キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第28章

28章1節 ①

「立って、パダン・アラムの、おまえの母の父ベトエルの家に行き、そこで母の兄ラバンの娘たちの中から妻をめとりなさい。」

ヤコブは、兄から長子の権利を奪い、父をだまして家督権を得て満足できたはずです。ところが現実は、苦労して策略で得たものも、最初から持っていたもの(家族や財産)さえ、全て失うことになります。彼は、何一つ持たず逃げなければなりません。

人が自分で作り出す「救い」は、それを得るまでの救いであって、得た時から救いでなくなります。家や自動車などの物から、伴侶や子どもでもそうです。むしろ、得た時から重荷となることすらあります。

この世から受け取るもので、最後まで救いとなるものは何もありません。なぜなら、この世で得る全てのものは、人の救いそのものではなく、本当の救いを得るための「手段」だからです。手段は、目的を達成したら不必要になります。

仕事や家や食物などは人の肉体を守るための手段、肉体は心を入れる器、心は神の霊を受けて保つ器です。「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」(伝道12章7節)。

友よ。諸々の物や食べ物、家族、仕事、人々を感謝しましょう。しかし、救いは「父・御子イエス・聖霊」の神だけです。

28章9節

エサウはイシュマエルのところに行き、今ある妻たちのほかに、アブラハムの子イシュマエルの娘で…マハラテを妻としてめとった。

弟に出し抜かれたエサウは、不運の原因が異教の娘を嫁にしたからだと考えました。父母が弟を親族の所に行かせたのも、同じ信仰を持つ嫁を得るためと知りました(1~8節)。そこで、自分も同じ信仰を持つ妻を持って受け入れられようと、新たに妻を得ました。

彼は、悪い女を妻にしたから祝福されない、というように、自分の「行為」に原因を探しますが、その行為を作り出す心が本当の原因だとは考えません。このように、物事の解決を外側から計ろうとする人は、いつまでもエサウのような愚かなことを繰り返します。物事は、内側(思い・自分)から外側(行い・人々)に向けて解決するものです。

エサウの問題は、本気で「神を求めない心」にあります。同じく、クリスチャンの問題も、知識や理屈や弁解や批判に心を満たし、本気で神御自身を求めないことです。たとへヤコブのように求める方法が多少間違っていても、神を求める人に、神は出会ってくださいます。なぜなら、人の救いは、神がその人に干渉できることから始まります。

神を求めることこそ、神の干渉を自分に許すことです。

28章11節 ①

ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。

ヤコブが、伯父の所に向かう途中で日が沈みました。それは、夜になったというよりも、人生のあるところでの行きづまりの「夜」を象徴しています。

ヤコブの行きづまりは、自分「の・で・が」を通した結果でした。だれでも自分を太陽にして進むと、必ず太陽が沈むように、「自己中心の日没(行き詰まり)」を迎えます、しかし、自分の思いを通し、日没を経験せずに人生を終えることは、日の出の来ない日没(魂の死)を迎え、より危険です。

パウロの歩みは、鞭打ち、入獄、同族からの迫害、何度も死に直面するなど、行き詰まりの連続でしたが、「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません」(Ⅱコリ4章8節)と言いました。なぜなら、行き詰まりが彼をさらに神に押し出したからです。

友よ。行き詰まりの夜は、自分の太陽(自我)を捨てるチャンスです。自分の太陽が沈んだ夜は、周りの背景(人々・出来事)を消し、自分の内側だけを見せます。夜は、朝を待ち望ませる飢え乾きです。試練という暗い夜の間にも、太陽は確実に朝に向かって進んできています。

28章11節 ②

「彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。

硬い石を枕に眠るヤコブの姿は、だれとも交わりのない、深い孤独です。数日前までの彼は、周りの人々に囲まれ、その中をだれよりもずる賢く上手に泳いでいました。

一方、神は彼がこの孤独の海に沈んでくるのを待っていました。人々を自分の思いどおり操る者に、神の声は届きません。神の声は、人々の声が途絶える孤独の中で聞こえます。

孤独は、神の声を聞き、神に向かわせるために備えさせる恵みです。そして、ヤコブの頭の下の硬い孤独の石枕は、神と契約を結ぶための石となりました(18節参照)。人生の孤独は、神と新しく真実な交わりを回復する契約の石となります。

