キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

エレミヤ書聖書講解文 第九回「御言葉をむさぼり食べる」

エレミヤ書14章

  • 干ばつに見舞われたとき、主の言葉がエレミヤに臨んだ。
  • ユダは渇き、町々の城門は衰える。人々は地に伏して嘆き エルサレムは叫びをあげる。
  • 貴族は水を求めて、召し使いを送る。彼らが貯水池に来ても、水がないので 空の水がめを持ち うろたえ、失望し、頭を覆って帰る。
  • 地には雨が降らず 大地はひび割れる。農夫はうろたえ、頭を覆う。
  • 青草がないので 野の雌鹿は子を産んでも捨てる。
  • 草が生えないので 野ろばは裸の山の上に立ち 山犬のようにあえぎ、目はかすむ。
  • 我々の罪が我々自身を告発しています。主よ、御名にふさわしく行ってください。我々の背信は大きく あなたに対して罪を犯しました。
  • イスラエルの希望、苦難のときの救い主よ。なぜあなたは、この地に身を寄せている人 宿を求める旅人のようになっておられるのか。
  • なぜあなたは、とまどい 人を救いえない勇士のようになっておられるのか。主よ、あなたは我々の中におられます。我々は御名によって呼ばれています。我々を見捨てないでください。
  • 主はこの民についてこう言われる。「彼らはさまようことを好み、足を慎もうとしない。」主は彼らを喜ばれず、今や、その罪に御心を留め、咎を罰せられる。
  • 主はわたしに言われた。「この民のために祈り、幸いを求めてはならない。
  • 彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。彼らが焼き尽くす献げ物や穀物の献げ物をささげても、わたしは喜ばない。わたしは剣と、飢饉と、疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす。」
  • わたしは言った。「わが主なる神よ、預言者たちは彼らに向かって言っています。『お前たちは剣を見ることはなく、飢饉がお前たちに臨むこともない。わたしは確かな平和を、このところでお前たちに与える』と。」
  • 主はわたしに言われた。「預言者たちは、わたしの名において偽りの預言をしている。わたしは彼らを遣わしてはいない。彼らを任命したことも、彼らに言葉を託したこともない。彼らは偽りの幻、むなしい呪術、欺く心によってお前たちに預言しているのだ。」
  • それゆえ、主は預言者についてこう言われる。「彼らはわたしの名によって預言しているが、わたしは彼らを遣わしてはいない。彼らは剣も飢饉もこの国に臨むことはないと言っているが、これらの預言者自身が剣と飢饉によって滅びる。
  • 彼らが預言を聞かせている民は、飢饉と剣に遭い、葬る者もなくエルサレムの巷に投げ捨てられる、彼らも、その妻、息子、娘もすべて。こうして、わたしは彼らの悪を、彼ら自身の上に注ぐ。」
  • あなたは彼らにこの言葉を語りなさい。「わたしの目は夜も昼も涙を流し とどまることがない。娘なるわが民は破滅し その傷はあまりにも重い。
  • あなたはユダを退けられたのか。シオンをいとわれるのか。なぜ、我々を打ち、いやしてはくださらないのか。平和を望んでも、幸いはなく いやしのときを望んでも、見よ、恐怖のみ。
  • 主よ、我々は自分たちの背きと 先祖の罪を知っています。あなたに対して、我々は過ちを犯しました。
  • 我々を見捨てないでください。あなたの栄光の座を軽んじないでください。御名にふさわしく、我々と結んだ契約を心に留め それを破らないでください。
  • 国々の空しい神々の中に 雨を降らしうるものがあるでしょうか。天が雨を与えるでしょうか。我々の神、主よ。それをなしうるのはあなただけではありませんか。我々はあなたを待ち望みます。あなたこそ、すべてを成し遂げる方です。

