キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ヨナ書聖書講解第四回「神に負われる」

前回、「献身」について学びました。「献身」とは、人のために生きるのではなく、主イエス・キリストの名により、肉の自分に死に霊によって生きる者とされ、神にある自分を喜び、存在を心から感謝できる人へ…、そうなることで、自ら進んで自分自身を神にささげるようになります。ヨナも神に変えられることにより、心から「わたしは感謝の声をあげ」、その結果として、「いけにえをささげ(自分自身をささげ)」ることができ、感謝の心がヨナを次の行動「誓ったことを果たそう(神さまの御心に従って生きよう)」とならしめました。これが「献身」です。

ヨナ書2章11~3章9節

  • 主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した。
  • 主の言葉が再びヨナに臨んだ。
  • 「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」
  • ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。
  • ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」
  • すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。
  • このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、
  • 王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。
  • 人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。
  • そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」

伝える人

陸地に吐き出されたヨナは、以前のヨナとは全く違っていました。ヨナは、主の命令通りニネベに向かい、町中で神の言葉を伝え歩き続けました。それを聞いた人々は、心打たれ「こんなことをしていてはダメだ」と、見聞きしたことを王に伝えます。それを聞いた王も心打たれ、全国民に「断食して悔い改めよ、家畜にいたるまで悔い改めさせよ」と命じました。ヨナの伝道は、わずか40日も経たない間に、12万人をも悔い改めさせ、それを家畜にまで至らせるという、すばらしい御業を起こしました。伝道史上、後にも先にもないくらい、凄いことが起こりました。

ヨナ書全体のテーマは、「宣教」「伝道」ですが、ヨナ書をみていくと、この「伝道」というものが、やはり「神の業」であり、神ご自身が「伝道」を行っていることがわかります。もし、これが一介の伝道者であり、大声を張り上げ、あるいはスピーカーを使い、町中を歩き続けたとして、このように人々の心を動かし変えてしまうことができるでしょうか。これは、「『神さまの言葉』」が『神さまの時』に至り成就した」と、認識すべき出来事です。

では、その時人は何をすべきでしょうか。あるいは、何もせず神さま任せにしていいのでしょうか。いいえ、決してそうではありません。イエスさまは、「全世界に出て行って、福音を伝えなさい」また、「すべての人をわたしの弟子としなさい」とも仰いました。「伝道だけでなく、教育もしなさい」と、いわれているのです。「伝道は神さまが働かれる」ことですが、同時に「神さまがわたしたちに委ねている」ことでもあります。では、わたしたちが「伝道」する場合、「特に意識しなくてはいけないこと」とは何でしょうか。それは、三つの立場(一番=神、二番=伝える人、三番=受け取る人)です。それぞれの立場、関係により、この伝道が成されていることを認識する必要があります。

ヨナを用いて神さまは、ニネベの人たちに福音を伝えました。神さまがいたとしても、伝える人がいなければ福音は伝わりません。あるいは、伝える人がいたとしても、受け取る人が拒否したなら、この伝道は実を結ばなくなります。もちろん、全ての全てである神さまが、そのことを願わなければ、これは全く虚しく空を切るようなものです。今わたしたちは、二番目の「伝える人」という立場に置かれています。そして、神さまと受け取る人の関係には、わたしたちの手の届かない部分が多くあります。そのことを理解した上で、「伝える人」としての役目を果たせるのかどうか、今一度自分自身を吟味する必要があります。

今まで、ヨナ書を三回に分けて学んできましたが、それらは、神さまのヨナ自身に対する取り扱いでした。神さまは「伝える人」として、ヨナを用いたいと願っていらっしゃいます。そのために、逃げたヨナを追いかけ、荒れ狂う海に落とし、救い出し、彼を肉から霊のクリスチャンへと飛躍させました。ヨナも神さまから逃げていましたが、神さまに追いかけられ、自らの罪を指摘され、その罪を認めさせられ、海底に投げ込まれ、自分の呼吸が絶えようとしたとき、「主よ、助けてください」と心から叫べました。その叫び声は感謝の声に変わり、「主よ、感謝します」と、肉から霊の人へと変えられました。彼は、「いけにえをささげ(自分をささげ)」、「誓ったことを果たし」、「神の使命に生きる」よう変えられたのです。そして、その結果がニネベでのリバイバルでした。

「伝道」する上で一番大切なことは、「わたし自身がどのような人になるか」ということです。それは、「肉のクリスチャンから、霊のクリスチャンになっているか」ということです。それと同時に、「伝える人としての立場」にも重きを置かなくてはいけません。それは、「わたし自身を神さまが望む立場に置いているか」ということです。これらの秘訣を学ぶことが、クリスチャンにとって非常に大切なことです。

