キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ヨナ書聖書講解第一回 「クリスチャンになる」

宣教師であるヨナは、ニネベに遣わされました。しかし、彼はニネベから逃げ、船上で嵐に巻き込まれます。そこでクジラのような大きな魚に飲み込まれ、吐き出され…そして、ニネベに再度向かう。というように、すんなりとニネベに向かったわけではありませんでした。ニネベに着き福音を宣べ伝えると、みなが悔い改めますが、そこでハッピーエンドではなく、神さまに文句を言うヨナの姿があります。非常に面白い内容ですが、そこからも聖書の真意を読み取ることができます。このヨナ書から宣教をテーマに学び進めていきます。

ヨナ書1章1~3節

  • 主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。
  • 「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」
  • しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。

伝道・宣教の第一ステップ

イエスさまは、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」とおっしゃいました。わたしたちは万人祭司であり弟子とされたときから、「この地域に、家庭に、また出会う人々に福音を伝える」という使命が与えられています。しかし、これがなかなか思うようにできません…なぜ、できないのでしょうか。もちろん、「賜物が違う!」と言ってしまえば、それまでですが、賜物が違っているとしても、すべての賜物は、宣教というものに向いていくべきです。ですから、賜物の違いで自分自身が引き下がってはなりません。ヨナは海外宣教師として、神さまの命令を受けました。しかし、彼は逃げ出してしまいました。なぜ逃げたのでしょうか?その理由を探ってみましょう。

第一に、「ニネベに行け」と言われたからです。ニネベはアッシリアの首都であり、このアッシリアにユダとイスラエルは、どれほどいじめられ続けてきたことでしょうか…。ですからこの命令は、「敵に福音を伝えよ」というものなのです。ニネベは人口12万人の都市でした。この当時で12万の人口といえば、大都市に分類される規模です。わたしは人口約8万人の町から、30キロほど山間を登った小さな村に住んでいました。ですから幼い頃には、その町に出て行くのも怖かったくらいです(笑)。信じられないかもしれませんが、まず言葉が違うのです。30キロ離れているだけなのに、言葉が違うから話せない…それに、道に迷うかもしれない…などと考え始めると、怖くて仕方がないわけです(笑)。それなのに、「東京に出て行って、福音を宣べ伝えよ」なんて言われたら、とてもとてもできるものではありません。まあ、東京に出て「ひとつ余興でもやりなさい」というのなら、まだしも「福音を伝える」のですから…。

第二に、彼は「12万人」という数、それに対する自分の能力、その力関係というものを恐れてしまいました。

第三に、彼は「福音を語る」ということを恐れました。福音を語るとは、「悔い改めさせる」ということです。悔い改めさせるということは、「あなたのやっていることは間違っている、あなたの進んでいる方向は間違っている、あなたは罪人であり、このままではあなたは地獄に行く」というようなことを語らなくてはいけません。それは、その人の人生を挫折させることになり、争いが起きるキッカケとなってしまいます。ヨナは、これを恐れてしまったのでしょう。

これらのことを考えると、ヨナに同情できます。逃げるのも当然と言えるでしょう。わたしだってきっと逃げ出すでしょう。誰もヨナを責めることはできません。しかし、いくらそれが「敵であり、大都市であり、感情的にも受け付けず、そこに争いが起こる」ということが分っていたとしても、わたしたちには「福音を伝える」という使命が与えられているのですから、福音を伝えていかなければなりません。

ヨナは、なぜ逃げたのでしょうか。その根本的な問題は、彼自身の内側にあります。そこを探るために先ず、「伝道」ということから考えてみましょう。

「伝道」というものは、「誰に」、「どのような人に」できることなのでしょうか?…そうですね、それができるのは「クリスチャン」です。クリスチャンとは、「キリストを真似る人」のことです。ですから、わたしたちが「本当のクリスチャンになる」ならば、「キリストを真似ることができる」ということです。しかし、偽物のクリスチャンならば、キリストを真似ることはできません。また、そのようの人には、伝道もできません。

