろん前者であって、神の人モーセには少し遠い所にいます。

モーセがエジプトに行くのは、里帰りではなく、神に民を導き上ることを命じられたからです。それを明言できないのは、話しても信じてもらえないことと、自分に確信がないからです。この時のモーセの心境は、「エジプトまでは行ってみるが、その後はどうなるか分からない(信じられない)」です。神の御心だと知っても、それを受け止める信仰がない人の姿が今のモーセです。

御心を信じ切れない友よ。信仰は、信じ切らねば、祝福を得られないものでもありません。無理に信じて、誤解と反発を受けている人々も多く見ます。「ここまでは信じても、その先は…」という信仰でも、主は受け止めてくださいます。神が「栄光から栄光へと」(Ⅱコリ3章18節)私たちを変えてくだるのに、「少しずつ」ということの方がより多いものです。今、達し得たところを大切にして、そこから主に向かって進んでください。

4章19節

「エジプトに帰って行け。あなたの命を求めていた者は、みな死んだ。」

神は、モーセが行くのをためらう原因は、40年前に、ユダヤの民を奴隷から救おうとしたのに失敗したからだ、と知っています。

過去の出来事(恐怖体験)が、今(エジプトに踏み出せない)を造り、今の現実が未来を左右します。過去・現在・未来は一つにつながって作用します。そうであれば、エジプトに行くことで新たに造られる出来事が、過去の意味を変えることも可能になります。人には、過去と未来を左右する力はありませんが、それができるお方こそ神です。「神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」(黙1章8節)。モーセが、自分の過去を失敗と考えるのは間違いです。あの出来事があったから、今、神と共にあるのです。

友よ。過去にとらわれず、今、共にいてくださる主を喜んでください。そして、ここから進んで行くなら、自分の過去が失敗でなく、神の御計画であったという確信を、未来に受け取ることができます。「神は万事を益としてくださいます」(ロマ8章28節参照)。

4章22節

「あなたはパロに言わなければならない。」主はこう仰せられる。「イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。」

主は、モーセがパロに会った時に言うべきことを授けます。一介の羊飼いが、世界一の王にもの申すのですから不思議です。

アメリカに、フィリップ・ブロックスという主の器がいました。彼の銅像がボストンにあると聞きます。その像は、師の後ろに主イエスが立ち、彼の肩に手を置いているそうです。それはあたかも、「フィリップ。さあ、お前が世界に出て行って、全ての人は私の息子と娘、私の初子だと語れ」と。さらに、「恐れるな、私はいつもお前の後ろにいる。お前の責任は、私が引き受ける」とも。

神は、恐れるアブラムにも、「わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい」(創15章1節)と語り、彼の背中を押しました。

友よ。さあ、恐れずに人々に語りましょう。「あなたは神の子です。あなたの真の父は、天地を造られた主(ヤーヴェ・創造主)なる神(エロヒーム・愛)です。イエスさまが罪を赦し、神の子の命を与えてくださいます」と。恐れるな、友よ。その時、あなたの後ろに主が立ち、御手は肩に置かれています!

4章23節

「わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ。…行かせないなら、見よ、…あなたの初子を殺す。」

神は、私の子を行かせて、私に仕えさせないならば、あなたの初子が死ぬ、とパロに告げなさいとモーセに言いました。

「私の子」とは、イスラエル(神の王子・永遠のいのち)のことです。聖書は、人が親から受け継ぐ肉体と心を「肉」と言い、「肉は神の国を継ぐことはできません」(ガラ5章19~21節参照)。

人は、神から生まれ、神を礼拝して永遠に生きるものです。神自ら、人を殺すお方ではありませんが、まことの神を礼拝しなければ永遠のいのちを失います。それが人の死です。初子(永遠のいのち)を殺すのは、「信じない者は…すでにさばかれている」(ヨハネ3章18節)とある、その人自身の不信仰です。

「私の子を行かせよ」は、「神が人に備えた『永遠を思う思い(伝3章11節・口語訳)』を優先させよ」と言っているように聞こえます。永遠を思う霊の思いを、世を愛する肉が阻止するならば、あなたの初子(神の子となる命)は失われます。

友よ。罪を赦されて復活した、あなたの「神の子」を喜ばせましょう。その子は、みことばと祈りを喜びます。

4章25節

「…火打石を取って、自分の息子の包皮を切り、それをモーセの両足につけ…。」

モーセは、やっと腰を上げてエジプトに向かって出発しましたが、ある夜「主はモーセに会われ、彼を殺そうと」(24節)しました。彼の妻チッポラが、息子の包皮を切り取り、モーセの両足につけて命を取り留めました。

