キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第16章

16章1節

…妻サライ…、彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。

「あなたもハガルを二、三人持っていますね」と言われたら心外ですか。しかし、聖霊の光に照らされて浮んでくる、「あなたのハガル」がいます。ハガルとは、神の御業を自分に代わって実現させる代用物です。時には、教会・牧師・説教・教団・献金や奉仕・兄弟姉妹も、「ハガル」になります。

アブラムとサライは信仰深い夫婦ですが、こと、自分たちから子が生まれることには不信仰です。それは、神を信じても、「主イエスを信じなさい。…家族も救われます」(使徒16章31節)は信じられない、というのに似ています。そのような人は、ハガルに目をつけて彼女を引き出し、神の約束を成就させます。

神の御業は、「純粋(神の業)」、「半純粋(神と人の業の合体)」、「偽物(人の業)」に分類できます。目に見える現象は同じでも、作者が違います。神を信じる人が陥り易いのは、人の業を用いてみことばを成就させる「半純粋」です。その代名詞的存在がハガルです。

友よ。自分に不利な現実や出来事から早く解放されたい時こそ、自分の口と行動を控え、サラに子が宿る、神の御業の時を待ってください。

16章2節

私の女奴隷のところにおはいりください。…アブラムはサライの言うことを聞き入れた。

神の愛をアガペーと言い、「完全愛」とか「自己犠牲愛」とも言います。そこで、「自己犠牲」が伴う出来事に直面すると、神から出た愛だ、と勘違いします。そして、神の御心と人の思いを混乱させ、判断を間違わせます。今、アブラムの家庭にそれが起こっています。

妻たるもの、夫に他の女性を与える提案は死んでもしませんが、サライはこれをしました。この提案は、神の御心(子の誕生)にも通じ、なによりもサライの自己犠牲が伴うので神から出た御心に見えます。さらに、アブラムの男性としての欲情も刺激します。「神の御心・自己犠牲・人の肉欲」の三つが一つところに集中されると、神の御心と自分の願いの境目が消され正しい判断を失います。そのことの最大の理由は、サライの「自己犠牲愛」と勘違いするほどの「自己主張」でした。

友よ。あなたは自己主張を自己犠牲に代え、ハガルと関係(罪を犯す)していませんか。多くの奉仕や献金や伝道など、熱心なクリスチャンほど陥りやすい罠です。「神よ。私を探り、私の心を知ってください」(詩139・23節)と聖書の人々も祈りました。私たちも主に祈りましょう。

16章4節

…ハガル…、自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。

人生は一つの出来事をきっかけに大きく変化します。それと同時に、心まで変わることがあります。とくに「高慢」への心の変化は、電光石火のごとく早いものです。

目と心には、「傷つき易い・動き易い・硬くなる」などの共通点があります。ハガルは奴隷とはいえ、子を宿さねばならない、人格無視に傷つきました。しかし、自分に主人の子が宿ったと知るや、心はすばやく動き、彼女の心は妻の座を求めだします。

妊娠は、奴隷の心を女主人の心に変えました。神の働き人に同じことが起こります。牧師、長老、奉仕の責任を授かって、今までの謙遜を失うことがあります。

聖霊の賜物や奉仕の立場を得ても、心まで変化させてはなりません。「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。…信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」(ロマ12章3節)。

愛する友よ。どこにいても、「私にとっては生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」(ピリピ1章21節)が私たちの立場です

16章5節

「この横柄さは、あなたのせいです。…主が、私とあなたの間をお裁きになりますように。」

サライは、「私自身が私の女奴隷をあなた…に与えた」(同節)と言いつつ、自分の罪は認めません。そして、夫のその後の態度が悪いから女奴隷が自分を見下げるのだ、と責め立てます。妻の意見に従った夫も夫ですが、サライの態度には空いた口がふさがりません。

人を責めるのは、自分を無罪とするからです。「もっと祈れ」と他者を責める人は自分が祈らず、「あなたの責任だ」という人は、自分で責任を取りません。そのことを主は、「あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです」(ヨハネ9章41節)と、高慢の罪を警告しました。

サライのように、「主がお裁きになりますように」と神を持ち出し、自分を正当化し、他者を責めるのは最悪の証となります。

パウロは、「自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい」(Ⅰテモテ4章16節)と、まず自分を点検するように諭しました。サライに呆れて空いた自分の口こそ、いのちのパンと悔い改めのことばでふさがなければなりません。神の言葉と悔いる心が、人を裁くことから遠ざけます。

16章6節

アブラムはサライに行った。「ご覧、あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」

信仰の父・母となるべきアブラムとサライの、この無責任ぶりはなんということでしょう。サライが嫉妬の虜(とりこ)になったのはわかりますが、アブラム自身がこのように無責任だとは思いもよりませんでした。

