キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第26章

26章2~3節

主はイサクに現れて仰せられた。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。あなたはこの地に、滞在しなさい。」

人が一番神経質になるのは食糧不足です。イサクは、激しい飢饉から逃げるためエジプトへ下ります。その途中、ペリシテの地に来た時、「エジプトへは下るな。わたしの示す地に住め」との御声を聞きました。イサクの思いと神の思いは違っていました。

人は苦難に直面すると、「神はエジプトへ行き、生き延びるように導いている…」と、自分で先に考え、後で神に同意させる信仰シナリオを書き上げます。しかし、神は御心に沿わない計画に加担できないので、自分のシナリオを自分で行う羽目になり、さらに苦境を増大させます。

大きな苦難から一刻も早く逃げようとするとき、より早く反応するのは、霊(神の御心)でなく肉(自分の計画)です。それは、自分が自分の救い主になり、自分で自分を救う行為です。

友よ。神が語った「エジプトに下るな」とは、「あなたは、自分で自分を救おうとするな」の意味です。そして、「私の示す地に…滞在せよ」は、「子たちよ、わたしはあなたを必ず守る。苦しくてもわたしを信じ、わたしの救いの時を待て」とのメッセージです。

26章7節

すると彼は、「あれは私の妻です。」と言うのを恐れて、「あれは私の妹です。」と答えた。

罪人の子はやはり罪人、あるいは子は親に似るのでしょうか。聖書は何度同じことを繰り返すのでしょう。「私の妹」事件は、父親アブラハムから通算三度目ではありませんか。夫婦も赤の他人とは悲しい言葉ですが、現実でもあります。罪人は、いざとなれば自分を守るために妻も子も利用し、利用できなければ捨てます。

イサクの自己中心は、飢饉という「環境」と、アビメレクという「人」に目を奪われ、神から目を離したからでした。信仰の目的は、神に仕えることであって、家族や人々を愛することは結果です。

主イエスは、父なる神に仕えた(愛する)ことが、結果として人々を愛することになりました。夫(イサク)が神を愛するとき、どんな犠牲を払っても妻(リベカ)を愛し通すことができるのも結果です。これが愛の秩序からくる、いのちの流れです。

飢饉や恐れなどの山があっても、「私は山に向かって目を上げる。…私の助けは、天地を造られた主から来る。…主はあなたを守る方」(詩121参照)を信じてください。

友よ。山(障害・困難・問題など)の更に上におられ、山を超えて必ず助けに来られる主に、目を注ぎ続けてください。恐れは小さくされます。

26章10節

アビメレクは言った。「何ということをしてくれたのだ。…あなたは我々に罪を負わせるところだった。」

イサクの「妹事件」は、彼だけの罪にとどまらず、領主アビメレクの罪に発展するところでした。人は独りでなく、他者との関係で生きていますから、個人の罪がその人を超えて他者を巻き込むものです。

私たちの罪も自分だけに終わらず、「ひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り…全人類に広がった…」(ロマ5章12節)と同じく、多くの人の罪へと発展することがあります。

「一人によって全人類に罪が」と考えるとやり切れませんが、しかしその逆も然りです。それは、「一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられる」(同18節)からです。主イエスの父なる神への従順が、アダムから引き継いだ罪を消し去ってくださいました。

友よ。私たちは神の子は、「天の御国の弟子となった学者」(マタイ13章52節)であって「自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人」(同節)です。古いもの(アダムのもの・肉)を取り出さず、新しいもの(聖霊・神のもの)を取り出して用い、御霊の実を結び、神に栄光を帰しましょう。

26章15節

ペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に…しもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしてこれを塞いだ。

ペリシテ人は、自分の領地の寄留者たちが富むのを妬み、井戸を塞ぎました。ここに、時を超え古今東西変わらない人間同士の争いの一端が浮き彫りにされています。

一般的幸福の基準は、物理的、身体的、社会的な方面での他者との比較です。自分(アビメレク)の収穫が昨年の十倍でも、他者(イサク)が百倍(12節)ならば自分を不幸と考えます。そして、自分を幸福にするために相手の井戸を塞ぎます。

