キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第50章

50章1節

ヨセフは父の顔に取りすがって泣き、父に口づけした。

愛する者の死に直面して泣いた人が、涙も乾かぬ間にお酒を飲み、世間話に花を咲かせる様を見て唖然とします(日本の葬式に参加して)が、ヨセフの涙は違います。ヨセフと父ヤコブが共に過ごした年月は、兄弟の中で一番短いものでしたが、二人の交わりは誰よりも密接でした。それは、親子の血を超え、霊による繋がりの強さでした。

だれにとっても肉親は大切ですが、神の霊によって交わる人はより大切な人です。だれが自分にとって大切かは、困った時に頼る人によってわかります。

肉の人は、困難に直面して世の制度や肉親や世の友人に頼ります。霊の人は、信仰に生きる人に相談し、自分を神の前に押し出してもらうために祈りの助けを求めます。ヨセフが困難を乗り越え、神の恵みを受け取れたのは、父が神を教えてくれたからでした。また、背後で祈って、彼を神に押し出していてくれたからでした。

人の価値は、その人が亡き後に残る心の空洞でわかります。肉による交わりから空いた心には、悲しみ、妬み、争い、欲が入り込みます。

霊の人との関係で空いた心には、愛、喜び、感謝、許し、慈しみが満ちます。それは、聖霊による交わりだったからです。

50章2節

ヨセフは彼のしもべである医者たちに、父をミイラにするように命じたので、医者たちはイスラエルをミイラにした。

死を人生の敗北と捉えれば、死体をいつまでも人々の前に晒(さら)したくないものです。ここでヨセフがイスラエルの死体をミイラにしたのは、父ヤコブとの約束、「ヘブロンに葬るため」でした。そもそもミイラにするのは、その人をより長く記念に残すためです。

ところで、あなたは「ミイラ」を持っていますか。それは、「今、存命していなくても、自分にとって大切な影響を与えた人」を持ち続けるという意味です。落ち込んだ時、判断に迷う時など、その人の生き方や言葉(本)を思い浮かべ、自分自身を神の御心に修正する人(ミイラ)のことです。ある人にとっては、ルター、ハドソン・テーラー、ジョージ・ミュラー、アンドリュー・マーレー、賀川豊彦、山室軍平、榎本保郎、あの牧師、兄弟姉妹…などです。ヨセフは、ヤコブをミイラにして、今も私たちに彼の歩みを思い出させます。

「わが子よ。訓戒を聞くのをやめてみよ。そうすれば、知識のことばから迷い出る」(箴言19章27節)。

友よ。時には「ミイラ」に聞き、「ミイラ」と共に歩くことも神の恵みの一つではないでしょうか。

50章3節

そのために四十日を要した。ミイラにするにはこれだけの日数が必要だった。エジプトは彼のために七十日間、泣き悲しんだ。

聖書で四の数字は、試みの時間として使われます。モーセの生涯は、エジプトの40年、シナイで羊飼を40年、出エジプト後の荒野の40年の3区分でした。彼のシナイ山滞在も40日でした。主イエスは、荒野の40日間の断食後に悪魔に試みられました。4は、「罪人」の姿を表し、罪人が完全な者になるには神の「試み」が必要だとわかります。

イスラエルをミイラにするのに40日費やしました。それは、神の子が世に染まって腐らないようになるまでには、多くの試練(40日)を通らねばならないことを語っているかのようです。「霊の父は、…私たちを御自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。…ですから、弱った手と衰えた膝を、真っ直ぐにしなさい」(ヘブ12章10・12節)。

「我、生くる?」と言う友よ。自分の肉に対しては、一日も早くミイラ(死んだ者)になりたいものです。それは、「イエスの死をこの身に帯びています。それは、イエスの命が私たちの身において明らかに示されるためです」(Ⅱコリ4章10節)。今日一日も、ミイラにされる祝福の日となりますように。

50章4節

「もし私の願いを聞いてくれるのなら、どうかパロの耳に、こう言って伝えてほしい。」

エジプト王の権力と繁栄は、ヨセフが夢を解き、宰相として行政を担ったからでした。パロは、ヨセフに絶大な信頼を寄せ、全てはヨセフに任せ切りです。それでも、ヨセフは父の埋葬の件でパロ王の許可を求めています。

