キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第18章

18章2節

三人の人が彼に向かって立っていた。…彼らを迎えるため、…地にひれ伏して礼をした。

アブラハムの天幕に来た三人の者は、神の御使いでした。アブラハムは地にひれ伏して三人を迎え入れました。ここに、彼がへりくだる信仰の人である姿を見ます。

アブラハムの生涯は、「自分には不可能・神には可能」を学ぶ歩みでした。自分で負えない責任を負おうとする高慢は、自己主張に駆り立てます。そして、それができなくなると、うつ的になり自分を責めます。

人の謙遜度は、人々への態度でなく、「主の御前でへりくだりなさい」(ヤコブ4章10節)のように、「主に対する態度」に現れます。高慢な者は、自分に主の御使いをひれ伏させ、謙遜な者は御使いにひれ伏します。  

愛する友よ。負えない重荷をなぜ一人で負うのですか。主が重荷を負ってくださると約束されました(マタイ11章28~30節参照)。今も、主は御使いを遣わしてくださっています。それは多くの場合…人々…です。主が遣わす人に、「私を助けて、祈って」とお願いしてください。高慢な者は人々(御使い)を自分にひれ伏させるか、あるいは追い出します。謙遜な者は、人々(御使い)に頭を下げることもできます。

18章6~7節

アブラムは…「三セアの上等の小麦をこねて、パン菓子を作って…。」…子牛を取り、若い者に渡した。

アブラハムは、三人の主の御使いに最上のもてなしをします。人の心は、だれに何を捧げるかでわかります。それは、「あなたの宝のあるところにあなたの心もある」(マタイ6章21節)からです。

家族が大事なら家族に、お金が大事ならお金に、名誉ならば名誉に。そして、神を大事にする人は、神に惜しみなく献げます。アブラハムは、神の御使いに、上等の子牛を惜しまず捧げました。

この世で最も有益な投資は主に対するもので、愚かな投資は自分にすることです。ある大金持ちは、特別な悪人ではありませんがハデスで苦しんでいます(ルカ16章19節以下)。

その理由は、小事(世のこと)を大事(神のこと)のために使わなかったからでした(同10節参照)。彼は、この世の恵み(小事)を、神に投資せず自分だけに投資しました。この世のあらゆるもの(小事)は、自分の信仰の確立と、家族や隣人に主を伝えるため(大事のため)で、それが神に栄光を帰すことになります。

友よ。あなたの小事はどこに向けられ何に使われていますか。アブラハムのように、神に(大事)に注がれますように。

18章10節

するとひとりが言った、「わたしは来年の今ごろ、…戻ってきます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」

この夫婦は99歳と89歳で、子を産む可能性は皆無ですが、「これらの石ころからアブラハムの子孫を起こす」(マタイ3章9節)、と言われたお方は、事実、石(石女…うまずめ)から子孫を生み出されました。

人々は、就職・結婚・子の成長・健康・事業の成功・老後の安定…を望みます。すなわち、無病息災商売繁盛+天国行き?です。しかし、必ず可能性0の、「99歳と89歳」の絶望の時が来ることを知り怯えています。

その絶望の根本は、自分の命が絶える、「死」です。しかし神は、信じる者に「来年には戻って、男の子」を与えると約束されます。この恵みの約束の「男の子(御国の世継ぎ)」は、「人のいのちが絶える」時に与えられます。それは、救いが人の行いでなく、神の恵みによることを教えています。

人生の先に不安を覚える友よ。今、あなたは何歳ですか。今までのように若さを誇るのでなく、「九十九歳と八十九歳」を求めましょう。なぜなら、可能性のない年齢に達すればこそ、むしろ、「来年には男の子(神の約束の成就)」が与えられるように、人間の不可能が、神によって可能になるからです。

18章12節

サラは心の中で笑って…言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。」

サラも夫と同じように、心の中で神の言葉を笑いました。私たちも「…とは言っても」と笑いますが、彼らより重い罪?になるかもしれません。なぜなら、サラは90才の女の出産を見たことがありませんが、私たちはサラやエリサベツになされた、神の事実を知りながら笑っているからです。

人は、将来の希望を持ちつつ歩みますが、晩年になるとあきらめと失望の道だけが残ります。すると、「何事もなく静かに死ぬこと」をせめてもの希望とする以外ありません。そして、生きている時だけでも人並みに、と最期まで自己主張する空しい人生になります。

友よ。サラのように主の言葉を笑っていませんか。サラはこの後悔い改め、「信仰によって、サラも…子を宿す力を与えられました」(ヘブル11章11節)と加えられます。私たちにもサラと同じ、「神の子を生み(人々を救う)育てる(祈る)」使命が与えられています。「あなた方の確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらします」(同10章35節)。神の子には、「老いぼれても」なお、「神の子を生む」希望と楽しみがあります。

18章13~14節

そこで、主がアブラハムに仰せられた。「…主に不可能なことがあろうか。」

三人の旅人。普通の人と違う威厳を持つ神の御使いの一人は、じつは神御自身であったことが、「主はアブラハムに仰せられた」からわかります。アブラハムに神が直接来られ、顔と顔を合わせて語っておられました。表現できない驚く事実がここに展開されています。(ヨハネ8章53~58節参照)

