キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第43章

43章1~2節

さて、その地でのききんは、ひどかった。彼らがエジプトから持って来た穀物を食べ尽くしたとき、父は彼らに言った。「また行って、…食糧を買って来ておくれ。」

飢饉に関する話がルツ記にもあります。ベツレヘムのエリメレク家が飢饉を逃れるためモアブへ行き、そこで夫と二人の息子を失い、妻ナオミは息子の嫁ルツと共に自国に帰りました。戻ったルツは親戚のボアズの親切を受け、やがて嫁ルツはボアズと結婚します。

この家族が夫と二人の息子を失ったのは、モアブ(この世)に出て行ったからです。モアブに出て行ったのは、ベツレヘムにいた裕福な親戚ボアズに救いを求めず、自分の力で生きようとしたからでした。「親戚(贖い人の意)」の「ボアズ(力にて)」こそ、主イエスのひな型でした。人にとって、穀物の飢饉以上に「霊的飢饉」はさらに深刻です。それは、ボアズという裕福な親戚を信頼して求めず、この世で自分の力で生きる人が直面する飢饉です。

友よ。「エジプト(この世)から持ってきた穀物」はすぐに食べ尽くされます。私たちの本当の食物は、「わたしは天から下って来た生けるパン…、わたしを食べる者も、わたしによって生きる」(ヨハネ6章50~57節)と言われる、ボアズなる主イエスのもとにあります。

43章4節

「もし、あなたが弟を私たちといっしょに行かせてくださるなら、私たちは、下って行って、あなたがたのために食糧を買ってきましょう。」

食料を買いにエジプトに行かなければ飢え死に、それには末の弟を連れて行くのが条件、弟ベニヤミンを連れ出せばシメオンの二の舞、しかしそれだけが食糧の確保と捕らわれのシメオンを救う道……問題は大きくなるばかりです。しかし、この家族の最大の問題は、愛が冷えていることです。

家族が真の家族になるために必要なことは、誕生祝いや旅行、ケンカするほど真剣に向き合う…などでしょうか。しかし、それら全てを行ってもなお不十分です。

人と人の本当のつながりは、「罪」と「神」を知ることによってできます。罪を知るとは、自分も他者(親・夫・妻・子)も自己中心であること。神を知るとは、自分も他者(親・夫・妻…)も赦されて生きる者であることです。

自分の「罪」と「神」を知ると、他者(…妻・夫・子…)との間に「神」を入れます。それは、自分や相手以上に神を信頼することです。

家族愛の飢饉にある友よ。恐れずにヨセフ(イエス)の所に行ってください。彼はあなたが、愛という食料、の買い出しに来るのを待っています。主イエスには、ヤコブ家(あなたの家族)を回復させる知恵と力があります。

43章7節

「その方が、…『父はまだ生きているか。あなたがたに弟がいるのか』と言うので、問われるままに言ってしまったのです。」

ヤコブは、「お前たちはエジプトで弟がいるとなぜ言ったのか」と兄たちを詰問します。兄たちは、相手の質問に答えただけで自分からは何も言っていない、こんな事態になるなど予想もできなかった、と弁明します。

物事が予想外の方向に進むことがよくあります。それを不可抗力的な運命としてあきらめる人もいますが、もう一つの道があります。それは、「…雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」(マタイ10章29節)とある神の主権(摂理)を、すべての物事の中に認めることです。自分で物事の道理を決めず、「私は道である」と言われる主イエスに示していただく方法です。

神の子の主への問いは、「WHAT(なに・どうして)でなく、HOW(どのようにしましょうか)だ」とある人が言いました。それは、自分で決めず、主に聴くことを教えます。

ヨセフの「弟は…」の質問に兄たちは恐れましたが、その本意は愛が一杯詰まったものでした。自分で判断すると恐れになり、神の判断を受け入れると希望と勇気が出てきます。

43章8節

「あの子を私と一緒にやらせてください。私たちは出かけて行きます。そうすれば、あなたも私たちも、そして私たちの子どもたちも生きながらえて死なないでしょう。」

ここでユダが進み出て父に進言し、父の心が傾き始めます。その前に、長兄ルベンがユダ以上に固い決意で進言したことがありましたが、長兄の言うことは聞き入れませんでした。二人の違いはなんでしょうか。