孤独を恐れている友よ。あなたは人々の中に身を置いて自分を保っていませんか。そこには本当の自分はありません。正しい自分の存在(アイデンティティー)は、契約の石(イエス)を通した、神との関係にあります。その契約の調印式は、周りにだれもいないところ(孤独)で、神とあなたとでサインするものです。それは、人々からの孤独から始まりますが、神との孤独から解放されるためです。

28章12節

見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。

疲れ切って石を枕に眠ったヤコブは、不思議な夢を見ました。夢は、人が眠りにつき無力になったとき、自分やこの世を超えた出来事を見せる啓示の世界です。

梯子は、天と地にかけられ、神と人をつなぐものです。主イエスこそ、天の父なる神と地上の人をつなぐ「梯子」です。「神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです」(Ⅰテモテ2章5節)。

行き詰まりの夜に入り、さらに無力になったヤコブに、神は救いの梯子を降ろし、天使を送りました。ヤコブが悔い改めて梯子を登って神の御元へ行き、救いを懇願すべきなのに、全く逆でした。「神は来てあなたがたを救われる」(イザ35章4節)との約束どおり、神である主イエスは、処女マリアの体を用いて人となり、十字架で死んで罪を赦し、復活して命を与え、再び天に帰られました。

逃げている友よ。無力な友よ。孤独の中の友よ。あなたが神の御元に登れなくても、神が御自分で降りて来られて、あなたの側に立っています。クリスマスはあなたのためでした。

28章13節

そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。

だれでも、「主がそばに来て語りかけてくださったら」と思います。それには、ヤコブのように泥沼のような、「罪の増す」人生を経験しなければ、神の声を聞くことも、「恵みも増す」(ロマ6章1節参照)という経験もできなのではないかとも考えます。

それならば、自己中心の固まりの人が御声を聞いたことになりますが、そうとは言えません。ヤコブが御声を聞いたのは、罪を増し、家族から離され、追い詰められ、神を見上げる他ないところまで追い詰められ、やっと心を神に向けたからです。御声を聞くのは、どんなことをしたとか、激しい人生体験よりも、静かなところで心を静め、神を信頼して待つときです。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩46・10節・口語)。

神はだれにでも、いつでも御声をかけておられます。それは、聖書全体から与えられる神の約束の言葉です。

主がヤコブに、「わたしはあなたの主であり、共にいてあなたを守り、この地に連れ戻し決して捨てない」(13~15節参照)と約束されたみことばは、あなた自身への言葉です。特別なことに望みをおかず、坦々と聖書を読む日常を大切にしてください。

28章16節

ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。

ヤコブは、ここべテルで初めて神に出会ったと思っていますが、神は彼を生まれる前から知っていました(エペソ1章4節参照)。さらに、今まで何度も語りかけましたが、「しかしヤコブよ。あなたはわたしを呼び求めなかった」(イザ43章22節)と主は言われました。

子に語りかけない親などいないように、神は自然界・文学・歴史・科学・神の子たち…を用いて全ての人に語りかけています。人々が神を求めないのは、罪にまみれた弱い自分を認めず、それを認めて自分を失うのが怖く、逃げていたからです。ヤコブが、「主がこの所におられた」と言った「この所」こそ、自分の「弱さ・罪深さ」のところです。

主は、「まことに、彼は私たちの病を負い…痛みを…罪のため…咎のため…砕かれた」(イザ53章4・5節)とは、罪と弱さの中に主が来られたことになります。富、満腹、笑い、賞賛のところに主は居れません(ルカ6章24節~)。

友よ。ヤコブの「この所(逃げ・恐れ・孤独・淋しさ・悲しみ)」に主がおられるように、あなたの「この所」を隠さずに主に差し出してください。そこに主は来てくださいます。

28章17節

「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

神と出会う「神の家」と呼ぶ所があるでしょうか。フランスのルルド(地名)や特別な礼拝や聖会がそれでしょうか。確かに祈りが積まれた不思議な場所もありますが、それは物理的場所を超え、ある心の状態です。