エレミヤ書15章

  • 主はわたしに言われた。「たとえモーセとサムエルが執り成そうとしても、わたしはこの民を顧みない。わたしの前から彼らを追い出しなさい。
  • 彼らがあなたに向かって、『どこへ行けばよいのか』と問うならば、彼らに答えて言いなさい。『主はこう言われる。疫病に定められた者は、疫病に剣に定められた者は、剣に飢えに定められた者は、飢えに捕囚に定められた者は、捕囚に。』
  • わたしは彼らを四種のもので罰する、と主は言われる。剣が殺し、犬が引きずって行き、空の鳥と地の獣が餌食として滅ぼす。
  • わたしは地上のすべての国が、彼らを見て恐怖を抱くようにする。それはヒゼキヤの子ユダの王マナセがエルサレムでしたことのためである。」
  • エルサレムよ、誰がお前を憐れみ 誰がお前のために嘆くであろうか。誰が安否を問おうとして、立ち寄るであろうか。
  • お前はわたしを捨て、背いて行ったと 主は言われる。わたしは手を伸ばしてお前を滅ぼす。お前を憐れむことに疲れた。
  • わたしはこの地の町々の城門で 彼らを箕であおり、まき散らし わが民の子らを奪い、滅ぼす。彼らがその道を改めないからだ。
  • やもめの数は海の砂よりも多くなった。わたしは白昼、荒らす者に若者の母を襲わせた。彼女はたちまち恐れとおののきに捕らえられ
  • 七人の子の母はくずおれてあえぐ。太陽は日盛りに沈み 彼女はうろたえ、絶望する。わたしは敵の前で民の残りの者を剣に渡すと 主は言われる。
  • ああ、わたしは災いだ。わが母よ、どうしてわたしを産んだのか。国中でわたしは争いの絶えぬ男 いさかいの絶えぬ男とされている。わたしはだれの債権者になったことも だれの債務者になったこともないのに だれもがわたしを呪う。
  • 主よ、わたしは敵対する者のためにも 幸いを願い 彼らに災いや苦しみの襲うとき あなたに執り成しをしたではありませんか。
  • 鉄は砕かれるだろうか 北からの鉄と青銅は。
  • わたしはお前の富と宝を お前のあらゆる罪の報いとして 至るところで、敵の奪うにまかせる。
  • また、お前を敵の奴隷とし お前の知らない国に行かせる。わたしの怒りによって火が点じられ お前たちに対して燃え続ける。
  • あなたはご存じのはずです。主よ、わたしを思い起こし、わたしを顧み わたしを迫害する者に復讐してください。いつまでも怒りを抑えて わたしが取り去られるようなことが ないようにしてください。わたしがあなたのゆえに 辱めに耐えているのを知ってください。
  • あなたの御言葉が見いだされたとき わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり わたしの心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって 呼ばれている者です。
  • わたしは笑い戯れる者と共に座って楽しむことなく 御手に捕らえられ、独りで座っていました。あなたはわたしを憤りで満たされました。
  • なぜ、わたしの痛みはやむことなく わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り 当てにならない流れのようになられました。
  • それに対して、主はこう言われた。「あなたが帰ろうとするなら わたしのもとに帰らせ わたしの前に立たせよう。もし、あなたが軽率に言葉を吐かず 熟慮して語るなら わたしはあなたを、わたしの口とする。あなたが彼らの所に帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ。
  • この民に対して わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らはあなたに戦いを挑むが 勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて助け あなたを救い出す、と主は言われる。

神とエレミヤの問答

エレミヤ書14章15章は、エレミヤが神さまの言葉をユダに語るものではなく、緊迫感漂う中、神さまとエレミヤが一問一答している姿が描かれています。エレミヤは、神さまの御心を変えていただくため、自害覚悟で神さまの懐に迫りユダを執り成しますが、神さまは、そんなエレミヤの言葉にも動ずることなく、頑として受け入れません。この命をかけたエレミヤの迫りから、エレミヤの新たな人物像が浮き彫りにされてきます。

この頃のバビロンは、カルケミシュの戦いでネコ2世率いるエジプト軍に圧勝し、列強の中にあって最強を誇る国に成長していました。そんな中、これら列強の狭間にあるユダは、内部がすっかり腐ってしまった木のように、倒れるのはもはや時間の問題でした。それでもユダの人々は、偽預言者の言葉を信用し、悔い改めようとせず「平安、平安」と言っている始末です。

神さまは、そのようなユダの姿を「干ばつ」に例えられます。聖書では、民が神さまに対し不従順を続けると「干ばつになる」と預言されています。

「さもないと、主の怒りがあなたたちに向かって燃え上がり、天を閉ざされるであろう。雨は降らず、大地は実りをもたらさず、あなたたちは主から与えられる良い土地から直ちに滅び去る」