ルベンはかつて、父のそばめと寝て(創35章22節)、父の寝床を汚したことがありました。これは父が子から受ける最大の侮辱でした。一方のユダは、ヨセフ事件のことで父の側にいるのがつらくなり、異邦人の所に出て行き、多くの苦難を味わって、再び帰ってきた人でした(38章参照)。

ルベンは自分で悔いてはいますが、ユダは神によって罪を暴かれ、神の前に悔い改めをした人でした。

見える世界は、見えない霊の世界から動き始めます(ヘブル11章3節参照)。見えない霊の世界の支配者は神です。ですから、霊の世界で通じるのは、神に取り扱われて「霊の人」となった者の祈りの言葉です。

「霊の人」とは、神の前で悔い改めた人です。ユダは神に悔い改め、霊の世界で通じる言葉をもっていたので、父(神)を説得できました。

43章10節

「もし私たちがためらっていなかったなら、今までに二度は行って帰って来られたことでしょう。」

「もし私がもっと早く、悔い改めていたら…あの人に、あの時に福音を伝えていたら…もっともっと、主に熱心になっていたら!」と考えるものです。そうすれば、今の2倍も3倍も豊かな実を結んだのにと思いますが、はたしてどうでしょうか。

主は、「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ4ケ月ある。』と…。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受けて、永遠のいのちに入れられる実を集めています」(ヨハネ4章35節)と言われました。

もう一方では、神に触れられてから、誰の目にも神の人とわかるのに、ヨセフやダビデは13年、モーセは40年もかかりました。

信仰上のことは、すぐ結果が見えないものがあり、それをよいことに「御心のままに」と怠惰に過ごすこともできます。しかし、「なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です」(ヤコブ4章17節)ともあります。

友よ。過去のことにとらわれず、信仰は、「今日、御声を聞いたことが『始まり』」です(ヘブル3章7~8節)。

43章11節

「この地の名産を入れ物に入れ、それを贈り物として、あの方のところへ下って行きなさい。乳香と蜜を少々、樹膠と没薬、くるみとアーモンド、」 

ヤコブの贈り物に、相手のご機嫌を取り、自分の願いを果たそうとする心が見えます。同じく、ささげものによって神に自分の願いをかなえてもらおうとする、私たちの信仰の姿勢を見ているようでもあります。

しかし、世界の富を集めるエジプトでは、カナンから持っていく高価な物も、ありふれた物にすぎません。ヨセフの関心は、物ではなく「心」、行いではなく「信仰」、ささげることではなく「受け取る謙虚さ」です。

「主は主の御声に聞き従うことほどに、…いけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」(Ⅰサム15章22節)。

ヨセフ(イエス)の願いは、彼ら(人間)からお土産をいただくことではありません。むしろ、彼ら全員が自分の元に来て、自分が与える祝福(食糧と守り・兄弟同士の和解)を受け取ってもらうことです。

友よ。神が私たちに望んでいることは、神に自分をささげることでなく、神から自分(神の意思によって創られた、世界でたった一つの神の作品)を受け取ることです。

43章12節 ①

「二倍の銀を持って行きなさい。あなたがたの袋の口に返されていた銀も持って行って返しなさい。」 

ヤコブは家族の危機を救うために、特産品の他に二倍の銀と、袋の中に返されていた銀も持たせ、息子たちをエジプトに送り出そうとしています。かつて叔父ラバンを騙していた彼とは違い、真実で誠実な人になっています。

しかし、物損や他者への非礼ならば、贈り物や誠実さも有効ですが、このような危機には人間的方法は通じません。彼らの責務は、神に対する「罪」ですから、「義人のいのち」を代価とする「贖い」の方法しかありません。

ヤコブは、銀や物や誠実さに頼っていますが、神の約束の言葉、「一つの国民、諸国の民の集いが、あなたから出て…」(35章10~12節)や、かつてヨセフが夢を見た時、「父はこのことを心に留めていた」(37章11節)を忘れています。

