キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第49章

49章1節

ヤコブはその子らを呼び寄せて言った。「集まりなさい。私は終わりの日に、あなたがたに起こることを告げよう。」

ヤコブは、子たち全員を臨終の床の側に集めました。そして、これから一人ひとりに起こることを告げようとしています。これはヤコブの遺言である以上に、神の預言です。

聖書は、神のことば(啓示)を預る「預言書」で、出来事を予測する「予言」とは違います。予言は、これから起こる出来事に重点を置き、その出所は人とサタンです。

預言は、未来の断定ではなく、過去、現在、未来を啓示し、人の内側に光を当て、人が神と正しい関係に入るように導きます。神からの預言は、人に間違った道と災いを避けさせ、祝福するためです。預言(警告の言葉)を聞き、悔い改めて立ち返ると、その預言は実現しません…これこそ預言の目的です。

また、神の勧めの預言(祝福への導き)に服従すると、預言の通りに…成就します。したがって、神の預言の言葉は、神の一方通行ではなく、人の応答によって、現実の出来事は変化します。

いつの世にも、神の預(予)言者?を求める人々がいますが、危険です。彼らは、預言(神の御心)よりも、自分の好む言葉(予言・出来事)を求めます。

聖書こそ神の預言です。聖書以上に、預(予)言を求めるのは間違いです。預言はすでに与えられています。

49章2節

「ヤコブの子らよ。集まって聞け。あなたがたの父イスラエルに聞け。」

昔は父親の権威によって、「子どもたちよ、集まって聞け」と言えました。しかし、今日は親子が友人関係になり、親が子どもの意見を聞いている家族が多くなっています。 

しかし、昔のように親の権威が強ければ良いとも言えません。事実、間違った権威に傷ついた子どもたちが多くいます。父としてのヤコブの権威は、彼が「父イスラエル(神の王子)」になっていたからです。

自己中心だった時の「父ヤコブ」には権威がありませんでした。世の人の権威の後ろ盾は力(権力・お金・地位・能力…)ですが、聖書の権威は愛です。また、権威(愛)は神と人の両方から授けられてこそ、本当の権威(愛)になります。

子から授けられる父親の権威は、神からの権威(愛)を正しく子どもに用いた(愛した)結果、子どもから受ける尊敬のことです(エペソ6章1~4参照)。

親なる友よ。神の権威によるリーダーとして家族を導きたいものです。それには、自分が「ヤコブ」から「イスラエル」に生まれ変わることに尽きます。子どもたちは「父ヤコブ」の言葉は聞きませんが、「父イスラエル」の言葉には耳を傾けます。

49章3節

「ルベンよ。あなたはわが長子。わが力、わが力の初めの実。すぐれた威厳とすぐれた力のある者。」

長子は、親の命を引き継ぐ初めての子、次の子を得るまでの唯一の子、後に続く兄弟たちの模範となる子…と多くの存在意義と期待を担わされます。中には、長子であるプレッシャーに悲鳴を上げる人もいます。

聖書では、長子に跡継ぎの権利が与えられていますが、「権利」には「責任」も同居しています。しかし、権利に責任が伴う分、大きな「祝福」も約束されています。そして、それを与えたのは、親を超えた神御自身です。

パウロはテモテに、「テモテよ。あなたに委ねられたものを守りなさい」(Ⅰテモテ6章20節)と諭し、「…委ねられている良いものを、私たちの内に宿る聖霊によって守りなさい」(Ⅱテモテ1章14節)とも言いました。

神に贖われた長子(永遠の御国の世継ぎ)なる兄弟姉妹よ。ルベンの権利と責任と祝福は、あなたに与えられています。神は長子として輝くために、ルベンに与えた「すぐれた威厳とすぐれた力」をあなたにも約束しておられます。また、テモテが使命を果たすために受けた聖霊も、あなたに与えられています。

49章4節 ①

「だが、水のように奔放なので、もはや、あなたは他をしのぐことがない。あなたは父の床に上り、そのとき、あなたは汚したのだ。」

ルベンは、父の後を継ぐべく家督権を与えられた長男でした。それは、家の相続以上に、神の御国の世継ぎとしての立場でした。その彼が、かつて父のそばめと汚れた関係を結んだことがありました(35章22節)。それは一時の情欲に負けてしまったからです。

ヤコブはなぜ昔のことを、今、取り出すのでしょう。父が子から受けた恥への恨みでしょうか。否、ルベンを愛するゆえにあからさまに忠告したのです。「あからさまに戒めるのは、ひそかに愛するのにまさる」(箴言27章5節)。

罪を犯したのは、それなりの「弱さ」を持っていたからです。ルベンの弱さは、高い所から低い所に勢いに任せて下る「水のような奔放さ」、すなわち「自制のなさ」です。父の厳しい指摘は、彼が自分の弱さを知り、神に依り頼んで歩いて欲しいからです。

友よ。助けを求める人に、その人が十字架につくように勧め祈ることも、「あからさまに戒める」ことの一つであって、心から愛することです。他者のために、安価な恵み(悔い改め抜きの祝福)ではなく、高価な恵み(十字架による復活の祝福)を祈りましょう。

49章4節 ②

「もはや、あなたは他をしのぐことがない。」

神から与えられた賜物を用いず、貧しく過ごす神の子たちが多くいます。それは、ヤコブの長男であるのに、カナンの地の豊かな祝福を逃したルベンのようです。

父ヤコブは、一時の官能に負け易い長男ルベンを知って忠告しました。しかし、後にルベンの子孫は荒野から約束の地カナンに入る直前に、ヨルダン川の東側に自分たちの嗣業の地を要求します。

それは「水のように奔放」な、神の御心よりも自分の思いを大事にする「自制の無い」判断となりました。これが神の子の生涯ならば、罪から救われ(出エジプト)、教会生活を続け(荒野の40年間)、そして約束の地カナン(天国)の一歩手前に来たのに、結局神の国でなくこの世を選び取るようなものです。また、神から大きな使命を委ねられていながら、デリラに心を奪われたサムソンのようです(士師13章16節)。

友よ。「ますます熱心に、…召されたことと選ばれたことを確かなものにしなさい」(Ⅱペテ1章10節)とのペテロの忠告に耳を傾けてください。自制心とは、何かをしないことでなく、自分のことよりも、神のことを優先して行う心です。自分の好きなことをする者は、後にそれができなくなり、自分がしなければならないことをする者は、後に自分の好きなことができます。

49章節 ③

「…彼は私の寝床に上った…」

ルベンにとって父のそばめビルハは、母の敵ラケルの女奴隷でした。彼の愚かな行動は、情欲を満たすと同時に、父に屈辱を与えるためだった? とも考えられます。

しかし、ルベンが父を憎む原因が父にあったとしても、だから父の罪に乗じて自分が罪を犯してよい訳ではありません。人は、他者の罪に反応して罪を犯します。それはサタンに誘われて犯した罪であっても自分の罪になるように、自分自身の罪となります。

この箇所で、父が息子の罪を辛辣にあらわにする現実に戸惑いますが、罪はどこで誰に指摘されようが、「罪は罪」であることに変わりはありません。

しかし、罪が人を分け隔てしないように、罪の赦しにも分け隔てがありません。「全ての人は、罪を犯したので、神の栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです(ロマ6章23~24節)。

