キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第24章

24章1節

アブラハムは…老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。

アブラハムは、天国を目指す寄留者なので世に対しては無欲でした。しかし、無欲なのに、老人になってもあらゆる面で祝福を受けています。ここに、今もすべての老若男女に通じる祝福の秘訣がありそうです。

アブラハムと似た人にパウロがいます。彼は、「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」(ピリ4章11節)、その理由を「私を強くしてくださる方によって…」(同・13節)と言いました。彼が得た祝福は、「キリストによって、どんな境遇でも満ち足りる」ことでした。それは、あきらめではなく、世に無欲になるほどの、神への貪欲でした。

アブラハムの神への貪欲は、次節(2節)から、イサクに同じ神を信じる嫁を探し、神の約束「あなたの子孫」を得ようとしています。

若い時は自分の力でできたことが、老人にはできなくなります。人生は、老人になるほど試練が増します。しかし、老人になり、体力が衰え、自分の力を当てにできない試練は、「自分」を「神」へ移す、神の賜物です。

友よ。年齢を重ねて必要な資質こそ、神への貪欲な求めです。神はそれを祝福してくださいます。

24章3節

「私が一緒に住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。」

信仰は、身内との係わりにおいて試されます。身内は、遠慮のない、強い利害関係があるのでストレートな反応を返します。身内の前では、信仰の建て前ではなく、本音がでます。

「同じ信仰の娘を嫁に…と言ってもこの地にそのような娘はいないし…息子は結婚できない…それよりは…」と本音が頭をもたげます。とくに、最大の身内である、子に対する態度こそ、親の信仰レベルの反映です。

カナンの地にも良い娘はいたでしょう。しかし、異教の神を拝む娘を嫁にすることは、アブラハムにはできません。彼が息子の嫁に求めた条件は、この世のあらゆる条件よりも「信仰」でした。彼の信仰は、建前でなく本音でした。建て前は理念にすぎず、理念にいのちはありません。いのちは本音にあります。

あなたの信仰は、「本音・建て前・中庸」のどちらですか。信仰生活にも、「あの人が、教会が、牧師が、家族が…」と理由はいろいろあるものです。ヨハネのことが気になるペテロに、「あなたは私に従いなさい」(ヨハネ21章22節)と主は言われました。

友よ。今日も、自分自身こそ、神の国とその義を求めて歩んでいかねばなりません。

24章6節

アブラハムは彼に言った。「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。」

アブラハムはイサクの嫁を、同じ信仰を持つハランの親族の娘から選ぼうとします。しかし、同じ信仰を持つ娘ならば、イサクがハランに移ってもよいとはしませんでした。

結婚は一生の大事なことですが、結婚より大事なのは、神に与えられた「使命」です。その使命は、「神の子となり、神の栄光のために生きる」ことです。

結婚も、「神のかたち(父と子と聖霊)」(創1章27節)を表わし、神の愛に生きるように、「男と女とに創造」(同27節)されたのです。大事な結婚でも、この使命が無視されるならば、永遠の祝福とはなりません(Ⅰコリ7章25~40節参照)。

アブラハムは、相手が神を信じる人である事と共に、イサクに与えられた、「あなたの跡を継ぐ」(創15章4節)という使命を果たすために、「息子がハランに帰らないように」と命じました。

私たちに息子や娘を与えられたのは、彼らがカナンの地(神の国)を継ぎ、神の栄光を現すためです。もしハラン(この世)に行くならば、世に飲み込まれ神から遠ざかるでしょう。神の子の若者が少ない日本ですが、諦めずにこの祝福を得るため、祈らねばなりません。

24章7節

「約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる。」

イサクの嫁探しには、多くの悪条件があります。ハランは都会でカナンは田舎、生活の利便性も習慣も違います。このしもべは、難題を抱えてイサクの嫁さがしに旅立とうとしています。

アブラハムは、難題を抱えるしもべに、「主は、御使いをあなたの前に遣わされる」と励ましました。物事は、偶然の重なりで起こるのではありません。パウロは、「すべて私に告げられたとおりになる…」(使徒27章25節)と言い、アブラハムは、「約束して仰せられた神」と言います。どちらも神の御心を知り、御心だから成就すると信じています。

困難が多くて嫁(目的)を得られないのでなく、御心の確信がないから得られない場合があります。「求めよ、捜せ、叩け」と言われた主は、「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊をくださらないことがありましょう」(ルカ11章13節)と言われます。

