キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

「キリストの体として歩め」

ヨハネの手紙Ⅲを通し「教会とは何か」また、わたしたちはこの教会の中で「どのようにして生きていくべきか」を学んでいきます。

  • 長老のわたしから、愛するガイオへ。わたしは、あなたを真に愛しています。
  • 愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。
  • 兄弟たちが来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、わたしは非常に喜んでいます。実際、あなたは真理に歩んでいるのです。
  • 自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません。
  • 愛する者よ、あなたは、兄弟たち、それも、よそから来た人たちのために誠意をもって尽くしています。
  • 彼らは教会であなたの愛を証ししました。どうか、神に喜ばれるように、彼らを送り出してください。
  • この人たちは、御名のために旅に出た人で、異邦人からは何ももらっていません。
  • だから、わたしたちはこのような人たちを助けるべきです。そうすれば、真理のために共に働く者となるのです。
  • わたしは教会に少しばかり書き送りました。ところが、指導者になりたがっているディオトレフェスは、わたしたちを受け入れません。
  • だから、そちらに行ったとき、彼のしていることを指摘しようと思います。彼は、悪意に満ちた言葉でわたしたちをそしるばかりか、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。
  • 愛する者よ、悪いことではなく、善いことを見倣ってください。善を行う者は神に属する人であり、悪を行う者は、神を見たことのない人です。
  • デメトリオについては、あらゆる人と真理そのものの証しがあります。わたしたちもまた証しします。そして、あなたは、わたしたちの証しが真実であることを知っています。
  • あなたに書くことはまだいろいろありますが、インクとペンで書こうとは思いません。
  • それよりも、近いうちにお目にかかって親しく話し合いたいものです。
  • あなたに平和があるように。友人たちがよろしくと言っています。そちらの友人一人一人に、よろしく伝えてください。

真理による愛

ヨハネの手紙Ⅱにおいて、ヨハネは「真理によって造られる愛が教会を支配するように」ということにポイントを置いて語っていましたが、ヨハネの手紙Ⅲでも「真理、愛」という言葉が繰り返し用いられています。

教会の中は、キリストの愛で満ち溢れているべきですが、それは人間同士の愛ではなく、「みことばに忠実に従う真理」によって愛し合わなければなりません。ですから、時には真理において誰かの罪を指摘しなければならない時もあります。

その時に必要なのは、「自分の立場を放棄し、キリストの立場を優先する」ということです。そのためには、教会の中にある「誰かの立場」を葬り去り、自分自身も十字架につき、常に「キリストの立場」がたてられていく必要があります。キリストと自分の間に十字架が必要であるのと同様に、わたしたち兄弟姉妹の間にも十字架が立っていなければ、「真実の愛ある教会」になることは決してできません。

先日、わたしは久し振りに父親らしいことをしてきました。高校生の子供の卒業式に出席したのです。この子の高校に行ったのはこの日が初めてだったのですが、それまでわたしが知っていた「どの高校とも違う点」がいくつもあり驚かされました。その一つは、校歌が長いということです。第一校歌が8番まで、第二校歌が10番まであり、ピアノなどの伴奏が入るわけでもなく、壇上の指揮者?の手拍子と太鼓、さらに生徒たちの手拍子のみで歌っていくのです。それも100年以上前に作られた歌詞を、いかにも古めかしい感じのメロディーで歌うものですから、思わず笑ってしまいそうになりました。

校歌はさておき、校長先生の挨拶はなかなかのものでした。世界の時勢に触れる中で、矢内原忠雄さん(無教会。東京大学の教授)が著した「余の尊敬する人物」についての本の中から、新渡戸稲造やエレミヤ、親鸞、リンカーン(アメリカ大統領)などの人物を取り上げ、彼らに共通している特徴を4つあげました。そのひとつに、「彼らには大きな欠点もあったが、しかし真理を求めて生きた」ということでした。

