キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第27章

27章1節

イサクは年をとり、視力が衰えてよく見えなくなったとき…、

イサクは、偉大な父から信仰の遺産を受け継ぎ、井戸を掘り、いのちの水を汲むこともできました。しかし、息子たちへの信仰継承には失敗しました。さらに、父から善きものを多く受けたのに、彼は獲物の肉が好きで兄エサウを愛し、妻は弟ヤコブを偏愛し、躾(しつけ)の点でも落第点でした(25章28節)。間もなく、夫婦はその実を刈り取ることになります。

聖書は、それら一連のことを、「視力が衰え見えなくなった」と表現します。視力の衰えは、肉眼以上に、「霊の視力」が衰え、「神の世界」が見えなくなっていたのです。

神に目を注ぎ続けた者の霊的視力が衰えることはありません。霊の目は、晩年になるほど視力を増すものです。彼の姿は、信仰の遺産(神の恵み)に頼り過ぎ、自分の信仰(主との交わり)を磨かなかった人の姿でもあります。

友よ。神とその世界を観るあなたの霊の目の視力はどうですか。暗闇の中に生息する魚(深海魚など)の視力は衰えてきますが、光の中でみことばを読み、神の御業を見る目は健康です。さらに、いつも目薬(聖霊)を注(さ)し続ける目も健康です(黙3章18節参照)。みことばを読み続ける目も健康になります。

27章3~4節

私のために獲物をしとめて来てくれないか。…私に食べさせておくれ。私が死ぬ前に、私自身が、おまえを祝福できるために。」 

最期の近いことを感じたイサクは、家長の祝福を兄エサウに授けようと考えています。しかし、この家族の家長には、兄という人間的条件よりも、霊的リーダーの賜物が求められていることを忘れています。

かつて、彼の父アブラハムは、イサクを霊的後継者にするため、サラ以外から生まれた子たちを遠ざけたほどでした。しかし、イサクがエサウを呼び出し、このことを告げるのに、「神」という言葉は一つもなく、「私(の・に・が)」だけです。さらに、イサクがエサウを選んだ動機が好きな肉料理にあったように、此の期(このご)に及んでも自分の肉の要求に執着していました(25節参照)。

若い時、礼拝や集会へと、だれの目にも信仰深く見えた人が、晩年に霊的意欲を失うのを見ます。人生の試練は、若い頃よりも老年期に激しくなります。若い時は、体力で試練を乗り越えることができますが晩年に頼れるのは「主だけ」です。

友よ。「恵み」に繋がるイサク信仰ではなく、「主、御自身」に繋がるアブラハム信仰を今から持ち続けてください。

27章5節

リベカは、イサクがその子エサウに話しているのを聞いていた。

弟ヤコブを愛する母リベカは、夫が兄エサウに祝福を与えると知り、なんとかその祝福を弟に振り替えようとします。彼女の執念は、夫と兄息子を欺いた呪いは自分が引き受ける、と言うほど強いものでした(13節参照)。

やがてその策略は成功しますが、彼女は夫を裏切り、長男に憎まれ、弟息子と別れて暮らす羽目になります。「自分の愛する者に盛る一滴の毒は、敵が流す一トンの毒に勝る」とのことわざがあります。家族間の一滴の不義は、家族の外にある何トンの不義に勝って傷を大きく深く残します。

その毒とは、間違った愛(義を欠いた愛)のことで、人を救うどころか、悪と争いを大きくします。一方、主の十字架の愛は、人の罪の代価を払う、「義」を通した愛なので人々を救いました。

友よ。私たちは、愛する者の間において、神の義をもっと貫く必要があります。愛する者へ向けている愛が、自分への愛(自己愛)なのか、神の義というフィルターを通過した愛なのかを確かめてください。フィルターを通過した愛とは、自分自身が十字架につき、そこから出てくる言葉と行いです。

27章8節

「それで今、わが子よ。私があなたに命じることを、よく聞きなさい。」

母の計画が悪であると知りつつも、断れない弱いヤコブです。日本の過去の戦争で、ほとんどの日本人は天皇を神とした国策に従い、戦争を罪と言えない弱い人間集団になりました。

