キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

エレミヤ書聖書講解文 第六回「アーメン、主よ」

エレミヤ書9章

  • 荒れ野に旅人の宿を見いだせるものなら わたしはこの民を捨て 彼らを離れ去るであろう。すべて、姦淫する者であり、裏切る者の集まりだ。
  • 彼らは舌を弓のように引き絞り 真実ではなく偽りをもってこの地にはびこる。彼らは悪から悪へと進み わたしを知ろうとしない、と主は言われる。
  • 人はその隣人を警戒せよ。兄弟ですら信用してはならない。兄弟といっても 「押しのける者(ヤコブ)」であり 隣人はことごとく中傷して歩く。
  • 人はその隣人を惑わし、まことを語らない。舌に偽りを語ることを教え 疲れるまで悪事を働く。
  • 欺きに欺きを重ね わたしを知ることを拒む、と主は言われる。
  • それゆえ、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしは娘なるわが民を火をもって溶かし、試す。まことに、彼らに対して何をすべきか。
  • 彼らの舌は人を殺す矢 その口は欺いて語る。隣人に平和を約束していても その心の中では、陥れようとたくらんでいる。
  • これらのことをわたしは罰せずにいられようかと 主は言われる。このような民に対し、わたしは必ずその悪に報いる。
  • 山々で、悲しみ嘆く声をあげ 荒れ野の牧草地で、哀歌をうたえ。そこは焼き払われて、通り過ぎる人もなくなり 家畜の鳴く声も聞こえなくなる。空の鳥も家畜も、ことごとく逃れ去った。
  • わたしはエルサレムを瓦礫の山 山犬の住みかとし ユダの町々を荒廃させる。そこに住む者はいなくなる。
  • 知恵ある人はこれを悟れ。主の口が語られることを告げよ。何故、この地は滅びたのか。焼き払われて荒れ野となり 通り過ぎる人もいない。
  • 主は言われる。「それは、彼らに与えたわたしの教えを彼らが捨て、わたしの声に聞き従わず、それによって歩むことをしなかったからだ。」
  • 彼らは、そのかたくなな心に従い、また、先祖が彼らに教え込んだようにバアルに従って歩んだ。 
  • それゆえ、イスラエルの神、万軍の主は言われる。「見よ、わたしはこの民に苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる
  • 彼らを、彼ら自身も先祖も知らなかった国々の中に散らし、その後から剣を送って彼らを滅ぼし尽くす。」
  • 万軍の主はこう言われる。事態を見極め、泣き女を招いて、ここに来させよ。巧みな泣き女を迎えにやり、ここに来させよ。
  • 急がせよ、我々のために嘆きの歌をうたわせよ。我々の目は涙を流し まぶたは水を滴らせる。
  • 嘆きの声がシオンから聞こえる。いかに、我々は荒らし尽くされたことか。甚だしく恥を受けたことか。まことに、我々はこの地を捨て 自分の住まいを捨て去った。
  • 女たちよ、主の言葉を聞け。耳を傾けて、主の口の言葉を受け入れよ。あなたたちの仲間に、嘆きの歌を教え 互いに哀歌を学べ。
  • 死は窓に這い上がり 城郭の中に入り込む。通りでは幼子を、広場では若者を滅ぼす。
  • このように告げよ、と主は言われる。人間のしかばねが野の面を 糞土のように覆っている。刈り入れる者の後ろに落ちて 集める者もない束のように。
  • 主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。
  • むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい 目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事 その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。
  • 見よ、時が来る、と主は言われる。そのとき、わたしは包皮に割礼を受けた者をことごとく罰する。
  • エジプト、ユダ、エドム、アンモンの人々、モアブ、すべて荒れ野に住み もみ上げの毛を切っている人々 すなわち割礼のない諸民族をことごとく罰し、 また、心に割礼のないイスラエルの家をすべて罰する。  