本当の幸福の基準は、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」(マタイ19章19節)の中の、「自分を自分でどれほど愛せるか」です。しかし、自分に価値がなければ、自分を愛せません。自分の価値は、他者から愛される量に比例して持てるものです。最終的には、「神の愛」を受ける量です。

友よ。人との比較で幸福を求めるならば、相手の井戸(幸福・価値)を埋めるか、より多く自分の井戸を掘る以外ありません。嫉妬心が出たら、相手を妬むのではなく、自分がもっと神の愛を受け取ることを考えてください。神は惜しみません(ロマ8章32参照)。

26章18節

イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った。

イサクは、典型的なクリスチャン二世です。よく「二世はニセ者(偽物)」と揶揄(やゆ)されますが、クリスチャン二世の素晴らしさがこの井戸事件でよく表されています。

ペリシテ人たちは、次々と井戸を塞いでイサクに嫌がらせをしますが、それでも彼は井戸を掘り続けます。このことが繰り返されると、口喧嘩から暴力へ、さらに殺し合いへと発展しますがイサクは決して争いません。

イサクが争わないのは、父の時代に掘った井戸の場所を覚えていたからです。そこを掘れば、必ず水が出ると知っていたので寛容になれました。水はいのちそのものです。主は、「永遠のいのちの水」について、井戸のかたわらで話されました(ヨハネ4章参照)。

「井戸」とは「永遠のいのちの場」「神との交わり」を象徴的に表しています。イサクは、「どのように神と交わるか」を、父の生き様から学んでいました。これが二世に与えられた最大の恵みです。

愛するクリスチャン二世諸君!あなた方には井戸の場所を記した地図が渡されています。そして、一世諸君!あなたも信仰の父アブラハムの二世です。

26章22節

イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかった…。

争いのない井戸は、平和と繁栄の印です。それまでにイサクが掘った井戸は、ことごとく争いの種になりましたが、やっと争いのない井戸を持つことができました。そのような井戸は世界のどこにあるのでしょうか。

それは、だれでも持つことができて、全ての人の渇きを止める井戸です。「私が与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ4章14節)と言われたイエス御自身こそ「永遠の井戸」で、そこから湧く「水」が聖霊です。

神の命の水が止まったのは、「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切り」(イザ59章2節)となっているからです。しかし、神はイエスを新しい井戸のように与えてくださいました。

友よ。私たちはイエスのわき腹を、槍(罪)で突き刺したのに、神はそこから血(赦し)と水(いのち)を噴き出させられました。十字架こそ、罪によって塞がれた井戸を掘る作業でした。十字架から復活のいのちが湧き出て、私たちを生かしてくださいました(ヨハネ19章34節)。

26章24~25節

主はその夜、彼に現れて仰せられた。…わたしがあなたと共にいる。イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。

イサクは、ベエル・シェバで神の声を聞いて確信を得ました。そして、祭壇を築き祈りました。私たちが確信を持って礼拝し、祈ることができるのはどんな時でしょうか。

それは、自分の人生の「過去・現在・未来」が、神の御手の中にあることを確信できるときです。イサクは、「私はあなたの父アブラハムの神である」…過去、「恐れてはならない。私があなたと共にいる」…現在、「私はあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう」…未来(以上24節)、との神の約束の言葉に確信を得ました。

「過去」の傷や失敗…、「現在」の弱さと自信のなさ…、「将来」への不安…、それら過去・現在・未来、すべてに御手を置いてくださるお方は「霊なる神」(ヨハネ4章24節)です。

霊は、過去・現在・未来を貫きます。「過去」の咎を赦し、「現在」の自分と共に歩み、「未来」を導いてくださるお方です。また、白髪になっても背負ってくださるお方です(イザ46章3・4節)。

友よ。過去から未来まで知り尽くすお方が、あなたのために「今日」を開かれましたから、確信を持って礼拝して(生きて)ください。

26章28節

「私たちは、主があなたとともにおられることをはっきり見たのです。それで…あなたと契約を結びたいのです。」

水の権利で争ったアビメレクは、将軍たちと共にイサクのもとに来て平和条約を結ぶ提案をします。平和条約は、自分と対等か、自分よりも強い者と結ぶものです。彼らは、それほどイサクを力ある者と見たようです。