申命記11章17節

その他、レビ記26章18~20節も参照ください。

ユダの不従順の結果として、1節から6節まで「干ばつ」の恐ろしさが述べられています。人は、神さまに不従順を続けると、「霊的な干ばつ」に陥ります。

「水」は、人だけでなく、この世に生ある全てのものにおいて、必要不可欠な栄養素です。同様に、人の魂(霊)において、欠くことができない栄養素が「み言葉」です。エレミヤには、「霊の干ばつ」により「霊の命」が涸れ、死にそうになっているユダの姿がはっきり見えていました。これと同じ光景が、今日の教会やクリスチャンの間にも広がっています。それは、飢饉に襲われ「み言葉」が得られない多くのクリスチャンが、「み霊の実」を結ぶことなく「霊の命」を枯らし、死んでいく光景です。

神さまから離れ「霊の干ばつ」により、さまようユダの姿を見たエレミヤは、神さまに執り成しを始めます。

エレミヤの執り成し(14章7~9節)
7節で「この干ばつの原因は、偶像礼拝からくるユダの『背信の罪』にあります」とユダの民に代わり悔い改めます。そして、「なぜ神さまは、旅人が一夜の宿をとるようにしか、ユダに止どまってくださらないのですか」と問い掛けます。「勇士であるあなたが、どうしてユダの罪と正面から戦って下さらないのですか」と訴え、「どうぞ、あなたさまが勇士として、ユダにとどまりわたしたちを見捨てないでください」と懇願します。
神さまの答え(10~12節)
エレミヤの問いに神さまは、「それはできない」と答えられます。「わたしは、ユダから離れ、気が向いたときに身を寄せる旅人ではない。彼らが、わたしの下から離れ、偶像の下に好んで通っているのだ」。さらに、「ユダの民のために祈ってはいけない」なぜなら、「わたしは、ユダの民を滅ぼし尽くすと決めている」からだ、と告げます。
エレミヤの執り成し(13節)
エレミヤは、神さまの言葉を聞き、「神よ、ユダがこのようになったのは、偽預言者たちが『お前たちは剣を見ることはなく、飢饉がお前たちに臨むこともない。わたしは確かな平和を、このところでお前たちに与える』と騙しているからです」と神さまに食い下がります。エレミヤは、「このような事態を招いた責任は、民にあるのではなく、一部の偽指導者たちの責任です。ですから、神よどうか許して下さい」と願います。
神さまの答え(14~16節)
神さまは、「エレミヤよ、確かにお前の言う通り、偽預言者たちは、わたしの名において偽りを語り、人々を騙している。だから、偽預言者たちには、厳しい裁きを与える。しかし、その偽預言を受け入れた民に『責任がない』とは、言わせない」と語られます。

誤信と誤診

あるパンフレットに、「あ、患者が死んでしまった!」という本の広告がありました。

医者は、頑固な肩こりを訴える患者に「年齢からくる頑固な肩コリだ」と診断し、鎮痛剤を処方し続けます。しかし、ある時から患者は、胸にひびく痛みと激しい咳を訴えるようになります。そして後日、その患者が、肺がんであったことがわかります。しかし、その時には、既に手遅れの状態でした。

ユダの人々は、自分に都合の良い預言をする、偽預言者の話しを聞いているうちに、「間違った信仰=誤信」を身に付けていました。その結果、判断基準が狂い、自分の置かれた状況を正しく理解することができなくなっていました。

ヨナは、神さまからニネベに行くよう命じられましたが、それを嫌がり神さまから逃げるため、反対方向のタルシシュ行きの船に乗り込みます。そして航海の途中、大嵐に遭遇する船は、沈みそうになりますが、ヨナは…というと、船底でぐっすり眠っています。これは「霊的な眠り」というもので、神さまから逃げ出すと、目が閉ざされ「自分の罪、不従順」が見えなくなることをあらわしています。この「霊的な眠り」は、今日の教会やクリスチャンにも起きています。たとえば、夫(妻)や子供が救われていないのに、「子供たちは、毎日学校へ行き熱心に勉強するし、夫(妻)は優しくよく働いてくれます。私は、本当に幸せで、毎日心配事もなく、ぐっすり眠れます」と話し、教会で語られる「み言葉」を熱心に聞かず、奉仕に精を出す…。現実的に何事も無く、一見平穏無事なようですが、魂(霊)の世界では、「大嵐」が吹き荒れています。つまり、「霊的な眠り」が、霊的な現状を見えなくし、「自分は幸せだ」と「誤診」しているのです。