友よ。私たちの信仰の根拠は、自分の誠実さや真実や物にはありません。それは、神御自身と、そのみことばにあります。ヘブル書11章で20回も繰り返される、「信仰によって…」の言葉の横に、「神の真実によって…」と添え書きしてください(注・原語で「真実」と「信仰」は同義語)。そして、「神の真実によって、ヤコブは…」と読んでいくと信仰がよくわかります。

43章12節 ②

「それはまちがいだったのだろう。」

若い時の過ちによる盗み・怠惰な生活・妊娠・金銭に関する失敗など、過去の嫌な人生を「あれは間違いだったのだろう」と言い、簡単に「解決済」にしていいでしょうか。

それは問題を一旦、内に閉じ込めるだけで、解決にはなりません。消えたものでない限り、時機を得て顔を出し、ときには牙を向いて襲いかかります。

ヤコブ家の過去の出来事は、神を中心としなかった家族の罪が結んだ苦い実でした。しかし、そこに描かれた「苦しみと罪の家族画」も、イエスの血潮が吹きつけられると画面が変ります。ただし、主の血は、過去を清め白いキャンパスに戻し、「これから新しい家族画を描きなさい」というのではありません。主は過去に描かれた絵を消さず、その絵を修正し、絵の語る意味を変えます。

友よ。過去という下絵があるからこそ、上に描く絵に貴く深い意味が加えられます。過去の楽しいことより、苦しみや悲しみの中に深い意味が多いものです。過去が「間違いだった」か「正しかった」かの判断は、人にはできません。しかし、あなたが神の中に在るために、過去は「必要なこと」であったことは確かです。

43章14節

「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとを…返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。」

ヤコブは、やっと兄たちと末の子をエジプトに行かせる決心がつきました。シメオンの命が係わっていることなので、時間を延ばすことはできません。これもまた神の恵みでした。

彼が決心出来た第一の理由は、「全能の神」と言えたことです。次は、「失うときには失うのだ」の言葉です。これは自暴自棄ではなく、「全能の神に、失うことすら委ねる」との決意です。

ヤコブは、自分でも他者でもなく、全能の神に全てを委ねる、「神にあっての決断」をしました。人がなにかを決断するとき、だれにあって決断するかは重要です。たとえば、家族の事情で転職を決断し、後に問題が起こると、「お前たちのためだったのに」と家族に顔を向けます。その決断が神への決断であれば、「主よ」と神に顔が向きます。

ヤコブの顔は、子どもでもエジプトでも自分自身でもなく、神に向けられました。人は顔を向けた方向に進みますから、その先の結果は違ってきます。

友よ。「全能の神」に「失うこと」すら委ねてください。神は、委ねられたあなたを決して粗末になど扱いません。

43章16節

ヨセフはベニヤミンが彼らと一緒にいるのを見るや、彼の家の管理者に言った。「この人たちを家へ連れて行き、獣をほふり…、食事をするから。」

中国残留日本人孤児たちが、何十年も想い続けた母国に辿り着き、肉親と出会って泣く姿にもらい泣きをしました。ヨセフも20数年ぶりに同じ母の弟に会えましたが、涙を流し泣く前にどうしてもしなければならないことがありました。

ヨセフは、自分を殺そうとした兄たちを自宅に招きました。主イエスも、罪を犯し行き詰ってから訪ねる人々との再会を、涙を流すほど喜んでおられますが、しばらくは感情を抑えて行動されます。そしてヨセフのように、自分を十字架につけた人々を、「御自分の家」に招きます。それは、「家族」だからです。しかし、神の本当の家族への回復は、親切や同情や感情の高まりではできません。

放蕩息子が帰った時、父が「子牛」をほふったように(ルカ15章23節)、ヨセフも「獣をほふり」それから「食事」をしました。両者とも、「贖いの獣・イエスの十字架」をもって「食事(交わり)」を持ちました。

