キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ホセア書 第1章

時代背景

ホセア書序論 ①

ホセアは、北イスラエルに遣わされた預言者です。

ダビデの王国は、BC922年に北イスラエルと南ユダに分裂しました。その原因は、ソロモン王が神殿建設に7年、後の宮殿建設に13年を費やしたことでした。神殿に費やした金額の何倍も宮殿に使ったことは言うまでもありません。合計20年に及ぶ労働奉仕と捧げ物は、民を疲弊させました。さらに、ユダ族はダビデの七光りとソロモンの権力の元に支配階級となり、他の十部族はユダ族のための人足化されました。

神殿建設に心を注いだ十部族も、ソロモンの贅沢にはついて行けません。やがて、ヤロブアムを立ててソロモン王と交渉しますが認められず、ヤロブアムは殺害を逃れてエジプトに逃亡します。

ソロモン王が死にレハブアムが王になった時、十部族はエジプトから帰ったヤロブアムを立てて再交渉しますが、「王が耳を貸さないのを見て、…『ダビデの家に我々の受け継ぐ分が少しでもあろうか』。エッサイの子と共にする嗣業はない」と言って南北に分裂しました(列上12章参照)。

その後、十部族は南ユダとの一体化を恐れ、エルサレムをまねた神殿をダンとべテルに造りますが、ヤロブアムは援助を受けたエジプトの子牛の偶像も神殿に収めます。この時から偶像礼拝が始まりました。

友よ。分裂の主な原因は南ユダにあったとしても、相手の罪に乗じて自分も罪を犯して良いとはなりません。罪は神に対するものであり、自分のものなのです。

預言書の理解

ホセア書序論 ②

旧約聖書には16の預言書が載っています。その預言者の中にホセアがおり、一般的に「愛の預言者」と呼ばれています。それは、神に従いふしだらな女と結婚し、離縁せずに愛し続けたからです。神は、ホセアと妻ゴメルを通して、御自分とイスラエルの姿を表し、悔い改めて神に帰るように語り続けます。

「預言者」は、神の言葉を預かった者です。しかし、ホセア書は今から2700年も昔に書かれたもので、現代にどのように適応できるか疑問を持たせます。しかし、語られた言葉が、「神の言葉」ですから、今でも明確な神のメッセージ・預言となります。

預言理解の根拠は、真理の理解にあります。真理は、

  1. 普遍的…どの時代でも変わらない
  2. 有機的…古今東西、老若男女を超えて全ての人に
  3. 単純で美しい…愛である

神の言葉は、1.いつの時代でも変わらない、2.全ての人に同じく適用される、3.神は人を分け隔てせず愛する、となります。以上の3つが該当するものこそ真理なる「神の言葉」です。

したがって、アブラハム、モーセ、ヨシュア、エリヤ、ホセア、そして今私に語られる神の言葉は同じです。時代に変化はあっても、神に変化はありませんし、人の姿もアダムとエバ以来変わっていません。

友よ。2700年前のホセアへの言葉は、今のあなたへの言葉です。その確信をもって聖書を読むとき、それは文字(形)ではなく霊(命)となります。

1章1節

ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアに臨んだ主の言葉。

イスラエルが南北に分裂(BC922)して後160~70年が経った頃?、神はホセアという預言者を北イスエルに遣わされました。王・ヤロブアム二世の治世は41年も続き、政治経済的安定を享受していました。しかし、外面の平和と繁栄が、間もなく襲うであろう国家の滅亡を招く罪を見えなくしていました。

聖書の記事は、過去の史実を超え今日の現実と未来の結果を見事に浮き上がらせます。従ってイスラエルの歴史は、一国家、一家族、一個人への出来事となります。神である主は「今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者…、『わたしはアルファであり、オメガである。』」(黙1章8節)お方だからです。

戦後70年を経た日本も、経済的繁栄と政治的安定を享受してきましたが、外面的豊かさが人の一番大切な命の危機を隠すことに気づいていません。日本人こそ「パンの飢きんではなく、主の言葉を聞くことの飢きん(アモス8章)」に直面しています。