ユダの不真実

ユダの行った宗教改革は、神さまが到底受け入れられるものではありませんでした。それは、偶像崇拝を一掃するなど「外面的な行為=宗教」ばかりを重んじ、最も大切な内面にある「いのち(神さまとの交わり、繋がり)=信仰」を隠してしまう、偽善的な行為によるものだったからです。これらの行為は、神さまの怒りをさらに大きくするものでした。

ユダの宗教的指導者(偽預言者)たちは、人々の信仰を宗教の段階に留めさせていました。彼らは、「行いによる宗教を一生懸命させ、それがいかにも信仰である」と人々に思わせていたのです。ですから、エレミヤが神殿で語った言葉も、ユダの国民にはうるさい鐘以上の効果はありませんでした。

神さまは、そのようなユダの不真実を9章で指摘されています。

「彼らは舌を弓のように引き絞り、真実ではなく偽りをもってこの地にはびこる」(2節)、「人はその隣人を警戒せよ。兄弟ですら信用してはならない。兄弟といっても『押しのける者(ヤコブ)』であり、隣人はことごとく中傷して歩く」(3節)、「欺きに欺きを重ね、わたしを知ることを拒む、と主は言われる」(5節)、「隣人に平和を約束していても、その心の中では、陥れようとたくらんでいる」(7節)。神さまはこのようなユダに、「わたしはこの民に苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる」(14節)、さらに「事態を見極め、泣き女を招いて、ここに来させよ」(16節)と言われます。それは、敵が来て「死は窓に這い上がり、城郭の中に入り込む。通りでは幼子を、広場では若者を滅ぼす。このように告げよ、と主は言われる。人間のしかばねが野の面を、糞土のように覆っている。刈り入れる者の後ろに落ちて、集める者もない束のように」(20~21節)ユダを滅ぼすからだ、と言われているのです。

ある牧師のたとえ話
男の子のジョンはビー玉を、女の子のメアリーはチョコレートを持っていました。ジョンは、メアリーのチョコレートが欲しくなり、「ねえメアリー、ぼくのビー玉と君のチョコレートを交換しないかい」とメアリーに言いました。メアリーは少し考えてから、「ジョンの一番大事なビー玉と交換するんだったら、いいわよ」。そこで二人は、ビー玉とチョコレートを交換することにしました。しかし、ジョンはポケットに手を入れて、二番目に大事なビー玉を取り出し、「これが僕の一番大事なビー玉だよ、君のチョコレートをちょうだい」と言って交換しました。するとチョコレートを手にしたジョンは、「ねえメアリー、君のチョコレートはこれで全部なの?」と聞きました。

人が相手を信じられなくなるのは、相手に不信実なことをされるからです。しかし逆もまた然りで、自分が不信実になることで、相手を信用することができなくなるのです。

神さまに対しユダの人々は、いつも不真実を重ねてきました。その結果、ユダの人々は、神さまを信じられなくなっていたのです。人間関係においても、相手を信頼できる人は、その人から信頼され、相手を信頼できない人は、その人から信頼されることはありません。ここに一つの関係性が見て取れます。それは、人が相手を信頼できない原因の一つに、その人自身が他者に不信実な可能性があるということです。ルカによる福音書に「・・・持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」(8章18節)というみ言葉があります。これは「神さまと人」「人と人の間」における「信頼ある繋がり=真実な関係」を造り出す基本ともいうべき教えになります。