人には、仕事、結婚、住まい、食べ物、生活、持ち物…など、ほとんどのことは神から任せられています。それをよいことに、神を忘れ、自分の判断で行動してしまいます。ヨセフは、大きな裁量を持ちながらも、自分の立場をわきまえ、パロに伺いを立てました。

神は、御自分の愛する者として人を造られたので、大きな自由を与え、「小さな神」と言えるほどの主体性を人に与えました。動物は、神に造られたまま生きるので罪がありませんが、人は自ら神に逆らい、罪を犯すことができます。

ヨセフがパロに聞いたように、私たちも主に聞く必要があります。神は「神」であり、自分は「人」ですから、神に聞きつつ行動してこそ、正しい人です。「羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名を呼んで連れ出す」(ヨハネ10章3節)。

友よ。今日も羊飼いに連れ出される、従順な羊となってください。

50章6節

パロは言った。「あなたの父があなたに誓わせたように、上って行ってあなたの父を葬りなさい。」

ヨセフは、父の葬りのためにカナン行きの思いをパロに伝え、心よい承諾を得ました。このことに、両者の深い信頼関係が見えます。

信仰とは、神と交わって生まれる信頼関係で、闇雲にただ信じる、イワシの頭も信心…ではありません。信仰には、何よりも言葉が必要です。神と人の交わりをつくる言葉こそが聖書です。

しかし、人には神の言葉が理解できないので、聖霊が与えられています。聖霊は、文字として記された聖書の言葉を、神の口から出る命(息)として与え、神の言葉(御心)を理解させてくださいます。

また、聖霊は人の祈りを神に届けてくださいます。人は、聖霊によって神を知り、言葉を交わし、信頼関係(信仰)を深めていくことができます。

預言者ハバククは、「私は見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう」(2章1節)と言うほど、神の言葉に真剣でした。

友よ。あなたと神との信頼関係(信仰)は、「キリストについてのみことば」(ロマ10章17節)を聞くことから築かれます。

50章7節

ヨセフは父を葬るために上って行った。彼と共にパロの全ての家臣たち、パロの家の長老たち、

ヤコブの葬儀は、パロの全ての家臣や長老たちも加わり、エジプトの国を挙げて行われました。それは、ヨセフの功績がそうさせました。

盛大な葬儀と幸福は比例しませんが、葬儀にも意味があります。人は、神にちりで造られ、命の息を吹き入れられますが、(2章7節)ちりは土に戻り、霊は神に帰ります(伝12章7節)。

親から生まれ、神の霊を注がれ、肉体を脱ぎ捨てて天に帰るのが人の道ですから、天に帰る「葬儀」も重要です。一介の羊飼いヤコブの葬儀は立派でした。

神の子が肉体を土に帰し御国へ行く時は、ヤコブの葬儀に勝るとも劣らず盛大です。葬儀で一番大切なことは、金額や人や花輪の数ではなく、「だれ」が自分を送ってくれるかです。

友よ。自分の葬儀のことが心配ですか。しかし安心してください。あなたの葬儀はヤコブに劣らず立派です。なぜなら、あなたの葬儀は主イエス御自身が行ってくださいます。先ずは、十字架であなたという古い人を葬りました。また、毎日あなたを自分の十字架に付けて守りました。そして、肉体を脱がせ、霊の体を迎えてくれるのも、主だからです。

50章9~10節

そこで彼らは非常に荘厳な、りっぱな哀悼の式を行い、ヨセフは父のため七日間、葬儀を 行った。

ヨセフと一行は、カナンでヤコブの葬儀を7日間かけて行いました。今日の普通の葬儀は、前夜式と告別式だけですから、それに比べると相当大掛かりです。そこまでの日数と費用(犠牲)をかける必要があるのでしょうか。

愛する友よ。じつに、あなたの葬儀はイエス・キリストによって既に行われたのです。しかも、その葬儀にはヤコブの葬儀以上に、多くの日数と莫大な費用(犠牲)が投じられていました。

