キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第31章

31章2節

ヤコブもまた、彼に対するラバンの態度が、以前のようではないのに気づいた。

ヤコブの羊と山羊は増えるが、ラバンのものは減っていきます。ラバンの息子たちが文句を言うのは当然です。ヤコブはそれを、「こうして神が、あなたがたの父の家畜を取り上げて、私にくださったのだ」(9節)と、神の名を持ち出して自分のずるさを隠します。

神の御名を用いて自分の利益を守ろうとする者に語られるみことばこそ、「主の名をみだりに唱えてはならない」(出20章7節)です。

主はもう一方で、「私があなたの羊飼いであって、あなたが私を信頼するならば、なにも乏しいことがない」(詩23参照)と明言されます。ヤコブのように嘘や策略を用いずとも、祝福の人生があることを告げます。

友よ。あなたは、必要以上に自分で自分を守ろうとし、それが人々の冷たい態度を招いていませんか。あなたの髪の毛の数も(マタイ5章36節)、立つも座るも(詩139)全てご存知の神がおられます。いつも人が自分をどのように思うかを気にして生きる窮屈さから逃れてください。そのためには、神の前で堂々と生きる生き方を選ぶことです。神を畏れる者から、人への恐れは消えます。

31章3節

主はヤコブに仰せられた。「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる。」

ヤコブは、泥沼の生活を20年過ごすことになりました。彼をここから引き上げたのは、ずる賢い計略や、行動力や、勤勉でもなく、「神の声」でした。救いは、平面(この世)からでなく、上(神)から来ます。上にいるものだけが、人を上に引き上げる(救う)ことができます。

ヤコブと家族の20年を振り返ると、「神」という言葉が出てきません。それほど自分の考えや、力や、世の方法で生きていました。そのヤコブに、「先祖の国に帰れ」と神は語ります。

それは、ウル(カルデア)やハラン(途中滞在した所)などの地理的場所ではなく、あなたの「生まれた、先祖の国に帰れ」でした。そこは、ヤコブが逃げる途中、神と出会い、自分を明け渡した「ベテル」であり、「アブラハムに約束した神の国・カナン」のことです。

友よ。あなたが今いるところは、「ウルとハラン(先祖伝来の地)」ですか、それとも「カナン(神の約束の地)」ですか。自分と世を中心とするところが「ウルとハラン」で、神に支配されるところが「カナン」です。主はあなたにも「先祖の国カナン(エデン)に帰れ」と言われます。

31章3~4節

彼女たちに言った。「私は、あなた方の父の態度が以前のようではないのに気づいている。しかし、私の神は私と共におられるのだ。」

ヤコブは、神が語られたことを妻たちに説明しようとします。しかし、神の言葉を単刀直入に話せず、今までの自分の立場や、義父の冷たさなど様々な言い訳をしています。

この言い訳は、神が20年間(ヤコブが家を出て)かけて教えようとしたことを理解していないからです。彼が自分の罪に気づき、悔い改めるには、彼に勝るとも劣らない存在・ラバンが必要でした。

「自分が」を離れ、「神が」にするための狡猾なラバンとの20年だったのです。ここを出て行く理由は、義父のことや経済的なことなど多くの事情があるにせよ、「神が言われた」が理由の本質でなければなりません。神の言葉半分、この世の事情と自分の立場半分、の曖昧な態度はむしろ危険です。

「心のきよい者は…神を見る…」(マタイ5章8節)とは、二心なく神の言葉を自分の行動の唯一の理由として生きる者のことです。

愛する友よ。言い訳はこの世を相手にしているからです。神を相手に生きるならば、言い訳でなく、確信によって歩み出せます。「神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである」(使徒16章10節)。

31章13節

「わたしはベテルの神。あなたはそこで、石の柱に油をそそぎ、わたしに誓願を立てたのだ。さあ、立って、この地を出て…国に帰りなさい。」

神は御自分を、「ベテルの神」と表明されました。これは、「ベテルであなたと契約を結んだ神」、すなわち「契約の神」という意味です(28章10~22節参照)。神は、「この地に連れ戻す」と、ヤコブにベテルで約束しました。それを彼に思い出させるために、「ベテルの神」と言って語りかけました。

神は、先にヤコブへ「故郷に帰れ」(3節)と、神と出会い、生まれ変わった霊的誕生の場所に戻るよう勧めました。さらに今、「ベテルの神」と加え、「ヤコブよ、私と交わした契約に立ち返れ」と言います。神はヤコブに、「わたしと交わり、みことばを聞き、応答した(石の柱に油を注いだ)その場所に戻って新しい人生をスタートせよ」と語りました。