戦後、日本が国家として悔い改めができないのは、「戦争に反対しなかった自分は戦争に加担した者だ」との一人ひとりの悔い改めがないからです。それは、日本に輝く真理の光(キリスト)が小さ過ぎたからです。

弱さとは、「自分の利益」を「真理」より優先することです。自分の利益を優先して生きるのが、「罪人・弱い人」です。ヤコブは母の提案を悪と知りながら、自分の利益と合致していたため断れませんでした。人の弱さは自己中心にあり、「罪人らのことに心を燃やす」(箴言23章17節・共同訳)原因です。

友よ。私たちが聞き、行動する基準はキリストの「ことば」です。「…聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ロマ10章17節)。そして、一人ひとりが「光」となり、それが集まって「山の上にある町」(マタイ5章14節)として輝きます。この真理の光が強く輝かなければ、日本に悔い改めは起こりません。

27章11節

「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私のはだは、なめらかです。」

ヤコブが兄を出し抜くために、自分の肌をやぎの毛皮で覆って父を騙す姿は、人間の堕落物語そのものです。罪とは「包み隠す」ことですが、まさに父(神)から自分を隠します。

偶像やイデオロギーや自然界を神とすることは、「園の木の間」に身を隠すことです(創3章8節)。そして、それらのものをもって、神を否定する理由にします。毛皮を腕と首の周りに巻いている姿こそ、「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました」(ロマ1章23節)という言葉です。

知恵ある人間が、自分以下のものを神とすることは、なんという愚か者でしょうか。でも、自分以下だからこそ、自分の思い通りにあやつる神(偶像)にすることができて便利?です。

友よ。「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。だから私は人(主イエス)をあなたの代わりにする」(イザ43章4節)とのみことばを受け取ってください。自分を毛深く覆うことを止め、「なめらかな肌(自分のまま)」で、主が備えてくださる「義の衣(十字架)」に包まれてください。

27章13節

母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」

母が子を想う思いの強さを感じますが、母リベカは弟息子ヤコブを本当に愛しているのではありません。彼女の思いは、兄嫁たちと一緒に暮らしたくないことと(46節)、自分を手伝うヤコブ可愛さの「自己愛」です。

教会の中で、「あなたののろいを私が受けます」と言わないまでも、同様のことが起こります。それは、「いいよ、人は弱いんだから」という「正しくない赦し」と、「私がわかってあげる」というカウンセリングです。それは、相手を後悔まで導いても、罪の悔い改めに導かず、主イエスでなく、人(自分)に結び付けるからです。本当の解決は、主イエスに結びつけ、悔い改めさせることです。

そうなるのは、自分を人から善く見てもらいたい「自分の誇り」と、「自分の利益(金銭も含めて)」が絡む「自己愛」です。これがキリスト教界隈(かいわい)に蔓延すると、みことばは罪を切り取る剣から、罪を優しくなでる刷毛に代わります。罪が示され、赦され、神のいのちに生まれ変わるところが教会です。

友よ。神の愛と人間の同情を見分けてください。

27章19節

ヤコブは父に、「私は長男のエサウです。…御自身で私を祝福してくださるために。」 

リベカは、ヤコブに兄の晴れ着を着せ、手と首に山羊の毛を巻き、肉料理を持たせて夫の枕元へ押し出します。ヤコブは、「お父さん長男のエサウです。神の助けでこんなに早く獲物が獲れました。」と目の見えない老父に偽って近づきます。「本当にエサウ?」と不審がる父にも、「私です」と答えました。

ヤコブは、父の家督権を祝福と考えています。神の御計画は、エサウは財産などの家督権を受け継ぎ、ヤコブは霊的な家督権(リーダー)を持つことでした。

霊的賜物は、神を深く理解する大事なものです。兄エサウは、父の持つ財産を取り仕切り、弟ヤコブは霊的リーダーとして家族を導く働きでした。神が自分に与えていない賜物を求めることに固執することは、貪欲の罪になります。貪欲とは、神が自分に許す以外のものを求めることです。

神が人に一番与えたい賜物は、「私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ロマ6章23節)。

友よ。「主イエス」という賜物を第一に求めるならば、「それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6章33節参照)。いつまでも残るものは、神から来る「信仰と希望と愛」(Ⅰコリ13章)です。