友よ。私たちは「相手が悔い改めたら、私も…しましょう」と考えず、ヨセフと主イエスのように、自分から隣人を招き、愛を示したいものです。

43章18節

この人たちはヨセフの家に連れて行かれたので恐れた。「…われわれを…捕らえるためなのだ。」と彼らは言った。

スパイ呼ばわりされていた者が、宰相の家に招かれるなどは前代未聞です。良いことなのか、その反対か、考えれば考えるほど不可解で恐れが出てきます。彼らの恐れは、あまりにも大きなヨセフの歓待に、さらに増されることになりました。

ザカリヤは天使の声に「恐怖に襲われ」(ルカ1章12節)、マリアも「恐れることはない」(同30節)と諭されるほど恐れました。パウロもダマスコ途上で主の光に打たれ、恐れました(使徒9章3~)。

彼らの恐れは、いずれも本当は「主の絶大な歓待」だったのです。聖書に登場する多くの人が、神の歓待が大き過ぎるために恐れました。兄たちも、歓待している方がヨセフであり、彼の愛であることを知るならば、恐れる必要はありませんでした。

恐れには、神から来る「聖なる畏れ」と、罪やサタンから出る「不安の恐れ」があります。現象は同じようですが、「聖なる畏れ」は人を神にしがみつかせますが、そうでない恐れは神以外のものに助けを求めさせます。

友よ。「聖なる畏れ」は日々持つことができます。それは、みことばに真剣に接する時です。

43章20節

「失礼ですが、あなたさま。この前のときには、私たちは食糧を買うために下って来ただけです。」

恐れに取り付かれた兄たちは、命がけで受け答えしていますが、彼らの受け答えは滑稽です。それは、彼らは相手を知りませんが、相手からは全部知られているからです。私たちの神への受け答えも同じでは!

ヨセフが兄たちの年齢も気性も知っているように、神も人の全てを知り尽くしておられます。ですから、人が神に弁明する必要はありません。

今、兄たちに必要なことは、なぜこのようなことになったのか聞くことです。同じく私たちも、神に状況説明したりせず、単刀直入に質問すべきです。彼らがそのような質問ができないのは、自分の願いどおり…スパイの嫌疑が晴れて全員無事に帰る…ことができなくなることを恐れているからです。

しかし、自分の願い通りになることが良いことではありません。事実、ヨセフの計画は「救い」ですが、兄たちの願うこと(その場から食料を持って去ること)の結末は「裁きと死」です。

友よ。神には恐れずに何でも聞いてください。なぜなら、神は「アバ=とうちゃん」(ロマ8章15節)で、「エルシャダイ(全能・母の乳房)」のお方ですから。

43章23節

「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのに違いありません。」

恐れる兄たちの姿を見かね、ヨセフは家の管理人を通し、「あなた方の神、あなたがたの父の神」と、彼らの神の御名を口にしました。

ヨセフがユダヤの神の御名を口に出したのは、「私もあなた方の神を知っているから恐れるな」と言っているかのようです。また、袋の中の銀を返したことから彼らの誠実さも認め、人質のシメオンも戻されました。

実に、聖書の神は「エホバ・シャローム」とも言われる「平和の神」です。とくにそれは、聖さん式の中に良く現わされています。偶像の神々は、罪(自己実現)と恐れ(罰・不幸)を絡めて人々を引き寄せ、人々を食べて(利用・犠牲にして)自分が太ります。

主イエスは、「このパンを食べ、この杯を飲め」(Ⅰコリ11章23~26節参照)と、御自分を人々に差し出し、人に噛まれ、飲まれ、自分自身が犠牲となります。

友よ。主は、パン(復活・永遠のいのち)と葡萄酒(十字架・罪の赦し)となって仕えてくださる愛の神です。自分の身におこる出来事を恐れないでください。御自分が犠牲になられてあなたを愛し守る神が側におられます。「愛には恐れがありません」(Ⅰヨハ4章18節)。

43章24節 ①

その人は人々をヨセフの家に連れて行き、水を与えた。彼らは足を洗い、ろばに飼料を与えた。

宰相の家に招かれたスパイたち…とは面白い物語ですが、あり得ないことが起きています。しかし、さらにあり得ないことは、殺人未遂者が、被害者の家に招かれて大歓待されていることです。それが実現したのは、ヨセフとスパイたちが実の兄弟だったからです。