多くの日数とは、アダムの堕落以後、主イエスの出現までに必要だった長い長い旧約の時代と、今日までの多くの預言者や使徒や宣教師たちと働き手たちです。

莫大な費用とは、世界で一番大切な宝、神の御子イエス・キリストが人となって来られて支払われた身代わりの死、十字架の代価です。「しかし、彼を砕いて、痛めることは主の御心であった」(イザヤ53章10節)のです。

罪人のあなたを、御自分の体をもって葬ってくださった御子イエス・キリストに。御子を惜しまず与えてくださった父なる神に。父と御子に結び付けて離さない聖霊に、感謝と賛美をおささげしましょう。

50章12節

こうしてヤコブの子らは、命じられたとおりに父のために行った。

ヤコブの歩みを振り返ると、神と両親への不従順から始まりました。その結果、事実上四人の妻を持ち、彼女たちは憎み合いました。また、妻たちから生まれた子どもたちも、母親たちと同じように互いに憎み争いました。

しかし、罪の中の苦しく悲しい生活でしたが、彼らが信じた神は「ヤーヴェ(創造主)」なる神でした。その主は、「たとい、あなたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のように(イザヤ1章18節)」できる神でした。その神によって、彼ら一人ひとりが取り扱われ、魂が変えられました。魂の変革は、彼らを神と人への従順な者にしました。

不従順は、魂の飢餓状態から生まれてきます。なぜなら、自分が満たされていないので、相手の願いに従えないからです。ヤコブの子たちは、父に「命じられたとおり」行いました。しかも、争いと憎しみから解放され、心を一つにしてできました。彼ら一人ひとりが神に出会い、変えられたので、相手に従順になれたからです。

一致と喜びは従順から、従順は愛から、愛は神から来ます。

50章15節 ①

ヨセフの兄弟たちが、彼らの父が死んだのを見たとき、彼らは…。

ヨセフが自分を売った兄たちを許したのは、親への義理と兄弟たちへの情けだったのでしょうか。それは違います。しかし、兄弟たちは父の葬儀の後に、ヨセフが自分たちに過去の仕返しをするのでは、と恐れていました。しかし、ヨセフにその思いはみじんもありません。彼らの恐れは、ヨセフの考えが分らず、自分勝手に思い込んでいたからでした。

主イエスは、十字架を目前にした最も困難な時、弟子たちに裏切られました。しかし、主は復活後、御自分から弟子たちに現われ、「平安があなたがたにあるように」と言われました。

主は、責めるどころか「息を吹きかけて…『聖霊を受けよ』」と言って、彼らに命と助け主を与えました。さらに、「あなたがたが誰かの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたが誰かの罪をそのまま残すなら、そのまま残る」と続けました(ヨハネ20章21~23節)。

友よ。私たちのヨセフなる主イエスも、兄弟たち(私たち)に売られました(十字架へ)が、復活した後(獄から出て、エジプト宰相になり)、裁きではなく、赦しと命を与えられるお方です。(ヘブル9章28節)。主に感謝します。

50章15節 ②

彼らは、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない」と言った。

兄たちには、ヨセフは弟ですがエジプトの宰相でもあります。「兄弟」と「宰相」では、接し方が違ってきます。父の死後、兄たちはヨセフを兄弟としてよりも、宰相として見るようになりました。それは、彼らの心が愛の交わりから主従関係に変化したからです。

同じく、主イエスを「兄」として見る人と、全権を委ねられた「宰相(裁き主)」として見る人がいます。見方の違いで、主イエスへの接し方が違ってきます。その違いは、主との親しい交わりを持てるか、持てないか。もちろん、主はヨセフのように親しい交わりを求めています。「私はもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。…私はあなたがたを友と呼びました」(ヨハネ15章15節)。

友よ。「主よ、もっと私に近づいて!」とばかり言わないでください。ヨセフが兄たちに近づき、愛を注いだように、主はそれ以上にあなたの中に全てを投入しておられます。主が仕返し(罪の罰)することは決してありません。むしろ、あなたに向かう罪の罰(仕返し)を、主は十字架で受け取ってくださる優しい兄です。

