キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第39章

39章 マタイ1章1~3節

アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。…ユダにタマルによってパレス…。  

聖書は、ヨセフ物語にユダと家族の生々しい現実を挿入しました。ユダは後に、イスラエルの中心的部族となり、救い主もユダ族から出てきます。神が罪と混乱の家族を選ばれたメッセージが実に、この38章なのです。

長男ルベンは、ヨセフ殺しを止めさせようとした人ですから(37章21節)、霊的リーダーには最適の人物のように見えますが、神が選ぶ人ではありませんでした。

ユダは、罪に苦しみ、家族と共に住むこともできずに逃げ出し、さらに罪の深みに落ちて苦しみました。彼は、それらを通して罪の姿を知らされ、悔い改めました。

神が用いられる人は、罪を知り、苦しみ、悔い改め、神にその身を献げる人です(詩51・17節)。ユダは、「罪を悔い改めた人」でした。  

ユダが悔い改めるまでには、相当長い年月と深い暗黒を通りました。しかし、神はそれらを無駄ではなかったと言わせるほどの恵みに変えてくださいました。

自分の罪と弱さに泣く友よ。諦めてはなりません。ユダの数十年間が無駄ではなかったように、あなたのこれまでの苦しみも決して無駄ではないのです。

39章1節

ヨセフがエジプトへ連れて行かれた時、パロの廷臣で侍従長のポティファルというひとりのエジプト人が…イシュマエル人の手からヨセフを買い取った。

ヨセフは、エジプトの高官ポティファルの奴隷となりました。この後の彼の生涯に、失敗や罪を見いだせません。この点でも、ヨセフの生涯はイエスのご生涯と類似します。

なぜ、ヨセフは聖い人生を歩めたのでしょうか。身内の手で奴隷に売られたことは、深い傷になるはずですが、彼にはそれが見いだせません。それは、「神を信じ、委ねる」生き方を、父ヤコブから教えられてきたからです。これこそ、父がヨセフに長袖の着物を着せて育てた結果でした。

主は、「わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに…」(ヨハネ8章28節)と言われました。彼は、エジプトへ売られて来る道中のどこかで、「神に全てを委ねる」ことができたと考えられます。ヨセフ自身のペヌエル経験(ヤコブがイスラエルとなった…創32章24~32節)は、この時でした。

ヨセフの大きな傷は、神に全てを委ねることで、それを超えさせました。時に人は、傷を持ち出し、自分を守ろうとするものです。さらにそれを超えて、他者攻撃に転ずることすらあります。

友よ。自分の傷や不遇などに自分を委ねるのでなく、ヨセフのように傷をいやされる主に委ねて歩んでください。「彼の打ち傷によって、私たちは癒された」(イザヤ53章5節)。

39章2~3節

主がヨセフとともにおられ…。主が彼とともにおられ…。

ヨセフは、兄たちから奴隷に売られました。愛されるべき人から「存在否定」をされると、深い傷が残ります。ヨセフは、この難しい問題をどうして乗り越えたのでしょうか。

よく、「アイデンティティー(自己同一性)の確立」と言われますが、この「自己」は、自分の努力や頑張り、知識を増すなどしても、自分自身で確立できるものではありません。それは、他者に作って(与えて)もらうものです。誰かから、「受け入れられ・支えられ・必要とされる」こと、すなわち愛されることによって確立できます。誰よりも、家族や身近な人々の愛を受けることが必要です。 

ヨセフのアイデンティティーは、幼少の頃から父に愛されたこと。さらに、「私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです」(45章8節)と後に告白できたことから、神が自分を「受け入れ・支え・必要としている」すなわち、愛してくださっているとの確信から作られました。

彼は、奴隷にされた自分の存在を、神によって受け入れていました。

友よ。神はヨセフとだけ共にいるお方ではなく、「あなたと共におられる」お方です。勇気を出して、今置かれている状況を乗り越えてください。

39章2節

主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。

ヨセフの奴隷としての生活が始まったのは十七歳でした。掃除や家畜の世話など、奴隷の仕事は重労働です。その中で黙々と働くヨセフの姿に目を留めていきましょう。

右のみことばから、彼がエジプト人の奴隷として生きているという以上に、自ら進んでそこにいるようにすら読み取れます。兄弟から奴隷にされた卑屈さはなく、本当の主人である神に、「お前はポティファルの家にいて、忠実に仕えなさい」と言われて働いているかのようです。嫌々いるのではなく、神によって与えられた場所に喜んでいたのです。彼の姿を、全てのクリスチャンに当てはめる必要があります。

