キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第47章

47章1節 ①

「あなたがたは答えなさい…。『家畜を飼う者でございます』と…。そうすればあなたがたはゴシェンの地に住むことができるでしょう。」

ヨセフは、自分からパロ王に家族の職業を伝えました。家族にも、王から職業を聞かれたら、「羊飼い」と言うように指示しました。彼は、家族をゴシェンに住まわせようとしています。

現代の神の子たちにとって、ゴシェンの地で暮らすとは、「礼拝中心の生活」を指しています。ヤコブ一族が羊飼いだったように、主イエスの羊となって養い守っていただかねばなりません。

そこは、エジプトの中にあっても、エジプトの基準でなく、「神の国(神の基準・支配)」です。ただし、ゴシェンはエジプトの中心から遠く離れた所でした。誰もが、皆と「同じ」にこの世の「中心」での生活を望み、人との違いや外れることを恐れます。

友よ。あなたは家族をどこに導きますか。エジプトの地位と高収入と名声を得るのに都合のよいエジプトの中心地(この世の価値観)ですか。間違った判断で、多くの子たちが霊のいのちを失っています。違いと外れ、を恐れないでください。「礼拝中心(ゴシェン)」の地こそ、「私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来る」(詩23・6)所です。

47章1節 ②

ヨセフはパロのところに行き、告げて言った。「私の父と兄弟たちと羊の群れ、牛の群れ…がカナンの地からまいりました。そして今ゴシェンの地におります。」

ヨセフは、パロに家族が来たことを報告しました。その時、彼らが羊飼いであり、ゴシェンに住むことを告げました。しかし本来は、先にパロの許可を得てから、家族をゴシェンに連れて行くべきではなかったでしょうか。

ヨセフは間違っているのでしょうか。いいえ、彼は正しい判断をしました。なぜなら、私たちの王は主イエスであり、パロはその次です。パロの意見よりも、主の言葉が優先します。

もし、先にパロの意見を聞くならば、「ゴシェン」(教会・礼拝)ではなく、パロを王(神)として服従し、仕事や家庭や付き合いを優先するエジプトの中心地に住むことを命じられます。

友よ。毎朝、パロの言葉(テレビ・新聞など)よりも先に主の言葉を聞き、主の御心に従うことを告白(祈る)してください。「約束された方は真実な方ですから…しっかりと希望を告白しようではありませんか」(ヘブル10章23節)。ゴシェン(教会)はエジプト(この世)の中にありますが、私たちの従うべき真の王イエス・キリスト(黙19章16節)は、エジプトでなくゴシェンにおられます。

47章3節

パロはヨセフの兄弟たちに尋ねた。「あなたがたの職業は何か。」彼らはパロに答えた。「あなたのしもべどもは羊を飼う者で、私たちも、また先祖もそうでございます。」

移住して来た羊飼いたちが、エジプト王の前に出ています。少し前の彼らは、食糧を求め、高官の前で震えていました。でも今は、自信を持って受け答えしています。

この世界でも、為政者を無視した生活はできません。彼らに対するその時々と場面で知恵が必要です。ヤコブ一族が「羊飼いです」と答えたのは、ヨセフから授かった「神の子の命を守る知恵」でした。私たちも御霊の知恵によって、社会を歩むべきです。

その知恵の根本は、「主を畏れることは知恵の初め」(箴1章7節・新共同訳)です。御霊は、「イエスを主」と信じさせ、また「何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。言うべきことは、その時に聖霊が教えてくださる」(マタイ10章19~20節)。

知恵は神に関すること、知識は世に関すること、とあえて定義するならば、知恵(神)によって知識(この世)をコントロールすべきです。

友よ。身の回りに起こる様々の問題に、御霊の知恵を求めましょう。そして、「へびのように賢く、はとのように素直であれ」(同16節)のみことばも心に留めてください。

47章4節

彼らはまたパロに言った。「…あなたのしもべどもをゴシェンの地に住まわせて下さい。」

イスラエル人にとって、ゴシェンはエジプトの中に備えられた嗣業の地で、今日の教会とも言えます。人々は、権力、財産、快楽を求めて町の中心に身を置きたがりますが、神の子たちは神が備えた所に住みます。しかしそこは、孤立、少数、世の価値観から外れた場です。