50章16節

そこで彼らはことづけしてヨセフに言った。「あなたの父は死ぬ前に命じて言われました。」

兄たちは、父がいなくなったことで、ヨセフからの復讐を恐れています。親が死ぬと、兄弟同士の関係が変わり、「兄弟は他人の始まり」と言われるように、骨肉の争いになるケースも数多くあります。

兄たちは、「死人に口なし」を利用して自己弁護を計ります。それを権威づけるために、ヨセフが愛する父の名を持ち出し、「父は…言われた」と語りだします。

兄たちの嘘の出所は不安からです。その不安はヨセフに向いていますが、彼こそは誰よりも信頼に足る人です。同じように、人々は一番信頼できるはずの主イエスに対して不安を抱き、直接本心を語らずに、遠まわしな会話をしています。

この不安を解消するためには、兄たちの「ことづけ」を止め、他人を介入させずに、自分で近づいて直接話し合うことです。それは、「みことばを聞く・祈る」という作業を自分自身で毎日実行することです。だれかを通して聞き、人に自分の思いを話し、主に告げたかのように思うことを止めることです。

友よ。ここだけはクリスチャンの譲れない一線です。

50章17節 ①

ヨセフにこう言いなさい。「『あなたの兄弟たちは実に、あなたに悪いことをしたが、どうか、あなたの兄弟たちのそむきと彼らの罪を赦してやりなさい、と。』」

ヨセフに許してもらいたい兄たちは、父が生前こう言っていた、と嘘をつきました。それは確かに嘘でしたが、その内容は父がヨセフに願っていたことでもありました。

兄たちの恐れは、彼らが「初めの愛」から離れているからです。初めの愛とは、ヨセフに引き寄せられ、さまざまの試練を通して罪を示され、許され、共に抱き合って泣いたことです。それこそ、何より確かな許しの証拠でした(45章1~15節)。

御霊はエペソの教会に、「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」(黙2章4節)と言われました。初めの愛のさらに初めの愛は、人ではなく、神御自身にあります。神がまず人々を愛し、御子イエスを十字架につけてくださったことこそ、初めの愛です(Ⅰヨハ4章9・10節参照)。

友よ。神に赦されたあの頃の自分の心を思い出して、神の最初の愛・主イエスの十字架を仰ぎ見てください。そうすると、神の愛と赦しが見え、同時に神への愛(信仰・信頼)が湧いてきます。神も主イエスも聖霊も、全力であなたを守っていますから恐れないでください。

50章17節 ②

「あなたの父の神のしもべたちのそむきを赦してください。」

兄弟たちはヨセフの許しを得ようと、「あなたの父は」と言い(16節)、さらに「あなたの父の神のしもべたちの」と、神の名まで持ち出してきました。罪の赦しは、兄たちが得たいと願う以上に、神の方で人に与えたいと願っているものです。

神の賜物は、「イエス・キリスト本人」と「御業」、彼の人性(人となられたイエス)と十字架による罪の赦しと復活の命です(ロマ6章23節)。その赦しのスケールは、「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される」(詩103・12)ほどです。

さらに、「真理のことば」と「聖霊の証印」(エペソ1章13節参照)の二つによって約束されます。十字架に付いてまで与えたいと願うものを出し渋ることなどありません。主は全てを与え尽くされています。

罪を犯し、神から離れた人間は、自分を疑わずに神を疑う矛盾を続けてきました。世界の始まりから今に至るまで、真実は神の言葉であり、不真実なものは人の心です(エレミヤ17章9節)。

友よ。自分を信じたら疑いが湧き、神を信じたら信頼が湧きあがります。

50章17節 ③

ヨセフは彼らのことばを聞いて泣いた。

ヨセフは、兄たちが自分を信頼できず、恐れてオドオドする姿を見て涙を流しました。彼の脳裏には、かつての悲しみが浮かびます。しかし、いかなる憎しみや悲しみも邪魔できない愛によって兄たちを許したのです。

主イエスも、神の赦しを信じられず恐れる人の姿に、涙を流されています。他者を傷つけるつもりがなくて傷つけてしまうことに、相手を「信じないこと」があります。

主は、十字架に両手と両足を釘で打ち抜かれ、わき腹を槍でえぐられ、頭も茨のとげに傷ついています。さらに、この愛を信じてもらえない心の痛みに涙を流し続けています。

友よ。私たちは自分が傷を受けたことをどれほど主張し、相手を責めたでしょうか。それなのに、自分が与えた傷には無頓着です。とくに、主イエスに与えている悲しみに対しては、「神なら、当然」の態度を取っていませんか。しかし主の涙には、そこまで自己中心になる人の心の闇の深さへの悲しみも交じっています。

友よ。主にだけ涙を流させないで、私たちも涙を流しましょう…自分の罪ふかさに!主の愛の深さに!

