キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ホセア書 第14章

14章1節

サマリアは罰せられる。その神に背いたからだ。住民は剣に倒れ、幼子は打ち殺され、妊婦は引き裂かれる。

口語・新改訳…13章16節

神の言葉を、「厳しい」と受け止めるか「愛」と受け止めるかの分水嶺は、「神の真理を求めるか」、「自分を真理としたいか」です。

聖書は、人の必要なものではなく、神が人に必要なことを記したもので、「神の人への欲求」です。一方、神々と呼ばれる偶像について記されたものは、人の必要を神に求める「人の神への欲求」です。そこで求めているのは、「神」ではなく「恵み」です。

神の人への願いは、「命」を得させることです。その命は、聖と義を満たした永遠の命ですから世にはなく、神御自身だけが造り出せるものです。人の必要から書かれたものは、人の自我を満足させますが、神が人に必要なことを書いた聖書は、命に至らせる「真理(「理」とは「道」のこと)そのものです。

サマリアが罰せられるのは、罪からの救いのために用意した神の恵みを拒んだからです。神の命を受け取れない姿を、「住民は剣に倒れ、幼子は打ち殺され、妊婦は引き裂かれる」と表現されています。

友よ。あなたの信仰は、恵みを得ることですか、それとも真理を得ることですか。恵みが目的になると、神は手段とされます。目的は神を得ることです。そのための恵みが、時には病であり、行き詰まりであり、悲しみであることもあります。恵みを求めると真理を失い、真理を求めるとすべてが恵みとなります。

14章2節

イスラエルよ、立ち帰れ、あなたの神、主のもとへ。あなたは咎につまずき、悪の中にいる。

新共同訳聖書はこの章の見出しを、「エフライムの回復と祝福」としています。罪を指摘したのは、回復の祝福を与えたいからです。

「咎につまずき、悪の中にいる」を正しく理解せねばなりません。この世は、アダムの末裔なので、すべてが悪に染まっています。当然、そこで起こる出来事は、罪(原罪)の中で犯す罪(罪々)です。

戦争に例えるなら、「A国は核兵器でB国民を殺し、B国は機関銃でA国民を殺した。はたしてどちらの罪が大きいのか?」。この比較は、暗闇(罪)の中で、より黒い人(悪人)を探すことと同じです。罪の結果を解決しようとすると、本当の罪は解決されず、より罪々をエスカレートさせるだけです。 

罪々(出来事)ではなく罪(神の前における罪)を解決せねばなりません。原罪でも肉の罪でも、罪とは神からの断絶(神と継がらず交わらない)」と、孤独(自分の命と力で生きている)です。

友よ。悪に支配された出来事に向い、それを解決しようとすると、より罪を犯すことになります。ステパノは、迫害する者たち(出来事)を取り除くのでなく、「主イエスよ、私の霊をお受けください。…この罪を彼らに負わせないでください」と自分と神の関係を解決しました。罪(神と自分の正しくない関係)を解決する人は、出来事を真に解決できる人になれます。

14章3節

誓いの言葉を携え、主に立ち帰って言え。「すべての悪を取り去り恵みをお与えください。この唇をもって誓ったことを果たします。

以下に、「信仰は実生活である」ということが記されています。

ドイツに伝道者でブルームハルト親子がいました。癒しや様々の霊の賜物を持ち、深い信仰と力強い説教で人々に感化を与えました。特に、息子のブルームハルトは、有力なリバイリストとして主に用いられましたが、ある時突然、第一線から身を引きました。

彼は、病の癒しや救いを求める人々の心に、神を自分の幸福のために利用する利己主義を見い出し、それに応えようとするリバイリストのあさましさにも気づき、憤然として身を隠したのでした。「これは本当のキリスト教ではない。本物の福音というものではない」と気づいたからでした。

パウロが、「私は、キリストに結ばれた一人の人を知っている…十四年前、第三の天にまで引き上げられた…」という人こそ彼に違いありません。しかし彼は、自分自身については、弱さ以外に誇るつもりはありません」(Ⅱコリ12章2~5節参照)と言いました。

友よ。キリスト経験、それは十字架のキリストを知ることです。そして、そこに自分が付き続けることです。洗礼を受けた時の告白、「イエスを主として生きてゆきます」は、過去の一時の告白ではありません。「この唇をもって誓ったことを果たします」とある冒頭の言葉は、毎日の信仰告白(誓いの言葉)です。

14章4節

アッシリアはわたしたちの救いではありません。わたしたちはもはや軍馬に乗りません。自分の手が造ったものを、再びわたしたちの神とは呼びません。

人は弱いので何かに頼らねばなりません。神に依存して生きることが命の道ですが、神は目に見えません。そこでアッシリアや軍馬に頼りたくなります。

しかし聖書は、「エフライムは…死ぬ」(13章1節)、「…お前の破滅が来る」(同9節)と、死の宣告が繰り返されます。神は、イスラエルに「生と死」のどちらを与えたいのでしょうか。もちろん「生」です。