神の御心には、すでに聖霊が先立っておられ、聖霊は御使いをさらに先に送っています。「御使いを」とは、神の造られた全てを、ということでもあります。神は、全ての被造物をもって用意を整え、あなたが来るのを待っておられます。

24章8節

「その女があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの私との誓いから解かれる。」

しもべには、主人から与えられた使命を果たす責任がありますが、たとえ御使いが伴っても、それで全てが必ず上手く行くとは限りません。その時は、その使命から解かれることがあることを教えています。

それは、自分がどんなに御心に忠実であっても、相手がそれに応えてくれない時です。「神の御心」と確信しても、必ずしも成就しないのはそのためです。しかし、諦めてはなりません。「何事でも神の御心にかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」(Ⅰヨハネ5章14節)。

さらに、「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります」(ヨハネ16章23節)ともあります。

神の御心は、自動的に成就するのでなく、あなたの祈りを経由して成就します。相手の責任は相手が負いますが、私たちの祈る責任については私たちのものです(エゼ3章16~21節参照)。

友よ。今日、心に浮かぶ人や、気になることがあるなら、神が「祈れ」と促していることです。今日も祈り続けましょう。

24章10節 ①

しもべは……出かけた。

しもべは、主人のために存在し、主人から聞き、主人に従います。しもべ自身にも考えや日々の生活があるのは当然ですが、自分の好き勝手はできません。全てが主人のためです。「出かけた」とは従順をあらわします。

ある人が、マタイ25章のたとえ話に記されている主人としもべの関係を、次のように説明していました。…「5、2,1」タラントで商売をするように命じられたしもべたちの結果に、大きな違いが出たのは、5タラントの人は、「すぐに行って」とあり、2タラントの人も「同様に」と書いている。しかし1タラントの人は、「出て行くと」とあるが、「すぐ」がない。この「すぐ」が決め手であった(榎本保郎著「一日一章」)…と。

1タラント預かったしもべは、主人の命令に従わず、自分で考えたことを行いました。信仰は、自分の考えを推し進めることでなく、神の言葉への従順です。「すぐ」の言葉こそ、「従順」の度合いを量る言葉といえます。

友よ。神の御心がわかったなら、小さな従順(謝罪・感謝・悔い改め・仕える…)を行うために「すぐ」に出かけてください。その先に、大きな従順を受け止められる自分がいます。

24章10節 ②

しもべは主人のらくだの中から十頭…。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。

日本には、お嫁をもらうのに沢山のもの(結納)を持って行く風習がありました。私たちは、神の家族の中に、新しい嫁(魂)を迎えるのに、何を持って行くべきでしょうか。

パウロは、「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました」(Ⅰコリ9章19節)と言います。そうです。キリストの花嫁を得るには、それなりの働きと贈り物が必要です。トラクトを配り、手紙を書き、送迎の車を用意するなど、どれも大切です。

その中で、最も貴重な品はなんでしょう。それは、だれからも評価されず、人からの報酬もなく、人の目に隠れ、神にのみ覚えられるもの、「祈り」です。この祈りは、主人(神)の心(一人も滅びないで永遠の命を得ること)を知る者に与えられます。

主人の願いに祈りが与えられ、祈りがさらに、より深く主人の心を知ります。主人の心を知る人は、魂の救いのために祈りの贈り物を蓄えます。それはしもべ(聖霊)によって花嫁(求道者)に届けられ、彼女の心を動かす結納品となります。

友よ。今日も多くの結納品(祈り)を贈り続けましょう。

24章11~12節

彼は(しもべ)…祈った。

(新共同訳)

しもべに一番必要なことは、主人の願いを「聴く」ことです。次は、すぐに行くこと(従順)と思いがちですが、その前に「祈る」ことです。その次が「行く」ことです。ですから、御心を聴いたら、最初になすべきことは、祈りの場に行くことです。

ある人が、「現代の教会に不足しているものは、神学・資金・人材・セミナーや方法論でもなく祈りです。祈りの不足が説教も、資金も、人材も、魂の救いも、神の子の成長も与えられません」と言われたのは真実な忠告です。

なぜ、それほど「祈り」なのでしょう。それは、教会の働きは人の業を超えた「神の御業・霊的出来事」だからです。イサクが自分の好みでも伴侶を選べましたが、神より受け取りました。教会も人と組織でも運営できますが、それは人の業になり神の御業になりません。

人の業と神の御業の違いは、祈りがあるか、ないかによって変わってきます。「しもべは…祈った」の一言を現実とすることを神は喜ばれ、御自身の御業を行われます。

友よ。「大リバイバルを!」との祈りも必要ですが、神は「小さなことを、本気で、実際に」祈ることを、まず求めておられるのではないでしょうか。

24章14節

「『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう。』と言うなら、その娘こそ、あなたが…定めておられたのです。」 