その言葉だけではなく、挨拶全体を通し「いいな」と感じられたのですが、もし、この校長先生に「真理って何ですか」と質問したら、彼は何と答えたでしょうか。そうです。多くの人は、真理が大事だということには気付いています。しかし、「真理とは何か」ということを問われ、「これが真理だ」と言える人は、はたしているでしょうか。ほとんどいないと思います。真実の、生ける神さまを知らないのであれば、なおさら答えられないと思います。しかし、わたしたちには、聖書を通し「真理とは何か」ということがはっきりと知らされています。「聖書のみことばは真理」であり、それを語った「主イエス・キリスト御自身が真理」です。そして「神さまの愛が真理」です。

真理について語ることは、教会に委ねられています。ですから、教会が真理によって生きなければ、世の人々は真(まこと)の光を失ってしまいます。わたしたちは「真理によって歩む」、このことを強く心にとめ、神さまのみことばに従い、歩み続けなければいけません。

ヨハネとガイオの関係

「長老のわたしから、愛するガイオへ」(1節)とあるように、この手紙はガイオ個人に書かれたものです。聖書におさめられている手紙の中で個人に向けて書かれているものは、フィレモンとこのガイオの2通しかなく、他のものは教会に対して書かれています。

「自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません」(4節)とありますが、この言葉は、パウロがテモテを「信仰によるまことの子テモテ」(Ⅰテモテ1章2節)と呼んだように、ガイオがヨハネの働きを通して救われ、あるいは成長した人であり、ヨハネを通し神の子となり、ヨハネに教えられてきた人、であることがわかります。しかし、このガイオが聖書に出てくる3人(使徒20章4節・Ⅰコリ1章14節・ローマ16章23節)の中の誰なのか、あるいはこの3人以外の他のガイオなのか、はっきりしたことはわかりませんが、手紙が出された時点では、一つの教会の監督、または長老であった人物と考えられます。

また、「わたしは、あなたを真に愛しています」(1節)という言葉を通し、ヨハネとガイオが、とても親しい関係にあることがわかります。ヨハネは、「人間的な感情を超えた真理によってあなたを愛している」と述べているのです。このガイオについては、もう少しわかることがあります。「兄弟たちが来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、わたしは非常に喜んでいます。実際、あなたは真理に歩んでいるのです」(3節)とあるように、彼はヨハネからだけではなく、人々からも認められていました。ガイオは教会の兄弟たちからも、ヨハネ自身からも厚い信頼を寄せられている兄弟でした。

初代教会の姿

手紙が書かれた当時は、教会が各地に拡大していった時期です。どのようにして広がったのかというと、パウロの伝道旅行に代表されるように、導かれるまま各地の街中で、神殿で、水のみ場で福音を伝え、そこで信じた何人かの者たちが家に集まり礼拝をし、やがてその規模が徐々に大きくなると、その家からさらに福音を伝える者たちが出て行く、という具合でした。

当時は、「全ての人が聖書を持ち、それを理解している」という時代ではなく、さらに聖書自体が現代のように編纂されていなかったため、神さまの真理を正しく理解することが、とても困難な時代でした。

中国で家の教会が広がった時もそうでした。「聖書がない」ということは、誰かに教えてもらわなければ何もわからないということです。それゆえ中国では、いわゆる巡回伝道者と言われる人たちが、各地を巡り歩いては、人々にみことばを教えていました。その姿はまさに、初代教会の姿と重なるところがあります。福音そのものと共に、病気が癒されるなどの力ある業が伴い、初代教会の福音は爆発的に広められていきました。

ガイオの教会も、そのような流れの中にあったのでしょう。ヨハネ自身、もしくはヨハネの仲間の一人が福音の種を蒔き、その結果生まれた教会だったのかもしれません。「聖書がない中、使徒や伝道者が訪れてはみことばを語っていく」、「他の大きい教会の者たちは、ガイオの教会を経済的に支援し、賜物を持った者たちは、互いの教会のために仕え合う」という教会…、「全世界に一つのキリストの体という教会」にあって、体全体が急成長していくという時代でした。

