キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ホセア書 第12章

12章1節

エフライムは偽りをもって、イスラエルの家は欺きをもってわたしを取り巻いた。ユダはいまだに神から離れてさまよい、偶像を聖なるものとして信頼している。

口語・新改訳では11章12節

民は、偽りと欺きで「わたしを取り巻いた」との言葉は、「わたしをだました」ということです。

ジョン・バンヤンの「天路歴程」に二股氏が登場します。彼は、神もサタンも欺いて首尾よくことを進めているつもりでした。しかし、気がついてみると、欺いていたのは神でもサタンでもなく自分自身でした。「二人の主人に仕えることはできない。…神と富とに仕えることもできない」(マタ6章24節)のです。

二股氏が考えた神もサタンも取り込もうとする世界では、神は沈黙を守り、サタンはここぞとばかり懸命に二股氏を愛し仕えます。結局、彼はサタンに欺かれているにすぎません。

同じく、霊(神)と肉(自分)の両方を求めるとき、神は肉を小さくするために働き、サタンは肉を大きくさせるために働きます。誰も自分が小さくされることは嫌で、大きくされることに心が奪われます。サタンの目的は、人を神から離すことです。

「神と世、霊と肉」の間に迷う友よ。その迷いは、今の生活が満たされていることに起因しませんか。神にも世にも希望を持とうとする信仰は、病や災害や老化などの現実に直面するまでは通用しますが、その先は通用しません。自分の中に神を取り込む者はやがて失望し、神の中に自分が入る者には失望がありません。

12章2節

エフライムは風の牧者となり、一日中、熱風を追って歩く。欺瞞と暴虐を重ね、アッシリアと契約を結び、油をエジプトへ貢ぐ。

砂漠を通って来る熱風は、60度を超えて湿度も無く、あらゆる植物を枯らし不毛の地にします。

羊飼いは、羊たちを草と水のある所へ導き、豊かに養うことで、自分たちも豊かな命の恵みを受け取ります。命を奪う熱風を追いかけて行く愚か者はいませんが、神の民は熱風を飼う愚かな牧者となっていました。

民は、神を礼拝する儀式を捧げる一方でアッシリアのバアルも礼拝し、その敵国であるエジプトには貢物を差し出していました。彼らは、二股どころか「三股信仰」に陥っています。それこそ、熱風を追いかける愚かな牧者と同じ不毛を刈り取ります。

聖書が教える救いは、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」であり、さらに「人が義とされるのは律法の行い(人の業)によるのではなく、信仰(神の恵みの業を受け取ること)による」(ロマ3章24~28節参照)です。

友よ。自分が神に近づくのでなく、神に近づいて働いていただくのです。「神も世も」が不毛を作るのは、神に手出しさせなくするからです。どんな罪、弱さ、失敗にも、神に手を差し出していただけば、病気や行き詰まりの中にも御霊の命を受け取ることができます。主だけに継がってください。そして、豊かな「命という実」を結ばせていただいてください。

12章4節

主はユダを告発される。…ヤコブは母の胎にいたときから、兄のかかとをつかみ、力を尽くして神と争った。

ホセアは、ユダヤ民族の罪を指摘するに、彼らの先祖ヤコブへ言及します。アブラハム、イサク、そして3代目のヤコブ。この民は、3つ目のボタンで掛け違いを経験しました。それを正す必要があります。

その掛け違いは、「母の胎内にいたときから、…神と争った」ことでした。ヤコブには、「兄(エサウ)が弟(ヤコブ)に仕える」(創25章23節)と約束がありました。神の御計画は、「弟が霊的リーダーとなり、兄は弟の霊的賜物によって祝福を受ける」ことでした。それは、「自由な神の選びによる神の計画が、人の行いによらず、お召しになった方によって進められるためでした」(ロマ9章12節)。 

神の御計画は神の御手で進められますが、ヤコブは自分で実現しようとしました。母の胎内にいる時から、「兄のかかとをつかむ」とは、人は生まれ出る前から自己主張する罪人であることを証明します。信仰は、神を信頼することで、自分の力ではなく相手に自分を委ね、相手の恵みを受け取って生きることです。

友よ。あなたは、神の「祝福を受け継ぐために召された」(Ⅰペト3章9節)のです。現在の苦しみは、神に与えられる祝福を、ヤコブのように自分で実現しようとするからではありませんか。荒れる海の船の中で、「私に告げられたことは、そのとおりになります」(使27章25節)とパウロと共に言いましょう。