主は、心の貧しい者や、義のために迫害される者に、「天の御国はその人たちのものだ」と言われました。「心の貧しい者」は、「(神の)霊の乞食」ですから、世にあるあらゆるもので満足を得られません。「義のために迫害される者」は、皆と価値観を同じにできず、真理(神の基準)を求めます(マタイ5章3・10節参照)。どちらも、世には満足できず、孤立し、少数で、人並みであることから外れます。

友よ。世には、感動するドラマ、歌、人生、親切、犠牲、忍耐、愛など多くあります。それらに感動し、喜びや悲しみの涙を流し、自分を省み、へりくだらされることもあります。しかし、神の国の感動と同じレベルではありません。その全ての基準は、「神から出て、神に導かれ、神に帰するか否か」です。「神」がなければ「全ては空」になります(伝道1章1節)。

47章6節

「エジプトの地はあなたの前にある。最も良い地にあなたの父と兄弟たちとを住ませなさい。」

ヤコブの家族は、パロから最大の自由と恵みの約束を受けました。もし、あなたが選択の自由を得たなら、どの土地を求めますか。

人は、人種・生年月日・国籍・両親・兄弟・性別など、一番大事なことは何一つ自分で選んでいません。選択権なしですが、実はそれ以上の「選択権」が与えられています。それは、自分の存在を、「主にあって受け取るか否か」です。

400年ほど後に、神はイスラエルの各部族に、くじで相続の地を分けました(ヨシュア18章参照)。その時、主から受け取らず(くじを引かず)、自分でヨルダン川の東側を申し出た部族がいました。しかし、自分の嗣業の地を自分で決めた部族は相続地を失い、くじで主から受けとった部族は、割り当てられた地に住み続けました。

あなたの出生(両親・性別・遺伝子・年代・国籍)に関する全て、気質、能力、伴侶、家族、仕事なども、今一度「主よ、あなたから受け取ります」と決意してください。

その時、あらゆるものが「最も良い地」に変えられます。神は神を愛する者(御心に従う者)の全てを益に変えられます(ロマ8章28節)。

47章7節

そこでヨセフは父ヤコブを導いてパロの前に立たせた。ヤコブはパロを祝福した。

(口語訳)

ヨセフは、世界で最も大きな国の王の前に羊飼いの父を伴いました。こんな時、パロがヤコブに祝福を与えるべきなのに、ヤコブがパロを祝福する逆転がおこりました。

世界の政治経済界のリーダー達は、「人々を祝福するために」と言いますが、彼らこそ覇権主義、資源や経済の利権争い、投機、浪費を加速させ、世界の破滅を早める立役者になります。

罪人が与える「祝福」の言葉の裏には、「自分の利益のため」が張り付いています。自己中心から出る祝福は、本当の祝福にはなりません。本当の祝福を授ける人は、ヤコブ(神の子)であってパロではありません。なぜなら、神の子が与える祝福は、「自分の祝福」でなく「神の祝福」だからです。「地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される」(28章14節)。

「全ての人…王…高い地位にある人々に神の祝福を祈れ」と神は言われます(Ⅰテモテ2章1節参照)。

友よ。あなたこそパロを祝福するヤコブです。その祝福は、神を与えることであり、神の御業が行われるように、祈ることです。私たちの祈りが世界を変えます。

47章8~9節

パロはヤコブに尋ねた。「あなたの年は、幾つになりますか。」ヤコブはパロに答えた。「私のたどった年月は百三十年です。」

ヤコブがパロを祝福したのは、彼にエジプト王をも祝福する威厳が備わっていたからです。彼が、ただ年を重ねた羊飼いなら、身のほど知らずの田舎者になります。

多くの老人たちを見ても、年齢が威厳を増すとは言えません。ヤコブの威厳は、130年間の人生経験にありますが、その歩みの核は「神との係わり」でした。特に、この数10年間は、家族の中に自分の罪の実を刈り取る辛い年月でした。その刈り取りを通して、本当の悔い改めに導かれ、神の前に低く低くされました。