エレミヤ書10章

  • イスラエルの家よ、主があなたたちに語られた言葉を聞け。
  • 主はこう言われる。異国の民の道に倣うな。天に現れるしるしを恐れるな。それらを恐れるのは異国の民のすることだ。
  • もろもろの民が恐れるものは空しいもの 森から切り出された木片 木工がのみを振るって造ったもの。
  • 金銀で飾られ 留め金をもって固定され、身動きもしない。
  • きゅうり畑のかかしのようで、口も利けず 歩けないので、運ばれて行く。そのようなものを恐れるな。彼らは災いをくだすことも 幸いをもたらすこともできない。
  • 主よ、あなたに並ぶものはありません。あなたは大いなる方 御名には大いなる力があります。
  • 諸国民の王なる主よ あなたを恐れないものはありません。それはあなたにふさわしいことです。諸国民、諸王国の賢者の間でも あなたに並ぶものはありません。
  • 彼らは等しく無知で愚かです。木片にすぎない空しいものを戒めとしています。
  • それはタルシシュからもたらされた銀箔 ウファズの金、青や紫を衣として 木工や金細工人が造ったもの いずれも、巧みな職人の造ったものです。
  • 主は真理の神、命の神、永遠を支配する王。その怒りに大地は震え その憤りに諸国の民は耐ええない。
  • このように彼らに言え。天と地を造らなかった神々は 地の上、天の下から滅び去る、と。
  • 御力をもって大地を造り 知恵をもって世界を固く据え 英知をもって天を広げられた方。
  • 主が御声を発せられると、天の大水はどよめく。地の果てから雨雲を湧き上がらせ 稲妻を放って雨を降らせ 風を倉から送り出される。
  • 人は皆、愚かで知識に達しえない。金細工人は皆、偶像のゆえに辱められる。鋳て造った像は欺瞞にすぎず 霊を持っていない。
  • 彼らは空しく、また嘲られるもの 裁きの時が来れば滅びてしまう。
  • ヤコブの分である神はこのような方ではない。万物の創造者であり イスラエルはその方の嗣業の民である。その御名は万軍の主。
  • 包囲されて座っている女よ 地からお前の荷物を集めよ。
  • 主はこう言われる。見よ、今度こそ わたしはこの地の住民を投げ出す。わたしは彼らを苦しめる 彼らが思い知るように。
  • ああ、災いだ。わたしは傷を負い わたしの打ち傷は痛む。しかし、わたしは思った。「これはわたしの病 わたしはこれに耐えよう。」
  • わたしの天幕は略奪に遭い 天幕の綱はことごとく断ち切られ 息子らはわたしのもとから連れ去られて ひとりもいなくなった。わたしの天幕を張ってくれる者も その幕を広げてくれる者もいない。
  • 群れを養う者は愚かになり 主を尋ね求めることをしない。それゆえ、彼らはよく見守ることをせず 群れはことごとく散らされる。
  • 声がする。見よ、知らせが来る。北の国から大いなる地響きが聞こえる。それはユダの町々を荒廃させ 山犬の住みかとする。
  • 主よ、わたしは知っています。人はその道を定めえず 歩みながら、足取りを確かめることもできません。
  • 主よ、わたしを懲らしめてください しかし、正しい裁きによって。怒りによらず わたしが無に帰することのないように。
  • あなたの憤りを注いでください あなたを知らない諸国民の上に。あなたの御名を呼ぶことのない諸民族の上に。彼らはヤコブを食い物にし 彼を食い尽くし その住みかを荒廃させました。

真の知恵を持つ

神さまは、10章全体から「真の神と偶像=霊と肉」を見分ける「真の知恵を持て」と諭されています。

「主を畏れることは知恵の始まり」(箴言1章7節)。このみ言葉は、「主を知ること」と「畏れること」の2つに分けて捉えることができます。これは、真の神さまと自分の関係を正しく知り、どのような態度で神さまに向き合い生きていくのか、これを知ることにあります。

畏れるとは、神さまの前にひれ伏し、従い生きていくこと

聖書で語られる「知恵」とは、「神さまに関する知識」を意味します。そして、この「知恵」と対比させ「知識」を考えると、「この世に関する知識」と捉えることができます。つまり、人は知恵(主を畏れる)をもち、知識(この世のこと)をコントロールして生きていく必要があるということです。

しかし、ユダの人々は、その知恵(主を畏れる)をどこかに追いやり、愚かになっていました。10章では、「もろもろの民が恐れるものは空しいもの 森から切り出された木片 木工がのみを振るって造ったもの」(3節)、「きゅうり畑のかかしのようで、口も利けず、歩けないので、運ばれて行く」(5節)「彼らは等しく無知で愚かです」(8節)、と語られています。14節には、「人は皆、愚かで知識に達しえない。金細工人は皆、偶像のゆえに辱められる。鋳て造った像は欺瞞にすぎず、霊を持っていない」とあります。人は、仏像やさまざまな像を造り、入魂式と称し人が仏像に霊(命)を入れ(人は命を入れることなどできませんが)、それを神と崇めます。つまり、人が造った像が神さまなのではなく、像においては自分を造った人が神さまになるのです。人は、そのことに気付かないほどに愚かになっているのです。

