キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第33章

33章1節

ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウが四百人の者を引き連れてやって来ていた。

礼拝や集会の場を出る時までは、神に頼る信仰の杖をついていたのに、教会の外に一歩出たら、杖を投げ捨てて、以前の自分の姿に戻っていた…これがヤコブの今の現実です。彼は、兄エサウの率い400人の僕たちから、どうして逃げようかと右往左往しています。

イスラエル(神の王子)とされた恵みが消えてしまったのは、「目を上げて見た」ものの影響です。ヤコブが今、目を上げて見たのはエサウと彼の400人の手下たちです。ある日、聖霊に満たされても、次の日も御使いの大群が見えるというわけではなく、むしろ立ち向かってくるエサウの兵士たちがそこにいます。信仰とは、神の約束と恵みに目を注ぎ続けることです。

神から目を離し、現実を見た途端に恐れが出てきます。

しかし愛する友よ。神の王子(イスラエル)には、王の権威と兵力がついています。しかし「ヤコブ」ならば、この世を恐れなければなりません。神を信じているあなたは、神の王子です。あなたの父である神から、あなたの目を離さないでください。エサウでなく、神に目を上げ続けてください。

33章3節

ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。 

以前のヤコブは、家族を先立たせて盾にし、自分を最後に残しました。しかし、今回は家族より自分が先に進んでエサウに近づいて行きました。これは大きな進歩ですが、兄の前に「七回も地にひれ伏し」ながら近づいて行く様子は、あまりにも異様です。

失業、病気、家族愛の挫折、愛する者を失うことなどに直面すると、エサウと400人に出会ったような恐怖に襲われます。その恐怖は、ヤコブと同じように、相手に何度も頭を下げさせるものです。しかし、頭を下げることは、そのものの奴隷となることを意味する場合もあります。

ヤコブの弱さをご存知の神は、彼が出会う困難を先に知り、困難に出会う前にペヌエル(神の顔を見る場所)を経験させておられました。

友よ。「エサウの顔」が見えたら、その前に出会った「神の顔」を思い出してください。「アベルの血(罪の力・エサウの顔)よりも、力強く語る注がれた血(主イエスの十字架の力・神の顔)」(ヘブル12章24節・口語訳)があなたを守ります。主は「わたしだ。恐れることはない」(ヨハネ6章20節)と言っておられます。

33章8節

「私が出会ったこの一団はみな、いったいどういうものなのか。」と尋ねた。するとヤコブは、「あなたのご好意を得るためです。」と答えた。

ヤコブは、財産や妻子を何組にも分けるほど兄を恐れていました。しかし、実際に兄に会うと、兄はヤコブの首に抱きついて口づけし、とても好意的に迎えてくれました。

「私は山に向かって目を上げる」(詩121参照)という山こそ、ヤコブにとっての「恐れ・問題の山」でした。そこで彼は、その山を低くして越えようと、様々の物をエサウに贈りました。人から気に入られたい者は人を恐れ、神を畏れる者は人を恐れず、むしろ人に支持されるものです。

詩編の作者は、困難や恐れの山も、大空の下(主の御手の下)にあることを知って、「私の助けは天地を造られた主から来る」(同2節)と宣言しました。彼はその目を、山ではなく太陽さえ包み込む「さらに上の空(天・神の国)」に移しました。

あなたも山(エサウ)を恐れ、頭を下げ、物を差し出し、人の機嫌をとりながら生きていませんか。主は、あなたを「助け・眠らず見守り・おおう陰・日から夜から守る・いのちを守る・行くるも帰りくるも・とこしえまで守る」(同3~8節)と約束されました。

友よ。人の評価にではなく、神の言葉に今日も歩みましょう。

33章14節

「あなたは、しもべよりずっと先に進んで行ってください。…ゆっくり旅を続け、あなたのところセイルへまいります。」

兄エサウに、昔の恨みなどありませんでした。彼は、帰ってきた弟を自分の領地で世話しようと、「セイルへ行こう」と提案しました。しかし、彼は兄の提案を柔らかく断りました。

ヤコブの判断は正しいものでした。それは、「真新しい布切れで、古い着物の継ぎあてをすれば、継ぎ布は着物を引き破り…。新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるなら、皮袋は裂けてぶどう酒が流れ、皮袋もだめになる」からです(マタイ9章16~17節参照)。新しく「イスラエル」となった者が、古い皮袋のエサウと共に住むなら、再び「ヤコブ」に戻り、以前のように争い、苦しむことになります。

しかしヤコブは、兄の提案を断るのに「後で行く」と嘘をつきました。結果が良ければ、過程は嘘でもいいのでしょうか。いいえ、事実、この嘘が後に彼らを迷わせます。

友よ。この世に入っていくこと(社会での生活)を恐れる必要はありませんが、自分の中にこの世(偽り)を入れることは恐れてください。今日も、兄弟姉妹と共に新しい皮袋(キリストの体)の中で神を礼拝し、神の前に真実な一日とされますように。

33章16~17節

エサウは、その日セイルへ帰って行った。…ヤコブはスコテへ移って行き、そこで自分のために家を建て、家畜のための小屋を作った。…その所の名はスコテと呼ばれた。

ヤコブがカナンに戻ったのは、神と約束したベテル(神の家)に住むためでしたが、兄と別れた後、ヤボク川を渡りなおし、兄の所有地と反対のスコテに行って住みました。なぜ、一度渡ったヤボク川を戻り、神と約束した地と反対の方向へ行ったのでしょうか。

それは、兄に「後で行く」と嘘をついたことが原因と思われます。「行く」と言いつつ行かなければ、長子の権利や祝福事件と重なり、再び兄の怒りを買うことになります。

結局、嘘が彼を神の家(ベテル)から遠ざけました。スコテは、ヒビ人が住む栄えた町で、後にヤコブ一族を飲み込むようになります。彼が兄を恐れ、信仰を隠し、神の御心を知りつつ表明しなかったことで、家族はさらなる窮地に陥ることになります(34章)。

友よ。人々に信仰を表明し、主の御心を告げることを恐れてはなりません。主の御名と御心の表明は、先祖伝来の罪の鎖を断ち、離れ、神の救いと祝福の新しい鎖につながれる霊の世界の法則です。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない」(使徒18章9節)。

33章18節

ヤコブは、パダン・アラムからの帰途、カナンの地にあるシェケムの町に無事に着き、その町の手前で宿営した。

ヤコブはベテルに行かずにスコテへ、さらにシェケムへと移ります。町の外れに天幕を張り、土地を買い、そこに住みました。勿論、祭壇を築くことも忘れませんでした。

かつて、ロトがソドムとゴモラの近くに住み、やがて町の中に移り、さらに町の長老の一人になったことを思い出します。そして一家の心は、神を無視し、快楽を追う「この世」に捕えられました(18・19章)。

同じようなクリスチャンを多く見かけます。彼らは、最初からこの世の真ん中に入れませんが、周辺に家を建て、祭壇を築いて信仰生活をします。そこは「ベテル(神の家)」と「この世」の中間です。

私たちも、人々と同じ条件を揃えないと安心と喜びがないと考えますが、世の基準に支配されないほど、自由と喜びは大きくなります(テレビがないと、自由と喜びはないのか?否、ない方が自由で、交わりが増え、深くなります)。「あなたは、冷たくもなく、熱くもない。…なまぬるく…私の口から…吐き出そう」(黙3章15~16節)。

友よ。安全と思える中間こそ、最も危険地帯であることを覚えてください。

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