神の前に低くされた量だけ、彼の人格の威厳は増したのです。「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます」(ヤコブ4章10節)。

威厳は、神に低くされた人が受ける冠です。低くされた人は、過去の罪の結果を受け取り、主に自分を差し出した人です。神の導きによって辿った年月とは、高慢を砕かれ、主に依存する訓練の年月です。その年月が長く深いほど威厳を増し加えます。

悩みの友よ。今の悩みと苦しみと涙にも、冠があります。

47章9節 ①

「百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」

パロを祝福したヤコブなのに、「私の齢はわずかで、ふしあわせで、先祖に及びません」と弱気になっています。彼は、「もっと長生きしないと不幸だ」と言ったのでしょうか。いいえ、彼は今までの人生を神に心から感謝しているが、振り返るとなお不満がある、と「聖なる不満」を口にしたのです。

聖なる不満は、神の基準に照らした自己評価です。先人曰く、「人の年齢は一年、一年を積み重ねる数字の単位では決まらない。なぜなら、浪費した時間を差し引かねばならないから」と。

ヤコブは、神に家族が一つとされたことを感謝していますが、130年の中の多くの年月が罪に支配されたことを思い返し、「私の齢は…ふしあわせ」と言いました。

友よ。自分の年に満足ですか。過去の人生に「食い荒らすいなご(罪の結果)」(ヨエル1章4節)の傷跡を見る度に悔みます。しかし、聖なる不満を持つ者(感謝しつつ罪を悲しむ者)に対して、「食い荒らすいなご…。食いつくした年々を、私はあなたに償おう」(同2章25節)と主が言われます。

47章9節 ②

「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで…。」

ヤコブが言う「ふしあわせ」について、ヤコブ自身に答えてもらいましょう。

…私は信仰深い家に生まれ、幼い時から神を教えられて育ちました。しかし、私は神の御心がわからず、自我のままに行動し、兄と父をだまして怒らせました。

そして、父を悲しませたまま、叔父の所に逃げました。その途中で、神と出会いましたが、すぐまた元の自己中心な自分に戻り、20年を過ごしました。妻たちと子ども同士の争いが絶えず、ハランの義父から夜逃げしました。

その途上で、神が再び出会ってくださいました。でも、その時点で、子どもたちは私を憎み、兄弟同士で殺し合うほど心が荒(すさ)んでいました。私の自我で家族を支配せず、もっと早く神に明け渡して家族を愛せたら、神の栄光を現せたのに…、私は本当に「ふしあわせな者」です。

「ふしあわせ」と思う友よ。その思いこそ、聖霊による謙遜の恵みです。その者には神が、「私の民は、恥を受けることはない」(ヨエル2章26・27節)と繰り返し、保障してくださっています。「主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」(詩136)と叫びましょう。

47章12節

ヨセフは父や兄弟たちや父の全家族、幼い子どもに至るまで、食物を与えて養った。

ヤコブの家族全員がヨセフの養いを受け、周りが飢饉でも過不足なく暮せました。皆がこの恵みに招かれていますが、受け取る年齢は人によってそれぞれ違います。

ヤコブ…胎内から神の祝福を受けていたのに、「光を知りつつ、暗闇の中」を歩み、神の霊の食卓に着いたのはペヌエル経験後でした(28章以降)。

兄たち…親の罪の中に生まれ育ち「光を知らず、暗闇の中」を歩み、飢饉からエジプトに引き寄せられて神の食卓に着きました。

ヨセフ…小さい時に「光を知って、光の中」を歩み、十七歳の時以来、主の食卓で食事をしてきました。どの年齢からでも、「霊の食事」が始まることは良いことですが、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」(伝12章1節)は、重い意味を持ちます。

神は、家族全員を霊の食卓に招きますが、最初は、父ヤコブの悔い改めと献身からでした。そして、二十年後に家族全員が食卓に揃いました。

友よ。あなたから神の祝福は始まっています。まず、あなたが霊の食事をしてください。すると、必ずあなたの家族はあなたの霊の食卓に招き寄せられてきます。

47章13節

ききんが非常に激しかったので、全地に食物がなく、エジプトの地もカナンの地もききんのために衰え果てた。

今日では、飢饉に備えて食料を備蓄し、さらに他国からの輸入や援助も期待できますが、当時の長い飢饉は国を滅ぼしました。

霊的飢饉(アモス8章11節)については、霊の食物を備蓄することも、輸入(他者から)もできません。荒野の「マナ」も、朝ごとに受け取り、日が昇ると溶け、二日分は与えられませんでした(安息日前は例外)。

