キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ホセア書 第5章

5章1~2節

聞け、祭司たちよ。心して聞け、イスラエルの家よ。耳を傾けよ、王の家よ。お前たちに裁きが下る。お前たちは…罠となり…網となり…深く掘った穴となった。

祭司やイスラエル部族の長たちや王の家は、イスラエルの政治、宗教、経済の指導者たちでした。彼らこそ、民を神の御心に導くべき者たちですが、むしろ罠にかけ、網に捕え、穴に落とし込んでいると言います。

それでは指導者に必要なことは何でしょうか。それは、「真理と愛」です。真理とは、神と人との「正しい関係・道」です。「その方(聖霊)が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(ヨハ16章8節)とある、罪(人の姿)、義(神の救い)、裁き(神の判)、すなわち「神から見た人について」正しく教えられる必要があります。

何よりも、聖霊が教え示される真理は、「イエス・キリスト」御自身です。「わたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(ヨハ14章6節)。

次に、真理の中に生きるためには、「愛」が必要です。愛は真理に人を向かわせ、真理を実現させる力です。それこそ、「父よ、彼らをお赦しください。自分で何をしているか知らないのです」(ルカ23章34節)と執り成してくださる十字架の愛です。

友よ。あなたは鼻から息をする者(指導者)に頼り、迷う必要はありません。あなたには、真理であり、愛である主イエス御自身がおられるのですから。

5章3~4節

エフライムは淫行にふけり、イスラエルは身を汚している。彼らは悪行のゆえに、神に帰ることができない。淫行の霊が彼らの中にあり、主を知りえないからだ。

イスラエルの指導者たちに、「彼らは羊と牛を携えて主を尋ね求めるが見いだすことはできない。主は彼らを離れ去られた」と6節に記されます。

なぜならば、彼らの本心は神を愛する信仰からではなく、淫行を愛し、身を汚し、悪行を求める「淫行の霊」に支配されているからです。すなわち、彼らの行為が偽善だからです。

偽善とは、「 神に始まり、導かれ、完成される救いを(ロマ11章36節参照)、人が成就する」ことです。犠牲を捧げ礼拝しているように見えても、人が主体で神は助手に下げられます。そして人は、神を自分の快楽や欲求を満たす手段として利用し出します。これこそ「淫行の霊」というものです。

淫行の霊を、なにも悪霊の存在に直結させる必要はありません。悪霊をおびき寄せる、神以外のものに心を寄せる、とくに肉を満足させることこそ問題です。

友よ。あなたにも神は働いていますが、神中心(主)とするとき、御自分の御心を成就させるために働きます。しかし、あなたが主となるとき、神の働きはあなたの自己中心を止めさせ、御自分の前に立たせるために働かねばならなくなります。その間、御心の実現は留められます。信仰とは、神があなたに持っている御心を、神に成就していただくことです。

5章4節

彼らは悪行のゆえに、神に帰ることができない。淫行の霊が彼らの中にあり、主を知りえないからだ。

聖書には、「病の霊」(ルカ13章11節)、「レギオンという「汚れた霊」、ものを言えなくする「霊」(同9章18節)など、霊の働きで起こる問題が記され、この個所にも「淫行の霊」の存在が記されています。

悪しき霊からの解放は、最初にそれが霊の働きであることを見極めることからです。霊の働きであるならば、「悪霊よ、命じる、出て行け」と、力の対決に走ってはなりません。霊が働くのは、その人が神と正しい関係を持てず、罪の中にいるからです。

主が「あなたの信仰の通りになれ」(マタ9章29節参照)と言われたように、その人が真理を理解し、自ら助けを求めねばなりません。それを手助けします。悪霊との戦いは、「力」ではなく「真理」による戦いです(ヨハ8章32節参照)。悪霊が恐れているのは、正体を見破られ、真理にさらされることです。

「悪霊は…いる、なぜ働くのか…罪があるから、罪を取り除くのは…真理によって」です。ゆえに、悪霊に支配されているならば、「①罪を知る、②逃れたいと願う、③逃れる方法を知る、④主イエスにより頼み委ねる、⑤待ち望む」ことが必要です。

友よ。もろもろの誘惑に負けて神を愛せないことに、諸々の理由をつけてはなりません。神の子であるあなたには明確な解決方法があります。それは、自分の十字架を負うて、主に従う決心をすることからです。

5章5節

イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢だ。イスラエルとエフライムは、不義によってつまずき、ユダも共につまずく。

バアル礼拝、偶像、淫乱、姦淫、汚れ、悪行…と続く言葉は、「淫乱の霊」によるものでした。さらに淫乱も含め、それらは「高慢」の一言に帰着しそうです。

神を信じるとは、「神を信じる」のか「神の言葉」を信じるのか、これは区別つけ難い大事な質問です。

マタイ8章に、中風の僕をもつ百人隊長が癒しを求めて来ました。「私が行こうか」の主の言葉に、隊長は「お言葉だけください」と言いました。最後に主が、「帰りなさい、あなたが信じたとおりになるように」と言われ、「そのとき僕の病気は癒された」とあります。