この出来事は、「割礼」に関係があります。割礼は、生まれて八日目の男の子の包皮を切り取る儀式です。その霊的な意味は、「人が人に命を引き継ぐ所を切り取る」、すなわち「人の命を絶ち、神のいのちで生きる」ことを表しています。「御霊による、心の割礼こそ割礼です」(ロマ2章29節)。これはモーセを、「自分に死に、主に生きる聖別された者」にするためでした。

息子の割礼の血によって救われたことは、神の御子イエスの十字架の御業による罪の聖別を表しています。ある友が、「返り血を浴びるがごとくキリストの血潮をあ(浴)びていま生きむとす(宮崎聖蔵著、「されど御名ゆえに」より)と詠みました。

神は御子を遣わして、「弟子たちの足を洗った」(ヨハネ13章参照)ように、御自分の愛する御子の血を、私たちの足(汚れ・罪々)に付けて聖めてくださいました。

4章25~26節

「まことにあなたは私にとって血の花婿です。」…そこで主はモーセを放された。

結婚式の花嫁衣装には、白色が多く使われますが、式では人(花嫁と花婿)が賞賛されます。すると、白色の結婚式の裏側には、欲得や見栄など、黒色も潜むものでは?

モーセの妻は、息子の割礼の血を夫の足につけ、「血の花婿」と呼びました。主の働き人には、白でも黒でもなく、赤(主の血)を欠かすことができません。それは、「自分に死んでキリストに生きる者」のしるしです。さらに、主は弟子たちの足を洗い、「既に体を洗った者(イエスを主と信じ、罪赦された者)は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」(ヨハネ13章10節・新共同訳)と言われました。

足は、肉が世と接する中で作られる罪々(犯した罪)を示し、足を洗うとは、主の血によって聖別されることを意味します。神は、エジプトに行くモーセを高熱で倒し、割礼の血によって「放され(癒し)」ました。

友よ。モーセのように足に主の血を塗って(聖別)、この世(エジプト)に出て行ってください。その時、あなた自身が罪とサタンとこの世の力から自由にされ、確信をもって神の子として歩むことが出来ます。

4章27節

主はアロンに仰せられた。…彼は行って、神の山でモーセに会い、口づけした。

神は、モーセの兄アロンにも接触していました。モーセは、40年ぶりに兄アロンと再会して喜びます。兄弟は神の言葉を確認し、使命を果たすために共に旅立ちます。

誰とでも、すぐに心を一つにできる同労者になることは難しいものです。そこで、同労者は同じ行動を取らなくては、と考えますがそれが問題を作ります。これは、私はキリストの体の「手」の働きをしますから、「あなたも手になりなさい」に等しくなります。さらに、同労者同士が仕え合うことが一致でもありません。心臓と肺は太い血管で繫がれ、大量の血液を送り合っています。それは、相手を思い合うからではなく、個々が脳の指令に従った結果として、互いに仕え合います。

主の同労者の一致は、同じ仕事をすることでも、互いに仕え合うことでもなく、自分の存在を忘れるほどに主イエスが大きくなる時に与えられます。モーセはアロンよりも神に、アロンはモーセよりも神に仕えることです。

友よ。「人にではなく、主に仕えるように」(エペ6章7節)は、「主に仕えることが、人に正しく仕えること」となりませんか。

4章30~31節

主がモーセに告げられたことばをみな告げ、民の目の前でしるしを行ったので、民は信じた。…ひざまずいて礼拝した。

モーセが神から受けたしるしは、エジプトの人々に神の力を示すためでしたが、彼は最初に自分の同胞にしるしを見せました。

クリスチャンが、「イエスは主」であることを世に示すには、未信者に御業を示す以前に、同胞に証しとならねばなりません。主の器か否かを一番良く見分けるのは同胞です。その証しは、「真実であること」で、それは人を恐れず神を畏れて生きる姿から生まれます。パウロは、「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません」(ロマ9章1節)と言いました。民は、モーセが語る言葉と、しるし(行い)の両方を見て神を信じ礼拝しました。

聖書のみことばと、兄弟姉妹への言葉と行いの一致が、未信者にイエスが神であることを証明します。パウロは、「互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい」(Ⅰテサ5章11節)と勧めました。

友よ。私たちに必要な証しは、「互いに愛し合うこと」(ヨハネ15章12・17節)で す。すると、私たち自身がもっともっとイエスを主と信じられるようになります。すると、人々も信じたくなります。

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