27章33節

エサウは激しく身震いして言った。…「…私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」

イサクは、兄と弟を間違って祝福しました。全てを知る神は、なぜここに介入し間違いを訂正しないのでしょうか。そうしてこそ、全知全能で正義の神なのでは、と思いませんか。

しかし、神が人を善い者にする方法は、犯す罪々を訂正するのでなく、御自分の「新しい霊(正しい命)」を与えることです(エゼ37章14節参照)。

豚をきれいに洗っても泥に転がり、狼を教育しても他の動物を食べます。しかし、狼の命を羊の命に代えるなら、牙はあっても他の動物を殺さなくなります。

神が人に取る方法も同じです。罪人を教育しても、「罪のいのち」を持つ限り本質的に変われませんが、罪のいのちが神の御霊と入れ替えられるとき、人は変ることができます。「上(神)からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順…」(ヤコブ3章17節)だからです。

友よ。世の不正や隣人や兄弟姉妹の姿を正しく評価してください。しかし、あなたの心を怒りや、憤りや、裁きに委ねず、神の方法…その人の魂のために祈る…に徹してください。すると主は、祈る人と、祈られる人の双方に「新しい霊」を注いで祝福してくださいます。

27章34節

「エサウは父のことばを聞くと、大声で泣き叫び、ひどく痛み悲しんで父に言った。「私を、お父さん、私も祝福してください。」

エサウは、祝福を奪われて悲しみ叫んでいます。父は弟に与えた祝福を元に戻せないと言います。非情な現実がここにあります。

主イエスは、「わたしの時はまだきていません。しかし、あなたがたの時はいつでもきているのです」(ヨハネ7章6節)と言われました。これは、主はいつも「父の御心(神の時)」に従って歩み、人は「自分の思い(自分の時)」に生きる姿を言い表わしています。

主は父の時(御心)に行動し、人は自分の時(思い)で行動しています。エサウのように、人生の途上で自分の時を主張したために神の祝福を失い、経済的困窮、離婚、子育ての失敗、病、事故などを負うことがあります。はたして、それは人生が失敗したのでしょうか。

いいえ、神の時を失う愚かな経験を一度もなく過ごす人はいません。それが人生の失敗ではありません。人生の失敗は、そこで失望して神から離れることです。エサウの挫折は「そこ」でした。

友よ。人生の失敗の場にも神はおられます。そこから神を見上げる人に、神は新たな祝福を用意してくださいます。失敗しても、神に失望してはなりません。

27章36節

「あなたは私のために祝福を残してはおかれなかったのですか。」

エサウは、「父よ。弟に与えた以外の祝福でもいいから、なにか私にください」と、今一度父にすがりました。父は、「そこまで言うなら財産の一部でもお前に分けてあげよう」とも言わず、完全に拒否しました。

父イサクの行動は冷たく見えますが、それが聖書的です。それは、「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下る」(ヤコブ1章17節)からです。

祝福は天の父から与えられるもので、人に求めても得られません。エサウは、神ではなく、人(父イサク)に天からの祝福を求める筋違いなことをしています。

友よ。神に求める祝福を、人に求めるために策略し、説得し、脅し、すかし、不機嫌に振る舞い、困ることを突きつけ…などをしていませんか。それには、教会も、牧師も、兄弟姉妹も、家族も応えられません。「求めよ、与えられん」こそ単純で力強い神の約束ですが、しかしそれはあくまでも「神に求めよ」です。

あなたに祝福がないのは、神ではなく、人に求めていたからではありませんか。「私はだれに求めたのか?」を、今一度、自問してください。

27章38節 ①

「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん、私を、私をも祝福してください。」

エサウの心が、「祝福は一つしかないのですか」の言葉に表れます。神の祝福を得たヤコブと、逃したエサウの違いがここです。その鍵は、祝福に対する考え方の違いです。

エサウは、諸々の宗教や人間的な善や社会など、祝福は「多く」あると考えます。ヤコブは、祝福は神から来る「一つだけ」と考えています。ゆえに、エサウ的な人は神にも、世にも、祝福を求め、ヤコブ的な人は神にのみ、祝福を求めます。ヤコブのように人を欺いて求めてもいいわけではありませんが、常識や道徳的な人が祝福を得るのでなく、「正しいもの(神の義・救い)」を求める人が受け取ります(ロマ3章23~24節参照)。