霊のマナは、自ら、みことばを読み、祈りの中で日々得る以外ありません。ある人は、聖書知識や教会、牧師、献金、奉仕などを「代用マナ」として用います。それらは薄めたミルクになり、飲む人を徐々に弱らせます。

霊的飢饉は、毎日食事(みことば)を取らない怠慢の結果です。「しかし、ヨセフは豊作の時に食糧を蓄えたのでは?」それは、自分の中に蓄えたのでなく、天の倉庫からの取り出し方を身に付けた(蓄えた)のです。神から直接、より多く恵みを引き出せるか否かが、信仰の質、と言えます。

霊のマナは蓄えられませんが、マナの取り出し方(信仰)は訓練され、熟練するものです。人は自分の身に何も持ちませんが、天の倉庫のカギ(信仰)を持つことはできます。

友よ。人生を豊かにするのは信仰です。

47章14節

ヨセフはエジプトの地とカナンの地にあった全ての銀を集めた。それは、人々が買った穀物の代金であるが、ヨセフはその銀をパロの家に収めた。

カナンとエジプトの激しい飢饉は続きます。1年目は蓄えでしのぎ、2年目からは穀物の種まで食べ、その後は持てる物全てを差し出して食糧に代えねばなりません。 

人が試練に直面するときも、まず自分の知恵で解決を計り、次にお金や家畜や土地などの財産を用い、それでもだめだとわかると誰かに助けを求めます。

ヨセフの計画は、エジプトの民を王のものとすることです。同じく、主が人に試練を与えるのも、人が神以外に頼るものから手を離し、主に身を委ねさせるためです。「金持ちが天の御国に入るのは難しい」(マタイ19章23節)とある「金持ち」とは、資産家のことではなく神以外のものを「財産(生存)」とする人のことです。

友よ。何かが奪われ、あるいは愛していた人が離れて行く時、恐れないでください。それは、あなたに本当の宝「ほふられた小羊…力と富…」(黙5章12節)が与えられるときです。神は、あなたが持つものを差し出すように働きます。それが、試練でもあります。その時、惜しまずに差し出してください。その代価として与えられるのは、「主イエス・キリスト」です。

47章16節

「あなたがたの家畜をよこしなさい。銀が尽きたのなら、家畜と引き替えに与えよう。」

力と富と栄光と知恵に満ちたお方は、それらを用いて一人ひとりの魂を自分に明け渡させようとします。ヨセフは、食料と引き換えにお金、次に家畜を求めます。家畜は、生産手段と食糧でもあり、さらに大切な財産です。

人にとって大事なものは、周囲の物(お金・財産・地位)よりも身近な人(家族)、身近な人よりも自分(存在)です。

ヨブが財産、家族、健康を失ったとき、「皮の代わりには皮…。人は自分のいのちの代わりには、全ての持ち物を与える」(ヨブ2章4節)と言いました。それは、ヨブが奪われ失ったものは、彼の本当の財産ではありませんでした。

彼の本当の財産(いのち)は、「私の信仰=自分の行いで作る信仰」になっていました。ついに神は、「自分を義とするために私を罪に定めるのか」(同40章8節)とヨブの罪を指摘し、悔い改めに導き、後に「二倍の祝福」を与えました。

エジプト人は、自分の財産を失う量だけ、ヨセフから食糧を受け取りました。

友よ。私たちも自分の命を失う分だけ、ヨセフ(主イエス)の食物を得て生きることができます。そして、人を本当に祝福するのは、自分で作ったものでなく、主イエスから受け取る「二倍の祝福」と言われる霊のものです。