この癒しは、隊長が神の「言葉」を信じたので癒されたかみ見えますが、本質は「神(イエス)」を信じたゆえの出来事であると分かります。

神の「言葉を信じる」は、とかく自分に都合が良ければ信じ、悪ければ信じないという人間主体になります。しかし、「神を信じる」は、語られた言葉が人に都合が良くても悪くても受け入れることを意味します。信仰は神の御業を信じるのでなく、神御自身を信じることです。御業が起こる起こらないは、次です。

友よ。神の「言葉」を信じても高慢に過ごせます。しかし、神御自身を信じるところに高慢は消え、ヘリ下さりが生まれます。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」(ヤコ4章6節)。

5章4~6節

彼らは悪行のゆえに、神に帰ることができない。…主を知りえないからだ。…主を尋ね求めるが見いだすことはできない。主は彼らを離れ去られた。

ここで神は、民が神を知り信じていたのは、そのつもりになっていただけ、と言っているようです。

一番大切なものは「命」です。植物も動物も、目に見えない微生物に至るまで、人はさらに強く命を求めます。命のないものを食べても命にならないように、命は命によって与えられ、かつ保ち続けます。

先ずは、主の十字架で罪を赦され、復活の命をいただき神の子の命を持つことです。しかし、肉体の命は見えますが、聖霊なる命は見えないので判断を間違います。聖霊を受け取り続けなければ、親から受け継いだ肉によって生きることになり、それが諸々の偶像や肉欲を満たす淫行へ進ませます。

神を信じている民が、「神に帰れず…主を知りえず…見いだせず」となるのは、「彼らの悪行のゆえ」だと言います。その悪行こそ、神の子でありながら、聖霊によってではなく、肉によって生きることです。

さらに、「主は彼らを離れ去られた」とは、主が人から離れたのではなく、人が主から離れたのです。それは、神の命によって生きず、肉の命で生きるからです。

友よ。あなたは、「信じているつもり信仰」になっていませんか。「生きているのは…私ではありません。キリストが私の内で生きておられるのです」(ガラ2章20節)こそ、私たちの信仰の基本の基です。

5章8節

ギブアで角笛をラマでラッパを吹き鳴らせ。ベト・アベンで鬨の声をあげよ。ベニヤミンよ背後を警戒せよ。

北イスラエルはヤロブアム二世の時、40年の繁栄を享受しました。それは、「主は、イスラエルの苦しみが非常に激しいことを御覧になったからである」(列下14章26節)ように、主の憐みによるものでした。

その王は、ご利益主義を仰ぐバアル礼拝へと心を傾け続け746年に死にます。その後、イスラエルはアッスリアの王プルに攻め込まれ、貢物を差し出しやっと引き返してもらいました(列下15~17章参照)。

神の預言の言葉の多くは、滅びを成就させるためではなく、それから逃れさせるためです。もちろん、滅びは神が与えるのではなく彼ら自らの罪です。ホセアの預言どおり、この後の北イスラエルはイズレエル(虐殺の地・滅亡)に向かって進みます。

「私の計画は必ず成り、私は望むことをすべて実行する」(イザ46章10節)と言われる「計画」の実行の基準は、「罪と義」です。それは最初に、霊の段階で起こり、次に心に影響し、やがて出来事になります。

友よ。繁栄と衰退、健康と病、称賛と蔑みなどの見えるものに心を奪われてはなりません。神が目を止めるのは、もっと本質的な命の問題、「罪と義」です。世界が神の言葉によって創造されたように、目に見えるものは見えないもの(霊の世界)が時至って現実となるからです(ヘブ11章3節参照)。

5章9節

懲らしめの日が来ればエフライムは廃虚と化す。確かに起こることをわたしはイスラエルの諸部族に教えた。

ヤロブアム二世の死後、息子ゼカリヤが跡を継ぎますが、半年後に暗殺されます。その暗殺者も一か月後に謀殺され、イスラエルは混乱の中でアッシリアの植民地とされます。それ以上に、彼らの信仰はさらにアッシリアのバアルと同化していきました。神は堅固な城、砦の砦なのにこの無残な姿はなぜでしょうか。

敵はアッシリアか、南ユダか、陰謀を企てる同輩か。いずれも否です。本当の敵は彼らの中にある罪です。

冒頭の「懲らしめの日が来れば…廃墟と化す」の懲らしめは、「罪」に対する裁きのことです。罪の裁きは主の十字架で終わっていますが、その恵みを受け取らない者は、罪の代価を自分で支払わねばなりません。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」(ヨハ3章18節)。

神は、「確かに起こることを…教えた」と言います。それは、それに備えさせるためです。その備えこそ、神に自分を委ね切ることです。そうすると、どんな事態に遭遇しても耐えて乗り越える力が与えられます。「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」。なぜなら「いつもイエスの死を体にまとっています」(Ⅱコリ4章)。