私たちは、かつてサタンと罪と死の奴隷でしたが(ヨハ8章34節)、今はパウロと同じく「神のしもべ」とされました(テト1章1節)。神のしもべは、神から遣わされる使徒でもあります。奴隷ではなく、神に在る自由人。押し付けられて働く使用人でなく、使徒(遣わされた者)として喜んで働く者です。

友よ。私たちは主から召され、御霊の自由の中で、どこにあっても、主に仕えるゆえに人々に仕える者です。その目的は、全て神の栄光のためです。

39章3節

彼の主人は、主が彼と共におられ、主が彼のすること全てを成功させてくださるのを見た。

神は、ヨセフをエジプト王の近衛隊長の家に置かれました。そこにいる多くの奴隷の中で、ヨセフは際立って勤勉、忠実、誠実でした。それを主人は見逃しません。

主人ポティファルは、ヨセフの人間としての資質もさることながら、「主が彼と共におられる」ことを見ました。以後、ヨセフの人生のカギは「主が共に」となります。

「主が共におられる」とは、自動的にそうなるのではなく、ヨセフが神を自分の「主」としていたからです。信仰にも二通りあります。一つは、全能で憐みに富む「助け手としての神」として信じる信仰です。しかし、これには「自分に仕える神」との意味合いが強く含まれます。すなわち、「自分のための神」です。もう一つは、「主としての神」信仰です。ここでは「自分が仕える神」との意味が強くなります。

ヨセフにとっての神は、自分を助ける以上に、自分の「支配者・主人」でした。神は、自分の都合を優先する者と喜んで共におられません。しかし、神を優先する者から、神は離れることができません。それが、「主が共におられる」者です。

39章4節

それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。

主人がヨセフに全財産の管理を委ねたのは、この家に来て何年目のことでしょうか。それにしても、主人のヨセフへの信頼の厚さは並大抵のことではありません。

誰かを信頼できる、と思えるのはどんな時でしょうか。それは、相手が自分の利害を捨てて、私のために犠牲を払う姿を見る時です。ヨセフには、その精神がありました。

しかし、これは知識や訓練や道徳によって持てるものではありません。この精神こそ、「自己中心から解放された者の心」です。でも悲しいことに、自分の力で自己中心から自由になることは誰もできません。自己中心から人を解放するのは神の愛のみ、です。ヨセフが自己中心を捨て、主人に仕えたのは、彼の中に神の愛が満ちていたからです。

狂ったように主を宣べ伝えたパウロは、「キリストの愛が私たちを駆り立てているからです」(Ⅱコリ5章14節・新共同訳)と言いました。人は、自分を愛してくださる神に仕える時だけ、自己中心から解放されて人々に仕えることができます。そうすると、人々はヨセフの主人のように、その人に全き信頼を与え返します。

39章5節

主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト 人の家を祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。

ヨセフのような人をしもべに持つ者は幸いです。クリスチャン一人ひとりが、ヨセフのような主のしもべであったなら、天の父は誇りに思い、人々は御名を崇めることでしょう。

どのような人が良いしもべ(管理者)か、について聖書は、「管理者には、忠実であることが要求されます」(Ⅰコリ4章2節)と言います。ヨセフの忠実は、主人ポティファルに対して…勿論そうですが、それ以上に、「私は神に罪を犯すことができない」(9節)と言ったように、神に向けられていました。

初代教会は、信者が増えるにつれ、管理者を必要とするようになりました。その時、ステパノたちが選ばれました。聖書はその理由を、「御霊と知恵に満ちた…」と記しています。

「御霊に満ちた人」とは、なにか聖霊の賜物を持つ能力のある人、というよりも聖霊に支配された人格です。「知恵に満ちた人」とは、神のみことばを全ての基準とする人です。したがって、良きしもべとは、「神によく管理される人」のことです。反対に、悪いしもべとは、神以外のもの(自分・他者・社会・物…)を第一として仕える人です。