アブラムがハガルの責任を取ることは、一見素晴らしい人格者に見えますが本当にそうでしょうか。人は、どこまで自分の責任を負えるものでしょうか。負えない責任を負おうとするから、必要以上の過干渉が始まります。

子の責任を負い過ぎた?親の過干渉から、大人になれない子たちが多くいます。その家庭には、親子の長年の苦しみが続きます。

人生のけじめの基準は、自分でなく神です。アブラムは、ハガルを妻に委ねたというよりも、ハガル(自分の失敗と罪)を神に委ねたのです。自分の罪を知る人ほど、神に委ねます。罪がわからない者は、自分で解決しようとします。聖書で「聖い者」とは、罪を主に委ねる人です。「まことに神は、…心のきよい人たちに、慈しみ深い」(詩73・1節)。

悩む友よ。神に両手を挙げて御前に伏し、罪に泣き、御手に委ね、そこから立ち、歩きだしましょう。

16章8~9節

「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」…「あなたの女主人のもとに帰りなさい。」

だれでも、正妻に意地悪され、実家に逃げる身重の女ハガルに同情します。神なら当然、ハガルの境遇を知り、彼女に恵みの逃れの道を備えるだろう、と考えます。しかし、神の言葉はとても厳しいものでした。

全てを知る神なのに、「あなたはどこから来た」と尋ねられます。これは、「あなたは、どこから落ちたかを思い出し…なさい」(黙示2章5節)と同じ質問です。

この同じ言葉を、困難から逃げようとする者に、神がいつも語っておられます。問題から逃げても解決はありません。むしろ、「問題の出所」に帰ることを教えます。しかし、それは女主人サライの所に帰って身を委ねることではなく、神の所に帰り、神の御手に委ねることです。

迷う友よ、恐れてはいけません。それは、「アコルの谷を望みの門」(ホセア2章15節)にして、そこからあなたに将来を与えようとする神の深い御計画です。神の幕屋の聖所は厚い幕に囲まれ、この世の光は届きません。しかし、世の光がない真っ暗の中に、「燭台の光(光なるイエス)」が輝きます。そして、この世でなく、神をはっきりと見せてくださいます。

16章13節

ハガルは自分に語りかけた主に御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。

(新共同訳)

人は、サライの立場に立てばサライ、ハガルの立場に立てばハガルと同じことをします。サライは加害者ですが、同時に被害者で罪人です。ハガルは被害者ですが、加害者でもあり、罪人です。人が人を変えられません。

だれかに、自分の重荷を負ってもらいたくて近づくと、逆に重荷を負わされます。ただ主だけが、「わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11章28節)と言えるお方です。だから、必要なのは、神の顧みです。

「エル・ロイ」とは、単純に「ご覧になる神」とも訳せます。偶像の神々は、人が自分になにをしてくれるか要求して見る(ご覧になる)神です。さらに、裁くために見る(ご覧になる)神です。しかし、聖書の「ご覧になる神」は、ハガルを裁くためでなく、わが子を心配し、いつ手を出して助け、抱きしめ、必要なものを与えようか、と慈しみの目を離すことができず、ご覧になる神です。 

今、弱っている友よ。あの人この人、と言っても問題は解決しません。思い切って、見ていてくださる神に、幼子のようにすがり、泣いて祈り求めてください。「そうすればたましいに安らぎが来ます」(同・29節)。

16章16~17章1節

アブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳…。アブラムが九十九歳になったとき…。

アブラムは、イシュマエルが生まれてから13年間、神の声を聞くことなく過ごしたのではないでしょうか。イシュマエルの誕生後、妻サライとハガルが争い、その度に自分の罪の実を見る、辛い日々でした。それ以上に、あの罪のゆえに「神に見捨てられた」との思いが、辛さを倍加したことでしょう。

あなたが神の御声を最後に聞いたのはいつですか。神との交わりを失ったのは、もしかしてあの罪の後、だったと考えていませんか。イザヤは、「あなたがたの咎が、…罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」(59章2節)と言いましたが、神自らあなたを退けたとは言っていません。 むしろ、あなたが神を遠ざけていたのだと言います。

「あの罪、この罪」よりも、神を遠ざけてしまう、「信頼しない罪」がより大きな罪です。

信仰の友よ。勇気を出して「ここに、私がおります」(イザ6章8節)と言ってください。神は、あなたに声をかけるチャンスを待っておられます。あなたの方からも声をかけてください。主は喜んで、「彼(あなた)と共に食事を」と入ってこられます(黙3章20節)。

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