しもべは、祈りつつ待ちます。水を汲みに来る娘に水を所望し、その娘が、「あなたのらくだにも飲ませましょう」と言うなら、イサクの嫁にする娘だ、との啓示を受けていました。

聖霊は、イサクの嫁を選ぶ基準は、神の愛であると示しました。それは、「あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、一緒に2ミリオン行きなさい」(マタイ5章41節)のみことばの中にあります。強いられたら断るのが「権利」で、強いられて、いやいやでも責務を果たすのが「義務」です。

しかし、権利と義務で物事は何も解決しません。物事の解決は、人の心が動いたときです。人の心を動かすのは、「権利」と「義務」ではなく、相手のために思い、考え、行動する「愛」です。しもべは、自分だけでなく、らくだにさえ水を与える娘に愛(2ミリオン)を見ました。

相手が、「謝ってきたら許す・手紙をくれたら書く・声を掛けてきたら応える・愛してくれたら愛する…」は権利と義務の世界です。

友よ。リベカのように、自分から「与え・謝り・書き・応え・愛する」2ミリオン行く者と主につくり変えていただきましょう。

24章20節

彼女は急いで水がめの水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って…その全部のらくだのために水を汲んだ。

娘はしもべの祈りを聞いていたかのごとく、しもべだけでなく全部のラクダにも水を汲み上げては飲ませました。しもべが声をかけた娘は、アブラハムの実の弟、ナホルの娘リベカで、同じ信仰を持つ娘でした。

信仰は、愛という行いに現れます。リベカは言葉ではなく、行いによって信仰を証明しました。彼女がこのようにできたのは、信仰が日常生活に沁み込んでいたからです。

教会にいる時の自分の言行(礼拝・集会・司会・奏楽・聖書朗読・祈り・様々の奉仕・会話…)は、自分の信仰の実力以上に見せることができます。掛け値のない信仰者の姿は、一人の時や家族の中にいるときにあらわれます。

しかし、友よ。リベカのように二ミリオン行けない自分に失望しないでください。神が一番求めていることは、良い行いや親切、奉仕、自己犠牲ではなく、「悔い改め」です。それは、神に正直に自分をさらけ出すことです。悔い改めこそ、神と人の接点です。良い行い(二ミリオン)は、良い接点(悔い改め)から、御霊の力によって実現されます。

24章21節

主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。

人は自分の願いがあると(それが神の御心でも)沈黙して待てず、思い通りになるように、ついつい口と手を出すものです。それは、祈りにおいてもそうです。祈って、神に委ねた次の瞬間、自分の方法と業で行動します。

アブラハムのしもべは、祈って娘に声をかけた後、黙って見ていました。彼は、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです」(ロマ11章36節)を知っていました。

これを忘れて行動に出ると、幼い子が難しいプラモデルの組み立てを、朝お父さんに頼んだのに、帰りを待ちきれず、自分だけで組み立てて、後に収拾がつかなくなるのに似ています。これは、父(神)が行うことを、子(人)が行う間違いを教えます。

パウロはそのことを、「あなたがたは、それほど物分かりが悪く『霊』によって始めたのに、『肉』によって仕上げようとするのですか」(ガラ3章3節)と語気を強めました。

愛する友よ。待つことは、行動するよりも難しいものですが、祈った後に自分で動くことを少し控え、主がどのように働くかを期待して見つめて待ちましょう。待つことも、祈りの大切な一面です。

24章22節

その人は、重さ一べカの金の飾り輪と、彼女の腕のために、重さ十シェケルの二つの金の腕輪を取り、尋ねた。

アブラハムのしもべは、まるで乙女心を金品で買収するかのように、高価な装飾品をリベカに差し出しています。もちろん、これらはしもべのものではなく主人のもので、いうなれば神から預かってきたものです。

罪に支配された自己中心に生きる世界では、自分に本当に必要で価値あるものを惜しみなく与えてくれる人を、人は信じ、好感を持つものです。あなたが魂(リベカ)を獲得しようとするなら、その人に必要なもの(こと)を多く与え、信用を得なくてはならない、とは言い過ぎではないでしょう。 

友よ。「私には何も差し上げるものがない」と言っていませんか。考えてください。しもべが差し出したものは、彼のものでなく主人のものでした。主があなたを遣わすのなら、必要なもの(優しいことば・手紙を書く・祈る・物理的援助・話を聞いてあげる・共に過ごす・電話をする…)を必ず持たせているはずです。あなたが与えるものは、主人(神)からすでに与えられています。惜しまず与え、新しい魂を主の花嫁となれるように導いてください。