実に、世と聖書の世界では、生死が逆転しています。世では、生を受け生まれたことは死に向う助走で、行き着くところには死が待っています。

聖書の世界は、死による終わりが生の始まりとなり、さらに永遠の生へと続きます。水の洗礼は古い自分の死で、死が復活の命をつくり、さらに肉体の死は永遠の世界のための霊の体の生となります。すなわち、聖書が示す命の道は、「死んで生きる」ことです。

「イスラエルは死ぬ…破滅が来る」とは、「神の言葉に従わず、自分を生かそうとすれば」生きることができない、と言っているのです。

友よ。アッシリアや軍馬は、あなたの肉を生かし、霊を殺します。神の御心に従うことは、あなたの肉が殺され、霊に生きることになります。そして、あなたが死ぬとは、あなたの肉体が無くなるのではなく、主の十字架に死ぬに、復活の命に生きることです。

14章5節

わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する。まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。

神はイスラエルを愛するからこそ、預言者を遣わして罪を指摘します。それでもなお逆らう者には、現実の痛みや苦難を通らせて立ち帰らせようとします。

信仰生活で「愛なる神」、すなわち三位一体の神を深く理解することが大事です。「父・子・聖霊」の神から、人の創造・人生の目的・罪・救い・神の子の生き方などが明らかにされます。

次に、神への人の信仰、「神との継がりと交わり」を正しく知ることです。神と人の関係・信仰を理解するとき、神が人に与える痛みと苦難の意味も知ることができます。それらは、私たちが主イエスに結ばれ、継がり続けるために必要不可欠なものです。

神が、「背く彼らをいやし、喜んで愛する」ためには、罪をいい加減にしてはできません。間違った道を歩む者の前を塞ぎ、失望を与え、それから御自分に向わせることができます。罪を知らせ救いに導くためです。それには、苦難や痛みを与えねば悟れません。

「わが子よ…主に懲らしめられても、力を落としてはいけない。…子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(ヘブ12章5~6節)。

主に懲らしめられていると思う友よ。それは、三位一体の神の中に、あなたを入れようとする神の愛です。神は苦難や痛みを取り去る恵みではなく「イエス・キリストにある永遠の命」の恵みを与えたいのです。

14章6節

露のようにわたしはイスラエルに臨み、彼はゆりのように花咲き、レバノンの杉のように根を張る。

イスラエルは、神の聖霊の露が注がれ、ゆりのように花咲き、レバノン杉のようにたくましく成長します。しかし、このような神の国はどこにあるのでしょうか。

「神の国はあなた方のただ中にある」、「あなたがたは自分が神の神殿であり、神の霊が…内に住んでいる」とも。神の聖霊が注がれ、花が咲き、レバノン杉が成長する神の国は、最初に個人の神殿に造られます。

神殿は神と人が交わるために造られました。すべては「露」なる聖霊に導かれ、幕屋の祭壇の前に立ち、そこで罪の贖いを受けて神の民とされます。次に、洗盤の聖別に与りながら聖所に入ります。そこは幕で覆われ太陽の光はありません。聖所には、燭台とパンの机と香壇があります(燭台…光なるキリスト、パン…命のパンなるキリスト、香壇…執り成すキリスト)。この部屋の全てはキリストの御臨在と御業の部屋です。

さらに奥に至聖所があり、契約の箱が置かれています。この箱は三位一体の神を表します。十戒は「言なる神」、芽吹いたアロンの杖は「復活の神」、贖いの蓋は「十字架の神」、ケルビムは「聖霊」を表しました。

友よ。神は私たちをこの部屋に招きます。三位一体の神との交わりの部屋です。「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」(ヨハ17章22節)こそ、私たちの居場所、神の国です。「恵みの露、ゆりの花、杉の大木」は、ここにあります。

14章7節

その若枝は広がり、オリーブのように美しく、レバノンの杉のように香る。

このみことばも、神を信じる者に成就する天国です。

父と子と聖霊の三位一体の神と交わる至聖所に入るには、進む順序があります。最初に、異邦人とユダヤ人を分ける門(幕)があります。神を信じない異邦人は幕屋に入れません。この門は、エジプトから離れ、荒れ野に入るための紅海でもあります。

門を入った者は、幕屋の庭の祭壇…主イエスの十字架…の贖いにより神の子とされます。しかしそこは、四十年間のシナイ砂漠の生活で、霊と肉の間を行き交う戦いの場所です。ここから次の門を通り、聖所に入らねばなりません。旧約では祭司しか入れなかった聖所でしたが、「神殿の幕が真っ二つに裂けた」ので、今は各自の信仰によって入ることができます。