アブラハムが「信仰の父」と呼ばれるのは、「アブラハムの子孫」である私たちが同じ経験をするためです。子は父のすることを見て育ち、父と同じことを体験するのが子どもです(ヨハネ8章39節参照)。みことばは、主が直接あなたに語る生けることばです。主が語られたことが必ず成就するのは、主は御自分ができないことはお語りにならないからです。

みことばを今すぐ信じられなくても、語られたお方を信じて、もう数ヶ月!祈りつつ待ってください。必ずみことばが、いのちとして宿ったイサクの胎動を感じる日がきます。約束のものを受けるのに必要なものは忍耐で、それが不可能と思えることでも信じる信仰です。アブラハムの信仰の忍耐は25年でした。

信仰の友よ。信仰の父(アブラハム)の真似をするのが子たちの役目です。

18章17節

「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」

「しもべは主人のすることを知らないが、わたしの友には、わたしは父なる神から聞いたことをみな知らせる」と主イエスが言われました(ヨハネ15章15節参照)。神は、御自分の計画をアブラハムに伝えようとしておられます。そこからアブラハムは「わたし(神)の友」(イザヤ41章8節)と呼ばれました。 

神が御自分の計画を知らせるのは、共に「働き・祝福を受け・責任を分かち合う」、すなわち、神と人が一つとなるためです。「友」とは、喜びだけでなく悲しみも重荷も分け合い、相談しつつ行動する相手です。趣味・仕事・学び・旅行などの友も必要ですが、さらに大切な人生の友は、主イエスです。

主を友とすると、主のくびきと一体化されます。主が私の重荷や悲しみを負い、私も主の重荷と悲しみを負います。すると、私が主の悲しみや重荷を負うの?と問う人がいます。そうです、これこそ生き甲斐です。なぜなら、本当に悲しみを担い合うのは二人称の間だからです。

娯楽番組を見て共に笑う他人でなく、悲しみを共にして抱き合って泣く友。この人こそ、「友なるイエス」(讃美歌312)です。

18章19節

「彼を選び出したのは、…家族と…主の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため…。」

神に選ばれた人は「選民」です。アブラハムほどでないにせよ、私たちも「家族に主の道を守らせ、正義と公正を行わせる」ために選ばれた選民であり、神の証人です。

十戒の「あなたの父母を敬え(第五戒)」は、神を愛すること(一~四戒)と、隣人を愛すること(六~十戒)の中間にあります。今日、子が親に服従せず、親が子の機嫌をとる、権威と秩序崩壊が起こっています。子が親に服従するには、「私(親)も、あなた(子)も罪人」の立場から、「私も神に従うことを学んでいます。あなた(子)も神に従わねばなりません。そのために私(親)に従うのですよ」と、服従の訓練が必要です。子は、親に服従して主に服従することを学びます(箴言3章参照)。

友よ。家族が主の道に歩むことほど、大きな信仰の報酬はありません。あなたに与えられた「親(選民)の権威」を、「愛」によって大胆に行使してください。大きな報酬を得るのですから、大きな犠牲を惜しんではなりません。しかし、あなたの決意以上に、「成長させてくださるのは神」(Ⅰコリ3章7節)ですから、御霊に信頼し祈ることが、さらに重要です。

18章20節

「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。」

ソドムとゴモラの罪は大きく、忍耐深い神も見過ごせず、手を打たねばと考えています。忍耐の神が見過ごせないこと、とは何でしょうか。それは、「人間を中心とする罪」です。

黙示録十三章に、竜と獣のことが記されています。竜なるサタンは、自分の権威を獣に与え、獣は聖なる者との戦いに勝つことを許されます。獣の正体を解くカギは、「その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六」(18節)でした。

ユダヤでは「6」は「人」を表す数字だと言われます。そうすると、「6・6・6」とは、「人・人・人」であり、「人間中心」の意味になります。あらゆることで徹底的に人間を中心として、神を排除するのが獣の正体です。

サタンは、神を打ち負かすために、自分の権威と力を一時的に人に与えます。また、人の罪に足場をつくり、人を支配して神に反逆します。ますます人類にはびこる「人間中心主義(ヒューマニズム)や自由主義(リベラリズム)」は、人類の進歩を表す真理であるかのように見せかけ、じつは人類最大の偶像なる獣(6・6・6)です。神の主権とみことばが基準です。

18章21節

「わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうかを見よう。」

神を信じず、自分たちを神とする、ソドムとゴモラの傲慢の罪の叫びが神に届きました。それなのに、神はわざわざ確認するために下って行き、確かめる必要があるのでしょうか。

しかし、神は御自分で出かけられます。それは、裁きをより厳格にする証拠をつかむためでしょうか。いいえ、その反対です。神は、御自分の赦しを流すことのできる小さな隙間を見つけるために出向かれます。神は、裁く前に救いの道を備え、さらにその人を救う方法も探されるお方です。