人が持つべき真の知恵

エレミヤ書10章より
「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王」(10節)
「主よ、わたしは知っています。人はその道を定めえず、歩みながら、足取りを確かめることもできません」(23節)
「主よ、わたしを懲らしめてください。しかし、正しい裁きによって。怒りによらず、わたしが無に帰することのないように」(24節)
箴言2章より
「わが子よ、わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして(1節)
知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら(2節)
分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら(3節)
銀を求めるようにそれを尋ね、宝物を求めるようにそれを捜すなら(4節)
あなたは主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するであろう。(5節)
知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える」(6節)

箴言1~5節では、「謙遜」になることを教えています。「謙遜」とは、「わたしは、自分を知らない(わからない)、まったく不完全な者だ」と認識し、それ故に神さまを求めることをいいます。新約聖書では、「心の貧しい人々…」(マタイによる福音書5章3節)と表現しています。「自分は不完全な者だから神さまが必要です」と神さまを求めることは、神さまに出会うために最も大切な心だといえます。その謙遜な心が神さまと出会わせ、そこで神さまから知恵を与えられるのです。「知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える」(箴言2章6節)、神さまにより与えられる言葉こそ、人が必要とする知恵なのです。

わたしたちは、シャモウニ村のモンブランのふもとにいました。前日には悲しいことがありました。というのは、一人の若い医師がモンブランの高峰に挑み、偉業を成し遂げ、小さな村はそのお祝いのために明かりを点し、山肌には旗をはためかせて彼の成功をたたえました。

ところが、登山隊の一行が山小屋にまで下りてきた時、その若い医師はガイドから離れてひとり下山すると主張しました。

ガイドは、それはとても危険であることを告げ、それを止めさせようとしました。しかし彼は、ロープにつながれているのに飽きたのか、自由になることを望んでやみませんでした。そこでガイドは遂に説得をあきらめ、かの若い医師は一人で出かました。しかしいくらも行かないうちに、彼は氷の上で足を滑らせ、急な斜面を滑り落ちてしまいました。ロープにつながっていなかったので、どんなに優秀なガドもどうすることもできませんでした。彼は谷底まで落ちて行き、帰らぬ人となりました。

「谷間の泉」カウマン夫人著、日本ホーリネス教団出版局 p.456

お祝いの鐘は鳴り響き、村は彼の成功をたたえて明かりを点しましたが、最後の時、彼はガイドを拒んだのです。彼はロープに束縛されるのがいやになったのです。あなたはどうでしょうか。ロープがいやになるでしょうか。神の摂理はわたしたちを支え、止め、時にはわたしたちはそれをいやがることがあります。わたしたちにはガイドが必要です。危険が過ぎ去るまで、それを手離してはなりません。ガイドから離れてはなりません。『主よ、導いてください』と、祈ろうではありませんか。そしていつの日か、天の鐘はあなたが無事に帰ってきたことをお祝いして鳴り響くことでしょう。」C・Hスポルジョン

この悲劇は、登頂成功の後に起こりました。その原因は、「危険なところは過ぎた。後は、自分だけで大丈夫」という高慢さが、ロープ(守り)を解き、彼をガイドから離れさせたのか、あるいは、この偉業を自分一人だけのものにしたいという高慢からのものなのか 、いずれにせよ謙虚な心を忘れた彼は、足を滑らせ帰らぬ人となりました。このことは、わたしたちクリスチャンにも、大きな意味を与えています。なぜなら、「信仰」を保つ最大の秘訣が、「謙虚になる」ことにあるからです。