47章18~19節

次の年、人々はヨセフのところに来て言った。「わたしたちの銀も…家畜の群れも…残っていません。…食物と引き替えに…農地とを買い取ってください。」

民は、お金と家畜を食料に代えますが、飢饉はなお続き、とうとう農地を差し出しました。富む者はさらに富み、持たない者は持っている物まで失う現実に直面しています。農地を手放すまで追い詰められると、生産手段を完全に失う本当の死活問題です。

神の御心は、ヨセフが飢饉を通して執っている政策と似ています。目的は、エジプトの民(罪人)を御自分の民(神の子)にすることです。そのためには、困難な出来事を用い、人の力の限界に直面させます。神は「現実を変えよ(飢饉を乗り越えよ・愛する者になれ・性格を変えよ)」と言っているのでなく、「あなたを私に委ねよ」と言っています。

友よ。神が望む悔い改めとは、現実の問題を対処できる人になることでなく、父の御手に自分を委ねる神の子になることです(Ⅱコリ7章9・10節参照)。一日も早く、お金でも家畜でも農地でもなく、あなた自身を神に差し出してください。自分で責任を取ろうとするのではなく、放蕩息子のように、そのままで父の御胸に飛び込んでください。

47章19節

「私たちは農地といっしょにパロの奴隷となりましょう。どうか種をください。そうすれば私たちは生きて、死なないでしょう。そして、土地も荒れないでしょう。」

ヨセフの政策の結果、人々は「パロの奴隷になります」と告白しました。神が罪人に達成したいことは、「イエスを主と告白」させ、さらに「イエスを主として生きる」ように導くため、「奴隷となります」と告白させることです。

私たちもエジプトの民と同じく、最初に銀(お金)を、次に家畜(労働・奉仕)を、さらに追い詰められると土地(家や不動産)を手離します。

しかし神は、「全焼のいけにえや、その他のいけにえ」(Ⅰサム15章22節)でなく「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」(ロマ12章1節)と、「あなた自身」を求めます。

神が人に初めに望むことは、「イエスを神」とすること、次は「イエスを主」とすることです。「神」には「自分を助けてくれる神」の思いが濃く、主体は自分ですが、「主」には、「主の奴隷としての私」の意味合いが濃く、主体はイエス御自身です。

友よ。「主の奴隷(イエスを主とする)」にこそ、本当の自由があります。「子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」(ヨハネ8章36節)。

47章20節

ヨセフはエジプトの全農地をパロのために買い取った。ききんがエジプト人にきびしかったので、彼らがみな、その畑地を売ったからである。

何年も続く飢饉に、民は食料と引き換えに全ての物を差し出しました。数年のうちに、エジプトの大部分はパロの領地になりました。

世界は神のものですが、人類は自分の私有物にしました。以後、家族同士、民族と民族、国と国の間に敵意と争い、憎しみ、分裂分派なる「愛と命の飢饉」が起こり続けています。

そして、その飢饉の解決に、さらなる利権主義、殺人、戦争などが用いられ、何億もの人命が奪われました。神は、「彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され」(ロマ1章24節)、飢饉を容認しているのでしょうか。いいえ、むしろ立ち返らせるために、罪の果実を見せて「自分自身を罪に定め」(同2章1節)させ、悔い改めに導こうとしています。 

世界のあらゆる飢饉(食糧・愛・真理・命)の解決は、ヨセフ(主イエス)に買い取られ(贖われ)、神の御手に返され(新生)、「神の国」となることです。困難(飢饉)に出会わなければ、自分の命(銀・家畜・畑地・自我)を差し出せません。

友よ。飢饉で失わねばならないものは「自分」で、得るべきは「主イエス」です。

47章21節

彼は民を、エジプトの領土の端から端まで町々に移動させた。

聖書の中に、ヨセフほど主イエスを映し出す人物はいません。知恵があり、パロに代わって行政をこなし、民を引きつけ、国を堅く建て上げました。主イエスは、罪人を救うために父から遣わされ、十字架で私たちを買い取り、父へお返しになりました。

ヨセフは、飢饉で死ぬばかりの人々を、パロの民とし、彼らをエジプト中に移動させました。同じく主は、罪(飢饉)から贖った人々を、全世界(エジプト中)に遣わします。それは、さらに多くの人々に、神の子となって生きる道があることを証しさせるためです。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい(マルコ16章15節)」と救われた神の子たちにお命じになりました。