39章7節

これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「私と寝ておくれ。」と言った。

ヨセフは主人に次ぐ地位に就きましたが、それに伴う誘惑もありました。この誘惑には、「彼が若い・相手から求められた・主人の妻の命令・快楽を求める肉の欲求」と避けるに難しい条件が多く揃っていました。

多くの有能な神の働き人でも、性的誘惑によって、神の御国の兵士から脱落しました。男女の肉体の交わりは、単に生物的交わりを超え、「遊女と交われば、一つからだになる…。しかし、主と交われば、一つ霊となるからです」(Ⅰコリ6章16~17節)とあるように、霊的一体に繋がります。

霊的一つとは、いのちの共有を意味します。この時までのヨセフは神と霊的いのちを共有してきましたが、ここで主人の妻と交われば、不貞の女と同じ質のいのちを持つことになります。汚れたいのちは、死へ追いやる細菌として人生を蝕みます。

友よ。一時の快楽か、永遠の喜びか。肉欲の発散か、御霊による自制か。この世における地位か、御国で受ける立場か…を天秤にかけてください。自分に頼らず、「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださった」(ロマ8章3節)そのお方に依り頼みましょう。

39章9節

「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」

ポティファルの妻の執拗な性的誘惑に、ヨセフは困り果てています。こんな時、あなたなら、なんと言って断るでしょうか。「主人の妻だから」「主人が怖いから」「人妻だから」「出世を棒に振るから」などでしょうか。

ヨセフが断った理由は、「神に対して罪を犯すことができないから」と明確でした。彼は、神の基準に生きていました。

詩編の記者は、「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです(詩119・9節)」と言います。神を基準とするとは、神のみことば(聖書)に従うことです。それには、みことばを自分の内に、「知識」としてではなく、「霊的いのち」として蓄えていなければできません。

「霊のいのち」は、神との日々の交わりによって育まれます。ばい菌(肉の思い・世の汚れ)の侵入を防ぐことは避けられませんが、健康な体(いのち)は侵入したばい菌を殺せます。

友よ。健康な体は、なによりも正しい食事から造られます。一朝一夕にヨセフになれませんが、日々のみことばの食事がヨセフを造ります。理解できる、できないを超え、日々みことばを食べてください。

39章12節

彼女はヨセフの上着をつかんで「私と寝ておくれ」と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。

主人の妻は、言葉による誘惑を越え、行動に出てきました。物事の道理も通じません(8節)。ヨセフは「どうか、私の道を堅くしてください。あなたの掟を守れるように」(詩119・5節)と心で叫び祈りながら、自分の着物を掴んで迫る女から力ずくでやっと逃げました。

女の手に残ったヨセフの着物は、主の言葉、「からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです」(マタイ5章29~30節)の文字通りの実践でした。

罪との戦いの勝利は、相手を倒すことでも、自分の力を出し切ることでもなく、神に逃げることです。ヨセフの行動は、主人の妻から逃げた、というよりも、「神の御手に逃げ込む」ことでした。「からだを殺して魂を生かす」とは、生易しいものではありません。

友よ。人生には、様々の誘惑や困難、試みが襲ってきます。それらに雄々しく立ち向かう時も必要でしょう。でも、もう一つの方法もあります。それは、「主に逃げる」ことです。どうしようもない時、「主に泣く」ことも、主に逃げることの一つの大切な道です。

39章14節

彼女は…。「…あの男が私と寝ようとして入って来たので、私は大声をあげたのです。」

真っ赤なウソ、とはこのことです。でも、その場にいなかった部外者であれば、ヨセフよりも女主人の言うことを信用します。相手が奴隷であるということだけでなく、何よりも残された証拠、上着があるのですから。自分の欲求を拒まれた主人の妻は、「愛」を「憎しみ」に変え、自分を守るため、夫に報告される前にヨセフを抹殺しようとします。彼女の愛は、エロースの愛(価値追求)だったので、自分の快楽を得るために相手を犠牲にできます。