主は、「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5章16節)と言われました。

アビメレクは、イサク自身の力よりも、彼に働かれる神の力を見ました。それは、イサクが争わずに退き、退いては泉を掘り当てる姿に、彼の背後にいる神を恐れたからです。

人々は、神の子たちが痛みを恵みに、弱さを力に、失敗を祝福に、貧しさを心の豊かさに、不利な条件を恵みに変える姿に驚き、それが神から出たことだと知ります。

世は豊かさと力を誇りますが、私たちは貧しさと弱さを誇ります(Ⅱコリ12章5~9節参照)。悲しみ、弱さ、痛みにこそ、神の強さが表されます。「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5章5節)。

26章31節

彼らは互いに契約を結んだ。…彼らは平和のうちに彼のところから去って行った。

主は、「平和をつくる者は幸いです。その人は神を見る」(マタイ5章9節)と語られました。この「平和」と、心の「平安」とは少し違います。

「平和」は「両者の正しい関係」という政治用語から派生し、両国が約束を守ることで、国民は「平安」に暮らせます。従って、「平和」が生み出す恵みが「平安」です。

イサクとアビメレクは、契約を結び平和を得ました。しかし、人間同士が結んだ平和条約で、破棄されず残っているものはありません。破棄される理由は、「自分から見た正しい関係」を要求し合うからです。彼らが得た平和は、イサクが神と平和を作っていたことから生まれた平和でした。

あなたの不安は、家族関係や経済問題、社会の混乱、健康などが原因ですか?否、根本原因は、神との平和がないからです。

神との平和(正しい関係)が平安(生きる上の動じない確信)を作ります。そして、神からの平安が隣人との間に平和(正しい関係)を作ります。さらに、人々との平和が平安(愛・喜び・寛容・善意・忠実…)を作ります。

主との平和を祈り、主から平安をいただきましょう。

26章32節

ちょうどその日、イサクのしもべたちが帰って来て、…「私どもは水を見つけました。」

教会は、神の家族であり、主のからだとしての共同体です。生を受けた時から御国に帰る日まで、それを超え、天国においても同じいのちを共有する神の家族です。

新しい井戸を掘っていたイサクのしもべたちが帰り、「水を見つけた」と喜びの報告をしました。同様に、ある日教会に通う求道中の人や家族や友人知人の一人が、喜び輝いて、「いのちの水(主イエス)を見つけました(信じます)」と報告(告白)することは、神の家族(教会)全体の喜びです。

いのちの水は、どこかの場所にあるものでなく、「あなた方のただ中に」(ルカ17章21節)あります。そして「その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」(ヨハネ4章14節)。

井戸は一人ひとりが発見するものですが、それは個人の所有を超え、全体が共有する恵みと喜びです。さらに、一つの教会が誕生するなら、日本中の教会の喜びであり、全世界共有の恵みです。

教会の頭はイエス・キリスト御一人ですから、世界に教会は一つしかありません。主イエスも、「一緒に喜んでください」(ルカ15章6・9節)と言っておられます。

26章34節

エサウは四十歳になって、ヘテ人…エフディテとヘテ人…バセマテとを妻にめとった。

かつてエサウは、神の国の世継ぎとしての長子の権利を軽んじました。彼は、その場の空腹を満たす一杯のスープ(世の命)と、神の国(永遠のいのち)を交換する人生最大の判断ミスをしました。さらに、エサウが40歳の時、異教の娘を、しかも二人も妻にしました。

神を信じない人のいのちは、世のものを求め、信じる者のいのちは、神のものを求めます。人が持ついのちの質は結婚観にもよく表れます。「キリストとベリアル(無益なもの・よこしまな者の意)とに、何の調和があるでしょう」(Ⅱコリ6章15節)とあるように、こと、「いのち」に関しての融合はありえません。 しかし、この世のもの全てが悪というわけではありません。事実、全ては神が造られました。ただ、神に支配(聖別)されないとベリアルになります。

友よ。エサウとヤコブの生涯を比較してください。この後、「どのように行動したか」よりも、「どんな命を求めたか」で生涯が分かれたことを見てください。ヤコブはずるい人でしたが、神の祝福を求め、神のいのちを得ました。彼が得たいのちが、彼をイスラエル(神の王子)にしました。

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