友よ。大事なことは、罪によって人に顔を向けるなら罪はさらに増大しますが、罪を犯しても神に顔を向けるなら、そこに救いがあるということです。

49章5節

「シメオンとレビとは兄弟。彼らの剣は暴虐の道具。」

かつてヤコブの娘ディナが、シェケムの友人たちに会いに行った時、土地の族長の息子に辱められました。彼女の二人の兄シメオンとレビは、妹の受けた辱めの復讐にシェケムの男たちを殺し略奪しました(24章)。

ここで「彼らの剣は暴虐の道具」とある暴虐は、情け容赦ない心です。以前、兄たちがヨセフを殺そうとした時の主犯格がシメオンであったことを、ヨセフがエジプトに来た兄たちの中から彼だけを縛り、人質にしたことでもわかります(42章24節)。

人を傷つける暴虐の心こそ自己中心の塊です。その自己中心は、自分が暴虐を受けて初めて気づきます。ヨセフは、愛によってそれを断行しました。憐れみは、憐れまれる体験をした人が持てるものです。憐みとは、「神に赦されて隣人を許す心」です。「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである」(詩103・8節)。

友よ。あなたは、言葉・暴力・権力・知識・お金…などの剣をかざし、暴虐(自己中心)の道具としていませんか。神の子が持つ剣は、自分の肉を切る剣(悔い改め)や、ものごとの本質をわきまえるみことばの剣でなくてはなりません。「霊の剣、すなわち神の言葉をとりなさい(聖霊と聖書)」(エペ6章17節)。

49章6節

「わがたましいよ。彼らの仲間に連なるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。」

「わがたましいよ。わが心よ。…連なるな」とは、「一歩もその中に入るな」との、とても強い警告です。それほど、シメオンとレビの行為は神を悲しませていました。

後に、シメオンの子孫はユダ族の南に接する地を領地としますが、部族としては、ほとんど聖書に登場してきません。

一方、レビ族には、信仰深い家族に生まれて主の器となるモーセやアロンが出てきます。そして、彼らは祭司の部族として、十二部族の中で大事な役目を果たします。二つの部族の違いはどこにあったのでしょうか。

レビ族の祝福は、ヤコブの預言の言葉を真剣に受け取り、深く悔い改めて憐れみを求めたからです。一方のシメオン族は、悔い改めず暴虐の仲間に連なりました。神の預言は一方通行ではなく、人への語りかけですから、人の応答によって結果が違ってきます。シメオンとレビへの同じ預言が、別々の結果を示したのはそのためです。

友よ。聖書の人物や部族が、神の言葉(預言)にどのように反応したかは、私たちへの預言です。「彼らの仲間・集いに…連なるな・入るな」の忠告に真摯に耳を傾けましょう。

49章7節

「のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。わたしは彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。」

彼らの母レアは、子どもにシメオン(神が聞いてくださる)、レビ(親しみ・結びつき)と名づけました。いずれの名も、神への信仰から命名したというよりも、夫のもう一人の妻・妹ラケルへの競争心からのものでした。

人は、両親の愛を受けない場合、自分で自分を支え、自分の存在を自分で造らねばなりません。そのためには、いつも自分が正しい者、となっていなければなりません。それは、自己義認の道につながりますから、根底には他者への怒りや憤りがあります。

シメオンとレビの激しい怒りと憤りも、愛の欠乏から出ていました。ここでヤコブが、「のろわれよ」と言ったのは、息子たちの人格にではなく「罪(怒り・憤り)」に向けた言葉です。

神を深く愛する親ほど、子の罪と妥協できません。子を正しく愛する親は、ヤコブのように子の罪と戦います。神は、私たちの人格を愛し守るために罪を「呪い」ます。そして、その罪を裁くために、御自分の独り子イエスを十字架につけられました。

友よ。子たちが罪から救われて神の子となるため、そして諸々の罪から離れイエスを主として生きるために子の罪と戦うべきです。それは祈りによる戦いです(エペ6章18節)。

49章8節 ①

「ユダよ。兄弟たちはあなたをたたえ、あなたの手は敵のうなじの上にあり、」

ユダへの預言には、「戦うユダ」「統治者ユダ」の姿を多く見ます。「手は敵のうなじの上にあり」とは、頸椎(けいつい)と呼ばれる首の骨に全ての神経が集中しており、そこにダメージを受けると致命的なので、人の力は背骨と背筋の強さに関係します。ユダの手は、敵の力の真ん中にくい込み、決定的な敗北を与えます。

信仰の戦いのはじめは、 「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神の全ての武具を身に着けなさい」(エペ6章11節)です。それは、悪魔と戦う前に、神の武具(真理の帯・正義の胸当て・平和の履物・信仰の盾・救いの兜・神の言葉・祈り)を自分の身に着けること、つまり「私でなく神が」とする自分自身の内側の戦いから始まります。

それはまた、内側を聖くする「悔い改め」の戦いでもあります。ダビデの強さは、「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し」(詩51・4節)という、悔い改めにありました。彼は、敵の背骨を砕く前に、自分のうなじを耕す(悔い改める)者、自分自身と戦う者でした。

友よ。罪と戦うのは主イエス御自身で、私たちではありません。だからこそ、私たちの信仰の戦いのスタートは、主が私の中で主権を取り、自由に行動できるように、自分を明け渡し、神の武具を身に着けて備えることです。

49章8節 ②

「あなたの父の子らはあなたを伏し拝む。」

この後のイスラエルの歴史は、ユダ族中心に進みます。ユダ族の相続地にエルサレムがあり、ダビデや王たちはユダ族から輩出されます。なによりも、主イエスが、ユダ族から来るとの預言が語られるようになります(創49章10節・ミカ書5章2節参照)。

十二部族でユダ族が中心となった最大の理由は神の選びですが、選びは自動的に成就されるものではありません。人が、神の選びを信仰によって受け取り、信じ、応え続けなければ、神の御心は成就しません。

ヤコブの子たちの中でユダが用いられたのは、彼が最も悔い改めた人だったからです。それは、兄たちのヨセフ殺害事件の後のユダの行動を見てもわかります(創世記38章の聖書日課全体を参照)。

友よ。ある人が、信仰の天才とは「悔い改めることの天才」だと言いました。事実、罪に苦しみ、家を飛び出し、追い詰められて悔い改めたユダが、「兄弟たち(あなたの父の子ら)」から「尊敬(伏し拝まれる)」されるようになりました。神の前に悔い改める人は、人々からも信頼されるようになります。悔い改めは、恥ではなく、栄光を受け取ります。

49章9節 ①

「ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。」

獅子には、生まれながら獲物を倒す能力が備えられていますが、百獣の王も最初は弱い子獅子です。しかし、訓練を受け、獲物を倒すたびに強い獅子になっていきます。同じく、神の子たちも信仰の戦いを積み重ねるたびに、「栄光から栄光へと」ユダ族から出た若獅子、主イエスと同じ姿に変えられていきます。

でも、信仰の訓練と戦いは、自分の能力を高め、技術を磨くことではありません。主と同じ姿に変えられるのは、「これはまさに聖霊なる主の働きによる」(Ⅱコリ3章18節)からです。したがって、信仰の訓練と戦いは主に依存することです。聖霊の働きは、自分の内なる戦いと、宣教命令に従って戦いに出てゆく、両方の経験でより深く知るものです。