契 約

他宗教の経典(聖典)と聖書が根本的に違うところは、「契約」にあります。旧約・新約の「約」は、神さまと人との間に交わされる「契約」の「約」を表しています。そして、それぞれ独立した存在が互いに同意し合うことにより成立する「契約」は、神さまと人、人格と人格が「真の交わり(関係)」を持つために必要不可欠なものとなります。

他の宗教には、この「契約(神と人)」という関係が存在しません。というより、存在できないのです。それは、どうしてでしょうか。ここから他の宗教について、少し学び進めていきます。

諸々の宗教は、「法則(特定の人の考えで悟りを開いた宇宙の法則)」と「法神=法人(世俗的宗教)」に大別されます。そして、この二派をあわせ持つ宗教が他に存在しています。

法神とは、法人をもとにした著者の造語です。その意図は、「神以外のもの(人以外のもの)」に対し、権利義務の主体となることができる資格を認められた状況を表すことにあります。

法則を教える宗教

日本のある在家新興仏教教団は、法則を「神(仏等)」として取り入れています。その教団の教えを参照し、宗教上の法則を考えてみます。

この教団の教えは、紀元前463年にネパールの釈迦族の血を引く、ゴータマ・シンダックの悟りに始まっています。それは、釈迦の「三法印(宇宙の成り立ちの根本と人間の生き方)」に基づいています。

無常(この世の中のすべてのものは、変化し固定するものは一つもない)
《人生訓》
今の幸せは、長くは続かないので謙虚になることが大切である。そうすることで幸福を少しでも長く保つことができる。また、今の不幸もいつまでも続かないので、忍耐し頑張れば不幸から抜け出せる。
諸法無我(この世の全ての物事は、互いに関係し合い存在し、孤立しているものはない)
《人生訓》
自分が儲かれば誰かが損をし、誰かが儲かれば自分は損をする。故に、思いやりの心で助け合い、感謝をもって生きる。
これらの考えは、明らかに法則について教えているものです。そして、「宇宙」「この世」には、これらの法則が成立していますから、この法則に逆らわず生きることが人生肝要となります。しかし、そう生きることができないのが「人」です。そこで、次に、「悟り」の必要性が問われます。
涅槃寂静(煩悩を禁じた悟りの世界は、心の静まった安らぎの境地である『広辞苑より』)
一切の迷いを超越し、不生不滅の悟りの境地に達することが人の救いである。

以下は、エリ・スタンレージョーンズ著「神の然り」からの一節です。スタンレー師は、長期にわたりインドで宣教師をされ、やがてクリスチャンアシュラムを創設した方でもあります。

仏陀は最大の否定である。彼は苦難の問題を長く深く熟考した。そして存在することと苦痛を味わうことは一つであったと言う結論に達したのであった。苦難から脱出する唯一の道は、存在から解脱することであった。存在から脱出する唯一の方法は、欲望から解脱することであった。欲望の根……命の根をさえ……切断せよ。さらばわれらは文字通り消えたローソクの状態であるニルバーナの無行動、無感情の状態に進入することができると言うのである。

私はある時セイロンで一人の仏僧に、『ニルバーナには何か存在するものがありますか』と尋ねた。彼は、『どうして有り得ますか。そこには苦痛がないのですから、何も存在しません』と言った。ニルバーナは生命に芒大な否定を与えているのである。仏陀は生命自体から疎外することによって、われらの人生問題から免除されようとした。つまり頭を取り除くことによって、頭痛を取り除くことである。このような悲劇的な否定論は、また殆んど全ての日本の芝居に流れている。日本や東洋の諸宗教の雰囲気は、否、否、否である。

更に波羅門教的なヒンズー教は、人格を超えて非人格的なブラーマになることを求める。そこで彼は座って瞑想し、『アーフム・ブラーム(私はブラームである)』を繰り返し称(トナ)えるのである。しかし、そのブラームは非人格である。それは彼ではなく、一つのそれである。波羅門哲学はブラーマについて、人間が言うことのできる最高のことは「ネチ、ネチ」(それではない、それではない)であるという。」