聖書の中には、3通りのクリスチャンが出てきます。

  1. 「あなたは、神の国から遠くない」(マルコによる福音書 12章34節) という言葉があります。非常に含蓄(ガンチク)のある言葉です。つまり、神の国には入っていないけれども、神の国に属しているという意味になります。実に、このようなクリスチャンはとても多く、特にキリスト教国と呼ばれる国には大勢います。彼らは、キリスト教の文化というものを「信仰のレベル」で受け取ってはいるものの、「水と霊によって」生まれ変わってはいない人達です。ですから、キリストから遠く離れてはいないけれども、明確に入ってはいないのです。このような人たちに伝道はできません。仮にしたとしても、結局は「自分を伝える」ということになってしまい、「不思議な伝道」になってしまいます。もちろん、このような人たちをも神さまは、人々を教会に導くキッカケとして用いて下さることはあります。しかし根本的には、このような人たちにとって伝道は、難しいことになります。
  2. 二番目の人たちは、パウロが言うところの「肉のクリスチャン」です。この人たちは、神の子となっていても、「キリストがわたしの内に生きておられる…」のではないのです。キリストを内側にもっていますが、キリストによって生きていない人…つまり、神の子であって永遠の命をもってはいるけれども、今だに「自分の能力、自分の命」で生きている人、その姿を「肉によって生きているクリスチャン」といいます。
  3. そして最後の人たちは、「霊のクリスチャン」です。キリストを内側にもち、「キリストがわたしの内に生きておられるのです」という、そのままの人たちです。これが、霊のクリスチャンです。

肉のクリスチャンと、霊のクリスチャンでは、大きく異なります。神の子とはなっていても、自分の力で生きている肉のクリスチャンは、常に何かを達成することを考えています。何を達成しようとするのでしょうか…。能力を、そしてキリストを用いても、結局は自分自身の思いを達成しようとしているわけです。自分自身とは、「この世に、肉に」属していますから、恐れるものが出てきます。それは、この世です。肉のクリスチャンが恐れるものは、この世なのです。しかし、本当の神の子は、聖霊の力によって生きています。この人が考えていることは、何かをすることではなく、自分自身が「神さまの前に正しく立とうとする」ことです。「何をするか」ということよりも、「神さまの前に、神さまに喜ばれる、神さまの願うような人物になろう」と、ただそれだけに努め、自分の存在というものを神さまの前に正しくしていく人です。そして、この人が恐れるのは神さまです。神さまを恐れるのです。肉のクリスチャンは「世を恐れ」、霊のクリスチャンは「神さまを恐れ」ていくのです。

ヨナは、神さまの子供です。神さまの子供になっています。しかし彼は、肉のクリスチャンなのです。そうすると、何を恐れるのかというと、この世です。ニネベというのは、敵の都市です。恐れるべき存在です。12万人の大都市は、自分の能力の範囲を超えています。力強いこの世、これを恐れます…。そして、 福音を伝えるということは、悔い改めを伝え、相手の人生を否定すること、そこには争いが起こる…が、争いは起こしたくないという思いが湧き上がってきます。これは、わたしたちの家庭、職場、友人関係においても起こりえることです。わたしたちが肉によって生きているならば、やはりわたしたちはこの世、相手を恐れてしまいます。そして、相手に福音を語る、ということができなくなってしまうのです。 しかし、神さまだけを恐れていくならば、神さまの前に自分自身がいかに弱く能力のない者であるか、ということがわかります。そして、「ニネベは敵だ」という感情、そして「争いが起こる」ということがわかっていたとしても、この世に恐れをおかない霊のクリスチャンは、それを乗り越えることができるのです。肉のクリスチャンは、これを乗り越えることができず、逃げ出してしまいます。

ヨナが逃げた理由もここにあります。彼は、「いのち」を内側にもってはいるけれども、肉において生きている預言者でした。ですから、エレミヤのように、「わたしが伝えることをなんでも伝えよ」といわれても、それができなかったのです。神の言葉どおりではなく、「自分で考え、頭で消化し、自分にとって都合がいいか悪いか」、ということを行動の原点にしていたから逃げ出したのです。

霊のクリスチャン(霊的な人)

  • 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
  • しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
マタイによる福音書7章13~14節