教会の歴史が始まり、ある程度の年数が経過した頃には、先に救われた者たちの霊的成長も成されていました。そのような中、全体の人数の増加に伴い、各教会において霊的な指導者たちが立てられ、巡回伝道者からだけではなく、指導者自らがみことばを語るなど、さまざまな役割を担うようになっていきました。

教会の成長と共に起こってくる問題

このヨハネの手紙Ⅲは、教会全体が大きくなるにつれ、「一つの教会」としての形を造ることが重要になった時期に書かれました。

ガイオは、「兄弟たち、それも、よそから来た人たちのために誠意をもって尽くして」(5節)いました。「よそから来た人たち」には当然、巡回伝道者たち(「御名のために旅に出た人」7節)も含まれており、12節で名前が上げられているデメトリオという人物も、そのような中の一人だったと思われます。ガイオは、彼らをキリストからの使者として大事に世話をし、彼らの賜物にあずかり、教会のためにそれらの人々を用いていく働きをしていました。そのことはヨハネをとても喜ばせました。

しかし、時を同じくしてヨハネは、ガイオのいる教会に問題が出ていることを知ります。「わたしは教会に少しばかり書き送りました」(9節)とあるように、教会宛てに手紙を送りましたが、その手紙は正しく受け取られなかったようで、教会の監督か長老であるガイオ個人に向け、改めてこの手紙が送られました。

「わたしは教会に少しばかり書き送りました。ところが、指導者になりたがっているディオトレフェスは、わたしたちを受け入れません。」(9節)ここでヨハネは、その問題を隠さず実名を出し、あからさまにひとつの警告をし注意を促しています。

ディオトレフェスという人物

ディオトレフェスとは、どのような人物でしょうか。まず、「わたしたちを受け入れません」(9節)「だから、そちらに行ったとき、彼のしていることを指摘しようと思います。彼は、悪意に満ちた言葉でわたしたちをそしるばかりか、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。」(10節)と、あります。ここから、ディオトレフェスがヨハネ自身、またはヨハネに遣わされた人々を拒否し、教会の中にいる兄弟姉妹を惑わし、その中の何人かを教会から追い出していることが分かります。

ガイオは、教会の規模が大きくなることで、リーダーとしての資質が問われる問題に直面していたようです。それは、一つの教会に二つの派閥(ガイオ派とディオトレフェス派)が生まれたことによるものでした。そのことが顕著に表れた出来事が、「巡回伝道者たち、特にヨハネから使わされた兄弟たちを受け入れるか、受け入れないか」ということでした。

ディオトレフェスは、ヨハネが指摘しているように「指導者になりたがっている」人物でした。おそらく彼は、それに値する資質を持ち合わせていたのだと思われます。しかし、問題もありました。それは、「巡回伝道者たちを拒んだ」ということです。特に、ヨハネに送られて来ている者たちを拒んでいます。さらに、ガイオを含む教会の人々の邪魔をし、時には追い出しさえしていたのです。

上述のことから、この手紙は「三位一体やキリストの神性などの教理」についてではなく、「教会の権威と秩序、そこに生じている問題」について述べられていることが分かります。

神の僕を見分ける

この問題は、今日の教会においても同じように起こっています。たとえば、始めて教会に来たメッセンジャーに「メッセージをしてください」とは、もちろん言えません。どうして、言えないのでしょうか。それは「その人が本当に神さまの器なのか」、また「今この教会に必要な人物として、神さまが遣わされたのか」、判断できないからです。この2点を確かめないまま、「どうぞ、どうぞ」ということはできません。

今日のキリスト教会は、「教派、出身神学校の違い」あるいは「どのグループに支持されているか」と、いうことを基準に人を選ぶ傾向にあります。それは、「彼はキリスト教系の雑誌で紹介されているから確かだ…」とか、あるいは逆に「その雑誌に載っているからちょっと一線を引いておこう…」と、いうこともあります。また、もっと身近なところでは、「どのような洗礼を受けたのか…全身を水に浸したのか、それとも頭に水を注いだのか…」、このようなことを基準に「わたしたちの教会では受け入れられません」と、判断がなされています。

