キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第25章

25章1節

アブラハムは、もうひとりの妻をめとった。その名はケトラといった。

「信仰の父アブラハムは、生涯一人の妻を愛し通して聖い人生を終えた…」と考えがちですが、再婚の記事を目にしてなにか肩透かしにあった気がします。それは、彼は「老人・聖人・信仰の父」なのにと思うからです。

老人、聖人、信仰の父でも「人」以上ではありません。彼の素晴らしさは、「家庭・指導者・仕事・人格…」にではなく、「神を信じて生きた」の一点にあります。信仰者でも、離婚・親子の断絶・病気・事故の加害者・迷惑をかける者…になることもあります。しかし、それでその人の人生を否定し、不信仰や失敗と断定してはなりません。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません」(ヘブル11章15節)。主は、罪人たちのために祈られました(ヨハネ17章17節)。罪の中で苦しみつつ、それでも神を求めて生きるのが人です。

友よ。世の人と違う、神のまなざしで人々と人生を見つめてください。それは、「神がその人をどのように見ているか」です。その神は…弱くても・傲慢でも・迷惑をかけても・偽っても・躓いても…なお信じ、生きようとしている者を、喜び・励まし・助け導かれる…お方です。

25章6節

アブラハムは…全財産をイサクに与えた。…そばめたちの子らには贈り物を与え…東方の国にやって、自分の子イサクから遠ざけた。

アブラハムの再婚の記事に戸惑った者も、ここに信仰の父の雄姿を見ます。「信仰の能力」というものがあるならば、その中の一つは、「分ける力(聖別)」ということです。

彼は、信仰(神の思い)と人情(人の思い)を区別し、イサクには「全財産」を、他の子たちには「贈り物」を与えました。「全財産」を与えるとは、「信仰の遺産・神の約束の相続」を指し、イサクを後継者にしたことです。

それは、神の約束と賜物を重んじることであって差別ではありません。イサクが継ぐことは、神の御計画でした(22章18節参照)。このことで人情を優先して行動すると、後に登場するエサウとヤコブの取り違えになります(エサウは長男で、父イサクの気に入りだから後継者に…人情優先の選択。しかし、神の選びはヤコブでした)。

「カイザルに返すもの」と「神に返すもの」は同じではありません(マタイ22章15節以下)。「御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取る」(ガラ6章8節)ようになります。

友よ。差別と区別を間違わないでください。差別とは人を優先することで、区別とは神を優先することです。

25章7節

以上は、アブラハムの一生の年で、百七十五年であった。

ある霊想の書に次のようなことが記されていました。

…人生の初めの頃、世界は自分に属していると考えた。その頃の私は「私が」であった。時が過ぎキリストと出会った。その頃の私は「私とキリストが」に変わった。さらに主を仰ぐほどに「キリストと私が」となった。さらに歳月が経ち、私の口から出ることばは「キリストだけが」となった…。

アブラハムがウルの地を出てから、神と共に歩んだ年月は120年前後と思われます。信仰の父という称号は、一朝一夕でも一つの出来事によってでもなく、長い年月と多くの試練を通して与えられました。彼とても、「私が」から、「私と神が」になり、「神と私が」を経て「神だけが」になったのです。

愛する友よ。「子は父のすることを見て行う」(ヨハネ5章19節)と主が言われたように、私たちも信仰の父アブラハムの生涯を繰り返し見つめましょう。聖書から、彼の経験を自分のために記された、「神の啓示と証」として受け止めましょう。そして、年齢を重ねるにつれて、「主だけが」となる人生となりますように。

25章11節

アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福された。

信仰深い父に育てられ、「信仰の遺産」を相続したイサクは神に祝福されました。しかし、親の信仰が自動的に子の信仰とはなりません。信仰は一人ひとりのものだからです。

それでは、どうして信仰が「相続財産」になるのでしょうか。それは、「模範」という財産になるからです。親の生き様(模範)が、子には財産となります。親が子に残す最大の財産は、信仰の遺産、「神に従う模範」です。

主イエスの御生涯は、弟子たちへの模範でした。後に、弟子たちが聖書を書き残せたのは、言葉以上にイエスの生き様(模範)によって、多くのことを学んでいたからです。

友よ。「あなたはどんな模範を家族や人々に示していますか」と問われると頭を抱えますか。「無い袖は振れない」ように、持っていないものを相続させることはできません。まずは、自分が持つことです。幸い、私たちもアブラハムの跡継ぎで、信仰の父の財産を相続することが許されています(エペソ1章18節)。それは、日々与えられるみことばに真剣に向き合い、祈り、受け、行動することです。すると、その財産は霊の銀行に豊かに振り込まれ、蓄えられます。

25章21節 ①

イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。

イサクと神の個人的関係が初めて記されました。彼は40歳で結婚し、もう60歳です。神がイサクの妻を不妊と断定するほど、子を産む可能性は皆無でした。「不妊20年」は、人をあきらめさせるのに十分な年月です。

