キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

出エジプト記 第5章

5章1節

モーセとアロンは…言った。「…『わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ。』」

イスラエルを救おうとする、万軍の主の熱心が、モーセをエジプトまで導きました。いよいよパロとモーセ、いいえ、パロと神の対決が始まりました。

世界最大の王と砂漠の羊飼い、両者の権力は月とスッポンですが、モーセがパロ王に命じています。ここに、目に見えないもう一つの世界と権威があることに気づきます。それは、霊の世界の力と権威です。しかも、目に見えない霊の世界の権威が、見える世界の権威に勝っています。なぜなら、モーセの権威がパロに勝るのは、天地万物の造り主から与えられているからです。主イエスは、罪を赦す権威、教えの権威、悪霊に対する権威、いやしの権威、天国の権威、地獄に投げ込む権威など、全ての権威をお持ちでした。

友よ。「私に授けてくださった権威を用いて」(Ⅱコリ13章10節)とあるように、私たちにも主の権威が与えられています。しかし権威は、「築き上げるためであって、倒すためではない」(同)とも付け加えています。権威は愛によって用いると築き上げ、自己主張のために用いると破壊の武器となります。

5章2節

パロは答えた。「主とはいったい何者か。…私は主を知らない。」

モーセとパロの戦いは核心へ迫ります。人間同士の最も根本的な争いは、「だれが本当の神か」です。それは、生死を左右し、妥協できないので激しい戦いになります。

エジプトには諸々の神々があり、その頂点がパロですから、彼は自分こそが世界を支配する者と自負しています。事実、ヘブル人はパロの奴隷ですから、「ヘブル人の神」とは、彼にとっては「奴隷の神」であり、軽蔑して当然の神です。

しかし、「見よ。今や彼らはこの地の人々よりも多くなっている」(5節)とあり、奴隷なのにエジプト人より増え続ける民に脅威を感じ、その背後にある神への恐れも感じはじめていました。

友よ。人々から、「クリスチャンは善良な人々だが、彼らの神は恐れる必要がない」と思われていないでしょうか。それは、私たちが「イエスこそ神です」と人々の魂に挑戦せず、人々から恐れられるほど増え広がっていないからです。初代教会の力は、「一同の心に恐れが生じ」(使徒2章43節)るほどの激しい主の御臨在でした。神の子たちよ、御名が崇められるように立ち上がろう。

5章3節

「へブル人の神が私たちにお会いくださったのです。」

モーセは神を、「ヘブル人の神」と紹介します。それは、「奴隷の神」とも受け取られ、神の威厳を小さくしかねません。

どの宗教も、立派な建物、装束、儀式、教祖、会員の数、歴史…などを誇ります。それは、自分が信じる神が、どれほど本物かを示すためで、それらで自分を支えます。

しかし、「ヘブル人の神」との紹介は、「奴隷だけに相手にされる神」の意味とは逆に、誇りを持っての紹介でした。同じくパウロも、「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです」(Ⅰコリ1章23節)と主イエスを紹介しました。「十字架の神」は、奴隷の神以上にさらに惨めな神になりかねませんが、それこそパウロの最大の誇りでした。

友よ。あなたはどのように神を紹介しますか。キリスト教の功績・教養・クリスチャン人口の多さ、教会、牧師、奇跡…。そうであってはなりません。「奴隷の神(罪の奴隷に仕える神)」「十字架の神(罪人を赦す神)」だからこそ、「ひざをかがめ…『イエス・キリストは主である』と告白して、…ほめたたえられる」(ピリ2章10~11節)神です、と言ってください。

5章7節

「れんがを作るわらを、…与えてはならない。自分でわらを集めに行かせよ。」

奴隷イスラエルは、れんが作りが仕事でしたが、材料のわらが与えられなくなりました。神に従う者たちが経験する試練です。

神に従って歩む者には、この世の君パロ(サタン)がいつもこのように働きます。その目的は、元の自分の支配に戻すためです。

霊の戦いは、進むか、現状維持か、後退かの三つです。進もうとすると、必ず目の前の障害物に直面します。それを避ければ現状にとどまります。現状に甘んじ続けると、やがて後退して霊的に死にます。

霊の戦いは、進まなければ後退(敗北)します。この戦いを受けて立つには、サタンの業を見抜くと共に、神が御自身の所へ引き寄せるために、この出来事が与えられたことを知ることです。苦難であっても、神によって受け止めることです。