ユダの人々は、偽預言者の語る「間違った現実」を信じたため、自分の状況を正しく認識できませんでした。だから「彼らに罪はない」とは、いえません。それが、たとえ「偽預言者たちに、信じ込まされていたから…」だとしても、「エレミヤより偽預言者の言葉を信じたい」という願いが、彼らを「誤診」へと向かわせたのです。つまり、「彼らにも責任はある」とうことです。ですから、彼らは「その結果」を負わねばなりません。

偽預言者の言葉は成就させない

神さまは、「この民のために祈り、幸いを求めてはならない」(11節)とエレミヤに告げられました。これには「彼ら自身が犯した責任」、そしてもう一つ、別の理由があります。それは、「偽預言者の預言を成就させない」ということです。もし、神さまがエレミヤの執り成しに応え、「飢饉、剣、疫病など」を差し止めたら、偽預言者の預言は成就し、エレミヤは偽りを語っていたことになります。

他の誰より「ユダを救いたい」と願っているのは、神さまご自身です。しかし、エレミヤが求めている救いと、神さまがご計画されている救いには、「成就する時」に違いがありました。

神さまは、「人を救おう」とされるとき、その人の罪を「徹底的に滅ぼす」よう働かれます。事実、「罪の根」を残したところに、根本的な「人の救い」はありません。一方、エレミヤが考えたユダの救いは、「飢饉、剣、疫病、捕囚など」現実の状況からの「一時的な救い」でしかありませんでした。

過去において、教会とクリスチャンが受けた大きな霊的ダメージのひとつに「幼児洗礼」があります。この「幼児洗礼」は、本人の経験、承諾もないままクリスチャンとされることにより、根本的な「罪の解決」を曖昧な形で留め、その結果「神の子」としての人生を生半可なものにする「罪」を生じさせます。これにより、様々な問題が発生してきました。

罪を滅ぼし解決すべき魂の救いは、人の努力や能力により行えることではありません。それは、御子イエスの十字架だけが成し得ることです。神さまは、「飢饉、剣、疫病、捕囚など」を起こすことにより、人を十字架に追いつめ、救おうとしておられます。つまり、ユダをバビロンへ捕囚として連れて行くことにより、彼らを十字架に付け、復活(帰還)させようと計画されているのです。

エレミヤの執り成し(22節)
しかし、エレミヤは、「この民のために祈り、幸いを求めてはならない」(11節)と神さまに諭されても、神さまの前を離れず諦めません。そして、「あなたはユダが辿る道を思って涙を流されるお方なのに、なおもユダを退けるのですか」(13~18節参照)と尋ね、「主よ、私たちは、過ちを犯しました。しかし、あなたと私たちの間には、契約が結ばれているではありませんか」(21節参照)と、神さまとイスラエルの契約を引き合いに出し、神さまを説得しようと努めます。
神さまとイスラエルの間には、何度も契約が結ばれています。ノアの「虹の契約」(創世記9章1~9節)、動物を二つに裂きアブラハムと結んだ契約(創世記15章9~19節)、シナイ山でのモーセとの契約など、他にいくつもあります。しかし、契約の多さに反し、それら全ての契約における趣旨は、「わたしはあなた方の神となり、あなた方はわたしの民となる」この一点にあります。そして、この契約を成立させるため必要となる唯一のこと、それが「信仰」です。
エレミヤは、「主よ、わたしはあなたを信じています。雨を降らせる(恵みの回復)ことができるのは、あなただけではありませんか。われわれはそれを待ち望みます」(22節参照)と訴えました。
神の答え(15章1~9節)
エレミヤの必死なまでの執り成しを聞いた神さまは、「たとえモーセとサムエルが執り成そうとしても、わたしはこの民を顧みない」(1節)と、愛をもってエレミヤに答えられます。それは、「エレミヤよ、お前の執り成しが悪いので、わたしは応えられないというのではないのだ」とエレミヤを責めていないことをあらわし、「モーセやサムエルを加えたとしても、わたしの決意は固く定まっているので、動かすことはできない」と語られます。
そして、「どんなに頼まれても、わたしがユダに行うことは、『疫病、剣、飢え、捕囚の四種の罰』である」(2~3節参照)と宣言されます。さらに、「エルサレムよ、誰がお前を憐れみ、誰がお前のために嘆くであろうか。・・・わたしは手を伸ばしてお前を滅ぼす。お前を憐むことに疲れた。わたしはこの地の町々の城門で、彼らを箕であおり、まき散らし、わが民の子らを奪い、滅ぼす。彼らがその道を改めないからだ」(5~7節)と宣告されました。