友よ。内なる戦いと共に、人々に福音を伝える戦いをしていますか。主のしもべとなって行動するならば、聖霊の神から必要な能力を受け取ることが出来ます(マタイ28章19・20節、使徒1章8節参照)。ユダが「獲物によって成長する」のは、戦うことで得る証し(人々の救い)によって、彼自身の信仰も強められるからです。

49章9節 ②

「雄獅子のように、また雌獅子のように、」

神の子には、百獣の王に勝る名「イスラエル(神の王子)」が与えられていますから、悪霊や罪と戦うことを恐れてはなりません。さらに、主イエスは、御自分の「御名によって求め、御名によって戦う」ように神の子たちに言われました(ヨハネ16章23~24節参照)。

数え切れない霊の戦いを経験したパウロは、勝利の秘訣について次のように言っています。

  1. これは霊の戦いであり人の能力では勝ち目がないことを知ること
  2. 神の備える武具と武器を用いること(真理の帯・正義の胸当て・福音の靴・信仰の大盾・救いのかぶと・御霊の剣・聖霊による祈り)
  3. 自分ではなく「主にあって」、すなわち主御自身に戦っていただくこと
(エペ6章10節以下参照)

友よ。主イエスが「ユダ族から出た獅子」(黙5章15節)なのに、「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた」(ルカ22章44節)のは、父に自分を委ねるための苦しみでした。したがって、信仰の獅子(勇者)とは、神を信頼して、主に自分を委ね、問題を委ね、人々の魂の救いを求めるなど、徹底的に「自分でなく主が」とする人であることを覚えてください。

49章9節 ③

「雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。」

百獣の王でも、最初からたてがみをなびかせ、吼えたけりながら獲物に近づくのではありません。獣の王なのに、地を這うほど身を低くして静かに近づきます。そして一気に襲いかかって獲物の咽に噛み付いて倒します。

クリスチャンも、常日頃からたてがみをなびかせて叫んでいるならば、人々は近づく前に逃げて行きます。それは高慢に見えるからです。だれでも、高慢な人からは離れ、謙遜な人には近づいてくるものです。

ドイツのマリア福音姉妹会の創始者バジレア・シュリンク(故人)は、教派間の争いや自分たちへの誹謗などに心を痛め、「和解と一致を求める旅」に出ました。彼女は、「(和解に必要なのは)私が不当な行為を受けた時、身を低くして自分の権利を放棄すること…」だと言いました(キリストの花嫁 第一部より)。その結果、人々が彼女と姉妹会に引き寄せられ、多くの魂を主の元に押し出すことが出来ました。

友よ。主の前に身を低くしましょう。屈めば屈むだけ跳躍の力が蓄えられます。なぜなら、謙遜が深ければ深いほど、主がその人を高く引き上げるからです(Ⅰペテロ5章5節)。

49章10節 ①

「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。」

ユダ族は、この後のイスラエルの歴史の中で長くリーダーシップをとり続けます。日本では徳川家が260年ほど統治しましたが、ユダ族はバビロニア捕囚まで数えると1400年に及びます。なぜ長く続いたのでしょうか。

それは、ユダ族が優れていたからではなく、時間空間を超えて働かれる神が彼らと共におられたからでした。彼らは何度も罪を重ねては神を裏切りますが、神は彼らを捨てませんでした。

神は背く民を建てあげ、御自分の栄光を現わさせるためにバビロニア捕囚すら断行しました(エレ24章5~7節)。なによりも、その子孫から救い主が生まれるという特別な使命が与えられていたからです。同じように、私たちも罪を重ねながらも、神の子であり続けられるのは、神の側の熱心と憐れみと約束によります。

友よ。全人類をイスラエル民族に例えるならば、あなたはユダ族です。とくに、主イエスを宿し、人々に紹介する使命はあなた(ユダ族)に託されています。ユダ族が信仰に立ち続けることでイスラエル民族が保たれたように、あなたが神の子として信仰に立ち続けることは、人々の救いのために大いに必要なのです。

49章10節 ②

「ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。」

聖書で「シロ」とは、メシア(油注がれた者)預言の言葉で、「ついにはシロが来て」とは、救い主到来の時を指します。ユダ族はイスラエルのリーダーを超え、全世界の民が待つ、救い主を世に送る部族となります。

彼らは、世界の歴史で重要な役割を委ねられました。しかし、「この救いについては、…預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べ…。どのような時をさして言われたかを調べたのです。…御使いたちも…見たいと願っていることなのです」(Ⅰペテ1章10~12節)とあるように、約束の預言の実現をまだ見ていませんでした。

預言の実現は、「御子イエス」を見なければわからないからです。私たちにも、家族の救いの約束や多くの預言(約束)が与えられています。しかし、実現にはまだ時間がかかり、目に見えないので葛藤が伴います。

この約束の成就は、この時から2000年後でした。しかし、今は約束が2000年前にすでに成就しているので、探せば見つけ、求めれば与えられます。「5年、10年経ってもまだ家族は救われない…」と言う友よ。もう少し忍耐してください。シロ(救いの時)は必ず来ますから。

49章11節 ①

「彼はそのろばをぶどうの木につなぎ、その雌ろばの子を、良いぶどうの木につなぐ。」

聖書では、イスラエルを「ぶどうの木」に例えています(エレ2章21節・ヨハ15章)。「ろば」はシロの日(救い主到来の日)にメシアをエルサレムに運ぶ動物として描かれています(ヨハ12章14節・ゼカ9章9節参照)。

故に、イスラエルは「ぶどうの木」であり「ろば」でもあります。「ぶどうの木」は良い実を結ぶことで主を証しし、「ろば」はイエスさまを必要なところにお連れして主の働きをします。ぶどうの枝は幹に忠実につながり続けることで実を結び、ろばは主をいつでもお乗せできるように木(家畜を繋いでおく杭)につながれて忠実に待ち続けます。

両者の共通点は、「繋がれる・忠実」です。この預言は、「彼はそのろばをぶどうの木につなぐ」ですから、主は御自分に忠実に従う人を用いて、御自分の栄光を現そうとしていることを示唆しています。

友よ。私たち神の子も、ぶどうの木の「枝」であり、ぶどうの木(主イエス)に繋がれている「ろば」であるべきです。何かをして神の栄光を現わすのでなく、主に繋がり続けることで栄光を現わします。友よ。今日もみことばによって、主にとどまり続けましょう。

49章11節 ②

「彼はその着物を、ぶどう酒で洗い、その衣をぶどうの血で洗う。」

ユダへの預言は、救い主来臨とかかわります。シロの日は、救い主到来の喜びの日ですが、血の匂いが立ち込める日でもあります。事実、民衆に「ホサナ」の歓呼で迎えられた主イエスは、数日後に不当な裁きで十字架刑にされました。その血は「彼の打ち傷によって」私たちがいやされるためでした(イザヤ53章5節)。