同じように、殺人者(私たち)が十字架で殺した人(主イエス)の家に招かれ、直接お目にかかることはさらにあり得ません。それもこれも、実は、主イエスと私たちが同じお方を父にもつ兄弟だからです(ロマ8章29節参照)。

ヨセフの家の管理人は、主から遣わされた聖霊の神ともいえます。聖霊は、「…羊のようにさまよい、自分かってな道に向かって行った(イザヤ53章6節)」者を探して主人の家に招きます。そして、水を与え、足を洗い、ろばにも飼料を与え、御主人(主イエス)に直接会わせる準備を始めます。

友よ。主の顔を見て御心を受け取った確信がまだありませんか。しかし、聖霊のお世話はもう始まっています。この聖書日課に目を通したこともその一つです。間もなく主に出会えますから、聖霊の導きを受け続けてください。

43章24節 ②

その人は人々をヨセフの家に連れて行き、水を与えた。彼らは足を洗い、ろばに飼料を与えた。

ヨセフの家に入れられたスパイなる兄たち。しかし、彼らはスパイどころか大事なお客として、水を与えられ、足を洗ってもらい、家畜の飼料まで与えられました。

ヨセフの召使いたちが、主人の食卓に兄たちを座らせる準備をした行為は、人が主イエスの前に出るために足を洗い(世の汚れ)、水を飲ませ(神のいのち)、神の家族に受け入れる準備を整える「御霊の神」の姿です。

御霊は、主イエスのものを受けて人に与え、人を主イエスのもとへ導きます(ヨハネ16章12~16節参照)。御霊の神から人を受け取られた主イエスは、御自身の血潮で洗い(十字架)、食物(復活の命)を与え、神の子として御父の前に出られるように備えをしてくださいます。

「父・御子・聖霊」の三位一体の神は、同じ目的・考え・思いをもって行動されるので、三つの人格でもひとりのように見えます。この交わりの中に入ることが人の救いです。

聖霊は主イエスへ、主は父なる神へ、父なる神は私たちをキリストの花嫁に、花嫁は夫(イエス)と共に隣人を愛します。

43章25節

彼らはヨセフが昼に帰って来るまでに、贈り物を用意しておいた。それは自分たちがそこで食事をすることになっているのを聞いたからである。

兄たちは、宰相官邸に招かれ主人と昼食を共にすると告げられます。戸惑っている彼らの頭で考えられることは、カナンから持ってきた贈り物を差し出すことでした。そして、自分たちの印象を多少でも良く…との欲もありました。

人が天の父の食卓に招待されたら、兄たちのように贈り物を用意すべきでしょうか。その場合、高価なものを差し出すべきでしょうか。いいえ、天の父の御許に行くには、何も必要ありません。天の父こそ全ての所有者で、不足はなにもありません。「銀はわたしのもの。金もわたしのもの」(ハガイ2章8節)「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである」(詩24・1)。

神は「贈りもの」は求めませんが、唯一、求めるものがあります。人が結婚に求めるのは、その人の持ち物・能力・家柄…ではなく、「あなた」であるように、神も「あなた自身」を求めます。弱さ、悲しみ、孤独、傷も持ったそのままの「あなた」です。

友よ。神は諸々の宝は求めません。神は最高の宝だけを求めます。それは、「あなた自身」です。

43章26節

ヨセフが家に帰って来たとき、彼らは持って来た贈り物を家に持ち込み、地に伏して彼を拝んだ。

ヨセフが17歳の時見た夢…ヨセフの束に兄たちの束がおじぎをした夢と、太陽と月と11の星がヨセフを伏し拝む夢(37章6~9節)…の前者が成就しました。しかし、兄たちは地にひれ伏していることが、弟が見たあの夢の実現だとはまだわかりません。