しかし、自分の現実に落胆し、「私には証しや伝道はできない」と、使命と現実の不一致に悩む友よ。あなたの霊的現実は現実ですが、主から受けた真実な恵みも現実です。そこにあるのは時間差です。困難の中でも信じ続ければ、時が来て、神が恵みを見させてくださいます。主は今日も、「だれを遣わそう」と悩んでいます。「私がおります」(イザヤ6章8節)と勇気をもって進み出てください。

47章23節

「私は、今、あなたがたの土地を買い取ってパロのものとしたのだから。さあ、ここにあなたがたへの種がある。これを地に蒔かなければならない。」

ヨセフは土地を買い上げ、エジプト全土をパロの支配下に置きました。そして、民に畑に蒔く種を与え、耕すように導いています。

人の魂を贖われた主は、暴君として人々を支配することなく、自ら人々に必要なものを与えて仕えるお方です。なによりも、生きるための「種」を与えます。種は神のいのちを秘めた「みことば」です(マタイ13章31節参照)。さらに、「いのちの水(聖霊)」(ヨハネ4章14節)も一緒に備えてくださいます。

人が生きるための全ての「いのち」は、主イエスの中にあります。しかし、その種を手に持っても、畑に蒔かねば収穫はありません。

種は、まず自分の畑(心)に蒔かねばなりません。「蒔け」とは「用いなさい」ということです。自分の心がどうであろうとも、種(神のいのち)に期待することです。

次に、他者の畑に種を分けることです。それが伝道です。主の農民(私たち)は種を蒔く人です。

友よ。ヨセフ(主イエス)の穀物庫から種(聖書)を受け取り、聖霊を信頼して、自分にも、他者にも種を蒔き続けてください。

47章24節

「収穫の時になったら、その五分の一はパロに納め、五分の四はあなたがたのものとし…。あなたがたの…食糧としなければならない。」

ヨセフは国民をパロの奴隷としますが、国家公務員のようにはせず、各自に農地を貸し、種を与え、収穫の中から税金として年貢を収めさせました。どこの国でも税金をもって国が運営されます。ヨセフが課した収入の5分の1=20%の税率はとても良識的です。

クリスチャンが、主から受けたものを主にお返しするには、いくらが良識的でしょうか。5分の1ならりっぱでしょうか。神は、「イスラエルの…最初に生まれる初子はすべて…私のために聖別せよ。それは私のものである」(出13章1節)と語りました。神の子とされた者は、贖われた初子ですから神のものです。したがって、10分の1でも2でもなく、「10分の10」こそ神にふさわしい献げものです。

友よ。「5分の1」と「10分の10」は矛盾でしょうか。否、自分が使う「5分の4」を、神の栄光のために使うならば「10分の10」になります。「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」(Ⅱコリ5章15節)が最も正しい回答です。

47章25節

すると彼らは言った。「あなたさまは私たちを生かしてくださいました。私たちは、あなたのお恵みをいただいてパロの奴隷となります。」

上のヨセフと民との関係は、神と私たちの関係を象徴的に表しています。

愛は強制ではなく、自由な決断です。民が自ら進んで奴隷になることを申し出たのは、ヨセフの民に対する行動が「愛」だったからです。

人は、真実な愛を受けると、自ら進んでその人に仕えたいと願います。イザヤは主イエスの十字架預言の中で、「それゆえ、わたしは、多くの人々を彼(イエス)に分け与える」(イザヤ53章12節)と記し、その理由を、「彼が自分のいのちを死に明け渡した」(同)からだと言いました。

パウロも、主イエスが「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われた(ピリピ2章8節)」ので、自分から進んで「キリスト・イエスのしもべ」(ロマ1章1節)になりました。 

