キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第8章

8章1節 ①

神は、…心に留めておられた。

ノアと家族、家畜や獣や這うものが一年間も箱舟の中で生活することは大きな試練ですが、それでも高い山まで水に覆われた外に比べれば天国です。しかし、感謝に慣れてしまうと、肉から苦い根の芽が出て成長します。

同じく、教会生活も病気や家族問題に一区切りがついたころ、洗礼の時に死んだはずの肉が、御霊の実よりも早く罪の実を成長させます。信仰の戦いは、霊と肉の戦いで、教会の中だからこそより顕著に現れます。しかし、その戦いは決して無意味なものではなく、「義の実を増し加え」(Ⅱコリ9章10節)ます。義の実は、自分が死んでキリストが生きるときに作られますが、それには試練が必要です。 

ある人が、「心に留められた」の箇所を「神は約束で心を一杯にしておられる」と意訳(意味を重視した訳)しました。神は、あなたがこの試練を通過して出て来るのを待っています。箱舟の中で苦悩しているあなたへの期待で、神の心は一杯になっています。

主は「あなたの信仰がなくならないように祈って」(ルカ22章32節)おられます。足元と目先だけでなく、もう少し先を見つつ、試練に耐えてください。

8章1節 ②

神は地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。  

天地創造の時、「やみが大いなる水のうえにあり、神の霊は水の上を動いていた」(創1章2節)ことを思い出します。今、神の再創造が始まっています。かつては闇(罪)が水を覆っていましたが、今は神の風(霊・息)が水(洪水・裁き)を追い出します。

創造主の神は、「再創造主」でもあります。「創造」には強大な力を感じますが、「再創造」には包み込む暖かい愛を感じます。再創造こそ愛がなせるわざだからです。神はいつの時代でも、神を求めて立ち帰る者を、正しいいのちを持つ神の子の身分に戻してくださいます。

ダビデは、罪を犯した後、「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」(詩51・10節)と祈りました。神は、彼の罪のために「風を吹かせ」ました。風は彼の罪をゴルゴタのイエスの十字架の中に吹き込み、罪の裁きの水は完全に退きました。すると、ゴルゴタから新しい風(聖霊)が吹き、ダビデの中にとどまり、彼は新しくされました。

友よ、今日も、「罪の赦し」と「復活のいのち」の風(霊・息・いのち)なる聖霊があなたに吹いています

8章8~9節

鳩を彼のもとから放った。…手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のところに入れた。

平和のシンボル鳩は、三位一体の神の聖霊を示しています。聖霊の神は、主イエスから受けて私たちに与えられ(ヨハネ16章12~15節参照)、私たちを主に執り成してくださいます(ロマ8章26節)。このお方はダイナマイトのような力を持っておられますが、鳩のようにデリケートな愛もお持ちのお方です。

聖霊は、「あなた方と共に住み、あなたがたのうちにおられる」(ヨハネ14章17節)お方です。聖霊は人格をお持ちです。それはまた、あなたの意志を無視しては働けないということでもあります。聖霊は主の御心を伝えますが、あなたの同意なく実行できません。

ノアは鳩を放し、その鳩からオリーブの葉(神の御心)を受け取り、それから自分の進むべき道を決めました。聖霊なる鳩は、あなたの中に閉じ込めず放たれなければなりません。そして、その鳩が帰ってくるのを待ち、鳩から聞くことです。

鳩をつなぎ止め、自分の考えを押しつけ、自分の思いを、神を通して実現させようとしてはなりません。「御霊の自由」は、聖霊に服従して「私が不自由」にされるところにあるのです。

8章11~12節

ノアは水が地から引いたのを知った。それからなお七日待って…鳩を放った。鳩は彼のところに戻って来なかった。

戻って来ない鳩に、「カラスのように裏切ったのか」と言った人がいますが、それは違います。聖霊はいつも私たちを捜し求め(ルカ15章8節)、私たちに求められるのを待っておられるお方です(同11章13節)。私たちを裏切り捨てることは決してありません。