エリ・スタンレージョーンズ著、「神の然り」日本キリスト教書販売株式会社発行 p.8

わずかな文章ではありますが、「悟りが何であるか」がとてもよく表されています。ここに「契約」は存在しません。ただ、法則に逆らわないことであり、その法則自体を超越しようとする「否」にあります。

法神(法人)の宗教(人が作った偶像)

諸々の偶像は、法神格の産物ともいえるものです。法神(法人)には、人格性が無いものに対し、便宜上人格を与えたものであり、「神」であっても、その人格の与え主は「人」です。

会社法に基づき設立された法人などは、刑事事件のような特殊な場合を除き、最終的に「責任をとる」資格を有しません。ある大手の会社が倒産し、何万人という人々が職を失った場合、「社長が刑事責任を負うことになるのか」というと、必ずしもそうはなりません。多くの場合その会社は、経済的または刑事上の責任を負う必要がありません。では、「誰も責任を負わないで良いのか」というとそうではありません。経営に直接携わっていないまでも、会社運営に携わった関係者(職を失う従業員、紙切れとなった株券を所有する株主、不渡り手形を発行される取引会社や関連会社など)、そして最終的には、その法人格を法的に許容した社会全体と、その会社の経営陣が失脚することで責任は果たされることになります。

この一連の流れは、諸々の偶像と人の関係に置き換えることができます。木や石を削り(会社を創り)魂を入れた(人格を与えた)のは、「神」ではなく「人」です。この偶像(会社)の神(経営陣、運営者たち、社会全体)は、「人」なのですから、結局は自分で自分の責任を負うことになります。

この法神(法人)における神々(偶像)には、人にとって都合の良いところが多く存在します。なぜなら、「人(造り主)」の思い通りに神々を設定することができるからです。信仰する側は、好みの物(酒、ご飯、果物、お菓子…)をお供えし、ご利益(商売繁盛、家内安全、戦争、癒し、受験、安産…)を要求できます。すべてのことは、人からの一方通行で良く、そこに「相互同意による契約」など存在する必要もありません。あくまで、「人(造り主)」の思いのままになる「神=偶像」、いわば人による「一人芝居」です。

しかし、一方通行であるが故に、運営する側に不都合なことも度々起こるようです。ですから、このような宗教では、短期間で神(偶像)と人の間の取り決め(約束事)が変えられてしまうことがあります。その一例として、ある宗教では、初代会長が亡くなり30年も絶たない間に「輸血に関し否定的な見解が示され」、その後20年も絶たない内に「輸血を拒否しない者に排斥が適用」されるまでに変えられてしまいます。恐ろしいことです。真に存在しておられる完全なる神さまであるなら、一度宣言したことは決して変わることはありません。それが聖書の普遍性であり、「真実の証し」なのです。

命は命によって生まれる

命は命を求め、命は命に出会うまで満足することができません。命を誤魔化すことは決してできず、「猿の命は猿によって」「人の命は人の命によって」しか生みだすことはできません。同様に、「神の子のいのち」は、神さまにしか生み出すことができません。神さま以外のもの(法則、偶像)により「神の子のいのち」を造りだそうとすると、「律法主義」によることになり、そこからは何も造り出すことはできません。「律法主義」は、外側(行い、悟り、知識、物質)により、内側(いのち)を造り出そうとすることであり、詐欺的行為といっても過言ではありません。

聖書における「いのち」とは、肉体的な「死」に対する「命」ではなく、霊的な「いのち」をいいます。この「いのち」には人格があり、この人格は「愛」という型を求めます。この「愛」は、一人の人格の中では起こらず、二人の独立した人格の間に生じるものです。しかし、この人格は、独立しているが故に、相手の意のままにはならず、自由に考え行動する意思を有します。だからこそ、独立した人格の交わりには、「契約(約束)」が必要になるのです。