同じく、人は様々の出来事に直面し、悩み、苦しみ、不思議と思えることが、神の約束の実現であるとわからずにいます。それがわかるためには、霊の眼(まなこ)が必要です。

創世記のヤコブの姿に自分の自我を見、ヨセフと兄たちの姿に主イエスと自分の関係を見、出エジプト記に自分の救いの道程を見ます。霊の眼とは、悪霊を見分け、預言をする以上のこと、神の側に立って人間と出来事を理解する知恵です。さらにそれは、聖書の中の人物や民族の歴史や文学・預言書に、イエスがキリストとして浮き出て、彼の声が聞こえることです。

友よ。感謝しましょう。私たち神の子は、見えないことを見る恵み(聖霊・みことば)を与えられています。それは、聖書を通して、自分が体験しないことからも学ぶ、霊の世界を見ることです。しかし、「聖書」を通さないで、「聖霊」を強調することには気をつけてください。

43章29節

ヨセフは目を上げ、同じ母の子である弟ベニヤミンを見て言った。「これがあなたがたが私に話した末の弟か。」そして言った。「わが子よ。神があなたを恵まれるように。」

ヨセフは、ついに同じ母から生まれた、ただひとりの弟ベニヤミンと再会しました。胸に込み上げるものを押さえつつ、「わが子よ。神があなたを恵まれるように」と感情を抑え、しかし愛情深い呼び方で弟に接しました。

主イエスは全ての人の長兄ですから、だれかに会ったら、「私の父に祝福された、私の弟よ」とすぐに話しかけたいに違いありません。でもヨセフのように、「わが子よ」としばらくは挨拶言葉で話しかけられます。

ここに表された、「間」は大切です。ヨセフは「兄弟よ」と言う前に、ベニヤミンも含めた兄弟たちの罪を取り扱い、彼らを「神の子」にしようとしています。本当の兄弟になるには、「悔い改めて福音を信じ」(マルコ1章15節)「父なる神の子」になってこそ、本当の兄弟になれます。

友よ。教会は神の家族として愛し合うところですが、そこにも霊のけじめが必要です。それは、真実な兄弟姉妹になるには、一人ひとりが真実な神の子とならねばなりません。ここが崩れると、「教会(信じる者の集い・神のいのちによる交わり)」ではなく、「協会(組織・人の交わり)」になります。

43章30節

ヨセフは弟なつかしさに胸が熱くなり、泣きたくなって、急いで奥の部屋に入って行って、そこで泣いた。

ヨセフの20数年間の孤独との戦いは、兄たちへの苦い感情と表裏一体でした。自分を孤独へ追いやった張本人が、目の前でひれ伏しています。今のヨセフの力なら、仕返しも罰も何でも思いのままですが、彼の取った行動は別室で泣くことでした。

だれかに憎しみや怒りを持つと、相手への仕返しを考え、夜も眠れなくなるものです。ヨセフとて、そのような時があったに違いありません。しかし彼は、その感情が湧く度に自分の心の内にある悪と戦ってきました。神と罪(憎しみ・怒り)の狭間にいる者には、「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ロマ12章21節)のみことばとも激しい戦いをしなければなりません。

友よ。「敵への憎しみと怒りは、相手に盛る毒でなく、自分自身で飲み干す毒となる」とは本当です。ヨセフは、主によって、憎しみや仕返しの肉の思いに勝利しました。

彼の涙は、懐かしさや肉親に会えた感情を超えています。その涙は、御心に服従して、赦しを求め、葛藤し続けてきた者が流す、金メダル(勝利者)の涙です。

43章31節

やがて、彼は顔を洗って出て来た。そして自分を制して、「食事を出せ。」と言いつけた。

兄弟たちへの愛、とりわけ同じ母を持つ弟との対面は、ヨセフの胸を熱くしますが、まだ涙を見せるわけにはいきません。彼は、別室で泣いてから顔を洗って再び出てきました。

ヨセフの姿に、聖霊の実「愛・喜び・平安・寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5章22~23節)を見ますが、特に「自制」の意味を教えられます。

自制とは、自分で自分の意志や思いを制することでなく、神の御心=愛で自分を制することです。御霊の実は、全て愛の中にあるものです。ですから、「愛(喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制)」というように、愛の(カッコ)に入れるとより理解できます。

