キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第11章

11章1節

さて、全地は一つのことば(言)、一つの話しことば(言葉)であった。

( )内は筆者

現在、世界の言語は大きく8つに分けられます。もし全地が同じ言葉だったら、だれとでも話し合え、心が通い、誤解もなく平和でしょうか。それなら、日本語を話す同士なら、誤解もなく、心が通い、愛し合えるはずです。しかし、離婚や親子の断絶、一国での内戦を見ても、同じ言語が平和を作り出してはいません。

「ことば(言)」とは、話し言葉を超えた「価値基準」です。そして「言葉」は、「言(ことば)=価値基準」を伝える手段としての英語、日本語、中国語などの「言語」のことです。夫婦の言葉が通じないのは「言(ことば)」が通じないのであり、外国人と会話ができないのは「言葉(言語)」の違いです。

ノアの洪水の後、人々は神を畏れて「一つの言(神という基準)」を持ちました。意見が違う2人でも、神の基準によって、「私は左に5m、あなたは右に2mずれている」とわかり、正しい基準に歩み寄ることができます。

個人、家族、国家や人類の問題の解決も、「初めに、ことば(言=イエス・キリスト)があった」(ヨハネ1章1節)、とある「イエス・キリスト」を基準とすることから与えられます。

11章2節

そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけそこに定住した。

人口が増えるにつれ、新たな定住地を求め、民族の移動が始まりました。彼らは、シヌアルの地に移ってきましたが、その前はどこにいたのでしょうか。

この移動は、土地から土地への地理的、空間的移動を超えた、「価値基準の移動」といえます。シヌアルとはバビロン地方です。聖書は、バビロンをこの世の代名詞に使いますから、彼らは生きる場所を「この世」に移したことを示唆します。この世とは「人中心」のことですから、「神」から「人」へ価値基準を移動させ、神に聞き従うことから、人の考え中心に生きることを選んだのです。

移住理由に、シヌアル地方の権力者で「我々は神に反逆しよう」という名を持つニムロデの存在があります。ヒットラー、スターリン、毛沢東、天皇…と、時代は支配者に「ことば(価値基準)」を変えられました。どの支配者も、「私がことば(基準)である」と言い、民衆も目先の安全を求めて迎合し、彼らの支配下に移動し、定住しました。

友よ。あなたの魂を、「ことばは神であった」(ヨハネ1章1節)イエスから移動させてはなりません。

11章3節

「れんがを…焼こう。」石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。

火で焼いたレンガは、何日もかけて削った石のようで、形も自由自在です。屋根や泥壁はアスファルトを塗ることで強く長持ちしました。これはすごい技術革新です。まるでルネサンスや産業革命のような大変革です。

しかし、技術革新は人々に、「神から離れても自分たちでやれる」との確信を起こしました。ルネサンスは、「内側の光を輝かせる」との意味も持つそうです。内側とは、人の人格を指し、宗教などなくても自分の内に光があるからという、「性善説による人間復興」でした。18世紀に啓蒙思想、19世紀に機械文明が加わり、人類は人間の能力と可能性をより信じました。それが、さらにヒューマニズム(人間中心主義)を助長しました。

しかし、技術革新は起こっても第一次、二次世界大戦、民族紛争と続き20世紀は戦争と大量殺人の世紀になりました。技術は中立ですが、それを使う人の心には光がなく、闇が支配しました。

友よ。便利な物質文明を「光」にしていませんか。「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」(ヨハネ1章4節)という、まことの「いのち・光」なるお方はイエスです。

11章4節 ①

「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。」

神が人を御自分に似せたのは、「自由意志」のみならず、「諸々の能力」も然りでした。人は学習し、知識を蓄え、自然科学や芸術など神わざのように行います。人々は、町を造り天まで届く塔を建てるほどになりました。

しかし、人に与えられた神わざ的能力は、人を高慢にしました。人が自信を持つに比例して、神への信頼を失います。バベルの塔と町を建て始めた人々は、自分たちの持つ可能性に胸を高鳴らせ、熱心に働いていますが、それが神から離れ、神に反逆することだとは気づきません。