ベテルの契約とは、神が「キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物とした」(ロマ3章25節)ことに対して、「イエスはキリスト(神・救い主)」(ピリ2章11節)だと告白したことです。友よ。あなたの「ベテル」に、記念の「石の柱」(創28章18節)は今もありますか。つまづいたら、倒れたら、そこへ戻り、そこから再出発してください。

31章20節

ヤコブは、アラム人ラバンにないしょにして、自分の逃げるのを彼に知らせなかった。

ヤコブは、ラバンが羊の毛を刈りに出た隙をねらって、妻や家族、財産全部を持って逃げました。彼が非常識な方法で逃げたのは、ラバンに対する負い目や、ラバンの狡猾さに対する恐れがあったからです。しかしそれ以上に、「共にいて守る」と言われた神のみことばを信じ切れなかったのが、本当の理由です。

彼がハランから出た方法が正当かどうかはさておき、大事なのは、「出る」ことです。なぜなら、ハランにとどまれば、さらに罪を重ねる生活を続けるだけだからです。あの人、この人に、正しいと言ってもらえる八方美人になりたいばかりに、神の言葉に従えないでいる者が多くいるのも事実です。

積極的であれ、消極的であれ、「罪を重ねるところ」から去ることは、結果的に主に近づくことになります。方法が正しい云々を超えてまず、「神に向かって一歩出る」ことです。主に向かって一歩進むなら、その次が備えられ、後ろも整えられます。「去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身を清めよ。主の器をになう者たち」(イザヤ52章11節)。

31章24節

しかし神は夜、夢にアラム人ラバンに現れて言われた。「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。」

ヤコブが娘や孫たちを連れて逃げたと知ったラバンは、身内の者たちを引き連れ、七日間追いかけてやっと追い着きました。ことの成り行き次第では、力ずくでも、と考えたラバンに、神は夜、夢の中で語りかけました。

ここに、不完全なやり方でも、神に従うことを選ぶ者を守る神の御手を見ます。ある人が、「嵐呼ぶ臨在の雲立ち込めて十字架なくば立つ術なし」(宮崎聖蔵著「されど御名ゆえに」)と歌いました。だれでも追いつめられることがあります。その時、降りかかる災いをとどめ、それを消してくれるのは、主の御臨在と十字架です。神は、ヤコブに手を出すな、とラバンに言う以上に、「事の善悪を論じないように」とまで言って釘をさしました。

友よ。神は、私たちが知らないところでも守っていてくださいます。決して自分の力で危機を乗り越えた、などと高ぶってはなりません。そして今度は、私たちが人々の善悪を論じないように気をつけましょう。ペテロがヨハネのことが気になり、「主よ、この人(ヨハネ)はどうですか」聞いたとき、ヨハネのことはいいから、「あなたは、我に従え」(ヨハネ21章21~22節参照)と言われました。

31章26~27節

ラバンは…。「なぜ、あなたは逃げ隠れて…私に知らせなかったのか…。タンバリンや立琴で喜び歌って、あなたを送り出したろうに。」

ラバンの皮肉交じりの苦しい言葉が聞こえてきます。苦し紛れであっても、彼がここまで感情をとどめたのは、昨夜神に夢で強く命じられたからです。ラバンは、元来イサクと同じ神を信じる一族でしたから、最後のところでは不承不承でも神に従いました。

世の人々が、神を信じる者たちを説き伏せようとする時、「私たちの方が、あなたがたよりも良いことをしている」と言います。確かに、その通りのことも多くあります。しかし、そこで指摘された自分の悪いことに目を留め、進むのを止めて後ずさりしてはなりません。私たちが従うのは「神に」です。ペテロも、「人に従うより、神に従うべきです」(使徒5章29節)と言って進んで行きました。

主も、「私について来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい」(マタイ8章22節)と言われ、世のことと神のことを区別し、「神の国と神の義」に生きることを優先するように勧めています。

友よ。主イエスは、「あなたの罪は私が十字架で引き受ける。だから、あなたは私の復活のいのちを受けて先に進んで行きなさい」と言ってくださっています。

31章36節

ヤコブは怒って、ラバンをとがめた。ヤコブはラバンに口答えして…。「私にどんな罪があって、あなたは私を追いつめるのですか。」

ラバンの家を逃げ出す時、ラケルが父の家の守り神を持ち出していました。ラバンは、守り神が盗まれた罪を問い詰め、最後の抵抗を試みました。しかし、ラケルが女の常のものを理由に、うまく隠し通しました。真実を知らないヤコブは、「だれかのところで見つけたなら生かしておきません」(32節)と言い切ります。