12章5節

神の使いと争って勝ち、泣いて恵みを乞うた。神はベテルで彼を見いだし、そこで彼と語られた。

兄の弱さに乗じて長子の権利を奪い、父からは家督の祝福をだましとったヤコブでした。しかし、彼の意に反し長子の権も家督権も捨てて、叔父ラバンの所へ逃げる羽目になりました。

その途中で日が暮れ、石を枕にして眠ったその時、天に通じる梯子のかたわらに主が立っていました。そして、「…あなたが横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える」と言われましたが、この約束が実現したのは20年後でした。

彼は、実家にいた時の教訓を学ばず、叔父ラバンの所でも、相変わらず自分の手で恵みを造り出そうとしていました。その自己主張の代価は、2人の妻と2人のはしため、4人の女たちから生まれた12人の子供たちの骨肉の争いへ発展していきました。

ヤコブはラバンの元から逃げ出し、ヤボク川の岸で神と格闘し腿の関節を外され、自分で歩けなくなり、神に「泣いて恵みを乞う」者となりました。彼は、胎内にいる時から神と争い常に勝ってきました。しかし、彼が神に勝った時は敗北者で、神に負けた時に勝利者、イスラエル(神の王子)になりました。

友よ。あなたは神に勝って(神を説き伏せて)いませんか。どうか神に負けて(服従して)ください。負けた時、「ベテルで…語られた」神の約束した祝福を受け取ることになります。神の恵みで生きてください。

12章8節

商人は欺きの秤を手にし、搾取を愛する。

偶像礼拝を止められないイスラエルの根本的な原因を、「商人」という言葉を用いて語ります。商人の行動基準は、「儲かる・損する」の損得です。神の子たちの生活にも、いつの間にか損得が入ってきます。

《聞いた証し》

60年程前、中国の満州地方の一兄弟が、「誰も行ったことのない所に出て行きませんか」との御声を聴いた。さらに、「私はあなたのために死にました。あなたは私のために命を捨てたいと思いませんか」と。彼は、あまりの光栄と感謝にその場で泣き崩れた。神に宣教を迫られていることを確信し、妻とともに神学校へ入り、さらに彼の仲間たちと備えた。

神の御心は、新疆ウイグル自治区であった。6~7人の者たちは出かけた。途中で1人が死んだ。到着した砂漠地方で1年伝導した。政治状態が変わり信仰のゆえに捕らえられ、30年の労働改造所送りとなる。その間、妻が死に、他の仲間も数人死んだ。

解放されてから、彼らは故郷に帰らずそこに留まり伝導し続けた。さらに多くの人々が救われた。

友よ。彼らは神に従った結果、何を得ましたか。普通の生活を捨て、妻と仲間を失い、30年の自由を奪われ…まったくの損失?ですか。確かに、肉の目で見る信仰の「実」を探すならば大損の信仰です。

しかし、彼らは信仰による「命」を豊かに得ていました。信仰の命は、主に継がることです。彼らは主に継がり続けました。これこそ本物の「信仰の実」です。

12章9節

エフライムは言う。「わたしは豊かになり、富を得た。この財産がすべて罪と悪とで積み上げられたとは、だれも気づくまい。」

北イスラエルの40年の豊かさは、実は「罪と悪とで積み上げられた」ものだと指摘します。

「罪と悪」とは、人の物を盗んだ訳ではなく、神の御心に反するもので作られたことです。彼らは、アッスリアにすり寄りバアルも礼拝し、表面的平和をもって自分は正しいと開き直ります。

神の子たちも、物質的豊かさや家族の平和を、世に妥協したから受け取る場合があります。子供に高学歴を得させるため、一番大事な「主を畏れることは知恵のはじめ」(箴1章7節)を、塾を優先させて得させたのでは問題です。それはやがて腐れになります。

「罪と悪で積み上げた」とは、目的を手段に、手段を目的にしたことです。もちろん、目的は神御自身との継がりと交わりによる命です。そのために知識や資格や衣食住など、手段として備えられています。

友よ。目的と手段を間違うのは、目的がより明確になっていないからです。人生の目的は、物質的繁栄でも健康ですらありません。主が、「時は満ち、神の国は近づいた」と言われた、「神の国と神の義」の中に入って生きることです。さらに、それが家族や周りの人々にも実現することです。「神の国と神の義」を「目的」とするとき、「そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」とは「手段」のことです。