イサクは、妻の胎が開かれるよう、主に祈りました。それは、20年、子がない現実にあわてて祈ったのではなく、20年間祈り続けたということです。彼が祈り続けたのは、神が「あなたの子孫(イサク自身)によって、地のすべての国々は祝福を受ける…」(創22章18節参照)との約束と、両親の模範…神の約束が25年後・100歳の老人に自分が生まれた事実…を知っていたからです。

「キリストも…その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました」(Ⅰペテ2章21節)。 私たちにはこの年月を耐えることが辛く、「主よ。いつまでですか」(詩13・1節)と祈り、涙を流します。しかし、「主はわたしの泣く声を聞く」(詩6・9節・新共同訳)お方です。

友よ。不可能なことを祈り続ける忍耐は、私たちの中にありませんが、涙して主に訴える人に、神は賜物として「忍耐」を与えてくださいます。

25章21節 ②

主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。

祈りの世界は本当に不思議です。祈りの世界(霊の世界)で、イザヤがキリストの来臨(7~9章)と受難を観(53章)、エレミヤがバビロン捕囚と70年後の解放を観(25章11節・29章10節)、ヨエルがペンテコステ(聖霊降臨)を観ました(2章28・29節)。

「神の霊は水の上を動いていた」(創1章2節)ように、神は何かを起こそうと水の上で待機しています。「水」とは、「いのちある存在」のことで、神の子たちは御霊が内住する、「いのちを持つ器」です(Ⅰコリ6章12~20節)。

神は、いのちある者に働きかけ(語り)、その人の祈り(応答)を待たれます。神と人が祈りでつながると、神の御霊が思いのままに働き出します。すると現実に祈ったことが動き出します。いのちの神は、いのちあるイサクの祈りを聞かれ、彼のいのちとともに働きだします。

「私の祈りは神に聞かれない」と下を向き、自分の内に宿る御霊を悲しませる友は、あなたですか。あなたが聖霊の宮(いのちある者)となっていることに、なぜ、誇りを持てないのですか。神はあなたをあきらめず、むしろ期待しています。

友よ。「神の霊は水(あなた)の上を動いています」。顔を上げてください。

25章23節 ①

「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」 

20年目に妊娠したリベカの胎内には、双子が宿っていました。主にその意味を問うと、双子は二つの国民となり、兄は弟に仕える、との答えでした。ここから二卵性双生児・エサウとヤコブの不思議な物語が始まります。

「神の選び」という聖書のなぞに出会います。なぜ兄が弟に仕えるのか、の疑問はいまだに解かれていません。ただわかることは、神の選びに対し、文句を言っても幸福になれないということです。

神の選びを受け入れて正しく用いる(従う)と、兄も弟も幸福になります。自分が男・女として生まれた理由を探り極めることはできませんが、自分の性・両親・生年月日を、神からのものとして受け入れ用いる(従う)と幸福になれるのと同じです。

だれも自分で親、性別、国籍、人種を選べません。全て賜物です。神が人間に選択権(国籍、男女…)を与えなかったのは、神を信じさせるためです。「これは、神の御前でだれも誇らせないためです」(Ⅰコリ1章29節)。神はへりくだる者を高く上げられます(ヤコ4章10節参照)。

友よ。神の御心を受け取ると自由になり、拒むと不自由になります。

25章23節 ②

兄が弟に仕える。

神が定めた決定(兄は弟に仕える)を、人は変えられないのでしょうか。神の決定に、財産も子たちも健康も失ったヨブは、うめきつつ叫びました。自分は若者ですから、と辞退したエレミヤは、それでも預言者になりました。聖書には、神がなされた「決定・選び・召し」に戸惑う人々の姿を随所に見ます。

「兄は弟に仕える」との神の定めは、差別でなく、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている…それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるため…」(エレ29章11節)の中に答えがあります。

聖書は、御心に反抗した王や民衆で満ちています。彼らは、神の御心に背き、自分の思いを遂げようとして不幸な結果を招いた人々です。

兄だからリーダー、弟に能力があるのでリーダーでもなく、神の賜物です。兄は、弟の霊的賜物を重んじることで幸福になります。しかし、賜物を重要視し過ぎてはなりません。

賜物は、キリストの体(教会)に仕えるためです。賜物は自分のため以上に、神と人を愛する(仕える)ために委ねられたものです。互いに仕え合う(愛し合う)ためです。

25章26節

弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで…ヤコブと名づけた。

出産の時、弟は兄のかかとをつかんで出てきました。2人は同じ胎内に10ヶ月間一緒にいた時も、決して仲よく過ごしていなかったようです。人は生まれながらにして罪人、を超えて生まれる前から罪人!と言うことに納得できませんか(詩51・7節)。

弟ヤコブは、胎児の時から兄に先を越されまいと必死です。その後の歩みを見ると、60歳過ぎまで祝福を掴もうと努力しますが、最後は全てのものを失いました(33章)。「ヤコブ(かかとを掴む者=他者を引きずり落す・押しのける)」の名前こそ、罪人の姿を表しています。