ある時、悪霊に憑かれた娘を持つ女が、主に助けを求めますが、応えてもらえません。母親は、冷たい主の反応に自分の姿を知らされます。それは、本当に助けて欲しいのは、娘ではなく、悪霊憑きの娘を持つ可哀想な「自分」でした。娘への愛のない自分を知った母は、「しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ。私をお助けください。』と言った」。助けを必要とするのは、娘以上に愛のない母親失格の自分です、と。それがわかった時、彼女は、「子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と、より大胆に主に近づきました(マタイ15章21~28節参照)。

友よ。夫・妻・子ども・あの人が、と言いながら主の前に出て来る人は、主を畏れていません。主を畏れ、自分を差し出す人は、天国の門にきています。そこで祈る人は、神の家に入り、食事をする者とされます。

28章18節

翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。

ヤコブは、目覚めてから、見た夢を現実にするために、枕にした石を柱としました。神のみことばは夢のようですが、それを事実にするか、夢にするかは人生を変えます。

神から始まったこと(天地創造・来臨・十字架・復活・召天・再臨…)はどれも現実離れして人には夢のようです。しかし、ヤコブのように神の言葉を夢に終わらせず、石を立てて柱とし、神と契約を結ぶときから、それは現実の世界に根づき始めます。

神との契約で最初にすることは、約束のみことば(夢)を石の柱とすることです。それは、いつもその柱(約束・みことば)を見続けるためです。現代の私たちは、石の柱をいつも持ち運ぶ恵みを受けています。それが聖書です。そこには、アブラハム、ヤコブ、モーセを通してあなたに見せた祝福の夢が一杯詰まっています。

友よ。あなたの家のテーブルに、車の中に、カバンの中にも石の柱(聖書)はありますか。少しの時間にそれを取り出し、読み、そこから受け取ったことを祈ることは、「その上に油を注ぐ」ことになります。それは、神の御心への同意書となり、神は実現に向けて行動されます。

28章19節

そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。

だれでも素敵な家を持ちたいと思います。家は、住居以上に家族と共に生きる場です。大きな家でも、愛し合う人がいなければただの建造物(ハウス)ですし、愛し合う人がいれば家(ホーム)です。

ヤコブは、一人だけの砂漠で、枕にした石を立てて柱とし「家」としました。しかも、「ベテル(神の家)」と呼びました。家は愛する者から命を受け、ともに生き、命を引き渡すところです。

人にとっては、神からいのちをいただき、神と共に生きるところが本当の家です。砂漠の一坪でも、神と共にいるなら、ベテル(神の家・天国)となります。このべテルは「以前はルズ(アーモンド)」という美しい所でしたが、それは「以前」のことで、今は砂漠です。人間同士で作り上げた家(家族)も、主がいなければ「以前(過去に栄えていたが今は砂漠)」になります。

友よ。クリスマスを共に祝う人がいなくても、主イエスは来られます。クリスマスは、貧しい者に、悲しむ者に、飢え乾く者に、天からあなたの家族(イエス)が来られた日です。ヤコブは独りですが、神の家(ベテル)にいました。貧しく、悲しく、渇く者にこそ、クリスマスは喜びの日です。

28章20~22節

それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ…私の神となられるのなら…私に賜る物の十分の一を必ずささげます。」

神の愛を受けた人には、幾つかの変化が起きます。とくに、罪を赦され愛されると、その方を「信じる」ようになります。自己保存で固く閉じた心を開かせるのは、北風ではなく、暖かい太陽なる、神の愛です。

次に、神への畏れを持ちます。畏れは、愛してくださる方を悲しませず裏切るまいとする心です。そして、相手の願う自分になろうと、努力と自己犠牲を惜しまない「愛する者」になります。さらに、貪欲ヤコブが十分の一を献げます、と言ったように「献げる者」になります。

神の愛は、ヤコブを「信じる者・愛する者・献げる者」に変えました。しかし、ヤコブはすぐにヤコブを止めることができません。「私の旅路を守り、食べるパンと着物を賜り、無事に父の家に帰らせてくださるなら…」と、取引信仰を持ち出しました。

それでも彼は、「あなたと出会ったこの所を家としてここから出発します」との思いを持ちました。友よ。私たちもヤコブです。自己中心が残っていても、主と出会ったこのところから、新しい出発をしようではありませんか。

ページトップへ