しかし、そのような教会の姿は、本当にキリストの御霊に喜ばれているのでしょうか。いいえ、決してそうではありません。7節に巡回伝道者たちのことを「御名のために旅に出た人たち」と、述べています。「御名のために」とは、「キリストに遣わされ、神さまの信任のもとで各教会に出て行った」ということです。さらに、「異邦人からは何ももらっていません」と続きます。それは、「神さまにのみ頼っている」という「清さ(聖さ)」を表しているのです。つまりディオトレフェスは、「神さまに遣わされた清い(聖い)人々を拒んでいる」ということになります。そのことが、「ヨハネに使わされたデメトリオがディオトレフェスにより拒まれた」、ということに表されています。

教会について間違いやすい考え方

これらのことから、ディオトレフェスの教会に対する根本的な考え方に、いくつかの間違いがあることがわかります。

世の中には、「明白な間違い」と「間違いとは気付かない間違い」があります。俗に言う「似て非なるもの」です。それらは、教会における考え方にも表れます。たとえば、カリスマ性のあるリーダーが教会にやってきて「教会は『わたし』が造ります。ですから皆さん、わたしについて来てください」と言ったとしたら、どうでしょうか。恐らく、その人がいくら魅力的なリーダーになりそうな人であったとしても、多くのクリスチャンは、「それは違うでしょう」と返すことができるでしょう。しかし、その同じ人が「わたしと一緒に、みんなで教会を造り、共にやっていきましょう」と言ったら、どれくらいの人たちが「それは違う」と、すぐに返せるでしょうか。同様に「教会はみんなで守りましょう」や「教会はみんなで支配(運営)しましょう」と言われても「すぐに返答できなくなる」のではないでしょうか。

教会は、「みんなで造り、守り、運営する」ところではありません。教会は、「神が造り、守り、支配するところ」です。そのように間違う原因は、今日の教会が「教会員により造られ、守られ、運営されているところ」になっているからです。会員制度、記名献金、牧師と役員の協議、時には多数決による決議など、主イエスをどこかに追いやるほどの熱心さにより、教会が持ち運ばれているのです。

これらは、「間違いに気付かない間違い」であり、真実な教会の姿とは似て非なるものです。すなわち、「教会は神のものである」のを「人のものにしている」ということです。

同様に、次のようなことも教会の中で起こることです。それは、「弱い人たちに仕えるのが教会です」という言葉にあります。現代において「弱い人たち」とは、水戸黄門の差し出す「印籠」のような働きがあります。それゆえ、「弱い人に対し、誰もが何も言えなくなってしまう…」ということになるのです。しかし教会は、「弱い人たちに仕える」ことが目的ではありません。それは、結果としてそうなるべきことであって、教会の目的は、「徹底的に神さまに仕える」ことです。神さまに仕えると、必ず弱い人たちが大事にされる教会になります。反対に、弱い人たちが教会で大事にされないのは、その教会が神さまに十分に仕えていないからだ、といえます。しかし、目的と結果を混同してはなりません。目的と手段が混同されるのと同じように、目的と結果も混同されるものですから、わたしたちは気をつけなくてはいけません。

ディオトレフェスの間違い

「みんなで」の教会に出てくる間違いは、さらにその奥に深い罪があります。それはディオトレフェスのように、「指導者になりたがっている」(9節)自己主張です。自己主張をあからさまにする人は余りいませんが、教会の中での自己主張は、「みんなで」の裏に「わたしが」を隠すことから始まっていきます。

「この教会は、神さまの祝福によってこんなに大きくなり、人材も増えました。ですから、デメトリオ(ヨハネのところから遣わされた伝道者)にメッセージしていただかなくても、『みんなで』でやりましょう」という具合です。

おそらく彼は、「みんなで教会を造り」「みんなで教会を守り」「みんなで教会を支配(運営)しましょう」と言ったのでしょう。しかし、その本心は、「自分がこの教会を支配できるようにする」ことでした。