信仰者がまじめで熱心なのに、なおいのちの確信を持てずにいる理由の一つは、「神御自身」ではなく「神の恵み=能力・御業・賜物」に心を奪われるからです。

神に似せて造られた友よ。自分の能力に目を向け、自分が被造物であることを忘れ、神になってはなりません。いのちは、能力(恵み)にあるのでなく、「このかたにいのちがあった」(ヨハネ1章4節)という人格(イエス御自身)にあります。「さあ、われわれは、『キリストの町(キリストの体・神の国)』を建て、『キリストの塔(イエスを主とする)』に従って生きよう」となるべきです。

11章4節 ②

「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。」

人々が建築し始めている町と塔は、この後の記事から神の御心でないことがわかります。それは、塔は「権力」、町は「団結」を表わし、神を離れ人間中心の世界を造ろうとしていたからです。そこは、「人の、人による、偉大な人(権力者)のための政治」となり、神は締め出され、どこにも登場できません。

さらに、町と塔の建築目的は、「名を上げる」ためでした。神を無視した人間社会には、カリスマ(超人間的・英雄・予言者)が現れ、絶対存在者に君臨します。ここに至って、あの暴君が、などと反抗しても万事休すです。

これは教会の中にも起こります。牧師を塔(主)に立て、自分たちの町(組織)を造ります。なぜなら、自分の願いを遂げるには、「神」よりも、「人」が便利です。神は罪と妥協してくれませんが、人は罪に協力してくれるからです。

「言(イエス)は、自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ1章11節)とは、教会とクリスチャンにも語られています。

友よ。自分の属する教会が、キリストを頭とし、キリストに聞き従い、キリストを崇める教会となれるように祈りましょう。

11章6節

「彼らがみな、一つの民、一つのことばで…このようなことをし始めたのなら…、とどめられることはない。」

人々は神から離れ、自分たちの「ことば(基準)」で町と塔を建て始めました。その「ことば」とは、「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」(エレ17章9節・口語)と言われる邪悪な心で、創造主を無視した人間中心の基準です。

いのちの質が、形と行動をつくります。人々が神に従わず自分の思い通りに生きる結果、皇帝や権力者に操られる不自由な群集になりました。個人、大衆、イデオロギー、国家のいかなる主張であれ、神から離れた者からは「自己中心」という「ことば(基準)」によって、欲望の追求が始まります。

世界の平和は、国連の力、教育水準の引き上げ、政治経済の繁栄と安定、南北問題(貧富)の解消や医療技術の向上、ひいてはイデオロギーの一致でも解決できません。

解決は、「『言(ことば)』の改革」にあります。だから主は、「全世界に出て行き、全ての造られた者に福音(言=イエス)を宣べ伝えよ」(マルコ16章15節)と命じられました。世界の「言」が、「イエス・キリスト」になるとき世界は変わります。

11章7節

「降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」

聖書では、神が強制的に人々のことばを乱しているように見えます。しかし、一人の人がいれば、一つのことば(基準)、一億人なら、一億のことばができます。神の強制がなくても、神から離れた一人ひとりは、自己中心(自分が基準)なので、ことばは必ず混乱します。

神が混乱させたとは、「神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられた」(ロマ1章24節)ことを意味します。それは、人があまりに強情なので、神が人に干渉できなくなった状態を表わしています。夫と妻、親子親族でも自己主張をし合うので、互いのことばは混乱し、通じなくなります。

しかし今、新しいことば、「十字架のことば」(Ⅰコリ1章18節)が与えられました。それは、「神の愛」です。「愛は結びの帯として完全なものです」(コロ3章14節)から、混乱したものを一つのことばに結び、二人を一つに、多数を一つに結びます。

愛する友よ。まずは兄弟姉妹と、「正しい・聖い・思いやる」ことば(神の基準)で話しましょう。それは、キリストを中心とした会話と交わりです。

11章8~9節

彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。

人々が建築を断念した町は、バベルと呼ばれました。バベルには、「混乱」と共に、一説によると「門」の意もあり、門は裁きに通じるとも言われます。したがって、バベルは「人の混乱」と「神の裁き」を表わすとも言えます。