聖霊とノアの間には、「御心がわかったら従います」との約束があったに違いありません。ノアは、聖霊によって神の御心を確信できました。そして「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆いっしょに箱舟を出なさい」、との声を聞いて行動に移ります。

それでは、飛び立って帰らない鳩(聖霊)はどうしたのでしょうか。聖霊の任務は、「助け主」(ヨハネ15章26節)です。聖霊は彼らが舟の中にいた時は守り、出た後のことも考えています。聖霊の鳩は、ノアと家族が舟を出た後の準備を始めたので忙しくて帰らなかったのではないでしょうか。

友よ。あなたが神の御心に従う決心ができたなら、その先を恐れることはありません。あなたの助け主・聖霊は、すでに先に行って、あなたが来たときの準備を整えておられます。

8章18節

そこで、ノアは、息子たちや彼の妻や、息子たちの妻といっしょに外に出た。

「時」には、始まりがあり、終わりがあります。「何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」(伝道3章1節)。ノアには、舟を造った120年、舟の中の1年、そしてここを出る時が、今、来ました。

それぞれの「時」はとても大切ですが、伝道の書は、「空の空。すべては空である」(同1章2節)と語ります。それならば、舟を造っても、中で生活しても、出ても、行き着くところは「空」なのだから同じではないか、となります。果たしてそうでしょうか。

「空」と語る伝道者は、空の出所を、「日の下で行われた全てのわざ」(同1章14節)だと突き止めました。「日の下」とは、「日」を単純に「太陽」とするならば、太陽の下、すなわち「この世」のことです。

ノアと家族が舟を造った120年と舟の中の1年は、自分の思いでなく主の御心に従った年月でした。彼らは、太陽の下「この世」を超えた太陽の上「神の世界」を歩みました。ですから、彼らに「空」はありません。

友よ。この世の「生者必滅会者定離」の人生は空ですが、太陽の上で生きる私たちに「空」はありません。

8章20節

ノアは、主のために祭壇を築き…祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。

箱舟から出たノアは、「全焼のいけにえ」(レビ記1章参照)を献げ、神を礼拝しました。「全焼のいけにえ」は、献身を表す儀式でした。彼は、「神に自分を献げる」礼拝を行ってから、新しい歩みに踏み出しました。

全焼のいけにえは、動物の皮も肉も内臓も全て焼いて煙にします。献身とは、自分の賜物や財産や時間を差し出すのではありません。「自分の何か」でなく、「自分自身」を神に献げることです。

「あなたがたのからだを…聖い、生きた供え物として献げなさい」(ロマ12章1節)。それは、自分を神に用いてもらうためではなく、神によって自分を焼き滅ぼし、神によって自分を失うことを表わしました。

献身者とは、神学教育を受け、按手礼を受け、賜物を持ち、有給の指導者などのことでもありません。ある人曰く、「迫害によって死んだから殉教者ではなく、殉教者だから迫害されて死んだのだ」と。

愛する友よ。あなたこそ、献身者でなければなりません。それは、ノアが舟から出て最初に行ったこと…1日の行動を起こす前に、自分を神に献げる決意をすること…です。その連続が献身者です。

8章21節 ①

主は、そのなだめのかおりをかがれ…

ノアは、殺した動物をすべて灰になるまで焼き尽くしました。羊一匹でも、まして牛ならばなおさらもったいないと思います。主が全焼のいけにえを受けて満足したのは、献げた犠牲の大きさによって、自分に対するノアの忠誠度を確かめたからでしょうか。

主の満足は、犠牲の大小ではなく、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」(ヘブル11章6節)という信仰の香りでした。

ここで殺され焼かれた動物は、羊や牛などの動物ではなく、「子羊イエス」です。また、ノアが羊を神に献げたのでなく、父である神がノアのために御子イエスを献げたことを意味します。神は、罪人を受け取ることはできません。子羊の血によって聖いものとしてから受け取ります(ヘブル10章全体参照)。