主の奴隷の身分は、世界で一番、「安全な地位・栄光に満ちた地位・聖霊に一番助けていただける地位・主に一番愛される地位」です。

友よ。この素晴らしい立場があなたに約束されています。だからパウロは、主の奴隷以外のものを「ふん土」(ピリピ3章8節・口語訳)とまで言いました。

47章27節

イスラエルはエジプトの国でゴシェンの地に住んだ。彼らはそこに所有地を得、多くの子を生み、非常にふえた。

ヤコブがエジプトに来た年は130歳で、神の御元に帰ったのが147歳でした(創47章28節)。したがって、上の言葉はエジプトで過ごした17年間の状況を教えています。 

個人にも教会にも、「成長する時」と「試練の時」と「衰える時」がありますが、あなたはどの時を望みますか。成長の時は、自分の力を誇ります。試練の時は、罪と世の力を見て恐れます。衰えさせられる時は、神の力を見るときです。

そして、最も祝福された時は、神の力強い御手の元にへりくだらされる時です。「しかし、神はさらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる』」(ヤコブ4章6節)。

人は「増える」ことを願い喜ぶものですが、そこには高慢という罠もあります。しかし、減らされる時は最も神に近づき、真理を最も深く悟る霊的成長の時です。

自ら困難を求める必要はありませんが、極力避ける必要もありません。すべてを神から受け取ると、神が成長させてくださいます。

47章28節

ヤコブはエジプトの地で十七年生きながらえたので、ヤコブの一生の年は百四十七年であった。

ヤコブの生涯も終わろうとしています。147年という長い年輪の中でも、とりわけ太く目立つ幾つかの「年輪」があります。

  1. 神の祝福を願って長子の権利と父の祝福を奪った罪の年輪
  2. 叔父のいるハランに逃げる時に神と出会った、ベテルで刻んだ年輪
  3. その叔父から逃げる途中、神と争ったペニエルで刻んだ年輪
  4. セフを失い、神への希望を失うことで刻んだ嘆きの年輪
  5. ヨセフと再会しエジプトに導かれた感謝の年輪
  6. そして最後の年輪は、神に帰る時に刻みます

年輪は、夏と冬では大きくなる速度が違います。密度の濃い年輪は冬期間に作られます。日照が少なく短く、希望がないと思えた時、年輪はより強く刻まれます。年輪は、神との関係を記念する信仰の証しです。

あなたの人生には、どのような年輪が刻まれましたか。人生年輪は、すべて「神」によって貫かれ、まとめられたものでなければ、最後にバラバラになります。罪の多いヤコブの生涯でしたが、彼の147年は「神」という年輪でまとめられていました。神が彼の生涯をまとめてくださったのです。

47章29節 ①

イスラエルに死ぬべき日が近づいたとき、その子ヨセフを呼び寄せて言った。

だれにでもこの日が来ます。「人は生きてきたように死ぬ」とも言われます。人は死んで子や知人に何を残すのでしょうか。争い、貪欲、悲しみ、財産、誠実、希望、神…。

作家の三浦綾子さんは、「最後に死ぬという仕事が残っている」と常々口にされたと聞きました。それには、「死んだら残るもの」を超えて、「死んで残すもの」を早くから準備しなければなりません。

信仰は、短期間では残せません。準備せずに残るものは、やがて消えうせる世のものだけで、子孫に争いや悲しみや間違った道さえ与えかねません。

ヤコブは、兄弟たちの中からヨセフを呼び寄せました。彼は、悔い改めてイスラエルにされた時から、子に残すものは「信仰」と決めていました。そして、「信仰の継承はヨセフ」と考えて育てました。一時挫折したかに見えたこの願いに、今、神は完全に答えてくださいました。

友よ。呼び寄せるヨセフは、あなたのそばにいますか。あなたが生きてきた証として、それを超えた「子孫の命」としての印籠(信仰)を渡す人はいますか。「 塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」(伝道12章7節)。

47章29節 ②

イスラエルは…。「私に愛と真実を尽くしてくれ。どうか私をエジプトの地に葬らないでくれ。」

ヤコブは、死後のことをヨセフに明確に指示しました。彼はエジプトに来てから優遇され、豊かで何不自由のない生活を送っています。人は、恵みの場にしがみつくものですが、彼の魂はそこにはありませんでした。