24章24~26節

「私は…ミルカの子ベトエルの娘です。」…そこでその人は、ひざまずき、主を礼拝して。

アブラハムのしもべは、祈りに祈って、主人の心に適う娘に出会いました。信仰を同じくする娘、親族の中の娘、愛の規準に適った娘…彼女はそれら全てを満たしていました。しもべは、神の御業のあまりの素晴らしさにひざまずき、主に感謝の礼拝を捧げました。

次のような鶏と豚の逸話を聞いたことがあります…「鶏は一口水を飲むごとに頭を上げて感謝しますが、豚は、食べても食べても決して頭を上げ感謝することはない…」と。あなたは鶏のようですか?それとも豚のようですか。

車で出かける前に、道中の安全を祈る人は多くいますが、無事に到着した時に感謝の祈りをする人はあまり見かけません。しもべは、最初も(11節・新共同訳)、途中も(26節)、最後も(52節)祈っています。祈りは最初から最後まで、朝から寝るまで貫いて必要です。

友よ。しもべが受けた導きは、あなたの一日の中にも多くあります。それは感謝の祈りをささげる時に静かに思い出します。朝からささげられた一日の祈りを、一日の最後に思い出し、感謝の祈りをささげましょう。一日の終わりを、逸話にあった鶏となって閉じてください。

24章33節

その人は言った。「私の用向きを話すまでは食事をいただきません。」

リベカの父は、嫁をもらいに来たしもべに、ご馳走を振舞いました。日本の習慣では、杯を交わし、ご馳走に箸をつけ、ほど良い気分になったころ、おもむろに用件を切り出すものです。ところが、このしもべはご馳走に箸をつけず、最初に用件を伝えようとしています。

願い通りことが進むと、ついつい自分の交渉の仕方とか、自分が信用されたから、などと思い上がるものです。しかし、このしもべは自分があくまでも「しもべ」であり、しもべは主人から与えられた使命を果たすことが何より大事だと弁(わきま)えていました。

主は、タラントの例えで、5タラントと2タラント儲けたしもべたちに、「あなたは、わずかな物に忠実だったから」(マタイ25章21・23節)と言いました。1タラントでも莫大な金額(6000日分の賃金?)ですが、それを儲けたのは、「わずかなものに忠実」だからだと言われました。

友よ。聖書を読む、祈る、などのわずかなものに忠実であることが、5・2タラント(莫大な主の恵み)を儲けることになります。しもべとは、自分の食事よりも主人の用件(みことばを食べる・祈る)を優先する人です。今日も、主のことを優先してください。

24章50節

「このことは主から出たことですから、私たちは…よしあしを言うことはできません。」

アブラハムのしもべの熱意と信仰に、リベカの父は、「主から出たことだから、善し悪しを言えない」と娘の結婚を承諾しました。

客に、「そこまであなたが言うなら買います」と言わせる凄腕営業マンも、「あなたの熱意に負けてイエスを主と信じます」と言わせることはできません。なぜなら、聖霊によらなければ、「イエスは主です」と言えないからです。

ラバンは、しもべに上手に言い含められたからではなく、しもべが、「自分よりも主人アブラハム」を、「主人アブラハムよりも主なる神」を大きな存在としていたからです。

像を拝まず、燃える炉に投げ込まれた3人の若者は、自分よりも神を大きくしました。王はそれを見、「神は…、自分たちの体を差し出しても、神に信頼し、自分たちの神の他はどんな神にも仕えず、また拝まないこのしもべたちを救われた」(ダニ3章28節)と告白しました。

友よ。上手に福音を語れなくても、自分よりも主なるイエスを偉大なお方として生きるなら、主を偉大なお方として人々に見せることになります。すると人々も、聖霊によって、「主から出たことだから従います」と言うようになります。

24章56節

「私が遅れないように…。主人のところへ行けるように私を帰らせてください。」

しもべの働きは、嫁をもらう側も与える側も、共に喜び合える大成功に終わりました。しかし、「成功した場に留まろうとする肉」がここに隠れています。

教会を成長させた牧師・尊敬される長老・賞賛を得た奉仕者…は、その地位から離れたくありません(長期奉仕の善悪でなく、立場や賜物に固執する間違い)。サタンは、神の恵み(賜物・働き・成果)に目を釘付けにし、主御自身から目を離れさせ、神の器を地獄へ落とそうとします。