それでは、ここで「霊のクリスチャン」つまり「霊的な人、神の人」とはどのような人であるか、ということをはっきりと定義しておきましょう。

イエスさまは、マタイによる福音書7章で、13節までは「教え」について述べてこられました。そして13節以降では、「学んだことをいかに自分に適応させていくか」、「自分自身をそこにおいていくか」ということについて、述べていらっしゃいます。

「狭い門から入りなさい」とイエスさまはおっしゃいました。「狭い門」です。この「狭い門」というのは、「教会が狭い門だ」というのではありません。ここはクリスチャンたち、神の子たちに語られている箇所なのです。実際、「この門を通って、この道を歩くんだ」という意味を明確に捉えていない教会やクリスチャンたちが多くいるようです。彼らは「これでいいんだ、これが門で、これが道なんだ」と思い込み、自信が持てない牧師たちは、「自分が何をすべきなのか」ということを見失ってしまっているのです。ですから当然、教会とその教会に属するクリスチャンたちも、「行くべき門と道」を見失ってしまうのです。それでは、この「狭い門」とは、一体どういうものなのでしょうか。

《「狭い門」4つの特徴》

「見つけにくい」
どこにあるのか分かりません。教会の中にいながら、「これだ!これが信仰の道だ、これが命だ、これだけでいいんだ」ということ、それを確信して生きている…そのような人は僅かです。それほど見つけにくいのです。
「ひとりずつしか入れない」
誰かと手をつないで入ることはできません。親は子どもを連れて行くことはできません。夫と妻が、手をつないで入ることもできません。これは、あくまでも「一人ひとり」が入っていかなければならないものです。そのようなわけですから、「牧師に自分の信仰を代行させる」ことも、「教会につながっているから」と安心していたとしても、それは失格者となってしまうのです。
「余分な物は一切持ち込めない」
裸にならなければなりません。お金、地位、能力、努力などは、まったく適用しないのです。
「身を低くしなければ入れない」
こんな話があります。千利休が茶室を作ったとき、とても小さな部屋に低い門を付けたそうです。千利休の周りには、クリスチャンがずいぶんたくさんいたらしく「茶の心はキリストの心だ」という人もいたそうです(笑)。要するに「謙遜でありなさい」ということです。

これら4つのことを踏まえ、この門がどのようなものかを見てみましょう。

よく見てみると、この門には血が塗られています。出エジプトのとき、家の鴨居に子羊の血を塗りましたが、あのように血が塗られている門こそ「この狭い門」です。そして、「この血は誰の血か」ということです。誰の血がここに塗られているのでしょうか。もちろん、イエス・キリストの血です。しかし、「イエス・キリストの血」というだけでは、わたしたちの理解は不十分なままです。もっとよく観察するならば、この血はわたしがキリストによって死んだときに流した「わたしの血」でもあることがわかります。 ということは…この「狭き門」とは、「死」である、ということがわかります。「自分自身が死ぬ」ということ、これがこの門の正体なのです。

「イエスさまがわたしのために死んでくださった」というだけの福音理解では、クリスチャンになることはできても、霊におけるクリスチャンになることは不可能です。「肉のクリスチャン」と「霊のクリスチャン」の違いは、この血にあるのです。すなわち、「自分がキリストにあって死ぬ」ということ、「自分の血が塗られている」ということ、これを理解することにより、「霊の人」へと脱皮できるのです。

次に、「その道も細い」と書かれています。細い道では、まず乗り物が使えません。教会という乗り物は使えません。教団という乗り物も使えません。牧師という乗り物も使うことができません。誰々が祈っていてくれるから、という乗り物も使うことができません。自分の足で歩かなければならない道、なのです。

そして、この道は細くてとても危険な道で、すぐ脱落してしまう危険があります。わたしたちはどのようなときに脱落してしまうのでしょうか。それは、何かに目を向けてしまい、主から目を離したときです。もちろん、行いにより頼むだとか、そのようなことも含みますが、特に、「人間」を見るということ、そのときに脱落してしまいます。これには、教会も含まれます。「教会」というもの、「牧師」というものを見ると脱落します。そのようなものなのです。