「天の御国は、畑に隠された宝…。良い真珠…」にたとえられました。見つけた人は、「持ち物を全部売り払って」それを買いました(マタイ13章44~46節参照)。この人もヤコブのように、「天国という宝も地上の財産も」とは考えず、祝福は神から来る、「一つだけ」と考えたので、持ち物を全部売り払いました。

友よ。人や世にではなく、神に、神だけに、「私を、私を祝福してください」と求めましょう。

27章38節 ②

「お父さん。祝福は一つしかないのですか。」

人にとって「祝福は一つ」だけでしょうか。祝福は、天の父からだけ、という意味では「はい」です。しかし、天の父には一人に祝福を与えたら他の人には何もないのか、という意味では「いいえ」です。

「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」(エペソ1章3節)。

世の祝福は、10個のものを、弟に10個与えたら兄には何もありませんが、神には5つのパンと2匹の魚の法則があります。

神は、ヤコブを成功者にし、エサウを失格者にしたのではありません「神にはえこひいきなどはないからです」(ロマ2章11節)。神が人に与えたい祝福は、「神の下さる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです」(ロマ6章23節)。

神のエサウへの願いは、祝福を逃した現実によって、自分の内側に「神がいない」という事実に気づくことでした。形だけの長子の権利や父の祝福を得ても、「神がいない」人生は呪いの人生になります。反対に、何も得られず、残せなくても、「御子を持つ者は命を持つ」(Ⅰヨハネ5章11節)最高の祝福を得るのです。

友よ。「全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マタイ16章26節)。

27章41節

エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。…「父の喪の日も近づいて…、弟ヤコブを殺してやろう。」

エサウは、父が死んだら弟ヤコブを殺そうと考えるようになりました。彼の心は、正しい方向に向かず、間違いの道・呪いの道に歩み出しました。それは、「神」にではなく、「人(ヤコブ)」に向かったのです。

祝福を求めたのに、呪いを招くことがあります。祝福と呪いの分水嶺は、求める相手が「神」か「人」かです。人に期待して裏切られたら、「人(ヤコブ)を恨む」ほかありません。

聖書は、「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、欲しがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。…あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです」(ヤコ4章1~2節)とは、今のエサウの姿を表わしています。

「兄は弟に仕える」は、人間的条件を超えた神から出たことでした。「お前が奮いたつならば(神が定めた、「弟に仕える」という定めに背くならば)」(40節)、「彼のくびき(神が弟に与えた賜物)を自分の首から解き捨てる(神の祝福を捨てる)」(同節)ことになります。神は、エサウを憎んでなどいません。エサウはエサウとして生きるように、配慮しておられます。

27章43節

「だからわが子よ。今、私の言うことを聞いて、すぐ立って、ハランへ、私の兄ラバンのところへ逃げなさい。」

エサウがヤコブを殺す計画を知った母リベカは、ヤコブを自分の兄ラバンの所へ逃がそうとします。そして、かつて父を欺いた時と同じように(13節)、今また、「私の言うことを聞きなさい」と言いました。

「私の言うことを聞きなさい」ほど危険な言葉はありません。家庭でも教会でも、「私の言うこと…」が出たら危険地帯です。家族や教会の兄弟姉妹に、常に語らねばならない言葉は、「主のことばを聞きなさい」です。

言葉は、人格を離れては力を失い、正しい解釈もできなくなります。言葉と人格を離すことはできません。だから、言葉が人格と一つになると「言(ことば)」になり「いのち」になります。したがって、「私の言うことを聞かせる」ことは、自分の命と一体化させ、「主の言葉を聞かせる」ことは、主と一体化させます。

人の言葉は、初めは口に甘く、後に人生を苦くします。主の言葉は、初めは受け入れられないほど口に苦く、後に甘くなります。人の言葉は「逃げなさい」となり、主の言葉は「悔い改めなさい(方向転換)」です。あなたはだれの言葉を聞こうとしていますか。

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