わたしたちも同じように、「今ここで、ここにいる人たちだけで教会を造らなければならない」と、間違った考えをすることがあります。確かに、地域の教会という限られた視点に立つと「ここ」であるのかもしれません。しかし、初代教会の力強さの原点は、「グローバル(世界的)な視点に立っていた」ということにあります。当時の教会には、地理的な距離を越え、垣根を越え、賜物を持った器をお互いの教会で用い合い、「キリストにあって教会は一つだけ」という意識があったのです。

【現代の中国で神さまによって用いられたある老婦人、巡回伝道者の話】

彼女は町村をめぐり、みことばを教えていました。それは、一箇所で数日間教え、別の場所に移動し、また数日間教える、ひたすらそういう日々を続ける毎日でした。

ある場所でのことです。約束の期間が終わり、帰ろうとした時、彼女は自分の靴がないことに気付きました。そうです、その教会の人々が彼女の靴を隠してしまったのです…。彼らにとって、その老婦人がどこかへ行ってしまうということは、みことばが聞けなくなるということを意味していました。

人々の要求に応えるべく、巡回伝道者たちも一日十何時間も話すことさえあるのですが、他の場所での必要も大きく、いつまでも一つの場所に留まることはできません。教会の数に比べ伝道者の数はとても少なく、ひとつの教会に次から次へとひっきりなしに伝道者が来てくれる、という状況でもありません。

だから、靴を隠してしまった教会の人々は、真のみことばを聞きたいがために、必死の思いで婦人伝道者を引きとめようとしたのでした。このような状況は、「中国の家の教会」と「初代教会」の似ている部分だと思います。

もし、「教会はキリストを頭とした世界(この世)に一つしかないもの」という概念を見失ってしまったら、その教会は遅かれ早かれ腐ることになるでしょう。ディオトレフェスは、何らかのことをキッカケに「自分たちだけでやっていこう」と、決めたのだと思います。出発点は良くても分岐点に差し掛かった時、わずかにでも本流から逸れるようであれば、足を一歩踏み出した時には、すでに間違った方向に踏み出してしまっているのです。このようなことは、往々にして起こり得ることですから、十分に注意しなくてはいけません。

聖霊とみことばの権威

ディオトレフェスは、「よそから兄弟たちを呼ばなくても、自分たちだけで」と言いながらも、実は「自分が指導者になりたい」という思いがありました。そのような罪から出てくる行動が「わたしたち(ヨハネ)を受け入れません」でした。それは、ヨハネを拒否することでした。

新約聖書を編纂(ルビ)する際、一番重要とされた聖典基準が、「十二使徒(または、十二使徒に準ずる人)に書かれたのか」ということだと、何かの本に書かれていました。ある人は、「現代においてビリー・グラハムは使徒的な働きをした」と言いますが、わたしはアンドリュー・マーレーもそうだったと思っています。いずれにしても、特に「ヨハネや、その使者を拒否する」ということは、「初代教会の使徒を拒否する」ということと同じ意味であった訳です。

教会における具体的で大切な権威は、2つあります。それは「聖霊」と「みことば」です。主イエスは、「聖霊を汚す者はゆるされない」と仰いましたが、それは、聖霊が持つ「権威」について触れられているのです。事実、教会は「聖霊が注がれたペンテコステ」から始まりました。ヨハネによる福音書16章には、「聖霊はキリストのものを受けて、人々に与える。それは、主が栄光を受けるためである」と書かれています。

聖霊は、「キリストの花嫁」つまり、「教会」を造るため、人々に賜物を分け与え、彼らを集め一致させていきます。主イエスは、この「聖霊の権威」を極めて重要な位置に就けていらっしゃいます。ある人を使徒に任命するのは聖霊の働きであり、賜物を与えるのも聖霊です。ですから、「ヨハネを拒む」ということは、最終的にはヨハネを承認している「聖霊を拒む」ことになってしまいます。すなわち、神の権威を否定することです。さらに「ヨハネを拒む」ことは、「みことばを拒む」ことになります。わたしたちは、この「みことば」により真理を知ります。「聖霊とみことば」がひとつになる時、それがわたしたちの「いのち(力、愛、権威、などすべて)」となります。