そして、この道は非常に孤独です。ひとりで、そして危険ですから、緊張と孤独感がここにあります。教会生活というものは、やはり孤独だと思います。

では、「この細い道」をどのように歩んで行けばいいのでしょうか。実は、わたしにはこの「歩き方」がよく分かるのです。サッシ屋をしてきたからです。高い鉄骨の上を歩く時のコツは、3,4メートル先を見ることです。目を離してはいけません。自分の足元を見てはいけません。上を見てもダメです(笑)。すなわち、細い道を歩くときには、キリストのみに目を注ぐということなのです。キリストだけです。キリストご自身の人格でなければなりません。神学ではダメです。教理でもダメです。生きておられるキリスト御自身の人格を見つめることです。キリスト御自身の目を見つめるといってもいいかもしれません。これがポイントです。

「霊のクリスチャンに生まれ変わる」ということ、それは「自分の血が塗られた門を通り自分が死んでいく」ということ、そして「キリストのみを見上げ進む」ということ、この2つがとても大事なポイントになります。

良い木と悪い木

  • 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。 」
  • あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。
  • そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
マタイによる福音書7章15~17節

偽預言者とは、まったく異端の教師のことでも、他宗教のことでもありません。むしろ、これは「教会の中に存在する」と、言ってもいいかもしれません。教会の中にいる偽預言者です。この人は、「三位一体、父なる神さま、イエスさま、聖霊さま」について語り、「神の愛、慰め、再臨」についても語ります。偽預言者は、「何を語るか」ということで見分けることはできません。しかし、「何を語らないか」で見分けることができます。偽預言者は、「あなた自身が死ななければならない」(マタイによる福音書7章13~14節)と言わないのです。「神は愛ですよ、ほんとうにあなたを受け入れてくれますよ」とは言いますが(もちろん、その通りです)、「あなたが死ななければならない、肉というものに死ななければならない」ということは、いつでもぼやかしてしまうのです。 ですから、カウンセリング的なメッセージ「あなたの内側に良いものがある、それをどんどん伸ばしていくのだ」とか、可能思考的メッセージ、あるいは悪霊に責任転嫁するような霊の追い出しなど、様々なことを語っていきます。 それらのことも、嘘ではないのですが、一部分でしかないのです。一番大事なポイントではないのです。わたしたちが取り組まなければいけない一番大事なポイントは、「自分自身」なのです。「神さまに敵対する自分自身、神さまになりたいと願っている自分自身」、これこそ最大のポイントなのです。これが解決できなければ、「霊の力を持った、奇跡を行う、預言を語る、異言を語る」などと言ったとしても、「優れた賜物をもっていた」としても、それらは余り効果を発揮することはできません。神に喜ばれる者となることはできないのです。 彼らは、この「狭い門、細い道」を語りません。ですから、「こういったことも勉強した方がいい、このようなこともしなければならない」と、いつのまにか「聖書の権威と絶対性」というものを随分と崩してしまっているのです。 多くのクリスチャンたちは、そのような教えを聞き続けることで、弱り、そして立ち上がれなくなり、やがて教会から離れ、神さまから離れていくという生活をするようになります。

可能思考とは、物事を肯定的に解釈し、前向きな発想で積極的に行動し、やり抜く力を発揮させるように思考すること。

マタイによる福音書16節では、これらの人たちを「実をもって見分けなさい」とあります。そして、ここ17節の「良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」にポイントがあります。「良い実は、赤々として美味しそうなりんごで、悪い実は腐ったりんごだ」と、このように考えてしまいがちですが、これならすぐに見分けることができますね。しかし、イエスさまがおっしゃる「実」というのは、よい実も悪い実も、外見はほとんど変わらない同じリンゴだと思います。さらに、良い木から取れた実を食べると、その人は元気になっていき、悪い木から取れた実を食べると、その人は死んでいってしまいます。