友よ。人にまことの命を与えるパンは、地上にはなく天から下ります。「ホセアに臨んだ主の言葉」は、「あなたに臨んだ主の言葉」です。主の言葉には断罪もありますが、それを超えた愛の言葉です。ホセア書を「裁きに勝る神の愛」のテーマで学びます。日々ホセア書を通して語られる主の言葉に聴いていきましょう。

1章2節

主がホセアに語られたことの初め。…「行け、淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」

ホセアの出生も生い立ちも記されていませんが、神を愛する人であったことは確かです。すると彼が好む女性は、神を愛する人であるはずですが、神の言葉は「淫行の女」をめとりなさいでした。

預言者には、王に面と向かって罪を断罪した者もいれば、イザヤのような記述預言者もいます。その中で、ホセアの存在は特異でした。彼は、神の御心を自分の結婚と夫婦の現実を通して深く知らされます。彼は神の言葉に従い、実際に淫行の女を妻とし、その妻の幾度もの裏切りに直面しても、なお受け入れ愛し続けなければならない痛みの人となりました。

ホセア書は、夫ホセアを神の立場に、淫行の妻ゴメルを偶像礼拝に走る北イスラエルに例えて語ります。自分の生活の中でその痛みを知るからこそ、神の人間に対する忍耐と愛を語る預言者となれました。

友よ。ホセアは自分の思いに反する、「淫行の女をめとり…」との神の言葉に聞き従いましたが、最初から理解できていたわけではありません。神の御心は、みことばを実践して後にわかるものです。口に甘い言葉(自分に都合のよい言葉)は後に苦くなり、口に苦い言葉(自分の願いに反する)は、後に腹の中で甘くなります(黙10章10節参照)。口に苦い言葉こそ、後に御霊の実を豊かに結ばせるものです。

1章3節

彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだ。

信仰深いホセアが、こともあろうに淫行に走る女を妻にしたのはなぜでしょうか。もちろん、人間的な愛情は持てなかったと思います。それは、「私はゴメルを愛せないが、私が彼女をめとることによって、神は彼女を救い出そうとしている。ならば、この結婚を受け入れよう」との思いからだったのでは?

しかしその考えは、なおも人の思いであり、打算も含まれます。人に敵を愛する力はありませんから、「神の言葉を信じたから」がカギになります。

信じるとは、神に主権を渡すことで、自分に対して働く権利・自由を与えることです。すると神は、人の思いを変え、確信させ、行動力も備えます。信仰は、頭の理解を超え、自分の存在を神に賭ける行為です。ちょうど、馬券売り場の窓口でお金を渡さないなら、たとえ的中しても配当をもらえないのと同じです。賭けてこそ、神の事実を受け取ります。

「ノアは神に従う無垢な人」であり、アブラハムには、「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」と言われました。「無垢な人」も「全き者」も、罪や弱さや欠けの無い者ではなく、「自分を神に賭ける人」のことです。

友よ。「彼は行って…ゴメルをめとった」の「彼」を「私」に当てはめてはどうか。神は、信じるだけの者ではなく、従う者に真正面から向き合われます。

1章2~3節

…この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。

ホセアは、神の言葉に従い淫行の女ゴメルをめとります。やがて彼女は身ごもり男の子を生みました。

聖書は霊の世界ですが、現実から遊離した二元論の世界ではありません。人は、「土のちり(自然生命)で造られ、命の息(神の命・霊)を吹き入れられて生きる者(神の子)となった」のと同じです。それは、自然界→肉体を入れる器、肉体→心を入れる器、心→霊を入れる器、であるように一体化しており、目的は「神と継がり交わる」ためです。

ここから、ゴメルの存在は、現実的に伴侶以外の異性と交わる不貞の女であると共に、「淫行の霊」(4章12節・5章4節)に支配される異教の神バアルを信じる人、とも理解できます。ゴメルは、ホセア(イスラエルの神)と、他の男(バアル神)の間を行き来する姦淫する者を表します。聖書は現実をもって霊的なことを表し、霊的なことをもって現実を見せます。