友よ。罪の赦しを受けている者は倒れません。なぜなら、神と直結しているので神に支えられるからです。

5章11~12節

エフライムは蹂躙され、裁きによって踏み砕かれる。むなしいものを追い続けているからだ。わたしはエフライムに対して食い尽くす虫となり、

ヤロブアム二世の死後、ヤロブアムの跡を継いだ息子は半年で殺され、殺害したシャルムは一か月で殺され、次のメナヘム王はアッシリアに銀を貢ぎ、メナヘムを倒したペカフヤ王も2~3年で消えました。

ペカが王の時、アッシリア王ピレセルが北イスラエルに攻め込み住民の一部を捕囚として連れ去りました。10年後に、イスラエルの多くの住民が捕囚となり国を失います(以上、列下14~17章参照)。

聖書はその時代のことを、「主の目に悪とされることを行い…罪を離れなかった」(同15章9節・24節)と記します。イスラエルの歴史は、私たちの歴史でもあります。成長と共に直面する出来事、政治経済の変化、時代から時代へと常に遍歴します。それは、神を「知り・従い・さらに一つとなる」目的のための変化であり、次の変化のための変化ではなかったはずです。

変化にその自分を合わせて生きること、それを処世術と言います。しかしそれは一時的救いであって、終結はイスラエルの民のように奴隷(罪の奴隷・死)の道を歩むことになります。

友よ。「むなしいものを追い続ける」処世術でない生き方があります。それは、「主の言葉は永遠に変わることがない」(Ⅰペト1章25節)と言われる、主イエスに自分を合わせることです。

5章13節

エフライムが自分の病を見、ユダが自分のただれを見たとき、エフライムはアッシリアに行き、ユダは大王に使者を送った。

北イスラエルの混乱は、南ユダにも及びました。ペカ王は、アラムの王と組みエルサレムを攻めました。それに対しユダの王アハズは、アッシリアの王に援助を求めます。さらに年月が過ぎ、北イスラエルの王ホシェアはエジプト王ソに使者を送り同盟を求めます。

このような混乱の理由を、「こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から導き上り…ファラオの支配から解放した彼らの神、主に対して罪を犯して、他の神々を敬い…諸民族の風習に従って歩んだからである」(列下17章7節)と記しています。

神は、「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている…。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレ29章11節)と言います。

神は、アブラハムの子孫を選民(証し人)としました。選民の歴史は、人に対する神の「平和の計画」と「災いの計画」の設計図です。アブラハムやヤコブなどの人物と、北イスラエルと南ユダの歴史に示された神の御業は、一人の人の人生設計図そのものです。

友よ。あなたの「病とただれ」を癒すのは、どこの誰ですか。「世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます」(Ⅰヨハ2章17節)。そのお方は、神だけです。

5章14節

わたしはエフライムに対して獅子となり、ユダの家には、若獅子となる。わたしは引き裂いて過ぎ行き、さらって行くが救い出す者はいない。

愛の限りを尽くして、「わが子をエジプトより呼び出した」とまで言われた神は、いつしか獅子のように引き裂くものになると言います。

パウロは、人を取り扱う神の姿を見て、「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです」(ロマ9章18節)と言いました。神の行動の一つひとつは、「悔い改めさせて御自分に戻すため」であることは勿論です。

しかし、「私も悪いが、彼も」では悔い改めになりません。「私への彼の忠告は裁きでもあった。でもその内容は当たっている。これは神が私に語られているから受け止めよう」となると本当の悔い改めとなります。

「神の前の自分」になるまで、その人の考えに固執させることも、その人に罪の実を刈り取らせて悔い改めさせることも、「かたくなにする」ことです。神は、人の罪を引き裂く獅子となって臨みます。

友よ。「わたしは引き裂き…さらって行くが、救い出す者はいない」とは、神に反抗できる者はいない、との宣言です。そうです、主だけが私たちの頑固な心を正しく引き裂けるお方です。そのお方に自分を差し出しましょう。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」(ヘブ3章15節)。

5章15節

「わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め、苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで。」

手荒い神の御手がイスラエルに容赦なく差し伸べられます。若獅子なる神の牙は人を引き裂きますが、その後、そのままにはしておきません。

人が、「罪の中を歩むと苦しくなり、神の御心を行うと嬉しくなる」とは限りません。むしろ、肉に従うと満足し、神に従うと苦痛となる方が多いものです。

神は、人の間違いを御自分の基準で量ります。それが、「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを…刈り取ることになる」(ガラ6章7節)の言葉です。

神は人の罪に干渉した後、「自分の場所に戻り、彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め、苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで」待っていると言います。

神が待つ所に行くならば、「ああ、よく来たね。ここに来るかどうか心配だった」と言い、「さあこれを上げよう」と言って、恵み(赦し、命、力)のプレゼントを持たせてくださいます。

友よ。神は、「抜き、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植える」(エレ1章10節)お方です。あなたを神の子・キリストの花嫁として「建て」上げ、豊かな実を結ぶ者として「植える」ために、あなたの罪を「抜き、滅ぼし、破壊」せねばなりませんでした。あなたのために十字架で死なれたお方だけができる御業です。

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