12章10節

わたしこそあなたの神、主。エジプトの地からあなたを導き上った。わたしは再びあなたを天幕に住まわせる。わたしがあなたと共にあった日々のように。

天の父も人の親も、子を諭すのに厳しさを先に出すことも、あるいは優しさを先に出すこともあります。ここには、優しい神の親心が十分に表されています。

人は、神を愛することよりも、信仰の結果の恵みを欲しがります。そして、先に恵みを得ると思い上がり、神から遠ざかります。人は、むしろ良い結果を得られないために神の御前に出てきます。まさに、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのお掟を学びました」(詩119・71節・新改訳)そのものです。

のものです。  バアルなどの偶像の神々と聖書の神は、まったく逆の方程式を持っています。偶像の神は、「肯定して否定」し、真の神は「否定して肯定」します。それは、偶像は「人の肉を肯定し永遠の命を失わせ」、真の神は「肉を否定し永遠の命を得させ」るからです。まさに、「苦しみに会わせ(肉を否定し)…あなたの掟を学びました(肯定・永遠の命を得る)」そのことです。

友よ。罪を犯す前の神は、愛を先行して厳しさを教えたと思います。しかし、罪に浸り切った者には、罪に気づかせるために厳しさが先に必要です。ですから神は、「厳しさ(否定)…優しさ(肯定)」の順序を用います。しかし、厳しさも優しさも両方が神の愛です。「神は愛です」を疑わずに歩み続けてください。

12章12節

ギレアドには忌むべきものがある。まことにそれらはむなしい。ギルガルでは雄牛に犠牲をささげている。その祭壇は畑の畝に積まれた石塚にすぎない。

イスラエルは、偶像が置かれる一方で、高価な雄牛を犠牲に捧げる儀式も行われる矛盾の中にいました。物事が見えるための二大条件は、①実態がある ②光がある、のだと言えます。

偶像の本質は人の肉です。そこにサタンが働くと、木像や鏡でさえも生きているように信じられます。しかし、その神について、それを信じる者たちに聞けば聞くほど曖昧になります。なぜなら、それは人の考えや欲望の塊で造られ、実態がないからです。

聖書の神を、「神が人となり、人々の罪の身代わりに死に、三日目に復活したお方です」と言うと、これほど理性と常識を無視したことは他にありません。しかし、イエスを主と信じる人に、しかもより多くの人々に尋ねるほどに、神の姿が明確に描き出されます。それは、神が事実人となり、罪人の罪を赦し、復活の命を与え続けておられる実存だからです。

さらに、見えるためには光が必要です。聖霊こそ、主イエスを神として、完全な人、贖い主、復活の命、として照らします。「あなたの光(聖霊)に、私たちは光(主イエス)を見る」(詩36編10節)。

友よ。個人の知識や経験にとどまらず、もっとキリストの体となって他と交わってください。すると、もっと、もっと、イエス・キリストが見えてきます。

12章14節

主は一人の預言者によって、イスラエルをエジプトから導き上らせ、預言者によって彼らを守られた。

「モーセは最大の預言者」と評されるのは当然ですし、ホセアもエリヤやエリシャもそうです。預言者とは、神の言葉を預かり伝える者です。すると、「預言者」よりも「預言(神の言葉)」がより重要です。

主は、①道端、②石地、③茨、④良い地、の四つの畑について語りました。同じ種ですが落ちた場所の違いによって結果が違ってきました。そこから、一般的には種が落ちた「畑の姿」を問題にします。

しかし、「種から見た畑の条件」という見方もできます。一般的に良い心の畑とは、温和で常識があり、自分の生活を建て上げ、家族も平和で健康もあり…と思いがちですが、そこで種は深く根を下ろせず、十分に成長もできません。なぜなら、種(み言葉)は、そのような心からは真剣に必要とされないからです。

激しい苦痛、不条理、貧しさ、行き詰まり、悲しみ、忍耐、迫害、服従。このような畑で種は成長し果実を結びます。なぜなら、種は何ものよりも必要とされるからです。イスラエルの人々は、実に預言者が語る「預言(神の言葉)」に導かれてきましたが、豊かになった今、預言の言葉は脇に置かれてしまいました。

友よ。あなたへの預言の言葉をどこに置いていますか。升や寝台の下や穴倉でなく、燭台の上に掲げていますか。罪と肉のエジプトから導き出し、守ってくださるのは「預言者たち(みことば)」です。

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