友よ。淫行(姦淫)にも、肉体、心(マタ5章28節)、霊(出20章4節)と入り混じりますが、原因と過程と結果は明確です。それは「見えるものは見えないものから出て(ヘブ11章3節参照)」きますから、神との正しくない関係(原因)が心の姦淫(過程)を作り、肉体による姦淫(結果)へと進ませます。あらゆる問題の原因は「主から離れ」たところから出てきます。今日も主から目を離さずに歩んでください。

1章3節

彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女は身ごもり男の子を生んだ。

結婚ほど自我丸出しになるものはありません。男女の愛は、「相手を愛しているからではなく、自分に必要だから」が本音だからです。男女の「愛(エロース)」の言葉は、価値追及の愛を意味します。神の愛は「アガペー(自己犠牲愛・完全愛)」です。

ホセアに取って、ゴメルをめとることは意に反することですが、彼は神に従うことを優先しました。めとるとは、一体化することで、相手の責任を取ることにもなります。ホセアがゴメル(罪)と一体化すると、男の子(実)が誕生するように、「罪の実」を刈り取らねばならなくなります。

ホセアとゴメルの結婚こそ、人が救われる方法=「一体化」を教えています。罪人と交われば、罪人となります。主イエスは罪人と一体化し、罪人となり、罪の価を御自分が支払いました。それが十字架でした。

主に贖われた友よ。神を信じるとは、主イエスとの結婚そのものだったのです。信仰告白の水の洗礼は、

  1. 葬式(水に浸かる)=主の十字架につき死ぬ
  2. 誕生(水から上がる)=主の復活の命に生きる
  3. 結婚式=イエスを主(主人)として従う

それはパウロが言うように、「キリスト・イエスに結ばれ…共に葬られ…一体となって…共に生きる…」(ロマ6章1~14節参照)ことです。主はゴメルなる私たちをめとってくださったのです。感謝。

1章4節

主は彼に言われた。「その子をイズレエルと名付けよ。…私はイエフの王家にイズレエルにおける流血の罰を下し、イスラエルの家におけるその支配を絶つ。」

神は、ホセアとゴメルの間に生まれた男の子に、「イズレエル」と名付けなさいと言いました。しかしこの名は、可愛い子にはふさわしくない悲惨な名前でした。

イズレエルは、アッスリヤからバアルの預言者を引き連れ、イゼベルを妻として偶像礼拝に走ったアハブ王の子ヨラム王一族が、イエフにより虐殺された地名でした。そして、殺りくにより王となったイエフ王朝の子孫がヤロブアム二世でした。ヤロブアム王も偶像礼拝を続けるので、アハブ王が倒れたように、イエフ家(現王家)も倒されるとの預言でした。

この時のヤロブアム王は、四十年に及ぶ繁栄を楽しんでいますが、やがて彼らが先代の王にしたように、あなたがたに「流血の罰が下り…支配を断たれる」その時が来ると言います。

友よ。神が呪われた名前を付けよ、というのはどうか?と思いませんか。神があえてそうするのは、彼らをイズレエル(虐殺の地)にやりたくないからです。

  

イズレエルに追いやるのは、彼らの罪・偶像礼拝です。

 

自分の身辺に起こる出来事の中に神の声を聴いてください。自分や家族に起こる出来事の中に、イズレエルに向かう姿を見つけなければなりません。そして、誰彼でも運不運でもなく、神と自分との関係が正しいのか否かを祈りの中で点検する時です。

1章6節

彼女は再び身ごもり、女の子を産んだ。主は…「その子をロ・ルハマ(憐れまれぬ者)と名付けよ。わたしは…イスラエルの家を憐れまず…赦さないからだ。」

ホセアの第二子は女の子でしたが、その子の名も悲しい名でした。「憐れみ」は「愛」と同義語ですから、「愛されない子」という名になります。

しかしここで、「熱心に主に従うホセアの子たちなのに、なぜ祝福されず呪われた人生を歩まねばならないのか」との疑問が湧きます。その理由として、ホセアの子たちではなく、ゴメルが姦淫によって生んだ子どもたちである、という説です。後に、「お前たちの母を告発せよ。…彼女の顔から淫行を、乳房の間から姦淫を取り除かせよ」(2章4節)と、「愛人たちについて行こう」(7節)からも予測できます。