一方、アガペーの愛(神の愛)は、相手のために自分を犠牲にします。主は、「右の頬を打たれたら(憎しみ)、左の頬を向けよ(愛)」と言われました。私たちもトマスのように、「釘跡に…指を、槍の跡に…手を入れてみなければ信じない」と言って主に迫る愚か者です。しかし主は、「指と手を入れよ」、と十字架上の姿になってトマスの前に立たれたように、私たちに御自分の愛を与えてくださいます(ヨハネ20章25~28節)。

友よ。ポティファルの妻のように自分を守ろうとするならば、誰かを殺す者になります。罪人の自分を自分で守らず、そのままを主に差し出しましょう。主の取り扱いこそ、救いとなります。

39章20節

ヨセフの主人は彼を捕え、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄にいた。

ヨセフは主人の妻の策略に陥り、今まで得てきた主人の信頼、管理人の立場など、何もかも一気に失いました。正しいことをして最悪の事態になる不条理に憤りたくなります。事実、このようなことは世の常です。

不条理はこの世界にあっても、神の国にはありません。神の国では「義と聖と愛」が支配しますから不条理はありません。人の目から見て、ヨセフに降りかかっている出来事は不条理に見えますが、後に神の理路整然とした御計画の中にあったことがわかります(創45章5節)。

今に至るまで、世界で最も不条理なことは、罪を犯したこともない義人・イエスが、罪人に「罪人」として裁かれた十字架の出来事です。しかし、これすらも神が備えてくださった、理路整然とした「義と聖とあがない」(Ⅰコリ1章30節)の救いの御計画でした。

悲しむ友よ。誤解され、不利な立場に立たされる時、「主よ、なぜ」と言って世の不条理に目を向けるのでなく、「主よ、この意味はなんですか」と目を上に向けてください。その時、不条理は、自分の十字架を負うために必要な神の恵みの御計画であることがわかります。

39章21節

しかし、主はヨセフと共におられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。

ヨセフは奴隷の囚人として、王の囚人たちを入れる獄で雑務をさせられていました。しかし、そのヨセフの側にはいつも主が共におられ、獄中もまた、恵みの場となりました。

もし、ヨセフがこの時、監獄でなく以前のポティファル家で重んじられていたら…いよいよ信頼され、大いなる者となり、苦しみもなく自信に満ちて過ごした…ことでしょう。しかし、彼が受ける信頼と自分への自信に比例し、彼の中の主は少しずつ小さな存在になったとも考えられます。世で受ける称賛や自己過信は、主への信頼を小さくするものです。

人の本当の自由は、神との関係にあります。何でも自分のしたいことの出来る人が自由人ではなく、「神の監獄」に入れられた不自由な人が本当の自由人です。神の監獄とは、神がその人に御自分の御心を実行できる環境です。パウロは、「私は、全ての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んで全ての人の奴隷になった」(Ⅰコリ9章19節・口語)と言いました。

友よ。主の奴隷とは大それたことではなく、「イエスを主」とする人は、だれでも主の奴隷なのです。

39章23節

監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼と共におられ、彼がなにをしても、主がそれを成功させてくださったからである。

監獄の長は、ヨセフの手に任せたものには一切干渉しないほど彼を信頼しました。その理由を、「主が彼と共におられ」と、この章だけでも4回も記されます。聖書が語る救いとは、「神が共にいる」ことです。救い主イエスの名は、「インマヌエル(神が共におられる)」とも呼ばれました(マタイ1章23節)。

インマヌエルなるイエスは、「その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる』」(イザヤ9章6節)お方です。助言者とは、素晴らしいカウンセラーなるお方です。力ある神とは、どのような人生の問題も解決できるお方です。平和の君とは、父なる神と人を一つにするために罪を解決してくださったお方です。どんな悲しみ痛みにも解決を示し、ご自分の能力を与え、父の愛で守ってくださる神こそ、主イエスです。

神と共にいたヨセフは、「インマヌエル」です。

友よ。私たちも、主が共にいてくださるのですから、「インマヌエル」と呼ばれる者です。私たちの本当の名前は、「インマヌエル」だったのです。決して孤独ではありません。だから、勇気を出して今日を生きましょう。

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