人のどんな犠牲や行為も、罪を裁く神の怒りを「なだめる」ことはできません。罪は、死という代価が支払われてこそ消され、怒りもなだめられます。

信仰の香りとは、自分が神に何かすることではなく、神が献げたイエス・キリストを主と信じて受け取ることです。神はそれを良い香りとして喜ばれます。

8章21節 ②

なだめのかおりをかがれ…。「決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。」

神は、ノアが献げた動物犠牲のかおりを嗅ぎ、「人をのろわない」と約束されました。動物犠牲は、救いが「知識」でなく「いのち」によることを教えます。そしてさらに、人が救われることの中身を見せます。

羊を神殿に連れて来ます。罪を赦してもらいたい人が羊の頭に手を置き、自分の罪を羊に移します。羊を縛り刃物で頚動脈を切り、もだえつつ噴出す血を器に受けます。その血を、祭司が神殿の中に運び注ぎます。この羊こそ、ゴルゴタに連行され十字架で血を流し、死なれたイエス御自身でした。

羊の姿は罪人が辿る道でしたが、主が身代わりに歩まれました。「キリストは、私たちのためにのろわれ…贖い出して…」(ガラ3章13節)。さらに、羊は火に焼かれ、復活のいのちを表すなだめのかおり(煙)となります。

愛する友よ。あなたの信仰は殺された羊・十字架のイエスで止まっていませんか。神が喜ばれたのは、立ち上った煙(かおり・復活)でした。それは、罪が処断され、きよめられ、いのちとなった復活のキリストへの信仰です。「事実、主は復活された」が初代教会の挨拶でした。復活信仰こそ、十字架信仰を完成するのです。

8章21節 ③

「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ」

人類は、悪から離れ、善の道を歩もうと、政治・経済・技術・教育などに取り組みました。しかし、「初めから悪(本質が悪)」なるものを教育しても効果はありません。それは、棺を美しく飾って死者を復活させるようです。

《例え》

少年に捕えられた雀が彼の手の中で震えていました。一人の紳士が、「鳥は何の役にも立たないから逃がしなさい」と勧めます。少年は、「捕まえるのに3時間もかかったのだから逃がせない」と反発します。説得できなかった紳士は、少年の手の中の雀を買い取ると言います。少年は値段に納得して紳士の手に渡しました。紳士は雀を少年から受け取り大空に放しました…これが贖いです。

初めから悪を計る人間に、良い思いを与えるために、神はこの雀のように人を買い取りました。「彼は、私たちの背きの罪のために刺し通され、咎のために砕かれた…。彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(イザ53章5節)。

買い取り放した雀(人)が、自分(神)を信頼し、自分の庭(神の国)から離れないで住みついてくれること。これが、神が人に願っている「人の心に思い計る『良い』こと」です。

8章21節 ④

「わたしは、決して再び人のゆえに、…すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。」

神は、なだめの香りを嗅ぎ、「決して再び…滅ぼさない」と言われました。しかし、神は人間の罪に目をつむり、干渉せず、二度と人を裁かない、と言われたのではありません。それは、人の救いの根拠を人に求めず、神自ら救いを完成する、と言われたのです。

神は、人が良い人となり、良い行いができ、家庭を良く治め、職場で信頼され、自分の責任を負えるようになったら、「あなたを救おう」とは言われません。その人の人格の善し悪しや、行いの有無の大小に関係なく救う、との約束です。

さらに、自分の原罪と罪々がわかり、洗礼を受け、信仰深いならば罪を赦し救う、でもありません。「私たちがまだ罪人であったとき」(ロマ5章8節)、まだ悔い改めも信仰もない時も、神は「完成された救い」をすでに用意していてくださいました。

私たちの救いの根拠はただ一つ、「あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖いだされたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血」(Ⅰペテロ1章18・19節)によるのです。

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