さらに、「その方(イエス)は血に染まった衣を着て」(黙19章13節)再び現れる「王の王、主の主」(同16節)なる再臨の神です。2000年前に来られた時に流された主の血は、人の罪の代価でしたが、再臨の主の衣を赤く染めるのは、罪人を裁く返り血と言ったら間違いでしょうか。否、裁きが必ずあるからこそ、その前に救いが語られているのです。 

シロの日は、罪が赦される喜びの日(来臨・十字架)であり、罪が裁かれる恐れの日(再臨・裁き)です。2度目のシロの日(裁き)の前に、最初のシロの日(救い)を受け取っていなければなりません。

友よ。より多くの人々が最初の赦しの血を受け取り、次の血を流すことがないように福音を伝えましょう。人の生死を決める日は、シロの日です。

49章12節 ①

「その目はぶどう酒によって曇り、」

悲しみは目を曇らせます。人類を救いに来られた主の目はどこまでも澄み切っていたのに、「その目は曇り」と預言されています。しかも、ぶどう酒によって。

主の目を曇らせる「ぶどう酒」は、罪をあがなうために流す御血潮を表しています。そこから、主の目の曇りは、私たちの罪に対する憂いと悲しみからであるとわかります。シロの日が来て、主がろばに乗ってエルサレムに入る直前、人々のあまりの罪の大きさと、悔い改めない魂の頑固さ、そしてその結末の悲惨さを思い、「イエスはその都のために泣いて」(ルカ19章41節)しまわれました。

友よ。主の怒りはあなたの「罪」に向けられますが、主の涙はあなたの「いのち」を思う慈しみから出ています。あなたの罪に対しては「血」が注がれますが、いのちに対しては曇った目からの「涙」が注がれます。さばき(ぶどう酒)と愛(曇った目からお涙)が見分けのつかないほど一つに交じり合ったところが主の十字架です。「主よ、あなたのお心を少しでも多く知ることができるように」と、愛なる主にひれ伏して祈りましょう。

49章12節 ②

「その歯は乳によって白い。」

主の目はぶどう酒によって曇っていますが、歯は白く輝きます。口の中の歯は食物を噛み砕き、舌からは言葉が出てきます。舌は多くの偽りを言うので、見た目で良し悪しの見分けがつきませんが(ヤコブ3章6節参照)、歯は口を開ければ、それの良し悪しが一目瞭然です。

舌はその人の本心を見えなくしますが、歯は、何を食べよう(望み・好き嫌い)としているか、本心を偽れません。

主の歯は、「その口になんの偽りも見いだされませんでした」(Ⅰペテロ2章22節)とあるように、真っ白です、彼には、人を食いものにしようとする偽善は一つもなく、むしろ、「私を食べよ」と御自分を命のパンとして人の為に差し出されます(ヨハネ6章35節以下)。

主の歯の白さは、天の愛する父なる神のあふれる恵みの乳(いのち)を飲んでおられたからです。その主イエスは、御自分の愛と聖霊のいのちを、今、私たちに注いでくださっています(ヨハネ20章22節)。

天の父なる神から注がれる白い乳(聖霊)を飲むなら、あなたの歯も白く健康になり、ものごとを良くかみ砕いて飲み込み栄養にします。さらに、二心のない白い歯を見て、人々は安心して近づいてきます。

49章13節

「ゼブルンは海辺に住み、そこは船の着く岸辺。その背中はシドンにまで至る。」

聖書には、ゼブルンが語った言葉は記されていません。ギデオンが民を召集した時、いち早く駆けつけたことが記されているぐらいで、北の方に狭い土地が割り当てられた目立たない部族でした(士師6章35節)。

相続地は、アシェルの領地の内陸部に位置し海辺ではありませんが、彼らは内陸から海辺に出て、さらに北方の貿易港シドンにまで出て行きます。それは、より豊かな発展を求めたからだと思われます。

彼らは、神の御心にとどまるよりも、自分の計画を推し進めていきましたから、賢くこの世を渡る成功者に見えます。しかし、シドンはカナン定住後のイスラエルを偶像礼拝に誘い、堕落させる地となります(列王上16章)。そこに移り住んだ彼らは、偶像の影響を大きく受けました。ここに、聖書の中にあまり登場しない理由がありそうです。

友よ。十戒の「貪欲の罪」とは、神が自分に与えた範囲を超えて、さらに得ようとすることです。世では、それを達成した人が成功者と言われますが、成功と引き換えに偶像礼拝へ進む危険があります。聖書の歴史は、神に与えられた所から離れてはいけないと強く教えています。「わたしに留まりなさい」(ヨハネ15章4節)。

49章14節

「イッサカルはたくましいろばで、彼は二つの鞍袋の間に伏す。」

イッサカルは、ガリラヤ湖の南西に相続地を得ます。カナン定住後は、ユダとエフライムとマナセがイスラエルの中心部族となります。北方の敵がイスラエルに攻めて来る時は、イッサカルが決まって真っ先に攻め込まれます。

危険地帯に住む人は、荒野でも生きるたくましいロバのようになります。それは、「二つの鞍袋の間に伏す」と言われる「処世術」です。常にどっちが自分に最善かを探ります。しかし、賢くたくましく見えるこの生き方は、本当は最も危険な道です。神の子も、神の国とこの世の両方に受け入れられる、たくましいイッサカルのような生き方を探ります。しかし、神と富の二人の主人に兼ね仕えることはできません(マタイ6章24節)。

世には、天国と地獄のバランスがとれた、天秤のような賢い生き方があるように見えます。サタンは主に、「私にひれ伏せば、これをみんなあげよう」と言いましたが、主は「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(同・4章10節)と言って退けました。

友よ。たくましいロバではなく、繋がれたロバでありたいものです(聖書日課P277参照)。

49章15節

「彼は休息がいかに好ましく、その地が…麗しいのを見た。しかし、彼の肩は重荷を負ってたわみ、苦役を強いられる奴隷となった。」

「彼(イッサカル)は、休息がいかに好ましく」とあります。二心の者は、自分で自分を追い詰めず、自分が疲れない程度に働き、相手の力を利用します。しかし、相手はその人を信頼しませんからストレスの多いところです。

相手を利用し、労せず得たものは美しくさえ見えますが、後に重荷となります。それどころか、利用したはずのものから利用され、ついには相手の奴隷になります。聖書を読む、祈る、仕えることなどは各自で精一杯することです。しかし、聖書は牧師に読ませ、祈りは妻・夫・兄弟姉妹にさせ、愛のわざは痛まない程の献金にさせ…というようでは、初め甘かった汁が苦くなり、ついには毒に変わって自分を苦しめます。

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして神を愛する」(マルコ12章30節)ことを他者に代わってもらうなら、「熱くも冷たくもないので…吐き出そう」(黙3章16節)の人になります。神が求めている人は、「キリスト馬鹿(キリストだけ)」になる人です。その人こそ、「地の塩・世の光」となれる人です。

49章17節

「ダンは、道のかたわらの蛇、…馬のかかとをかむ。それゆえ、乗る者はうしろに落ちる。」

士師の時代、ダン族はいまだ相続地を得られず、土地を探す偵察隊を派遣します。彼らは、エフライム山地に住むミカの家に着きます。ミカは自分で神の像を造り、流れ者のレビ人の青年を祭司にしている独善者でした。それを見たダン族は、ライシュを攻め取って定住の地とし、ダンと名づけます。そこにミカの家の像と、祭司とされたレビ人を連れてきて宮を造り礼拝します(士師17・18章参照)。