初代教会の姿が、使徒言行録にあります。その中で、教会を造っている大事なものが4つありました。「第1に使徒の教え(みことば)、第2に相互の交わり(信じる者たちの聖霊による交わり)、第3にパンを裂くこと(礼拝)、そして第4は祈り」でした(使徒言行録2章42節参照)。初代教会で「みことば」は、「使徒の教え」でしたから、ヨハネを拒むことは、「みことばを拒む」ことでもあったのです

教会は、「みことば」から外れてはなりません。「教会は何によって造られるのですか」と問われたならば、単純に「聖霊とみことばによって」というのが答えになります。ですから、「みことば」から外れることは、できないのです。

神に建てられた権威と秩序、主の僕たち

これらのことは、今日のわたしたちの教会にもあてはまります。誰かが指導的な立場にたっていく時、「その人が聖霊の支持の下、立てられているのか」ということが、重要になってきます。それは、「神さまが遣わしたのか、それとも自分でなりたくて立っているのか」ということです。

次に大切なことは、「その人がみことばに固く立っているのか」という判断です。それは、「その人から発せられるものか、神さまからくる教えなのか」、「その人が編み出した考えなのか、聖霊の迫りによるものか」ということです。

さらに「異邦人からは何ももらわない」という姿勢、つまり「その人の日々の生活が神さまだけに依存しているのか」という判断です。それは、「神さまに直接依存しているのか、それとも例えば教会の献金に依存しているのか」ということです。これらのことが、真剣に問われていかなければなりません。ゆえに、主の「働き人になる」とは、「聖霊によって召され」「みことばに硬く立ち」「日々キリストにのみ依存して生きる」ということなのです。

「献身者である人」は、常にこのことを問われ続けるべきだと思います。それは、どんな働きができる、どんな賜物を持っている、ということ以前に重要なことだからです。また、「献身」といえば一般的に、「神学校に行く」「牧師になることを決意する」というイメージが強いようですが、「献身」の持つ真の意味は、単なる行動から得られるものではない(表面的ではない)ことにあります。ですから、「クリスチャンであればだれもが「献身者」となり得る」ということでもあるのです。

「献身」については、ヨナ書聖書講解文第三回「献身」第四回「神に負われる」もご参考ください。

そしてこの事は、献身者や指導者だけではなく、皆さん一人ひとりにもいえることです。クリスチャンであることが「聖霊の導きによるものか、道徳的なレベルでのクリスチャンなのか」、また「聖書のみことばに従い生きようとしているのか、聖書を単なる格言集のように捉えているのか」、あるいは「神さまに頼っているのか、この世を頼りとしているのか」...これらのことは、すべてのクリスチャンに対して同じように問われるべきであり、それらを他人事ではなく、自分のこととして受け止めなければなりません。

教会は人数や道徳的なもので造られるのではなく、もっと霊的なものによって形作られています。「神に召され」「みことばに立ち」「神に頼って生きる者たち」の集まりが、キリストの体を造っていきます。神は、使徒に権威を与えみことばを語らせ、その下に敬意と親愛の気持ちをもって仕える奉仕者たちを整え、秩序をつくられました。その権威と秩序あってこそ、神の御霊は自由に働くことができます。

ディオトレフェスの間違いは、「兄弟たちを受け入れず」(10節)という言葉によく表されています。「キリストが教会の頭」(エフェソ5章23節)、そして、「あなたがたはキリストの体であり、また、ひとりひとりはその部分」(Ⅰコリント12章12~31節参照)なのですから、「自分たちだけで」という考えは、このキリストの体から外れ、聖霊を悲しませてしまうことになります。聖書の言葉を自分に当てはめるのではなく、自分の考えに従い聖書を解釈していくと、真理でないものが教会を支配するようになってしまいます。