友よ。サタンと世の力は、ジャンプしても下に引き落す引力のようです。苦難、不条理を自分の力で受け止めることはできません。しかし、神を信頼すると助け主が働き、世から浮揚させてくださいます。前に進むとは、自分の足で歩くことでも、ジャンプすることでもなく、神を見上げ続けることです。

5章8節

「彼らはなまけ者だ。だから、『私たちの神に、いけにえをささげに行かせてください。』と言って叫んでいるのだ。」

右の言葉は、最近誰かに言われたような現実味があります。パロから見たイスラエル人の信仰は、怠け者がすることに見えました。

昔から、信仰は「アヘン・逃避・弱者の自己弁護」などと言われ続けてきました。しかし、信仰によって真剣に生きると、礼拝、聖書と祈り、仕事、家族を愛するなど怠ける暇はありません。

しかしもう一方で、信仰は建前にもできます。パロが「怠け者」と見たのは、一般的なイスラエル民衆の真実な姿であったのでは?それは、この後の記事の、彼らの日和見主義的行動からわかります。しかし、モーセの生き方は、命をかけた信仰者の姿そのものでした。

友よ。あなたの信仰は怠け者、それとも命がけですか。それを左右するのは、「罪」との向き合い方です。罪深さが本当に分かるほどに、神を命として生きる以外になくなり、真剣な信仰者になります。しかし、罪の本質と自分の罪が分からなければ、モーセとパロの言葉を、自分の都合で選ぶ日和見信仰(ご利益信仰)になります。

5章13節

追い使う者たちは、「わらがあったときと同じように、その日の割り当てをその日のうちに仕上げろ」と言って、せきたてた。

(新共同訳)

パロが厳しくヘブルの民を扱うのは、レンガ不足のためではなく、彼らを再び自分の手に取り戻すためです。神も人に試練を与えますが、当初は共通しても結果は正反対です。

神に従ったら楽しくなり、サタンに従ったら苦しくなる?最終的結果はそうなりますが、そこに至るまでの過程はその逆です。民がモーセから離れ、パロの従順な奴隷を続けるなら、重労働から解放されて楽になりますが、それは「広い門と広い道」(マタイ7章13節)を歩き、死に至ります。

一方、モーセに従うなら、その労働はさらに増され、一層苦しい「狭い門と細い道」(同14節)になりますが、命を得ることになります。

民は、パロとモーセの間で迷い、「神と富とに兼ね仕える」(同6章24節)道を探しています。

友よ。生きることは、喜びよりも苦しみの方が多く、苦しみの方が楽しいことよりも長いものです。でも、多少の長短よりもその内容が重要です。それは、喜び苦しみの中に何が詰まっているかです。その中に、主イエスが詰められているなら、幸いです。

5章15節

イスラエル人の人夫頭たちは、パロのところに行き、叫んで言った。「なぜ、あなたのしもべどもを、このように扱うのですか。」

人夫頭たちは、あまりの苦しさにパロに訴えています。そして、自分たちを「あなたのしもべ」と言うことに背筋が寒くなります。彼らは、パロの奴隷に戻ってしまいました。

ユダの王ヒゼキヤは、アッシリア軍に国のほとんどを陥され、最後の砦エルサレムに追い詰められました。降参の勧告を受けたヒゼキヤは、「これを聞いて、自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮に入った」(Ⅱ列王19章1節)。そして、預言者イザヤに祈りの要請をします。さらに、降伏勧告状を主の前に広げ(14節)、「私たちの神、主よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、主よ、あなただけが神であることを知りましょう。」( 19節)と訴え、神の栄光を見ました。

友よ。神の救いの手が、自分の思いと違うからと退け、再び世・パロに戻ってはなりません。神の御心は、「わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために…」(34節)です。出来事が最悪でも、神を信じ続けてください。万軍の主の熱心が必ず解決してくださいます。

5章16節

「あなたのしもべどもは打たれています。しかし、いけないのはあなたの民なのです。」

パロの迫害に音をあげた人夫頭たちは、パロの元に直談判に行きました。彼らの信仰は弱くなり、ぐらつき、今にも倒れそうです。

信仰を結婚に例えるならば、初めは見合い写真と履歴書によって相手を「知る」ことです。次は、実際に会って語り合い、知識で知った通りの人であることを認めること、すなわち知的同意です。