神は、それぞれに相続地を備えておられますが、ダンはそれを神に求めず、自分で探しました。さらに、「神の像」と「祭司」までも自分で揃えます。もちろん、そのような「神」は偶像の神に他ならず、礼拝も自分勝手なものです。

ダンは、「道のかたわらで馬のかかとをかんで、乗る者を後ろに落とす蛇」のようです。しかし、相手を落として首尾よく自分が乗った馬は、偶像という神(馬)でした。

友よ。他者が造ったものの上に立つ信仰は、偶像になるものです。岩(主イエス)の上にある柔らかな砂(他者・組織・儀式・人気の教会・牧師)を取り除いて、固い岩の上に直接立ってください(マタイ7章24~27節)。

49章20節 ①

「ガドについては、襲う者が彼を襲うが、彼はかえって彼らのかかとを襲う。」

荒野で40年間モーセに率いられた民は、モーセの後継者ヨシュアに導かれ、ヨルダン川を渡り、約束の地カナンに入って行きます。その指導者が、なぜ、「モーセ」でなく「ヨシュア」なのかを聖書全体が教えています。

約束の地カナン(天国)には、律法(モーセ)によってではなく、恵み(ヨシュアの新約名はイエス)によって入ります。律法によってはだれ一人、義とされません(ロマ3章20節)。

救いは、恵み(主イエス)によって与えられます。したがって、荒野とカナンを分けるヨルダン川は、「律法と恵み」「旧約と新約」を分ける霊の境界線です。

ガドは、自らヨルダン川の東側に土地を要求しました。そこは恵み(イエスによる救い)ではなく、律法(行い)の地です。恵は主イエスの命で生きますが、律法は自分の命で生きねばなりません。ゆえに、律法で生きることは、自分の力で外敵と戦わねばならず、「襲う者が彼を襲い…彼は…彼らを…襲う」争いが絶えません。

友よ。一日も早く自分の力で生きる荒野(律法)を離れ、主イエスの恵みで生きるためにヨルダン川(肉の死)を渡ってください。そして、神の支配するカナンに定住してください。

49章20節 ②

アシェルには、その食物が豊かになり、彼は王のごちそうを作り出す。

アシェル族は、やがてイスラエル北部の海岸地方に住むようになります。そこにはツロやフェニキアという貿易港が造られ、とても富んだ地域となります。港には多くの外国人も出入りします。後に神殿建築の時には、木材を運び出す基地となりました(Ⅰ列王5章)。

物質的に豊かな所は、多くの情報や人々が集まり、誘惑と危険が満ちる場になります。事実、彼らに割り当てられた所は、ダビデの時代が終わると、シリアのフェニキアと呼ばれ、十二部族の中で一番早く異邦人の国となります。

神の子が豊かになることが罪ではありませんが、豊かな生活が目的になると、信仰は手段になり下がります。アシェル族は、地域の豊かさに埋没し、「彼は王のごちそうを作り出す」ようになります。その王とは、神でなくこの世の王に仕える者となることを預言しています。

友よ。あなたは神と富のどちらにごちそう(栄光)を差し上げるために生きるのですか。あるいは、両方ですか。アシェルへの預言を、自分への預言としてください。また、「神と富とに兼ね仕えることはできない」(マタイ6章24節)と言う、主の言葉を聞いてください。

49章21節

「ナフタリは放たれた雌鹿で、美しい小鹿を産む。」

ナフタリは、ガリラヤ湖の西側から北を嗣業の地とします。しかし、主イエスが来られた時代には、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれ、ローマ帝国の支配に反抗する熱心党の拠点にもなりました。そこに潜むユダヤ人たちは、ひたすら救い主の到来を待ちました。

ヨセフとマリアは、幼子イエスと共にエジプト帰還後、ガリラヤのナザレに住みました。ここはエルサレムから離れた分、ユダヤの律法主義から「放たれた雌鹿」のようでした。公生涯に歩み出された主は、ここを中心に活動され、ペテロやアンデレ、ヨハネやヤコブなどもこの地域の人々でした。

ナフタリは、他国の支配下に置かれ、異邦人の宗教・偶像礼拝に抵抗し、神殿(礼拝)からも離れた所で救い主を待ち続けましたが、そこに「美しい小鹿」が生まれます。鹿は、谷川の水を慕う、神を求めて止まない人です(詩42・1節)。

友よ。教会に行けず、礼拝や活動から遠ざかり、兄弟姉妹との交わりから離れているナフタリのような立場でも、ひたすら神を待つ人に、神は必ず応えてくださいます。どんなところに居ても、神に期待してください。

49章22節 ①

「ヨセフは実を結ぶ若枝」

ヤコブが臨終の床で子どもたちに語っている言葉は、神からの預言です。その中で、とくにユダとヨセフには多くのことが語られます。ユダには救い主到来への期待、ヨセフには神への従順に対する祝福の言葉です。

神の選民(証し人)とされた家族なのに、ヤコブの代から争いは絶えず、選民の火は消えかかっていました。それを救ったのが、兄たちに捨てられたヨセフでした。彼の苦難の十字架への道が、家族の復活と救いになりました。

そして、ヨセフが父の家族を飢饉から救ったことは、死んだ状態(罪)の家族を神の命に復活させたことでした。さらに、主イエスも、兄たち(ユダヤ人たち)から売られました(十字架へ)が、復活し救い主となりました。

ヨセフの存在は主イエスを指し、ヨセフへの預言は主イエスへと続き、さらに、主に従う一人ひとりへと続きます。

友よ。ヨセフが実を結んだのは、「主がヨセフと共におられ」(39章2・3・21・23節)、ヨセフも「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか」(同9節)と言って、主の中にとどまったからです。主イエス(ぶどうの幹)にとどまる者が「実を結ぶ若枝」になります。

49章22節 ②

「泉のほとりの実を結ぶ若枝」

素晴らしい泉があっても、木が実を結ぶには丈夫な根が必要です。丈夫な根をもつ木は、湿地帯よりも乾燥地帯に生える木です。オリーブや葡萄やイチジクの木は、上に枝を伸ばすよりも地下にもっと長く根を張るといわれます。厳しく険しい環境の中でこそ、より丈夫な根ができて、水を吸い上げます。

ここに記されている「泉のほとり」とは、必ずしも自然環境の良い所とは限りません。ヨセフは、神の恵みを吸い取る「信仰」という根を持っていました。その根は、乾いたエジプトに投げ捨てられても、ポティファルの家でも、牢獄でも、どこででもいのちの水を吸い上げました。なぜなら、「まことに神は全地の王」(詩47・7節)なので、順風も逆境も差別なく、神の恵みの泉はどこにでも浸みわたっているからです。

友よ。周りの状況に左右されてはなりません。どこにでも神のいのちの水は浸透しています。信仰という「根」は、あらゆる所からいのちを吸い上げることができます。むしろ、逆境と試練を通るほどに、より深く地中に根を張って、いのちの水を吸い上げ、豊かな実を結ばせます。