50章18節

彼の兄弟たちも来て、彼の前にひれ伏して言った。「私たちはあなたの奴隷です。」

確かに、私たちは主の奴隷になれたらと願います。パウロの誇りは、主の奴隷であることでした。しかし、ここで「あなたの奴隷です」と告白する兄たちの言葉には、少しの喜びもなく、むしろ恐れからの告白のようです。

主の奴隷は本当の自由人…自分の思い通り生きることでなく、神に握られ、支えられ、神の愛の中で生きる人…ですから、この世の何にも勝る喜びと希望があります。その人は、自分を愛し、他者を愛することが出来ます。しかし、兄たちの奴隷志願は、ヨセフの奴隷になって生き延びようとする駆け引きでした。

「主のしもべ(奴隷)」と自称したパウロも、主イエスに出会う前、神に仕えて生きようと頑張りましたが、結果は律法の奴隷…取引の愛・ギブ&テイク…となり不自由でした。

友よ。なぜ、自分の曲がった気持ちに縛られ、自分も神をも苦しめて、救いの喜びを消すのですか。ヨセフ(イエス)の願いは、兄弟たち(私たち)と主従の関係ではなく、本当の家族になることです。バビロン(奴隷)から帰った民への言葉、「主を喜ぶことは、あなたがたの力です」(ネヘミヤ8章10節・口語)。

50章19節

ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。」

ヨセフは、「恐れるな」と兄たちに語りました。私たちも、「恐れないで」と兄弟姉妹で励まし合いますが、しかし根拠のない、ただの気休めに過ぎないことがあります。ヨセフが「恐れるな」と言った時、「私が神に代われない」と付け加えました。それは、「私を見ないで、神を見て」と言ったのです。

ヨセフが兄たちを許したのは、神が許すようにヨセフに示されたからであって、人間的同情ではありません。そして、ヨセフ自身も神の赦しを知ったからです。ヨセフの許しの根拠も、兄たちの平安の根拠も神にあります。許しや平安の根拠を、自分や家族や兄弟姉妹に置くならば不安になります。平和は、神の支配に服する者同士に与えられ、人間同士の許し合いや慰め以上のものです。

友よ。「いと高き所に、栄光が神にあるように。地の上に平和が、御心にかなう人々にあるように」(ルカ2章14節)と天使が告げます。私があなたに、あなたが私に代われません。しかし、主は罪人の私たちに代わって罪の代価を払われました。裁きは過ぎ去りました。もう恐れはありません。感謝主降世(主イエス・キリストの御降臨を感謝します!)

50章20節 ①

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。」

「災いだ」と言ったことが「素晴らしい」に変えられ、「上手く行った」と有頂天になったことが「最悪」と気づくことがあります。

ヨセフにとっては「災い」で、兄たちには「してやったり」の過去の出来事が、ヨセフには「良いこと」、兄たちには「悪いこと」に逆転していました。

善悪、良し悪し、が逆転する分岐点は、「神は」と言ったヨセフの言葉にあります。さらに、「神は」を、「十字架は」に言い換えるとさらに意味がはっきりします。

十字架は、悲しみ、憂い、涙を喜びに、喜び、優越感、満足を悲しみに変えます。なぜなら、悲しみや憂いは自分を失わせ(十字架)、神にしがみ付かせます。しかし、優越感と権力は十字架を拒ませます。十字架を受け取るか拒むかは、それ以後の人生の意味を正反対にします。