エレミヤの失望

これ以上、執り成しを続けても「神さまは、受け入れて下さらない」とさとったエレミヤは、失望感に苛まれます。彼のこれまでの人生は、裏切りと失望の連続でした。それら全ては、宗教的指導者や民衆によるもので、神から与えられたものではありませんでした。しかし、今回は違います。今回、エレミヤを襲った「失望」は、再び預言者として立ち上がれないほどに、大きな喪失感を彼の心に与えました。そのダメージは、エレミヤに「預言者を止めたい」と思わせるほどのものです。そのエレミヤの心情が10節にあらわされています。

「ああ、わたしは災いだ。わが母よ、どうしてわたしを産んだのか。国中でわたしは争いの絶えぬ男 いさかいの絶えぬ男とされている。わたしはだれの債権者になったことも だれの債務者になったこともないのに だれもがわたしを呪う」

エレミヤは、預言者として「神さまの言葉を取り次いできた意味」、それ自体がわからなくなるほど混乱しています。そして、「今まで自分がやってきたことは、争いと諍(いさか)いを起こすだけで、何も語らず黙っている方が、みな平穏に過ごせるのではないか」とさえ考え始めます。このような思考は、「わが母よ、どうしてわたしを産んだのか」と人を存在否定へと進ませていくものです。

エレミヤが陥っている今回の「失望」は、預言者として歩んできた約25年間の積み重ねのうえに、湧き出た感情でした。しかも、それは「彼が神さまの前に罪を犯した」というものではなく、むしろ忠実にあり続けた結果だったのです。

エレミヤは、預言者として今までどのような状況にあっても、神さまの言葉を忠実に語り続けてきました。しかし、誰一人として、彼に耳を傾ける者はなく、ユダの信仰は、改善されるどころか悪化の一途を辿り、その滅びの時は近づくばかりでした。そこで、ユダの国民を純粋に愛する彼は、神さまの前に立ち、必死に執り成しを試みます。しかし、ここでもまた、彼の言葉は受け入れてもらえません。そればかりか、ユダ滅亡の最終宣告を聞かされたのです。

ここに至り、国民だけでなく、彼のすべてである神さまからも、自分を拒否されたように思えたエレミヤは、「今まで自分は、一体何をしてきたのだろう・・・」と自問します。すると、今まで溜まりに溜まったものが噴火するように吹き出し、「この問題を解決するために自分は、消えてしまった方がいい」とさえ思えたのです。それが「わが母よ、どうしてわたしを産んだのか」(10節)という言葉でした。

神の御心

エレミヤの感情の揺れ動きは、多くの人が共感できるところです。では、神さまの御心は、どうでしょう。その答えを、11節に見てとることができます。ただ、この11節については、新共同訳(口語訳はほぼ同じ)、新改訳において、それぞれの訳文が大きく異なります。そして、英語の聖書を含めると、3通りの訳文が成立することが分かります。ここでは、2通りの日本語訳を取り上げ、進めていきます。

新共同訳聖書(口語訳もほぼ同じ)
「主よ、わたしは敵対する者のためにも幸いを願い、彼らに災いや苦しみの襲うとき、あなたに執り成しをしたではありませんか」
新改訳聖書
「主は仰せられた。『必ずわたしはあなたを解き放って、しあわせにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする』」

これらの訳で最も異なっている点が、「エレミヤが神さまに向かい祈っている」(共同訳)、そして「神さまがエレミヤに向かい語っている」(改訳)ことにあります。これは、訳した底本の違いにあると思われます。ここでは、新改訳聖書の訳文を取り上げ、神さまの御心を以下にまとめます。

「エレミヤよ、嘆き失望するな。あなたの存在は、争いを起こすために産まれてきたような、空しい存在ではない。今は人々から憎まれ、疑われているが、わたしはあなたの正しさを必ず顕す。わたしがあなたに授けた預言は、今、ユダの民を救うためではない。やがて、ユダの民がバビロンへ捕囚となったとき、必要となる言葉なのだ。そのときに民は、あなたの語った言葉を思い出し、真実であることを知り、『主は生きている』と叫ぶようになる。さらにそのとき、敵(バビロン)さえもあなたの言葉の通りであることを知り、お前の下に来て執り成しを願うようになる。すべては、その時のための預言なのだ」。