神は、ソドムとゴモラを赦せないと判断されたからこそ、アブラハムに自分が行おうとする秘密を打ち明け、彼らを救うために、祈る人を起こされました。神の愛はソドムとゴモラにも注がれます。

愛する友よ。あなたこそ、滅びる者(ソドムとゴモラ)を執りなすために選ばれたアブラハムです。あなたのロトたちがこの街に大勢います。「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによる」(ロマ10章17節)のです。あなたに反対する人々でも、彼らの「魂」はあなたを待っています。

18章22~23節

アブラハムはまだ、主の前に立っていた。アブラハムは近づいて申し上げた。

主の前に「立って・近づいて」とは、なんと大胆な行動でしょうか。この姿に、人格と人格・顔と顔をつき合わせる関係をみます。「愛には恐れがない」(Ⅰヨハネ4章18節)。

しかし、顔と顔を付き合わせようにも、それ以前の信頼関係がないとできません。信頼関係は、多くの時間を共に過ごさないとできません。アブラハムは、先に行こうとする主の足を止めるほど、主ににじり寄っていきました。「主よ。なんと幸いなことでしょう。主に信頼するその人は」(詩84・12節)。

主ににじり寄る祈りは、主ににじり寄って生きる人(人生を賭ける)から出てきます。競馬などでお金を賭けるのに、お金を自分から手放さなければ賭けが成立しませんから、配当も受け取れません。アブラハムは、それをして生きてきました。すると、自分には何も無くなり、手放したものを返していただかねば生きられなくなります。その時の切なる神への求めこそ、神ににじり寄る祈りになります。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます」(ヤコブ4章8節)。

友よ。にじり寄るほど近づいて失望しないのは、神だけです。

18章25節

「全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。」

「技あり、一本」とはこれです。柔道で、相手の力を利用して勝ってしまうことほど痛快なことはありません。いつも神に一本も二本も…全てのことで負かされているのが私たちです。もちろん、それが当然です。しかし、アブラハムの返答は、相手の約束の言葉を用いて、自分の思いを遂げた一本です。

神は、アブラハムの訴え(祈り)を退けることができません。それは、「主は義によって世界をさばき、公正をもって国民にさばきを行なわれる」(詩9・8節)と語った御本人だからです。アブラハムは、神の約束の力を、自分の勝利の力に変えたのでした。

友よ。私たちの祈りの秘訣もここにあります。夫が酒を飲み過ぎるならば、酒量が減るように祈るよりも、夫の魂を捕らえてください、と祈ることです。夫の根本問題は、彼に神の命がないことだからです。そして、夫(妻)の魂を救う、とは神の約束(Ⅰコリ7章14節)ですから、約束されたお方に祈るのであって、ロト(相手・夫・妻)に祈る(説得・教育する)のではありません。神の約束により、神に向かって、神に祈り求めましょう。

18章26~32節

「五十人の正しい者」…「四十五人」…「四十人」…「三十人」…「二十人」…「十人見つかるかも…」

アブラハムの祈りは、6度にわたって要求を変えるほど執拗です。神が返事をするたびに、彼の信仰はより大胆になります。彼の要求は、「あの人の罪が、十でも…二十でも…三十でも…四十五でも…五十でも赦していただけませんか」に等しいものです。

しかし、神は彼の祈りに応えられません。なぜなら「義人はいない。ひとりもいない」(ロマ3章10節)からです。でも、「憐れみは裁きに打ち勝つ」(ヤコブ2章13節)とあります。神の目には、全世界に十人の義人も映りませんが、御自分の懐に一人の義人・イエスをお持ちでした。

最初のアダムによって罪が全人類に入りましたが、一人の義人・イエスの従順により、全ての人が義と認められる道が備えられました(ロマ5章14~21節参照)。

主は、「父よ。彼の罪が十でも、二十でも、五十でも赦してください…。私がその代価を払いましたから」と執拗に執り成しておられます。

友よ。アブラハムに勝る執り成し手がいます。それは、私たちを執り成すために、天から下って人となられた、イエスです。

18章33節

主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。

自分でできることを人に頼む必要がないように、自分でできることを祈る必要もありません。頼むのは、自分に不可能だが、この人には可能だ、と信じるからです。信じるとは、「頼み・委ねる」ことも含みます。

しかし、祈りに関しては、この法則が守られません。神に「委ねます」と祈りながら、数時間後には委ねたことが自分の手に握られています。もしアブラハムが、ソドムへ主と共に行って現状を見るなら、自分の考え、経験、方法を用いてロトを救出しようとしたでしょう。それは、祈ったことを主から自分の手に奪い返すことです。祈り委ねたことの何%が、今なお主の御前に留まっているでしょうか。

友よ。「あなたの重荷を主に委ねよ。主は、あなたのことを心配してくださる」(詩55・22節)との御声に従い、主に委ねたものには無責任になってください。そして、祈り終えたアブラハムが「家に帰った」ように、あなたも家に帰って待っていてください。主が、成就するために、ソドムに行っておられますから。必要なのは待つことで、それも信仰です。

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