友よ。過去の苦く、嫌なことも、今、十字架の前に持ち出すならば、あなたが死に、主があなたの中で生き始めます。ヨセフが過去に体験し、兄たちは今、体験させられています。福音の神髄は、「我死に、主我が内に生きる」十字架と復活です(ガラ2章20節参照)。

50章20節 ②

「それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」

ヨセフは、過去に自分と兄たちの間にあった出来事は、今日のように家族がエジプトに来て生きるためだった、と言います。

創世記に登場したヨセフや多くの人々は、私たちが今日生きるために必要な人々です。彼らの歩みが、神の前に歩む教訓と模範になります。それは、「このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている」(ヘブル12章1節)すばらしい恵みです。

これらの人たちは、「私たちも、一切の重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか」(同節)と諭します。そして、「私たちの歩みを見て、人生という戦場で勝利してください!」と今も語っています。

恵まれた友よ。人生を間違わないように、方向を示し、走り方を教え、先導する人々こそ、聖書の人物たちであり、彼らの生涯を記した聖書です。彼らの失敗も成功も、私たちへの恵みの賜物です。それは「今日のようにして、多くの人々(私たち)を生かすため」です。創世記が与えられていることを、六十六巻の聖書があることに、神に感謝をささげましょう。

50章21節

「ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」

詩篇の記者が、「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで(詩118・1)」と主をたたえました。上のヨセフの言葉は、主の真実といつくしみと恵みを何よりもよく伝えています。

憎んで殺そうとした者が、自分を赦し、救ってくれたのみか、「あなたと子どもたちを養いましょう」とまで約束しました。そのヨセフの言葉は、私たちへの主の言葉です。

主を十字架につけたのは私です…しかし主は、「あなたの罪は赦された(ヨハネ8章11節)」と。私はペテロと同じに「主を知らない」と言いました…しかし主は、「あなたは私のものだ(イザヤ43章1節)」と。さらに「あなたもあなたの家族も救われます」(使16章31節)との約束までしてくださいました。

愛する友よ。「もう恐れることはありません」、なぜなら「あなたがたや、あなたがたの子どもも養います」と主が約束してくださっているからです。それは、私たちを御自分の家族にするとの約束ですから、「主よ、お願いします」と素直に告白しましょう。

50章22節

ヨセフとその父の家族とはエジプトに住み、ヨセフは百十歳まで生きた。

ヨセフは110歳まで生きました。彼が宰相となったのは30歳。家族を呼び寄せたのは、7年の豊作の後の飢饉に入ってからですから40歳頃でした。彼がエジプトに売られてから93年。宰相になり家族を呼び寄せて70年の年月が経っていました。

詩篇の記者は、「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう」(詩133)と書き送っています。かつて40年間(試練)争っていたヨセフの家族が、エジプトに来て70年(祝福)の間、愛し合う家族として共に生きることが出来たのです。この幸せと楽しさは、彼らが作り出したものではなく、「それは頭の上にそそがれた貴い油」(同2節)と言われる、神からの祝福でした。その祝福の量は、頭の髪の毛を濡らすどころか、ひげに垂れ、さらに襟にまで垂れるほどでした(同2節)。

友よ。「神は愛です」とは真実です。ヤコブ家を愛で満たした神の愛は真実です。「信仰」は「真実」という言葉と同義語だと聞きました。神は真実です。神を信じる「信仰」は、私たち人間の唯一の「真実」です。

だから友よ、諦めないでください。今はまだ愛し合えない家族だとしても、神の真実が働いて、必ず愛し合える家族につくりかえてくださいますから!

50章24節

ヨセフは兄弟たちに言った。「私は死のうとしている。神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」

ヨセフは110歳です。塵(肉体)を土に帰す時が間もなくやってきます。しかし、彼の気力、否、信仰は衰えていません。

ヨセフは、エジプトで豊かに生きたことに満足してはいません。それは、神がアブラハム、イサク、ヤコブに与えた、「約束の地・カナンへ家族を帰す」との使命がまだ残っていたからです。

何よりも、ヨセフがエジプトに送られた目的は、家族を罪から救い、家族の和解をつくり、その後にカナンに帰還させることでした。多くの信仰の先人たちも、ヨセフと同じ使命を与えられて、見知らぬ外国にも宣教に出かけました。先に救われたのは、家族や隣人たちを、本当の家・神の国へ帰すためと知っていたからです。