幕屋の庭と聖所の間にある門は、荒れ野とカナンを分けるヨルダン川です。ヨルダン川は、自分の肉に死に霊に生きる、聖所に入れるための門です。

聖所の中は、キリストの「光・パン・執り成し」があり、聖霊に満たされた神の子の姿を示します。聖霊は主イエスのものを人に与え、人を主に導きます。

友よ。あなたは今どこにいますか。最初の門(受洗)を通り、主の十字架の血潮で神の子とされた幕屋の庭にいますか。しかし、その先のもう一つの門(ヨルダン川)は通りましたか。庭から聖所に入り、そこに留まることを求め続けてください。

14章8節

その陰に宿る人々は再び、麦のように育ち、ぶどうのように花咲く。彼はレバノンのぶどう酒のようにたたえられる。

「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人よ。…神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる」との詩編91篇の言葉は、冒頭のみことばと同じく聖所の中に入った者、聖霊に満たされた(支配された)人の姿を表します。

「身を寄せ・陰に宿る・翼の下に」とは、神と人の麗しい関係を示し、まさに信仰がなんであるかを教えます。信仰とは、神への「積極的依存」です。ですから、異邦人の庭から幕屋の庭へ、庭から聖所に入るのも、自動的ではなく各自の積極的決断です。

多くの人々は、幕屋の庭までは来ます。ここには救いがあり、天国の市民である証印もあります。しかし、ここは出エジプト後の四十年の荒れ野と同じで、肉と霊が争う信仰の戦場です。神の子たちはここに留まらず、聖所に入り、聖所に留まらねばなりません。

聖所こそ、聖霊の満たしの場で、キリストが満ち満ちています。神はここに留まることを、「御霊に満たされ、御霊によって歩め」と強く命じています。

神の子なる友よ。聖所に入っていますか。それは、自分が結ぶ実(御霊の実↕肉の業)でもわかりますが、霊と肉の実の結果を見続けてはなりません。枝(あなた)は幹(主)に、しっかりと繋がり、支配されることだけを考えて下さい。実は幹の命で結ぶからです。

14章9節

ああエフライム、なおも、わたしを偶像と比べるのか。…わたしは命に満ちた糸杉。あなたは、わたしによって実を結ぶ。

ホセア書のメッセージを、「裁きに勝る神の愛」とすることができます。冒頭のみことばは、民の偶像礼拝の罪を裁きつつも、「あなたはわたしによって実を結ぶ」と言います。神が裁くのは、愛しているからです。

神の国の模型である幕屋は、神と人の関係を教えます。幕屋には、異邦人の庭と幕屋を仕切る門(幕)、幕屋の庭と聖所を仕切る門、聖所と至聖所の間にある門と三つの門を通って三位一体の神との交わりに入っていきます。三つの門は、人の三段階の霊的レベルを教えています。そして各門とも、「試練・死」という共通の扉が備えられています(門は垂れ幕で造られました)。

第一の門は、神を信じない不信仰の罪(原罪)を認め、主の十字架によって死ぬための門です。

第二の門は、肉なる人を十字架に付けるための門です。サタンと世の支配の中で両親から引き継いだ命(肉)が、神から受けた命を妨害します。このことを、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ…弟子ではありえない」と福音書で他に5回語られます。さらに第三の門があります(次項にて)。

友よ。神は聖なる命を与えたいと願っています。「聖なる生活を抜きにして、誰も主を見ることはできません」。そのためには、罪を裁く死の門が必要です。この門は神に近づける試練です。裁きに勝る主の愛です。

14章9節 ①

…わたしは命に満ちた糸杉。あなたは、わたしによって実を結ぶ。

命に満ちた糸杉は、聖所と至聖所に満ちています。

幕屋の庭は、外界から分けられますが太陽の光が照らすように、この世の光も入ります。

聖所は、天井も壁も幕で覆われ太陽の光はありません。そこは、キリストの光なる燭台が照らし、キリストの命(パン)と執り成し(香壇)の聖霊に満ちたところです。聖所にある燭台もパンの机も香壇も、すべて金で覆われます。金は、神の象徴でした。聖所の先に至聖所があり、その中の三位一体の神を表す契約の箱も、すべて金で覆われています。

聖所には、燭台の光がありますが、至聖所にはありません。そのことについてある人が、「天の御国は光で満ちているのに、地上の至聖所が暗闇なのは、神の御心を表している。それは、『一人も滅びないで永遠の命を得ることが神の御心』なのに、それがまだ実現していない神の悲しみ(暗闇)を表している」と。