祝福を得るために、知恵と努力の限りを尽くして他者を引きずり落とす者は、むしろ自分の祝福を押しのける者になります。

友よ。神はあなたにも祝福を用意しておられます。しかし、それは強さによってでなく、弱いからこそ、掴める祝福です。祝福は自分で実現できるもではなく、「恵みとまことはイエス・キリストによって実現…」(ヨハネ1章17節)するものです。人に必要な祝福は、「イエスを主」として掴むことです。すると、主イエスがその人を掴んで離しません。

25章28節

イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。

父は兄のエサウを愛し、母は弟のヤコブを愛しました。父が兄を愛した理由は、猟で獲ってくる鹿の肉が好きだったから。母が弟を愛したのは、台所で自分の手伝いをしてくれるから…となるでしょうか。双子は両親の偏愛の中で育ちました。

「正しいてんびんとはかりとは、主のもの。袋の中の重り石もみな、主が造られた」(箴言16章11節)とある先人の言葉には重みがあります。イサク夫婦は、正しい神の天秤と基準で子たちを見て育てませんでした。

人を自分の価値観で判断して、愛する、愛さない、は不正の天秤の重り石です。この家庭は、弟が霊的リーダーの賜物を持ち、兄は体力に優れています。二人の賜物が合わせられるなら、大きな力となったはずですが、偽りの重り石によって正しいバランスが崩されました。

友よ。あなたが家族や人々に接するときの重り石(基準)は、自分や他者の「人」ですか、「世間」ですか、それとも「神」ですか。偽りの重り石(自分・他者・世間)で計ると、相手にバランスを失わせ、自分自身の正しいバランスも失います(マタイ7章1~5節参照)。

25章31節

するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。

野をかけ回り、飢えて帰ったエサウを待ち構えていたのは、狡猾なヤコブでした。ヤコブは、わずかスープ1杯で、かけがえのないものを手に入れようと取引を持ちかけます。それは物々交換ならぬ、「霊物交換」で「神のもの」と「世のもの」との交換でした。

「煮物を食べさせてくれ」と兄に言われた時、瞬時に「長子の特権を売りなさい」とヤコブの口から出たのはなぜでしょう。それは、常日頃、「何を考え、何を求めているか」によります。

ヤコブの願いは、神の祝福、とくに「長子の権利」を得ることでした。ここで、「長子の権利」=「信仰の後継ぎの権利」=「神の国の世継ぎ」=「永遠のいのち」とすることができます。二人の行動原理は、ヤコブは神のものを求め、エサウは神よりも地上のものを欲しがっていました。

ヤコブが用いた手段の善し悪しは別として、彼の激しい求め心は聖書的真理の一面を表します(マタイ7章7節参照)。

友よ。必要なものは神の祝福です。人生は綺麗事では済まされません。ヤコブが、あらゆる知恵を用いてでも神の祝福を求めた姿は、私たちへのメッセージです。

25章32~33節

「…今すぐ調子の権利を私に売りなさい」…。エサウは、「調子の権利など、今の私に何になろう。」…彼の調子の権利を…売った。

優れた才能と名声を持ち、将来を約束されながら、エサウのように祝福を失った人は数え切れません。サムソン(「太陽の子」の意)は、デリラ(「思わせぶり」の意)と神への献身(髪を切る)を交換しました。その結果、失明(神の光を失う)と足かせ(束縛・奴隷)を受け取りました(士師13~16章)。

聖書はエサウのことを、「また、不品行の者や、一杯の食物と引き換えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウ」(ヘブル12章16節)と記します。

長子の権利は、永遠の命につながっていました。永遠の命を失うには、サタンの親分が出てくる必要はなく、一杯のスープ・わずかの賄賂(ワイロ)・異性への関心・出来心の貪欲、で十分です。

主は、「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」(マタイ16章26節)と言われました。

友よ。気をつけてください。神は、あなたに「長子の権利など…何になろう」ではなく、「長子の権利こそ…私の必要の全てである」と知って、熱心に求め続けることを願っています。

25章33~34節

こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑した…。

賢い人とは「価値が分かる人」です。エサウは、大切な長子の権利を軽んじました。それは、「いのち」を粗末にしたことと同じです。それでは、彼はこの行為によって、神の祝福を永遠に失うのでしょうか?

聖書の真理は、だれでも悔い改めるなら赦される、です。主自ら、「七度を七十倍するまで赦しなさい」(マタイ18章22節)と言われました。

しかし、エサウに対して聖書は、「彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした」(ヘブル12章17節)と無情です。神は、なぜエサウを許されなかったのでしょう。

考えられる理由は一つ、彼は「後悔した」のであって、「悔い改めた」のではなかったからです。彼が「悔い、悲しみ、自分の愚かさを告げ」て涙を流した相手は、父と弟ヤコブに向かってでした。悔い改めは、神に対してなされ、神に方向を変えること、すなわち神に対しての涙と新しい決意でなければなりません。

友よ。あなたの罪の告白は、人に向いていませんか。神に顔と心を向けて告白してください。

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