49章22節 ③

「その枝は垣を越える。」

だれでも乗り越えられない「垣根」を持っています。ある人との間にある憎しみや嫌悪の垣根、平安と喜びを邪魔する過去の傷という垣根、愛し合えない垣根、能力の限界という垣根、罪や死もさらに大きな垣根です。

それらを乗り越えさせるものが「愛」です。 ヨセフの17歳から30歳まで、苦難の時を乗り越えさせたのは、神の愛でした。神の愛が、ポティファルの妻の誘惑に勝たせ、自暴自棄になりそうな牢獄生活に勝たせました。さらに、愛の力は兄弟たちへの仕返しでなく、救いのわざを行わせました。「憐れみは裁きに打ち勝つのです」(ヤコブ2章13節・新共同約」という憐れみは、愛のことです。

神の愛がヨセフに、「私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私の内に新しく」(詩51・10)造り、苦難の垣根を乗り越えさせました。

愛はさらに伸び、憎しみや仕返しの垣根を越え、神の御霊の実を結びました。

赦しの聖い実は、兄弟たちに分け与えられました。さらに、その枝は3000年の時間を超えて、私たちにも豊かな実を提供し続けています。「その枝(愛)は垣(罪)を越えます」。

49章23節

「弓を射る者は彼を激しく攻め、彼を射て、悩ました。」

ある先人が、信仰者の苦しみについて次のように述べました。…キリスト者の生涯の中で、最も重大な決定は回心の時でも、心に深い痛みを覚える時でも、懲らしめを受けている時でもなく、「モリヤの体験」(創22章)とも言うべき試練に直面した時になされるものです。

…アブラハムにとって…息子イサクを献げものとして連れて行くのは、一番つらいことではありませんでした。それよりも、むしろモリヤの地で神の約束を犠牲にすることのほうがつらかったのです(キリストの花嫁第二部・バジリア・シュリンク著より)。

上は、イサクを失う以上に、それによって「あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない」(15章4節)という「神の約束が失われること」がより大きな苦しみであると語ります。それは神のなさることがわからなくなるからです。

友よ。諸々の困難が襲い、悩みがあることが苦しみではありません。試練を通して神と神の御心が見えなくなることが、本当の苦しみです。しかし、神はあなたを見捨てられないことをどんな時でも覚えていてください。

49章24節 ①

「しかし、彼の弓はたゆむことなく、彼の腕はすばやい。」

サタンがヨセフを激しく攻めましたが、彼は負けませんでした。攻撃は最大の防御、とも言われます。ヨセフが敵の攻撃に負けなかったのは、忍耐し、防御しただけでなく、弓を放つ腕を休めず攻撃したからです。

サタンとの戦いには、防護するための武具と、攻撃するための武具(真理の帯・正義の胸当て・福音の履物・信仰の盾・救いのかぶと・御霊の剣…エペソ6章11~17節)の両方が必要です。しかし、防護するものをまとい、攻撃の武器を持ったとしても、武器を使いこなす技術と力(エネルギー・いのち)がなければ勝利はできません。

クリスチャンに必要な戦いの力こそ、聖霊の神です。その聖霊は、その人の自我の死に比例して心を占有し、より多く自由に働き、悪の力から守り、また攻撃に転じます。

友よ。霊の戦いは自分の力では決してできません。それは、聖霊によります。そのためには、「日々自分の十字架を負い」(ルカ9章23節)続けること以外ありません。そして、その内的な戦いに勝利させてくださるお方も聖霊の神です。「御霊も…弱い私たちを助けてくださいます」(ロマ8章26節)。

49章24節 ②

「これはヤコブの全能者の手により、それはイスラエルの岩なる牧者による。」

ヨセフの強さは、「ヤコブの全能者の手」があったからだと言います。それは、自己中心なヤコブを作り変えるほどに力ある神の御手、とも受け取れます。被造物の中で、一番神に従えないのが人の自我ですが、「全能者の手」はそれも造り変えることができます。

神は御自身を、「イスラエルの岩なる牧者」と語ります。固いものを砕くには、それ以上に堅い岩が必要です。何十年も割れないヤコブの固い自我を砕いたのは、それ以上に固い「万軍の主の熱心」(イザヤ9章7節)という岩(愛)でした。

人は自分を主張して頑固になりますが、神は人の自己主張よりもさらに頑固に人の魂を求め続けます。99匹の羊を残しても、迷い出た1匹(一人)を探し出すまで帰らない頑固者こそ神御自身です。

神に愛されている友よ。神はあなたの羊飼いですから、時に、固い岩になって、あなたを聖霊に満たされた人・勝利者にするために砕きます。ヨセフもその岩を受け取り強くなりました。だからあなたも、「弱った手(祝福を受け取る手)を強め、よろめくひざ(祈り)をしっかりさせよ」(イザヤ35章3節)。

49章25節 ①

「あなたを助けようとされるあなたの父の神により、」

我が子を助けてやれない親は、自分の無力さに打ちひしがれます。自分が過去に与えた傷ゆえに苦しむ子を目前にしても、言葉もかけられず、手出しも出来ない情けなさに泣きます…。

そんな時、親としてその子をどのようして助けてやれるのでしょうか。一つは、無責任な卑怯者と言われるでしょうが、自分がより頼む「父の神」に、子の父となっていただくことです。

親失格だからこそ、子に「天の神」を父として受け入れて生きて欲しいのです。このために祈り仕えることが、親としてできる子への愛です。

天の神は、子を愛せない親にとっても「父の神」です。かつてのヤコブも、息子同士の争いをどうすることもできず、エジプトに売られたヨセフを助けることも出来ませんでした。しかし、父ヤコブの祈りは、天の父の心を動かし、自分より全てに勝る「天の父」の助けが、ヨセフと息子たちに与えられました。そして、息子たちが天の父を自分の父とした時、親子は和解することが出来ました。

愛せない無力さに泣く友よ。主は、「その子をわたしのところに連れて来なさい」(マタイ17章17節)と言ってくださいますから、主の前に泣き崩れつつ、「主よ、助けてください。この子をお願いします」と叫び祈りましょう。

49章25節 ②

「あなたを祝福しようとされる全能者によって。」 

神が人に与えたいものは「祝福」です。天地を創造された目的も、「天にある全ての霊的祝福をもって私たちを祝福」するためで、それは「私たちを…御前で聖く、傷のない者にする」ことでした(エペソ1章3~4節参照)。

祝福には、健康、経済的、家族円満など多くありますが、「神の子となり、聖く生きること」が神の与えようとするもっとも根本的な祝福です。

人が神に求める祝福と、神が人に与えようとする祝福(聖く、傷の無い者)は一致しているでしょうか。ヨセフは多くの祝福を受けましたが、それは「聖さ」の上に積み重ねられました。ポティファルの妻の誘惑から逃げる力、獄中生活の忍耐、大国の宰相の地位と謙遜、兄弟を救うなどは、神から受けた祝福(聖く、傷のない)によって作られた祝福です。

友よ。この祝福は、この世にはなく、神の御霊の中にあります。したがって、聖霊の満たしの特徴は、「力」以上に「聖さ」です。力を求めると「世」に近づき、聖さを求めると「神」に近づきます。「聖く、傷のない」祝福とは、「神と直結」する恵みです。「私は悪の天幕に住むよりは、むしろ神の宮の門口に立ちたい」(詩84・10)と祈りましょう。