罪を赦されたこと(第一の門を通過)、肉に死んで霊に生きること(第二の門を通過)も代えがたい幸いです。しかし、第一の門も第二の門も、通過した時の代価は主の十字架でした。

友よ。愛は、愛されて愛するものです。具体的には、相手の望むことに仕えることです。三位一体の神の御心は、「すべての人が救われる」ことですから、その心を自分の心として生きることが、神を愛することです。

14章9節 ②

…わたしは命に満ちた糸杉。あなたは、わたしによって実を結ぶ。

神の子たちの命は同じなのに、成長の度合いは違います。幕屋の中の3つの場所、「庭、聖所、至聖所」は霊的成長の3段階を表しているとも言えます。

異邦人が第一の門を通り「庭」に入り、そこで「神の民」となります。民の特徴は、時の情勢や自分の都合で、神とエジプト(この世)の間を行き来します。荒れ野の40年間の生活が「民」の姿でした。

「聖所」は、神(親)に守られた「神の子」の場所です。親子の愛は、親が子に与え、子は親から受け取る関係です。それは、親が子の食事を心配しても、子は親の苦労を知らず食べて満腹するのと似ています。ここは、ヨルダン川を渡った「カナン」の地です。

「至聖所」は、「キリストの花嫁」の場所です。親子の愛は、親の方がより大きな犠牲を払います。しかし夫婦は一体ですから、花嫁は夫のもつ恵みと喜びを享受しますが、悲しみや痛みも共有せねばなりません。それが、より深い命と命の交わりの場です。

友よ。至聖所には光がなく、契約の箱は闇の中にあります。その暗闇は、夫イエスの心を表しているのでは? それは、まだ救われていない魂への痛み悲しみと重荷です。夫なる主イエスの恵みだけでなく、悲しみや重荷を共に担えるならば、夫と一つです。庭での神の民、聖所での神の子、至聖所でのキリストの花嫁。主よ、「あなたの花嫁にしてください」と祈りましょう。

14章10節 ①

知恵ある者はこれらのことをわきまえよ。わきまえある者はそれを悟れ

聖書は、「知恵」の書で、「主を畏れることは知恵のはじめ」とあります。知恵は、神に関する霊的知識であり真理です。「知恵はその持ち主に命を与える」(コヘ7章12節)。そして「聖書」は、大工が使う「差し金」の意で、「生死、尊卑、聖俗、義と罪、永遠と終り」などの基準を明確に示す真理の書です。

聖書中の登場人物は、同じ「差し金(基準・真理)」で計られてきました。そして、それらを見て「わきまえ…悟れ」と言います。それは、神がホセアを通して預言死し続けたこともこのことでした。

ホセアは、神に命じられ淫行の女を妻に迎えましたが、妻は夫の愛に応えず、さらに淫行による子まで産みます。それでも神は、妻を受け入れることを求めました。ホセアと妻こそ、神と人の関係そのものでした。ホセアは、愛の裏切りに苦しみつつも、それを通して神の前の自分と民の罪を見て、神により近づきました。

神は、聖書に載る人物と出来事の全てから、私たちに得てほしいと願っている知恵があります。それは、「聖書はわたしについて証しをする」(ヨハ5章39節)とある、イエス・キリストという神の御子です。なぜなら、どんな罪、状況、立場、老若男女、古今東西、人種も超えて、救いを与え完成するお方だからです。

友よ。出来事を解決するのではなく、解決できるお方と共に生きることです。これが最大の知恵です。

14章10節 ②

主の道は正しい。神に従う者はその道に歩み、神に背く者はその道につまずく。

ホセア書の最後のメッセージです。

神は人を造り、エデンの「園」に置きました。園には、「中央」がありました。園は、土のちりで造られた人の自然生命を育む「自然界」です。園の中央は、神の命の息(霊)を受けて生きる者の「霊の世界」です。そこには、「命の木」と「善悪を知る木」が置かれました。そして神は、「『善悪を知る木』からは取って食べてはならない、死ぬから」と忠告しました。

「神が善悪を知る木を置かなければ、人類は罪を犯さなかったのに」とは誰もが持つ疑問です。

園の中央にある「命の木」は、主イエスご自身です。私たちの命は主に継がり交わる中にあるからです。

善悪の木は、十戒で代表する「神の戒め」です。神は人を愛しますが、愛は相手に自由(人格)を与えます。人は、神を信じるも、他を神とすることもできるからこそ、神を愛することもできるのです。

人に人格を与えたからこそ、「命」と「死」を明確に教える必要がありました。「わたしは、…生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るように」(申30章19節)。

「主の正しい道」を教えられた友よ。その道は、「私は道であり、真理であり、命です」というイエス・キリストと共に生きる道です。それは、「イエスを主」として生きることです。

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