死を目前にして、死の現実を見つめる人・死んだ後の家族を見つめる人・死んだ先の救いを案じて葬儀や戒名や法事のことを見つめる人…などさまざまです。

ヤコブが見つめていたものは、「これらの人々はみな…約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白し…天の故郷にあこがれていたのです」(ヘブル11章13節)という、天にある都でした。

水中のヤゴが脱皮して、空中を飛ぶトンボになるように、人は肉体(ヤゴ)の中に霊(神のいのち)を宿していなければ、肉体を脱いでも(脱皮)、霊の体(トンボ)として天国(空)へはばたくことができません。

肉体を終えてから天国に入るのでなく、肉体の中に「天国のいのち」を持っているから、天国に入れるのです(ヨハネ3章3~5節。ルカ17章21節参照)。

47章30節

「私が先祖たちとともに眠りについたなら、私をエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってくれ。」

エジプトに来てからのヤコブは、「ヤコブ」ではなく「イスラエル」にふさわしい、一家の権威ある霊的指導者です。指導者に求められるのは、模範の力と、目先の利益を超えた、皆の将来まで考えて行動する自制の力です。

彼は、この地の豪華な墓に入り、一族を超えてエジプト人からもヨセフの父として崇められることも可能です。しかし、後に残る家族のためにも、先祖の墓に葬るように指示しました。

「先祖の地に葬れ」とは、第一に、エジプト(この世)が自分の住むべき所でないこと。第二に、イスラエル民族にもエジプトが住むべき所でないこと。第三に、やがて神がここから約束の地カナンに連れ戻されること。第四に、自分たちの国籍は天国(カナン)であることを示すためでした。

友よ。あなたの子孫への遺言はなんですか。それは、自分と子孫の行く所を示すものですか。「彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています」(ヘブル11章14節)こそ、子孫に残す「いのちの遺言書」ではないでしょうか。

47章31節 ①

それでイスラエルは言った。「私に誓ってくれ。」そこでヨセフは彼に誓った。

イスラエルは、ヨセフの手を自分のももの下に入れさせて、自分の遺骸をカナンに葬る誓いをさせました。ももの下に手を入れさせることは、何か重要な約束をする時の当時の方法であったと思われます。

親子がそこまでする必要があるのかと考えますが、この約束は家を買うよりも、さらに結婚よりもさらに重要です。なぜなら、これは天国へ行くための契約であり、子孫全ての救いに係わるからです。

主が、「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう」(マルコ8章36節)と言われた中に、伴侶や子たちの命も含みます。愛するとは、その人に命を与えることで、その命はキリストにある命でなければなりません。

友よ。死んだ先に持って行けるものは、「愛はいつまでも絶えることはない」(Ⅰコリ13章13節)と言われるキリストの愛(いのち)です。イスラエルがヨセフに強く誓わせたようには、家族に言えない弱い自分に失望するものです。しかし、主に真剣に祈ることは、神と自分との誓いになります。家族の救いをまず、神に誓う(真剣に祈る)ことはできます。

47章31節 ②

ヨセフは彼に誓った。イスラエルは床に寝たまま、おじぎをした。

厳しい家父長制度の中で、父が子にお辞儀をすることは特別なことです。もちろん、日ごろ「ありがとう」と挨拶し合うのは当然ですが、ここはそれ以上の意味があります。

この場面のお辞儀は、ヨセフがカナンに自分を葬る約束をしてくれたことへのお礼を超えて、ヨセフがかつて見た夢、「見ると、太陽と月と11の星が私を伏し拝んでいるのです」(創37章9節)に関係があります。かつてヤコブは、「私や、おまえの母上、…地に伏しておまえを拝むとでも言うのか」(同10節)と不信を募らせたことがありましたが、今、預言の言葉が成就しました。

主イエスの洗礼の願いを、バプテスマのヨハネが遠慮された時、主は、「全ての正しいことを実行するのは、私たちにふさわしいのです」(マタイ3章15節)と言われて受洗されました。

ヨセフにお辞儀をしたイスラエルの姿は、「神さま。あなたがヨセフによって家族を救うという約束は、寸分たがわず本当でした。あなたの御名をあがめます」と言って、神に礼拝(おじぎ)した姿でした。

友よ。私たちも、主イエスにいつもおじぎ(礼拝)したいものです。

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