バビロンは、ユダを滅ぼしますが、バビロンも神さまに用いられた「ただの器」に過ぎず、役目が終わると滅んでしまう(エレミヤ書50・51章)。「敵さえも」は、このエレミヤの預言が成就することを受け、用いた表現です。

預言者の大先輩イザヤは、預言の重さについて、以下のように記しています。

「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくはわたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」

イザヤ書55章11節

エレミヤは、ユダの民に神さまの言葉を語り続けましたが、実を結ぶくことはなく、預言者としての自分自身を疑い「自分は災いを生む存在だ」と思い始めます。しかし、それは、大きな間違いです。なぜなら、エレミヤの正しさは、「歴史」が証明することになるからです。この時点で、それを証明することが叶わずとも、近い将来、イザヤの言葉通り「エレミヤの言葉は空しく帰せず、人々はエレミヤの預言を口ずさみ、賛美に満たされ帰って来る」ことになるのです。

「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、わたしたちは夢を見ている人のようになった。そのときには、わたしたちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう、『主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた』と」

詩編126篇1~2節

見分けることができない問題

エレミヤは、15、16節で神さまに自分を顧みてくださるよう懇願します。15節で「あなたはご存じのはずです。主よ、わたしを思い起こし、わたしを顧み・・・わたしがあなたのゆえに辱めに耐えているのを知ってください」、と 自分の現状を訴え、続く16節で今まで預言者として歩んできた「信仰」の在り方を「あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました」とあらわします。それにより「あなたの御言葉は、わたしのものとなり わたしの心は喜び躍りました」と心から神さまの御言葉(御心)を、受け入れることができた時の喜びを語ります。そして「万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって呼ばれている者です」と、神さまに召命されてから今まで、エレミヤ自身が預言者として生きてこれた自分を証しします。

しかし、「なぜ、わたしの痛みはやむことなく わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り 当てにならない流れのようになられました 」(18節)と、今まで、神さまのみ言葉をしっかり受け止め自分のものとし、心を躍らせ喜び、誇りをもって生きてきた筈なのに・・・と現状を訴えます。

エレミヤには、自分自身に起きている問題が見えていませんでした。それは、神さまの「あなたが帰ろうとするなら、わたしのもとに帰らせ、わたしの前に立たせよう。もし、あなたが軽率に言葉を吐かず、熟慮して語るなら…。」(19節)の言葉に手掛かりがあります。

神さまは、「あなたが帰ろうとするなら、わたしのもとに帰らせ、わたしの前に立たせよう」と仰います。つまり、エレミヤは「神のもと」にいるのではなく、「離れたところ」にいたのです。しかし、当のエレミヤは、自分が神さまから離れていることを自覚していたのでしょうか。いいえ、「神さまから離れている」などと彼自身は、全く考えたこともなかったでしょう。彼が神さまに直談判し、何度もユダとの間を執り成したのは、心からユダの人々を愛し、彼らを助けたいと願う「愛」以外の何ものでもありません。そして、その自分の想いより遥かに大きな愛をもって、「ユダを助けたいと願う」神さまの御心を知っているのもエレミヤです。だから、彼は「自分の祈りや執り成しは、神さまの御心だ」と信じ切っていたのです。

しかし、そのようなエレミヤの想いは、神さまにとって「イエス」であると同時に「ノー」でもありました。

  • 「イエス」・・・ユダの民を救いたい
  • 「ノー」・・・しかし、ユダの民は、バビロン捕囚を通してであり、今すぐ救うことではない

エレミヤは、神さまのその想いに、気付くことができませんでした。

自分を信じるか、神を信じるか

「自分を信じる」ということは、「神さまの御心から完全に外れ、自分の考えを信じる」という意味ではなく、「神さまの御心に適っているように思える自分の考えを信じる」ということです。それは、「神さまのみ言葉や現実に起こっていること」それらを合わせ考え、神さまの御心に適っているように思えるので、「これは、神さまの御心である」と思い込んでしまうことです。エレミヤが「ユダを救って下さい」と願ったことは、将来における神さまの御心であり、現時点におけるものではありませんでした。つまりエレミヤは、神さまの御心ではなく、御心だと思っている自分を信じていたのです。