49章25節 ③

「その祝福は上よりの天の祝福、下に横たわる大いなる水の祝福、乳房と胎の祝福。」

神の祝福は、上と下から来ると言います。それは、「下」からというよりも「内」からとも言えます。「イエスは主」と告白する者には「(神の)子とする御霊(ロマ8章15節)」が与えられます。

内住の御霊は、人が地獄へ下らないように、罪を赦すために下に横たわって支える十字架と復活の命の祝福です。

さらに、ペンテコステの時に弟子たちの「上に」祝福が注がれました。下の祝福は神の子を支え、上からの祝福は神の子としてサタンと世と肉に打ち勝たせ、雄々しく生きるための祝福です。これを、聖霊の満たしとも言いますが、それは「聖霊の賜物」ではなく、「御霊の実」(キリストの御人格・ガラ5章22節)の祝福です。

主が、「私は、私の父の約束してくださったものを…送ります。あなたがたは、いと高い所からの力を着せられる」と言われた、聖霊の支配です(ルカ24章49節)。

友よ。あなたはすでに下の祝福を得ていますが、神の子として生きる上の祝福は今日も求めねばなりません。神の子は、「酒に酔わず(世に支配されず)、御霊に満たされ(神に支配され)」(エペソ5章18節)て歩む者です(ガラ5章6節)。

49章25節 ④

「乳房と胎の祝福。」

母親が子を胎に宿し、産んでからは完全食の乳を与えるだけで子どもは成長します。子を産み育てることは素晴らしい祝福です。

罪の中にいた者が、聖霊によって神の子として新生します(胎の祝福)。生まれた子は、みことばと聖霊の乳を飲んで成長します(乳房の祝福)。

成長する目的の最初は、「主の御かたち」のようになること(ガラ4章19節)。次は、「子を生み、養い育てる」ことです。神の「子となる」ことと、神の「子として生きる」ことは同じではありません。神の子となるのは親(神)の一方的な業(胎の祝福)ですが、成長するには子が自分で乳(乳房の祝福)を飲まなければなりません。しかし、乳房の祝福を豊かに受け取る人は多くありません。

友よ。あなたは胎の祝福をすでに得ています。しかし、次の、乳房の祝福(みことばと聖霊)はどうですか。人々に祝福を与えるためには、まず自分が大人(主の御かたち)にならなければ、子を産み(伝道)育てる(牧会)ことはできません。神の名は「エルシャダイ(母の乳房)」とも表現されます。神の霊の乳をもっと求めてください(Ⅰペテ2章2節)。

49章26節 ①

「あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり、永遠の丘のきわみにまで及ぶ。」

「祝福」という言葉が、わずか2節に(25・26節)7回も使われています。ヤコブは、息子ヨセフにどんなにか感謝していたことでしょう。そしてヤコブは、その祝福が永遠の父から来ていることを証します。

右のみことばの中の、「あなたの父」とは、ヨセフの天の父なる神のことです。「私の親たち」とは、先祖のアブラハムやイサクのことです。信仰の人アブラハムとイサクの祝福は大きなものですが、それでも死で終わり有限なものです。しかし、天の父の祝福は、「永遠の丘(天国)」までも続きますから、地上の親の祝福とは比べものにならない大きさです。

子を持つ友よ。たとえ、私たちの子の親が、自分でなく、アブラハムやイサクのような親だとしても、なお充分な幸福を受け継ぐことはできません。しかし、天の父は、私たちが罪の中で生み、罪の中で育てた不完全な子を義とし(救い)、永遠の丘に連れて行って完成してくださいます。今までダメ親であっても、これからダメ親でない道があります。それは、毎日希望を失わず、子どものために天の父の祝福を祈る親になることです。

49章26節 ②

「これらがヨセフのかしらの上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭上にあるように。」

聖書は、ヨセフの生涯をイエス・キリストと重ね合わせて扱っています。したがって、ヨセフへの預言の言葉は、他の兄弟たちよりも賞賛と祝福に満ち、イエスへの賛美となります。

ヤコブ家が受けた祝福は、ヨセフの信仰と働きによりました。それ以上に、人が受ける祝福は、「兄弟たちから選び出された者」主イエスから来ます。

最初のアダム以来の罪と死は、最後のアダム(イエス)により命に変えられます(ロマ5章12節以下)。「 私たちは、この御子の内にあって、御子の血による贖い…罪の赦しを受けているのです。… 神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ」(エペ1章7・8節)ます。全ての祝福は、父が御子に与え、御子が人に分け与えてくださいますから、神に賛美をささげるのは当然です。

友よ。「初穂(主イエス)が聖ければ、粉の全部(私たち)が聖い」(ロマ11章16節)とされ、「 あなたがたの救われたのは、…それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である」(エペ2章8節)とあります。主イエスを崇めて賛美しましょう。

49章27節

ヨセフの実の弟ベニヤミンは、兄弟の中でヨセフ殺しの大事件に関わっていませんでした。彼は、エジプトで他の兄弟より五倍多い御馳走にもあずかりました(43章34節)。

しかし、ヨセフ殺しに関与しない分、彼には「罪の苦しみと恐れ」がわかりません。罪の深さと救いの尊さは比例して理解されるものですから、「救いの尊さ」もよく理解できません。したがって、罪を恐れない者はへりくだることができず、自己中心から抜け出せません。

そのような人は、上の預言のように、「朝も夕も獲物を略奪する狼」のようになる危険性があります。罪を犯したことは悪いことですが、罪に苦しんだことは大事な経験です。詩篇の作者は「私はそれ(罪の苦しみ)であなたの掟を学びました」(詩119・71)と告白しました。

愛する友よ。苦しみのない人生ではなく、苦しみを通しても神を学び、へりくだる人生を求めましょう。「わたし(主)は…打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させる」(イザヤ書57章15節・新共同訳)との約束は、罪に泣き、苦しんだ人が神に向かった時に与えられる恵みです。

49章28節 ①

これは彼らの父が彼らに語ったことである。彼は彼らを祝福したとき、おのおのにふさわしい祝福を与えた。

ヤコブは、神の霊に導かれて子たちを祝福しました。確かに「祝福」ですが、ある子には、祝福どころか将来に不安を持つことになります。しかし、聞きたくないことを聞き、将来に警戒心を持つことも祝福の一つです。

父は子を愛するので、厳しくても他人が言えない真実を語ります。一方の悪魔は、「あなたは可能性を秘めた素晴らしい存在だ。自分の中にある良いものを伸ばし、自由に生きよ」と、肉を助長するように誘惑します。その目的は、神から人を離し、自分と罪の奴隷にするためです。神の言葉が厳しいのは、「…災いではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるため」(エレ書29章11節)です。

多くの教会において、「人は罪人です」と、誰にも受け入れられる「原罪の罪」は語られますが、「肉の罪」は断罪しない元気印メッセージを多く聞きます。そのようなメッセージは魂を変革できません。そこには悔い改めが起こらないので、神の子たちは力を失います。