混乱と裁きの原因は、神の国ではなく、人の国だからでした。「国」とは、日本政府の支配する領土が日本国であるように「支配」のことです。神の国とは、「神が支配するところ」です。さらに、神の国は「…『ここにある』…『あそこにある』とか言えるようなものではなく。神の国はあなたがたのただ中にある」(ルカ17章21節)と言われるように、私自身も「ひとつの国」です。

国には支配者が存在します。あなたの国の支配者はだれですか?夫(妻)、お金、会社、あるいは自分自身ですか。それらならば、バベル(混乱と裁き)が必ずきます。しかし、「神の国は近づいた」(マルコ1章15節)というイエスを主(神・支配者)として迎え入れた心(国)ならば、あなた個人も、家族も人々も、決して崩れない神の国とされます。その国は永遠の御国、天国と直結しています。

11章10~26節

これはセムの歴史である。…テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。

一つの精神的財産ができるには、三世代かかるともいわれます。じつに信仰も、一朝一夕には完成しません。信仰は、神のいのちの継承と継続だからです。セムの系図とは、「ヤーヴェ信仰の継承と継続の記録」です。

信仰を受け継ぐことは、血筋を超えています。「血によってではなく、肉の欲求や人の貪欲によってでもなく、ただ、神によって生まれた」(ヨハネ1章13節)とあるように、神の家族から継承します。とくに、選民ユダヤ人の長い歴史と血塗られた信仰の戦い、多くの殉教者たちにより福音が私たちの所に届いていることを決して忘れてはなりません。

ここからアブラハムが神の証人として登場しますが、彼の存在もセムの系図だからこそです。「あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか」(Ⅰコリ4章7節)とパウロは言います。

主を信じることは、自分の努力や能力を超えた神の恵みです。そして今、私やあなたはアブラハム、イサク、ヤコブです。それは、次の世代に、周りの人々に、未だ見ない人々に主イエスを伝え、神の家族を生み出す先祖となるためです。

11章30節

サライは不妊の女で、子どもがなかった。

カルデアのウルで豊かに暮らしていたアブラム一族が、都会の便利な生活を捨て、不便で危険なカナン移住を決心できたのはなぜでしょうか。理由の一つに、ウルの人々の太陽神崇拝が考えられます。真の神・ヤーヴェを信じる家族にはなじめない違和感です。しかし、その「違和感」こそ恵みとなります。

さらに、アブラムの妻サライが、「不妊の女で子がなかった」ことも理由にあげられます。当時の風習では、別の女を入れて子を得るのが当然のことでしたが、彼にそれはできませんでした。彼を神に向かわせたのは、「世間との違和感」と「自分の弱さ(跡継ぎがいない)」といえます。

強さと成功により、神に近づいた人を知りません。自分の力のなさ、他者を頼っても解決できない悲しみ、弱さ、欠けを知る者が主の名を呼びます。否、その人に語り続けておられた、主の招きの声を聞けるようになります。

行き詰まりの壁は、恥でなく、神に弾き飛ばすバネになります。「なぜなら、私が弱いときこそ、私は強いからです」(Ⅱコリ12章10節)。自分の弱さを、神からの賜物として受け取れる人が、神によって強い人にされます。

11章31節

彼らはカナンの地に行くために…出かけた。しかし…ハランまで来て、そこに住みついた。

ステパノは、アブラムがまだウルにいた時、「あなたの土地とあなたの親族を離れ、私があなたに示す地に行け」(使徒7章3節)との御声を聞いたと言いました。アブラムは、父も甥も連れてカナンに向かいました。それなのに、彼らはハランにとどまっています。

彼らは、「土地」を離れましたが、「親族」からは離れられませんでした。理由として、ハランに着いた頃、家族間に意見の違いがあったか?父テラの高齢からくる健康問題?なども考えられます。彼らは、十数年ハランにとどまったようです。

信仰と愛は一つですが、神に従うこと(信仰)が、肉親を捨てる(愛さない)ことに見えることがあります。「家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者が迫害とともに永遠のいのちを受ける」(マルコ10章29節)、とのみことばにたじろぎます。

友よ。みことばに従うのに恐れがあるなら、聖書に記された神の御業・御子の受肉・十字架・復活・ペンテコステ・弟子たちの記録…に目を移しましょう。これらは、弱い私たちのために用意された神の賜物です。弱さにとどまらず、神の恵みに足を踏み出してください。

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