真理によって造られる教会

さらにディオトレフェスは、教会を自分で支配しようとし、「神さまの器、聖霊の器」を退けていきました。

ヨハネの手紙Ⅱにも書かれているように、聖霊を悲しませてはなりません。そのために、真理を真理として語り合わなければなりません。人間的な妥協が通されていく教会ではなく、聖書の言葉にわたし自身を合わせ、そのことを真っ向から取り組んでいく教会でなくてはなりません。

それは、「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」(マタイ5章24~25節)、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」(マタイ18章15節)というみことばに直面し、それを実行しようとしていくことです。

もし、真実にその場に立つのであれば、自分の十字架を負うことが必要です。そして、互いの間に十字架が立ち、その十字架によって一つになる時、そこで初めて「キリストのいのち」が出てきます。「キリストのいのち」は、決して人数やその他の要因から出てくるものではなく、十字架を通し出てくるものです。教会の中で、この十字架が隠されてはなりません。

自分たちの教会から、主の教会へ

結論として、ディオトレフェスにとっての教会は、「それがキリストの体ではなく、自分の体になっていた」ということでした。そこは、自分が生き、キリストの生きる余地がなく、聖霊も働くことができない場所です。自分の力で作らなければ、守らなければ、支配しなければ…となる時、それはまさしく、「自分の体」を生かそうとしている者の姿です。

「聖霊によって、みことば(使徒の教え)によって、キリストの体として歩む」ことが、教会として真理の中を歩む(3節)ことになるのです。

教会は、自分が死んでキリストが生きる場所です。ヨハネは、ガイオに対し「わたしも、わたしの兄弟たちも、あなたが真理に歩んでいることを証しします」と語ると同時に、「真理ではない」ことに注意するように、と呼びかけています。なぜなら教会の中では、徹底的に「神の真理」が通されなくてはならないからです。

「教会」について取り扱うとき、わたしはいつも「心臓と肺の関係」を例えに話します。心臓と肺は、もっとも太い血管によりつながっています。人間の体を流れるすべての血は、心臓と肺の働きにより体全体に送られます。たとえば、わたしたちの教会が心臓の役割を与えられているとします。しかし、「心臓として、肺に仕えよう」などといって行動し始めると、変なことが起こります。「わたしは肺のためにこれだけのことをしているのに、肺はわたしのために、これしかしてくれない」などということになるでしょう。そういった関係には、必ず問題が出てきます。では、どうしたら良いのでしょうか。心臓は肺に仕えるのではなく、脳つまりは、頭に仕えるのです。 肺も心臓のためではなく、頭のために仕えるのです。

肺が病に冒されると、酸素が十分に血液に入らなくなり、体全体が酸素不足を起こします。そこで心臓は、できるだけ多くの血を体中に送り、酸素不足を補おうとします。心臓は、肺の弱さをカバーしようとし一生懸命働きます。実際、肺癌になると心臓が働き過ぎ、心臓肥大から心不全で亡くなる、というケースもあるそうです。

キリストの体の各部分が、頭なるキリストに仕えるとき、体全体は生きることができます。聖書には、「『誇る者は主を誇れ。』自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです」(Ⅱコリント10章17~18節)とあります。

わたしたちの教会も、主に喜ばれる教会になりたいと願います。それは、「キリストがいきいきと生きている教会」です。その教会では、たとえ誰かが罪を犯すことがあったとしても、それがあやふやにされず、聖霊なる神により用いられる誰かに指摘され、悔い改めが生じ、主にある真のキリストの体、真の「いのちの交わり」を持つことができるのです。神さまとわたしたち、そして兄弟姉妹の関係においても、「いのちの交わり」がある教会…そのような教会は、「わたしたちの教会だけが光輝けばいい」というのではなく、全世界にキリストの体は一つしかないのですから、互いに教え合い、それぞれの賜物を分け合い、キリストの体の如く、光り輝いていくことが必要です。

「キリストの体として、いきいきと生きること」それは、神さまの前において、みなさん一人ひとりの責任によるものです。

2004年3月7日

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