英語の「ビリーブ(信じる)」は「知的同意」のことです。ところで、神を信じることを知的同意と同じにする傾向がありますが、知的同意は神を頭で(知的に)認めることです。聖書で「信じる」とは、相手に自分を「委ねる」こと、相手と一体になることです。

結婚は、知り、信じ、委ねることで成立します。ヘブル人がパロに頭を下げたのは、モーセとアロンのしるしを見て「信じた(知的に同意した)」(4章31節)だけで、神と直接交わる原体験がなかったからです。

弱っている友よ。神の知的信仰者は、自分の力で神を持つので、困難に出会うと倒れます。神に委ねた人は、神に自分を持っていただくので倒れません。今一度、神に自分を投げ出してみてはどうか。もがくのを止めた時、水に(神に)浮かぶ自分を発見できます。

5章20節

彼らはパロのところから出て来たとき、彼らを迎えに来ているモーセとアロンに出会った。

自分を信じずパロに走った人夫頭たちを、モーセとアロンが迎えに来ていました。この場の、気まずさ、情けなさ、悲しさ…しかしこの空気は、神の愛が作り出したものです。

人を愛せなくなる原因の一つは、プライドを捨てられないからです。自尊心を守るために、謝れず、許せず、手を出せず、電話できず…するうちに、相手は手の届かない所へ行ってしまいます。

モーセは、このプライドを捨てて面倒で不従順な彼らを、パロの王宮の玄関まで迎えに来ていました。主イエスは、カルバリの丘の十字架で私たちのために御自身を捨てられました。しかし、それが出来たのは、「アバ、父よ。…どうぞ、この杯をわたしから取り除いてください…しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なしてください」(マルコ14章36節)と、ゲッセマネで自分自身(自尊心)を捨てたからでした。

裏切ってしまう弱い友よ。弱いあなたを、主イエスは迎えに来られました。神のプライドを捨てて人となり、十字架上で罪人として!今度は、あなたがプライドを捨てて、「主よ、弱い私を助けて下さい」と胸に飛び込む時です

5章21節

「あなたがたはパロ…に、私たちを憎ませ…、殺すために彼らの手に剣を渡したのです。」

人夫たちは、出迎えたモーセに悪口雑言を浴びせます。彼らがモーセに相談せず、パロに直訴したことは、パロの傲慢に油を注ぐだけで、重荷がさらに増されるだけでした。

初代教会においても、問題の解決を神の人の知恵に求めず、未信者に持ち出して信仰の敗北を味わった者たちがいました(Ⅰコリ6章5・6節参照)。モーセに持ち出せば、共に神の前に出て知恵と力を祈り求め、信仰が増されたことでしょう。

しかし、未信者の意見を、聖書の重さと同列に置くことは混乱を増すだけです。しかしモーセは、自分の問題を人(同胞)や世にではなく神に差し出しました。神の答えは、「(わたしの考えは)今にあなたにわかる」でした(6章1節)。

友よ。人に解決を求めるならば、目前の問題が軽くされたかに見えても、「やがてわからなく」なります。しかし神に求めるなら、問題がすぐに解決できなくても「今に(やがて)わかる」時が必ずきます。「あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをも たらすものなのです」(ヘブル10章 35節)。主にとどまり続けてください。

5章23節

「私がパロに…語ってから…彼はこの民に害を与えています。それなのにあなたは…民を少しも救い出そうとはなさいません。」

モーセは、神に遣わされてパロに語りますが、「主とは何者か」と一蹴され、むしろ民の労役と苦痛はより増幅されました。同胞からは疫病神のように嫌われ、自分抜きで王に直談判までされます。あるのは失望だけです。

人は、神に遣わされていながら、「私はこうしよう」と自分の思いが出てきます。モーセも、パロの反対は覚悟しても、民は、「目の前でしるしを行ったので、民は信じた」(4章30節)のだから、まして自分は皆のために行動しているのだから認めてもらえるだろう、と期待していたに違いありません。

しかし、ことごとく思い通りになりません。しかし、人には失望でも、神には計画通りであることが多くあります。一切の人間的期待が崩され、自分の「自信計?」の目盛が一番下になった時、そこから神の計画が動き出します。

失望する友よ。「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見る」(詩36・9)とある光は、自分と世の光が消えた所に輝く神の光です。従って、人の本当の希望は、自分のどん底から始まるのでは!

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