そして、守り神が見つからないと、ラバンに反撃に出ます。人は自分の罪が隠されると、開き直って相手を責めます。しかし、主イエスはヤコブと反対に、自分が正しいのに、偽りの数々を上げて訴えられても、ひたすら沈黙しました。それどころか、訴える人々の罪を沈黙の中で受け取っていました。その違いは、十字架上の「父よ。わが霊を御手に委ねます」(ルカ22章46節)の言葉が教えています。

友よ。あなたにも主張し、弁解したいことがあるでしょうが、自分で処理せず主に委ねてください。「彼(イエス)は苦しんだが、口を開かなかった」(イザ53章7節)のは、評価も、結果も、父に委ねていたからです。あなたには、守り弁護するお方・主イエスがおられることを忘れないでください。

31章42節

「もし、私の父の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が、私についておられなかったなら…」

ヤコブは、20年間の苦しみを並べ立ててラバンを責めます。そして、「神が私についていたから」と、神を持ち出して正しさを主張します。たしかに、神は20年間ヤコブと共におられましたが、ヤコブが正しかったからではなく、罪人ヤコブを悔い改めに導きたかったからです。

ヤコブに、賢く強いと思う高慢な罪に気づかせ、愚かで弱い者だと知らせるために、神が係わっていたことに気づいていません(Ⅰコリ1章18~31節参照)。

人は、神の御心の意味を、全く反対に受け取ることもできます。そこを間違わない要(かなめ)は、「自分に死んで、キリストに生きる」(ロマ6章2~11節)の聖書の原則に照らし合わせることです。ヤコブの問題は、自分の悔い改め(罪と十字架)を抜きに、祝福(復活)を受け取ろうとしているところにありました。

聖書は、「だれでも悔い改めなければ(十字架につかねば)、神の国に入る(祝福・復活のいのちを持つ)ことはできない」と語ります。

友よ。主イエスの十字架なしの安価な恵みや奇跡信仰に陥らないでください。神は、苦しく困難でも聖書の原則に従う者を祝福してくださいます。

31章44節

「さあ、今、私とあなたと契約を結び、それを私とあなたとの間の証拠としよう。」

ヤコブとラバンは、互いの間に争いが起こらないように、石を取って契約を結びました。両者は、今後この境を越えて、相手の土地に入らない契約をしました。これでヤコブは後ろの橋を焼いたことになります。

この契約は、全てのクリスチャンに必要です。それは、神を信じない、この世の生き方に再び戻らない、「霊的境界線契約」というものです。

イスラエルの民が紅海の底を歩いたことは、パロと、神を信じないエジプトに戻らない契約でした(出14章)。ヨルダン川の底を歩いたのは、肉に支配された荒野の四十年に戻らず、聖霊に支配されて生きる契約でした(ヨシュア2章)。

友よ。あなたの「霊的境界線契約」はなんですか。「心に信じ、口でイエスを主と告白し…洗礼を受けた」ことは勿論です。そして今は…、聖書を読む・祈る・礼拝に行く・学ぶ…など、それら一つひとつが契約の石となります。

信仰を守る壁は一瞬にして立てられません。日々の一つひとつの出来事に、石(境界線)を置いて歩み続けると、それらの多くの石が積み重なって堅固な岩となります。そして、あなたの神の国(神の子)を守る城壁となります。

31章54~55節

ヤコブは山でいけにえをささげ、一族を招いて食事を共にした。…ラバンは娘たちに口づけして、彼らを祝福し…自分の家へ帰った。

アブラハムは、人生の節目節目で「祭壇」を築きました。しかし、ヤコブの歩みには祭壇がありませんでした。ここでやっと祭壇を築き、「いけにえ」を献げました。この家族にはそれまで「礼拝」がありませんでした。

交通事故で足を怪我し、スムーズに歩くことができなくなった若い娘が証をしました…「人生で重要なのは、私たちが『どんな歩き方をするか』ではなく、『だれと共に歩くか』です」…と。

「何ができ、何を行ったか」ではなく、「だれと継(つな)がり(あえて継続の「継」を使用)、その方に何をしていただいたか」です。

「礼拝(祭壇)」こそ、神と継がり続け、神の御業を受け取ることの証です。彼らが最初から神を一緒に礼拝できたら、互いが自分の罪に気づき、こんなに憎しみ、傷つけ合うこともなかったことでしょう。

友よ。礼拝とは、仰々しいことではありません。一時立ち止まり、目を閉じ、心を天に向け、「父よ」「主よ」と言うことも礼拝です。「すべて主を呼ぶ者、誠をもって主を呼ぶ者に主は近いのです」(詩145・18節)。私たちは、一日に何度でも…そして一日中、礼拝する(礼拝を捧げる)ことができるのです。

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