愛する友よ。ヨセフ物語は神の贖い物語の予表と共に、あなたに同じ使命を自覚させるためでもあります。ヨセフから2000年経って主イエスが、それから2000年経た今は、あなたがこの物語の主人公です。 しかし恐れるには及びません。あなたの人生のさらなる主人公は、主イエスですから。どうか永遠のふるさとを皆に告げてください(ヘブル11章16節)。

50章25節 ①

「神は必ずあなたがたを顧みてくださるから」

なんという確信でしょうか。これは、この時から300年も先の「出エジプト」についての預言です。あなたには遠い先のことについて確信を持って言えるものがありますか…自分自身の天国での生活、子孫の救いなど……。

もちろん、人の中から出た確信であっては困ります。この確信は、神があなたに示したものでなければなりません。聖書は啓示の書で、啓示とは「神が人に御自分と、御自分の御心を示される」ことです。

創世記は、最も基本的な「神と人の関係」を啓示します。そして、ここに登場するアブラハム・イサク・ヤコブ・ヨセフと彼らにまつわる人々の生き方は、あなたが正しく生きるための預言です。あなたもアブラハムを信仰の父として、イサク、ヤコブ、ヨセフのように信仰を受け継ぐ子孫です。

友よ。「神は必ずあなたがたを顧みてくださる」とは、あなたに対しての言葉でもあります。現在の状況が暗くても、神の約束に心を留め、信じ続けてください。「あなたの信じた通りになるように」(マタイ8章13節)の言葉は、アブラハムにもヤコブにもヨセフにも、そしてあなたにも同じく語られているのです。神の真実を信じるのが信仰です。

50章25節 ②

「そのとき、あなたがたは私の遺体をここから携え上ってください」と言った。

ヨセフは、イスラエルの民がエジプトを出て行く時、自分の骨を携え「神が誓われた地」(24節)に葬ることを強く誓わせ、遺言しました。

ヨセフの骨をカナンに埋める目的は、彼らが出てきた所と、またどこへ行くかを示すためでした。それは、「あなたがたはカナン(神)から出て来てエジプト(この世)に住んでいるが、ここが永住の地ではない。カナン(天国)こそ永住の地である」ことを自らの墓をもって示すためでした。

彼が自分の墓をエジプトに造らずカナンにすることで、見える形でも、「天国があなたがたの永住の地」であることを示す遺言でした。

友よ。あなたの遺言は何ですか。「子たちよ仲良く・財産は均等に・納骨は…○○墓地へ」も必要ですが、本当の遺言は、「子たちよ、あなた方は父なる神の御元に行きなさい。『全てのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです』」(ロマ11章36節)とヨセフと同じであるべきです。そのために、「はるかにそれ(天国)を見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白…」(ヘブル11章13節)する、主のしもべとしての日々の生き方を貫きたいものです。

50章26節

ヨセフは百十歳で死んだ。彼らはヨセフをエジプトでミイラにし、棺に納めた。

創世記は、壮大なドラマです。天地創造、アダムの誕生、人間の堕落、罪の世の苦しみ、神による救済、人の神への応答の物語、それがわずか50章・100ページに収められていました。

この壮大な物語を、他人事でなく自分の事として読むことが出来たなら、それは聖霊が働いてくださったからです。みことばと聖霊が合致すると、そこにはイエス・キリストが生きて現れ、働き出します。 それは、古い昔の「神のお話し」ではなく、あなたの人生に起こる「神の出来事」となります。創世記の主人公は神ですが、その相手はアダム・ノア・アブラハム・イサク・ヤコブ・ヨセフ、そして「あなた自身」です。ヨセフの体が棺に納められた様に、あなたの人生も神の家に収められます。

愛する友よ。神はあなたを心に留め、あなたを創造し、神の御前に立って生きる者とされました。ダビデと共に「今、神、主よ。あなたこそ神であられます。あなたのお言葉はまことです。あなたは、このしもべに、この良いことを約束してくださいました」(Ⅱサム7章28節)と告白し、栄光を神に帰しましょう。アーメン 

(創世記完)

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