「主御自身」のみを見つめる者は、十字架を見て謙遜にされ、「恵み・賜物・働き」を見る者は十字架の苦痛抜きの復活、安価な恵みを喜びます。

アブラハムのしもべが成功し、賞賛される場に留まらず、すぐに主人の所に帰ろうとしたのは、十字架の主のもとに帰ろうとしたのです。

素晴らしい奉仕や賜物や恵みが、岩(主イエス)と家(私)の間に溜まる砂となることがあります(マタイ5章24節~参照)。砂(恵み・賜物・働き)の上に建つ家は少しの変化で壊れます。

友よ。主に命じられた働きを行い多くの恵みを得るほどに、一刻も早く十字架の主イエスの御元に帰りましょう。

24章58節

リベカを呼び寄せて、「この人といっしょに行くか。」と尋ねた。すると彼女は「はい。まいります。」と答えた。

結婚に至るきっかけは、お見合い・だれかの紹介・日ごろからそばにいた・偶然の出会い…と様々です。しかし、リベカは見たことも話したこともない、外国に住む人の所に、アブラハムから遣わされたしもべを信じて、「はい。まいります」と、嫁ぐ決断をしました。

私たちが、神の御子イエスを「神・主」と信じることは、「キリストの花嫁」になることです。ところで、あなたは夫(主イエス)になるお方をどれほど知って伴侶になる決意表明(信仰告白)をしたでしょうか。イサクを知らないリベカが結婚を決意した最大の理由は、しもべに対する信頼でした。

同じく、人がイエスを主と信じるのは、福音を伝えてくれた人への信頼と、目には見えないもう一人のしもべ・聖霊なるお方によります。初めから夫(イエス)をわかる人はいません。そのお方がわかるのは、「この人(聖霊)と一緒に行くか」との問いに、「はい。まいります」と応え、従って歩み出す人です。

友よ。主イエスは、聖霊の導きに従って歩み出してこそ、より深く理解できるお方です。

24章61節

立ち上がり…、その人のあとについて行った。こうして、しもべはリベカを連れて出かけた。

リベカが嫁ぐ決意をしても、自分だけでイサクのもとに行くことはできません。同じく、信仰告白しても、すぐに主人イエスの何もかもわかり、寄り添って歩めるわけではありません。イエスの御人格をより深く理解し、正しい関係を持つには、良い「導き手」と「長い時間」が必要です。

種々の聖霊の賜物の中で、みことばを語る賜物は特に重要です。それらは預言・知恵・知識の賜物で、聖霊なる神は御自分の代理のようにその人を用います。「よく指導している長老たち、特にみことばと教えのために労苦している長老たちは2倍の報酬を受けるにふさわしい」(Ⅰテモ5章17節)とあります。これは2倍の謝儀?ではなく、みことばを語る賜物の重要さの強調です。キリストの御人格と触れるのは、みことばと聖霊によるからです。

しかし、友よ。賜物も必要ですが、それ以上に重要なのは、「主との良き交わり」です。主とよく交わるしもべが、主の「ことば(真理)」と「御心」を深く理解できます。そして、人々の弱さを理解し、よく祈り、愛を注ぎ、親切に教えることができる人になります。

友よ。「賜物」よりも、主と交わってつくられる、「人格」という「聖霊の実」がさらに大事です。

24章63~64節

彼がふと目を上げ、見ると…。リベカも目を上げ、イサクを見ると…。

結婚は、カトリックで秘蹟の一つに数えられているほど不思議なものです。見ず知らずの男女が、ある出会いから産みの親以上に必要な人になります。それは、人間が神の型(愛の姿)に、男と女に造られたからです。

結婚は、人生で最大の恵みですが、それと同じ量の不幸を作る原因にもなります。幸福は、「命」の量に比例し、命は「愛(私とあなたの関係)」の中にあります。

幸福・命・愛を求めて歩み出す2人ですが、残念ながら不完全な者(罪人)同士です。主は、「わたしたちは一つ」(ヨハネ17章11節・口語)と言いました。2人が1つであるのは、相手のために自分を犠牲にできるからです。しかし、自己中心の罪人には、それこそできない相談です。

でも、あきらめてはなりません。両者に1つになる能力がなくても、一人ひとりがキリストと1つになるとき、違う2人が「(キリストによって)彼らが1つ」(11節)となることができます。それは、イサクとリベカが、別々に生まれ育ったのに、「神に目を上げ」ることによってお互いを信じ合うことができました。それから、「相手に目を上げ」たように、です。

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