友よ。神の厳しい言葉に、真実な愛を感じてください(ヘブル12章5~12節参照)。

49章28節 ②

彼は彼らを祝福したとき、おのおのにふさわしい祝福を与えたのであった。

ルベン・シメオン・レビに対する預言の言葉は、過去を責められ、まだ赦されていないのかと思うほど厳しいものでした。しかし、やはり各自にふさわしい祝福の言葉です。

…自らが罪人であるという真実を絶えず新たに受け入れ、罪を認め、神の懲らしめの下に身を低くする「光の中の交わり」を守ってきた結果として、主はその住まいを私たちのただ中にお造りになることができたのです。なぜなら、主は「心砕かれて、へりくだった人と共に住む」(イザヤ書57章15節)からです…(バジレア・シュリンク著キリストの花嫁第Ⅱ部より)。

父ヤコブの願いは、彼らが罪人であることを認め、神の懲らしめを受け取り、光の中で主と共に生きることです。

友よ。私たちも霊的には、ルベンのように姦淫をし、シメオンとレビのような殺人犯です(マタイ5章22・28)。ヤコブが子らに語った言葉は、私たち一人ひとりへの言葉です。なぜなら、私たちもアブラハム、イサク、イスラエル(ヤコブ)の信仰の子孫だからです。神はあなたの人格を愛するがゆえに、あなたの悪を憎み退けようとしているのです。

49章29節 ①

ヤコブは息子たちに命じた。「間もなくわたしは、先祖の列に加えられる。わたしをヘト人エフロンの畑にある洞穴に、先祖たちと共に葬ってほしい。

だれでも死を恐れるので、家族や医者やもろもろの宗教に…と生きる希望を探します。しかし、ヤコブは自分の死を冷静に見つめ、死後の葬り方を指示しました。

死を恐れない人は、死の意味を知り乗り越えているからです。クリスチャンの死は、ヤゴとトンボのようです。母トンボによって水中に産み落とされた卵は、水の中(この世)で孵化(誕生)し、脱皮しながら成長します。でも水の中は、彼らがいつまでも住む所ではありません。やがて時が過ぎて水から出て枝や茎につかまります。すると間もなく体が割れて(肉体の死)羽化してトンボ(霊の体)になり、水中(地上生活)から空気の世界(神の国)に羽ばたきます。

ただし、死を迎えた人が全て永遠の世界に移れるのではありません。肉の体から、霊の体になるのは、ヤゴが一本の茎に登ったように、十字架に主イエスと共についた人です。

この十字架こそ死を乗り越えさせる唯一のものです。ヤコブの死を恐れない姿に、キリストの十字架と復活を知る者の死に向かう姿が重なります(Ⅰコリ15章42節参照)。

49章29節 ②

「私は私の民に加えられようとしている。…私の先祖たちといっしょに葬ってくれ。」

心から喜んで先祖のところに行くこと(肉体の死)を願う人はいるでしょうか。確かに、そのような人に出会い、彼らの最期を見せていただきました。しかし、一般的には口でそう言っている人でも本心は違うようです。

ヤコブが先祖に加えられることを心から感謝するのは、先に召された家族と会うこと以上に、家族を導かれた神にお会いできるからです。この確信なくて本心から死を語れません。なぜなら、「私たちはみな、神の裁きの座に立つようになる」(ロマ14章10節)ので、誰でも心の底では死を恐れます。

裁きに無罪であることを確信できる人だけに、死は恐れでなく希望になります。ヤコブの心は、先祖の生き方と、今までの自分の導きを振り返るほどに、神の真実と永遠の命(天国の存在)への確信が増しました。だから彼は、「先祖たちと一緒に葬ってくれ」と明るく言えました。

友よ。あなたはこの確信と共に召天の日を待つことが出来ますか。しかし、この確信は自分では造れません。主があなたに与えてくださいます。「主に向く時には、その覆いは取り除かれる」(Ⅱコリ3章16節)という祝福の賜物です。

49章30節

「そのほら穴は、カナンの地のマムレに面したマクペラの畑地にあり、アブラハムがヘテ人エフロンから私有の墓地とするために、…買い取ったものだ。」

祖父アブラハムも父イサクも、そしてヤコブ自身も寄留者として生きてきたので、この家族には私有地がありません。唯一、マクペラに祖父が妻サラを葬るために買ったわずかの土地があるだけでした。彼らの所有地は「墓地だけ」でした。

日本人にとっての墓地は、先祖と自分の記録と死後の救い(供養)のためですが、彼らは「残る子孫の救いのため」に必要と考え、田地や家でなく墓地を唯一の所有(財産)としました。

それは、「神から出て、神に導かれ、神に帰った」(ロマ11章36節参照)信仰の証しで、信仰だけを財産(所有)としていたことを表します。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」(マタイ6章21節)の、「心」とは「いのち」のことです。いのちの質は、財産とするものによってわかります。

神の子である友よ。あなたの財産は、神からのものですか、世のものですか。すぐに無くなるものですか、永遠に続くものですか。子孫に本当に益になるものですか、その反対ですか。あなたも、神を財産としたアブラハムの子孫であることを忘れないでください。

49章31節

「そこには、アブラハムとその妻サラとが葬られ、そこに、イサクと妻リベカも葬られ、そこに私はレアを葬った。」

ヤコブは、アブラハムが買い取った墓地に葬られている家族の名を挙げています。創世記は系図の書で、それは「信仰の系図」です。また、系図とは血筋のことです。時に、血筋はその者の存在と帰属を表します。

系図は、血(命)の質を表わし、どんな命によって生きたかを示します。人は、「神の子としての血(永遠の命)」と、「人の子としての血(地上で終わる命)」の二つに分けられます。血は争えない、とも言われますが、聖書は汚れた「罪の血」を「聖い血」に変えることができると教えています。

血(命)は、「死んで生き返る」ことと、「結婚」によって変えることができます。神は、人にその両方を提供してくださいました。

神は、私たちの罪の血を十字架によって御前に聖い血に変え、また、私たちを花嫁として受け入れ、神の血筋の中に入れてくださいます。罪の赦しと神の子の命を受け、キリストの花嫁となる者は、アブラハムの子孫ですから同じ墓地に入れます。

友よ。あなたが入るのはアブラハム家(イエスを主とする家族)の墓です。そこは、世界で一番立派なお墓です。

49章33節

ヤコブは子らに命じ終わると、足を床に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。

なんと尊厳に包まれた姿でしょう。そこには御使たちの「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」の賛美があります。医療設備も立派なベッドもありません。ただ愛する家族に見守られ、静かに足を床に入れただけです。

それは、演出され、我慢し、恨みを残した死に際でなく、「人は生きてきたように死ぬ」ごとく、それまでの生き方を貫いているだけです。彼は、自分が神によって「土のちり」で造られ、「命の息を吹き込まれ」て生きていること(2章7節)を、人生の途中からよく理解しました。

その結果、「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」(伝道12章7節)のみことばどおり、とても自然な生き方(死に方)をしました。

さらに、彼が足を床に入れる姿は、肉体を土に帰し、最後の息(霊)を神の御手に差し出して受け取っていただいた行為です。

それはまた、地上の肉の呼吸を止め、神の全き息(命)だけを吸いだした儀式にさえ見えます。神の御手に導かれた、ヤコブの地上での生涯は終わりました。そして、ここに、ヤコブをイスラエルにする神の御業が完成しました。

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