「いのち」については、聖書基礎講座「人間とは (1)」 をご参考ください。

「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2章24節)。この聖書の教えは、人が結ぶ最初の契約です。「父母を離れる」とは、それぞれが「独立した人格=自立する」ことを意味します。自立した者同士でなければ、契約を結ぶことはできません。ですから、結婚の基礎は、自立した人格同士が交わす契約(約束)でなければなりません。自立していない者(父母を離れていない人格)同士の結婚は、契約(約束)を守る(交わす)ことができない関係ですから、必然的に難しいものとなります。この関係は、神さまと人の間にもいえることです。しかし、人同士の関係とは違い、神さまは完全なお方であり、一方の人は完全にはなれない不完全な存在ですから、同等の関係における契約は成り立ちません。神さまと人の契約は、神さまからの「恵み」であり、それを人が受け取ることで成立する関係にあります。しかし、受け取る側の人が「独立した人格=自立」することなく、「誰か」または「何か」と依存関係にある場合、神さまとの契約(約束)を守る(交わす)ことは難しくなります。ですから、より自立している人は、神さまとの間により良い関係を作り出すことができるようになるのです。

人の「いのち=神との交わり、繋がり」は、神さまにしか与えることはできません。そして、人が罪の中(この世)に生まれ、生きている現実に、神さまご自身が肉体をもって来てくださり、「死=神との交わりの断絶」の原因である「罪」を十字架で引き受け、再び「いのち=神との交わり、繋がり」を与えてくださいました。この方に繋がること以外に、人の「いのち」はありません。

次のみ言葉に神さまと人の「契約」、そして「福音」が示されています。

「わたしの声に聞き従い、あなたたちに命じるところをすべて行えば、あなたたちはわたしの民となり、わたしはあなたたちの神となる。それは、わたしがあなたたちの先祖に誓った誓いを果たし、今日見るように、乳と蜜の流れる地を彼らに与えるためであった」 

エレミヤ11章4~5節

十戒と主の祈り

旧約聖書の十戒は、神さまが人に与えた命令でした。新約聖書の主の祈りは、あたかもその十戒に対する人の応答ともいえるものです。

特に、神さまの最大のご命令である「わたしのほかになにものをも神としてはならない」に対し、「天にいます、我らの父よ」があるべき信仰者の応答となります。しかし、この信仰告白ともいうべき「主の祈り」は、口に出しさえすれば良いというものではありません。それは、その人の「全存在をかけたもの」でなくてはならないのです。
私たちはともするとその一番大事なところで、神を神としない。自分の利害とか、利得とか、経験が先立ってしまい、そこには唯一神教は告白されていないのである。私たち自身、真の神を偶像化する恐れがあるのだ。 「旧約聖書一日一章」榎本保郎著、p.803

キリスト教信者は、「わたしたちの神は人が作った神ではなく、人を創った神です」とよく話します。確かに、その通りです。しかし、どれくらいのキリスト教信者が「真の神を真の神」として生きているでしょうか、キリスト教以外の神々(偶像)のように、「真の神」を取り扱ってはいないでしょうか、自分の信仰は「偶像礼拝」になってはいないでしょうか。

では、何をもって「偶像礼拝ではない信仰」といえるのでしょう。それは、「真の神」に「従うか、従がわないか」という行動において表すことができます。従うべきみ言葉に従わないとするなら、どんなに立派な信仰形態をとっていたとしても、それは人が作った神(偶像)を信じているのと同じになります。 何があるにせよ、これが「神さまのみ言葉」であるとするなら、「自分の考え、状態、願い」それらすべてを超え、従っていかなければ、それはただの偶像礼拝でしかありません。「自分の幸福、思い」という側面から神さまに接するのではなく、ただ神さまのみ言葉に仕えていくのでなければ、「唯一神教」ではありません。

とかく人は、自分の神を「自分を甘やかしてくれる神」にしてしまいがちです。真の神さまは、「甘やかしてくれる神」ではなく、「愛してくださる神」です。「甘やかされる」側からは、良いものは出てきませんが、「愛」からは真実で尊いものが生み出されます。クリスチャンは、神さまに「甘やかされたいのか、あるいは愛して欲しいのか」今一度、問うてみる必要があります。神さまが与えたいと望まれているのは、ボンヘッファーが述べた「安価な恵み」ではなく「高価な恵み」です。「天にいます我らの父よ」を甘えではなく、神さまへの愛の応答としてください。