その実によって「良い木と悪い木」の区別ができるのなら、その実を食べそこから長い時間経ってから判断する…しかし、食べてしまってからではおそい!…だとしたらわたしたちは食べる前に、その見分け方を知らなければなりません。では、どうすればいいのでしょうか。すなわち、こういうことです。ガラテヤの信徒への手紙5章22節に、霊の実(霊によって導かれ結ぶ実)は、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制であって…」と書かれています。ここで、注意しなければいけないことがあります。それは、霊の実とそっくりなものが、「肉においても作ることができる」ということです。しかし、違いがあります。それは中身です。霊の実は明らかに、聖霊によって作られた実であり、「聖霊(いのち)」が充満しています。肉によって作られた実は、「寛容で、柔和で、愛に満ち溢れている」といっても、この中には「肉」が詰まっているのです。腐った肉です。ですからこれを食べるならば食中毒になってしまいます。すなわち、「肉によって結んでいる」のか、「霊によって結んでいるのか」ということを見分けていくということです。

  • わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
  • その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
  • そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
マタイによる福音書7章21~23節

マタイによる福音書の7章の21節では、「父の御心を行った者だけが天の国に入る」と書かれています。「信仰信仰と言ったって、行いも伴わなければだめじゃないか」ということではありません。この「主よ、主よ」と言いながら、ある人は天国に行き、ある人は失格者だというのです。どこが違うのでしょうか。やったことは同じです。結んだ実は同じなのです。病気をいやし、福音を語ったのです。同じなのです。しかし、違っていたのです。片方は良い木であり、もう片方は悪い木だったのです。

確かに、主の名によって病気をいやすことはできます。しかし、その次が問題です。それは誰のためなのでしょうか。すなわち、「神のためか、自分のためか」ということです。みなさん「自分のために福音を語り」、「自分のためにいやしの祈りをし」、「自分のために奇跡を行う」ことができるのです。事実、主の名を用いるとき、その人が100パーセント純真で良い木でなくても、奇跡を起こすことや福音を伝えることはできます。しかし、やっぱりその命が違うのです。片方は、聖霊であり、片方は自分(肉)なのです。だから、ここに気をつけていかなければなりません。

突き詰めると、やはり「神か、自分か」という問題に出会い、それは最初の狭い門、「自分が死んでいるか、死んでいないか」という点にまた帰ってくるのです。ですから、「霊のクリスチャンになる」ということは、この狭い門についた自分の血、自分の死というものを通って行く、ということなのです。そして、この霊のクリスチャンである本物の宣教師だけが人々に、「キリストを伝える」という伝道ができるのです。

  • そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
マタイによる福音書7章24節

24節は、岩と砂の話になります。これは、「同じ場所」で「隣り合わせに」家を建てているのだと思います。しかし片方は、岩の上に砂をのせてしまっているのです。すなわち、「自分」という「肉」をのせてしまっているのです。片方は、「肉(砂)」を取り除いてキリストに直結しています。そして、洪水が起きたときに、「倒れる、倒れない」ということがはっきりとわかるわけです。

ヨナは、逃げ出してしまいました。ここに、ヨナの姿が現れていますね。ヨナはまだ肉のクリスチャンでした。だから彼は逃げていってしまったのです。

伝道ということを考えていくとき、その方法はトラクト(小冊子、パンフ、チラシ等)や、その他なんでもいいと思います。しかし、根本的に、それはクリスチャンによってなされなければならないのです。しかもそれは、わたしたちが霊のクリスチャンでなければならないのです。これこそ、「伝道、宣教の第一のステップ」です。みなさんは、自分自身のことを考えてどうでしょうか。わたしたちが肉のクリスチャンであったとしても、実を結ぶことはできます。主の名により、「福音を語ること」、「奇跡をすること」もできます。しかしそれは、自分で自分を支えて行っているのです。それは非常に危ないことです。わたしたちはいつも、「霊のクリスチャンになる」ということを心がけなければなりません。まずここにポイントを絞り、神さまの前に立ち、祈っていかなければなりません。もちろん、これが全て解決できるまで、他に進んではいけないということではありません。

これらのことが常に根底に置かれ、ここからわたしたちが「伝道、宣教、福音を語る、キリストにある業をしていく」ということなのです。

霊のクリスチャンになるということです。

ヨナ書聖書講解第二回に続く…

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