ゴメル姦淫説の真相は別として、霊的には事実です。イエスを信じたことは、イエスを夫(主)としたことですが、夫がいるのにこの世(バアル)を愛して得るものは、イズレエルとなりロ・ㇽハマとなります。

イエスという夫に愛されながら、この世も愛する友よ。そこで得る子たちについて、「だれかに奴隷として従えば、その従った人の奴隷となる。…罪の奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかです」(ロマ6章16節)と記されています。そこで結ぶ実(子)は、「姦淫…、争い、嫉み、怒り、利己心…」などの肉の実です。主イエスの奴隷となり、御霊の実(子ども)を結んでください。

1章7節

「だが、ユダの家には憐れみをかけ、彼らの神なる主として、わたしは彼らを救う。弓、剣、戦い、馬、騎兵によって救うのではない。」

聖書はここで南ユダのことを取り上げますが、北イスラエルと比較していることがわかります。

イスラエルの王たちの系譜年表の中で、信仰深かった王…◎、普通の王…○・不信仰な王…無印、とマークづけされたものがあり興味を引きます。南ユダの王は代々に渡ってダビデ家が継ぎますが、北イスラエルでは血筋は無視され、反逆や謀反により次々と王が代わります。何よりも、◎と○が付いている王は、南ユダに多くいますが、北イスラエルには一人もいません。

冒頭の聖句は、北イスラエルに「憐れみをかけることができない(ロ・ㇽハマ)」が、南ユダには「憐れみをかける(ㇽハマ)」と読むことができます。(原語で「ロ」は否定形、「ㇽハマ=憐れみ」)。

その理由は、南ユダも偶像礼拝に走りましたが、そのことに気づき、悔い改めて神に立ち返る王たちが多く起こされたからでした。しかし、北イスラエルには、偶像を捨てて神に立ち返る王はいませんでした。

友よ。南ユダと北イスラエルの王たちは、同じ罪人に過ぎませんが、違いは預言(神の言葉)を真剣に受け取ったか否かです。北イスラエルは、エリヤ・エリシャ・ホセア・アモスなど、大いなる器が遣わされていましたが受け入れませんでした。「あなたが何かを決める」のでなく、「み言葉があなたを決める」のです。

1章8~9節

彼女は…また…男の子を産んだ。…「その子をロ・アンミ(わが民でない者)と名付けよ。あなたたちは私の民ではなく…私はあなたたちの神ではないからだ。」

ロ・ㇽハマが乳離れした頃、妻ゴメルは第三子を産みました。またもや神が名前を指定し「ロ・アンミ(我が民ではない)」と悲しい名が付けられました。

ある人が「ロ・アンミ」を、「私はあなたたちに対して『私はある(ヤーヴェ)』ではなくなる」と訳しました。神は、ホセアとゴメルの関係を通して語ります。ホセアは姦淫したゴメルとその二人の子を受け入れ、今回が三人目の子でした。そこで神は、「もういい加減にしろ。もうお前をわたしは見捨てる」とのメッセージが「ロ・アンミ」でしょうか。

しかし、聖書による神の約束は、

  • 「反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に、絶えることなく手を差し伸べてきた」(イザ65章2節)
  • 「わたしはあなたを固くとらえ、地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕、わたしはあなたを選び、決して見捨てない。」(41章9節)

神は彼らの子供たちを、「イズレエル(虐殺の地)、ロ・ㇽハマ(憐れまれない者)、ロ・アンミ(我が民ではない)としようとしているのではなく、そうしたくないから警告しているのです。

友よ。神はあなたを見捨てませんが、あなたが神を見捨てることはできます。神の警告を無視せず、「主よ、お話しください」と幼いサムエルになってください。

ページトップへ