ヨセフには、「神に選ばれた家族の救い」の使命が与えられていたので、自分の感情や思い以上に、神の御心を優先させる愛(自制)に委ねました。

友よ。自制は、我慢や常識と世間体を守るなどとは似て非なるものです。自分で作りあげた自制心は、むしろ傲慢を生み出します。自分の思いよりも、神の思いを優先することが正しい愛です。すると、御霊の神はその人を助け、御自分の力を与えて相手を愛する実を結ばせます。それが御霊の実の「自制」です。

43章33節

ヨセフの指図によって、年長者は年長の座に、年下の者は年下の座にすわらされたので、この人たちは互いに驚き合った。

「神のみ知りたもう」とはこのことです。兄弟たちは、年長順に席に座らせられ、ここでも驚く以外にありません。

ヨセフと兄たちの関係を見ると、両者が全く反対方向に向いていることがわかります。ヨセフは彼らに罪を悔い改めさせようとし、兄たちは身の潔白を証明しようとしています。

神と人の間も同じで、神は人に罪を知らせるために係わりますが、人は自分の正しさを示そうと神に行きます。そのことを聖書では、自分の正しさを主張することを「律法主義」と言い、神から自分の正しさを証明していただくことを「恵み」と言います。どちらも神の救いを目的としますが、律法主義は人がつくる救いで、恵みは神がつくる救いです。

戸惑う兄弟なる友よ。自分に行われていることが理解できなくても、ヨセフなる主イエスに身を任せてください。神は、あなたが自分を知っている以上に、あなたを知っておられます。全ては、「主があなたの永遠の光となり」、あなたを正しい者にするためです(イザヤ書60章19~22節参照)。

43章34節 ①

ヨセフの食卓から、彼らに分け前が分けられたが、ベニヤミンの分け前はほかのだれの分け前よりも五倍も多かった。

年長順に席に着き、食事が並べられましたが、末弟ベニヤミンの皿には、兄たちの五倍のご馳走が盛り付けられました。彼は同じ母の子なので特別扱いを受けたのでしょうか。それにしても、五倍とは大差です。

末弟と兄たちは母が違う以上に、ヨセフ事件にベニヤミンが係わっていない、という違いがあります。パウロは、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれる…」が、「罪の中に絶対にとどまるな」と強調しました(ロマ5章20節~6章2節参照)。

罪を避けねばならないのは、罪があると神から愛されなくなるからではなく、その人が神から遠ざかるようになるからです。また、罪の重荷が、日常の生活から、自由と喜びを奪うからです。

事実、事件を知らないベニヤミンはこの接待を喜び、兄たちの心は不安の塊です。神に責められる罪ある者と、罪を認められない者の平安や祝福の差が「五倍」という数字があらわしているとも取れます。「主が罪を認めない人は幸いである」(ロマ4章8節)。

友よ。「あなたの荷を委ねよ」(詩55・22)とある最大の「荷」こそ罪です。

43章34節 ②

彼らはヨセフとともに酒を飲み、酔いごこちになった。

「おいおい、ちょっと、お兄さんたち。ここで酒に酔っていて大丈夫?」と聞きたくなる場面です。彼らは、恐れと畏れをもってヨセフに接していましたが、いつの間にか調子に乗って自分のことを忘れたようです。

だれでも神の前に出た初めの頃、恐れと畏れを持っていました。しかし、神の寛大な愛に包まれることに慣れると、自分が被造物であること、罪人であること、謝らねばならない者であることを忘れます。そして、兄たちのように身分を忘れて振舞い始めます。

神の前では、「恐れ」と「畏れ」の両方が必要です。「恐れ」は、自分の罪、高慢、被造物で有限、などを知ることです。「畏れ」は、その罪人を赦し、神の子とし、守ってくださるお方に感謝して仕えさせていただきたいとの思いです。

愛されている友よ。「親しき中にも礼儀あり」のことをパウロは、「神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」(ロマ2章4節)と言い換えました。神との正しい関係を保つことが、恵みをいただくことになると忘れないでください。

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