クリスチャンは、自分自身の「弱さを認めるべき」ですが、自分の「弱さを信じる者」であってはなりません。クリスチャンは、自分の弱さを知り、自分で生きていけないことがわかったから、神さまに救いを求めクリスチャンになったのです。しかし、この心理である「弱さ」をいつまでも、自分で握りしめていると、「自分は、弱い人間だから、人間関係が上手くいかない」「自分は、あんな親に育てられたから、子供を虐待してしまう」「自分の心には、幼い時に受けた傷があるから、年老いた両親を受け入れられない」、このように「弱い、あんな親、心の傷」などの「心理」を握り続け、「自分が今もってそうである」と信じ続けることに繋がります。

次に引用する聖書の物語は、このことを証ししています。

  • 主がベトザタの池に行ったとき(ヨハネ5章1~9節)38年間病を患っている人に出会います。彼は、その長い期間、「自分が病気である」ことを信じ生きてきました。そして、彼は「依然として病気」でした。
  • イエスさまは、片手の萎えた人に、「手を伸ばしなさい」と言われました(マルコ3章1~6節)。彼は、自分が病気であることを認めていますが、それ以上にイエスさまの言葉を信じました。そのとき、彼の萎えた手は、元通りになりました。
  • モーセは、エジプトで大失敗し、シナイ山の麓で羊を飼って暮らしていました。そこで神さまと出会い、神さまからエジプトに遣わされそうになったとき、「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」(出エジプト記4章1節)と話します。彼は、かつてエジプトで失敗した自分を信じていたのです。そこで神さまは、彼に杖(信仰)を持たせ「自分ではなく神さま」を信じることを教えられました。
  • ダビデは、ゴリアテと戦ったとき、自分がゴリアテより強いとは信じていませんでした(サムエル記上17章23~49節)。彼は、自分が小さな人であることを良く知っていましたが、それ以上に「万軍の主の御名」を信じて戦い、勝利を得ることができました。

パウロは、自分の「ある弱さ」に苦しめられ、神さまに何度も取り去ってくださるよう祈りましたが、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(第二コリント12章9節)と、神さまから答えをいただきます。彼は、自分の中にある「弱さを認め」ましたが「弱さを信じず(固執せず)」、その「弱さ故」に神さまを信じることを教えられました。自分の「弱さを認める」ことで与えられる「宝」は、神さまの「強さ(恵み)」をいただくためのものだったのです。そして、パウロは「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。……わたしは弱いときにこそ強いからです(同9~10節)」と言えたのです。

御言葉をむさぼり食べる

エレミヤは、自分でも気付かない間に、自らの「考え、思い、願い、感情」と共に、神さまの御言葉をむさぼり食べていました。それらエレミヤの「考え、思い、願い、感情」の一つひとつは、決して神さまの御心に反してはいませんでしたが、御心が成就する時(エレミヤ=今、神=将来)という点では、御心に反していました。ここに、「御言葉だけでなく、自らを共に食べてしまう」という、気付きにくい「霊の法則」が隠されています。どんなに熱心にクリスチャン生活を過ごしていても、この点に気付かない人(自らの「考え、思い、願い、感情」を日々十字架につけない人)は、「訳のわからない落ち込み」に陥っていきます。

「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」

ヨハネによる福音書6章33節

「生きている父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」

ヨハネによる福音書6章57節

クリスチャンは、「御言葉を食べる者」です。そして、命のパンは「御言葉」であり、イエスさまです。それが、時として「イエスさま(御言葉)を食べているつもりが、実は自分を食べていた」ということがあります。それは、「神の御心=いのちのパン」ではなく、「自分の判断した偽の御心=パンもどき」を食べているのです。「霊の糧」である「命のパン」は、人に「力」を与えますが、「パンもどき」は、自らを混乱に陥れる副作用を与えます。エレミヤもいつの間にか「命のパン」ではなく、「パンもどき」を食べていました。その結果、神さまも御心も、自分自身さえもわからなくなったのです。

「パンもどき」を見つけ、それを捨て(十字架につけ)「命のパン」だけを食べるようにしましょう。「命のパン(御言葉)」には、「正しい命と知識」そして「神の愛」が詰まっています。「この世のパン」が「肉の命」を働かせるように、「いのちのパン」は、その人の正しい命となり「意思、知性、感情」を神さまの御心に沿った、正しいものとして働かせてくださいます。

それは、自分が生きるのではなく、キリストがわたしの中で生きてくださることになるからです。

1998年7月15日
エレミヤ書聖書講解第十回に続く…

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