ボンヘッファーの「安価な恵み」、「高価な恵み」については、エレミヤ講解文第三回「愛を拒む罪」をご参考ください。

エレミヤ書11章1~8節

  • 主からエレミヤに臨んだ言葉。
  • 「この契約の言葉を聞け。それをユダの人、エルサレムの住民に告げよ。
  • 彼らに向かって言え。イスラエルの神、主はこう言われる。この契約の言葉に聞き従わない者は呪われる。
  • これらの言葉はわたしがあなたたちの先祖を、鉄の炉であるエジプトの地から導き出したとき、命令として与えたものである。わたしは言った。わたしの声に聞き従い、あなたたちに命じるところをすべて行えば、あなたたちはわたしの民となり、わたしはあなたたちの神となる。
  • それは、わたしがあなたたちの先祖に誓った誓いを果たし、今日見るように、乳と蜜の流れる地を彼らに与えるためであった。」わたしは答えて言った。「アーメン、主よ」と。
  • 主はわたしに言われた。「ユダの町々とエルサレムの通りで、これらの言葉をすべて呼ばわって言え。この契約の言葉を聞き、これを行え。
  • わたしは、あなたたちの先祖をエジプトの地から導き上ったとき、彼らに厳しく戒め、また今日に至るまで、繰り返し戒めて、わたしの声に聞き従え、と言ってきた。
  • しかし、彼らはわたしに耳を傾けず、聞き従わず、おのおのその悪い心のかたくなさのままに歩んだ。今、わたしは、この契約の言葉をことごとく彼らの上に臨ませる。それを行うことを命じたが、彼らが行わなかったからだ。」

「アーメン、主よ」

エレミヤは、神さまから契約の言葉を聞かされたとき、即座に「アーメン、主よ」と応えました。それは、神さまがユダに述べた「大いなる祝福の言葉」に対するものではなく、「裁きの言葉」への応答でした。

「アーメン」とは、動詞の「頼りになる」から派生した「まことに、真実に、そうあれ」などの意味をもつ副詞だそうです。そうすると、「アーメン」とは、「あなたの仰ることは、真実ですから、その通りになりますように」と、神さまに全面的に同意する言葉になります。そして、この言葉は、榎本師が語っている「従う」という行動に繋がっていくものへとなります。「アーメン」とは言っても、自分に都合の良いことだけを期待するのであれば、真の神を偶像化することになります。

「アーメン、主よ」の言葉を、最も忠実にあらわした人物こそ、主・イエスご自身でした。過越の食事(エルサレム市内)の後、11人の弟子を連れ、祈りのためゲッセマネの園に行かれたとき、8人の弟子を残し3人の弟子と共に、少し離れた場所に移られました。そして、その3人を残し、ひとりで神さまの前に進み「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイによる福音書26章39節)、と祈られました。

「主に従う」には、「あるもの」から離れることも必要になります。まず、イエスさまは、エルサレムから弟子たちを連れ出しました。これは、群衆から離れることを意味しています。そして、次の「8人の弟子」を教会員、「3人の弟子たち」を親しく頼りになる兄弟姉妹に置き換えます。群衆に同調していては、神さまに従うことができない…教会の兄弟姉妹に歩調を合わせているだけでは、神さまに従うことができない…いくら信頼できる兄弟姉妹であっても、彼らの意見に従うのではなく神さまに直接「従う者」でなくてはならない…。「主に従う」ためには、ひとりで神さまと向き合う必要があるのです。

そして、これら以上に難しいことが、最後に離れなければいけない「自分自身」です。「わたしの願いではなく、御心のままに」この言葉に、自分自身との決別があります。そうすることで「アーメン、主よ」と「服従」することができ、神さまと結ばれる「契約への承認」が成されるのです。

「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」

(マタイ11章29節)

このみ言葉に信頼し堅く立ち、主の御足の後を辿る者へとされてください。

1998年6月
エレミヤ書聖書講解第七回に続く…

ページトップへ