しかし、今の日本において、これらの秘訣を学ぶことは、とても難しくなっています。多くの本を読み聖書を学ぶことで、「教会生活、聖書の教理、神学など」キリスト教について様々なことを教えられますが、「自分の肉」について取り扱っているメッセージは、非常に少なくなかなか出会うことができません。また、「肉を霊にする」という真理において日本の教会は、大きな間違いを犯していると思わざるを得ないところがあります。その間違いを誘発した原因の一つに、「日本的な訓練や鍛錬」があげられます。昔の体育の授業では、「うさぎ跳び」が推奨され、先生は生徒たちに一生懸命「うさぎ跳び」をさせました。しかし、ここ数十年で「うさぎ跳び」は、膝を弱める可能性が高く、その割に体力作りには効果がないことから、「百害あって一利なし」ということで、ほとんどの授業から消え去ってしまいました。これと同じで、一生懸命「仕えなければいけない、ああしなければいけない、こうすることだ」、と頑張るほど自分自身に負担がかかり、人によっては神そのものから離れてしまう原因にもなりかねません。まさしく、百害あって一利なしです。「肉によって肉を取り除こう」としても、所詮「肉」から出るところに「霊」のものを生み出すことはできません。そのような方法により、「肉のクリスチャン」から「霊のクリスチャン」にしようと試みられてきたことが、多くの所で行われてきたのではないでしょうか。また、「『牧師、教会の言うことには服従する』そうすることで、肉から霊のクリスチャンへ取り扱われるようになるんだ」と、そのような考えにとらわれ、クリスチャン生活を過ごしてきた方がたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。しかし、「肉から霊のクリスチャンへ飛躍させてくださる」のは、「みことばと聖霊の働き」によるものであり、その他の要因で影響を受けることがあったとしても、「みことばと聖霊の働き」がないところに、肉が取り扱われることはありません。わたしたちは、この基本的な真理をしっかりと学び、信仰生活を歩まなくてはいけません。

メッセージを語る

メッセージを聞いたとき、そのメッセージを正しく批判できなければ、正しく語る事はできません。なぜなら、「聞くこと」と「語る」ことは、同じところにあるからです。もちろん、メッセージの語り手に上手下手はありますが、それらに左右されることなく、「霊的な識別力、能力」を身につけ、そのメッセージを正しく批判できなくてはいけません。そのためには、多くのメッセージを聞き、古くから伝えられている神さまに用いられた人たちが書いた良き書物を読むことも必要になります。しかし、最も大切なことは、「祈りつつ聖書を読む」ことです。それが基本中の基本となります。そうすることで、メッセージ自体がいくつかのポイントで語られていることに気付くようになります。

自分の立場で語るメッセージ
このメッセージの特徴は、自己主張です。自己主張とは、「メッセージを通し自分を伝える」ことです。このようなメッセージは、非常に言葉たくみで聞きやすく、人を楽しませ笑わせてくれます。しかし、そのメッセージをよくよく聞いてみると、「自分がいかに神さまに用いられているか」、「自分の教会がいかに素晴らしいか」、「どれくらいの人が集っているか」、そのような内容ばかりが目立ち、「この人が伝えたいことは、自分自身なのだ」ということが見えてきます。このようなメッセージは、紙とペンを用意して、ポイントを筆記しようと思っても、書くことがほとんどありません。それは、自分自身を主張しているからです。
確信(自信)のないメッセージ
つい最近、新聞にこんな記事が載っていました。神の国について、仏教とキリスト教の立場から論じているものでした。仏教の立場からの記事には、「ああ、仏教とはこういうものなんだろうな」と、それなりに仏教の説く神の国について理解できました。しかし、神学者の記事については、論点が全くズレていました。聖書における神の国とは、「キリストとわたしとの関係」です。キリスト御自身です。そのキリストをわたしが心にお迎えし、わたしがキリストの中に入って生きる、この関係こそ神の国の到来なのです。そして、わたしが神の国の中に生き、わたしが肉体を脱ぎ捨ててもなお神と共に生きる「キリストの復活と結びつく」ことで神の国、天国というものがあるのです。しかし、その神学者には、その確信がありません。ですから、多くの言葉を引用しても、結局は芯のない曖昧模糊とした文章になっていたのです。一見すると、彼の記事には、それなりの自信が見て取れるようでしたが、注意深く読み進めると、そこにはやはり彼の自信のなさが表れていました。彼には、キリストとの確固たるつながり、確信がないのです。
受け取る側の立場にたったメッセージ
この種のメッセージは、聞く側にとって耳に心地よく、心を暖め、一時的な希望を与えます。「ああ、自分はこれで生きていけるんだ」と、一瞬の可能性を与えます。しかし、そのメッセージの語る「暖かさや、可能性、希望」というものには、全く根拠がありません。そのメッセージを聞くと、「一瞬、自分を取り戻した」ように思えるのですが、そこには根拠がないのです。すなわち、「あなたのためにイエス・キリストが十字架について死んでくださった」ということだけを語るメッセージなのです。確かに、聖書においてイエス・キリストが十字架についたのは、「わたしをそこで殺すためである」と明らかにされていますが、それと同時にイエス・キリストは、「私自身を、わたしの肉を、わたしの罪を、わたしの古い存在を殺すため」、十字架についてくださったのです。それにより、「わたし自身が十字架につけられ死ぬ」ことができるのですが、そこが語られないのです。結局、そのメッセージは、「十字架につくのはイエス・キリストであり、わたし自身が痛み苦しむことはない」と、語っているにすぎないのです。「神さま、本当に感謝します」と、一瞬暖かくなりますが、そこには力がなく、命がありません。命がないところに、本当の希望はありません。聖書では、「一粒の麦が地に落ち死ぬ(私たちが死ぬ)ことにより、芽を出し育つ(わたしたちは生きる)」、そして「わたしたちがキリストの名のもと十字架につくことで、キリストと共に生きることができる(キリストと一つになれる)」ということが明らかにされています。しかし、この種のメッセージには、聖書の真理をついたこの部分が欠けています。ですから、「いのちに至る門が広く、そこに至る道も広く」なっています。これでは、「いのちに至る門」には行けそうにありません。このメッセージでは、十字架から少し離れたところで、ただ見ているだけの状態にしか誘導できず、「十字架と自分が一体化」するように導くメッセージにはなりません。ボンフェッファーの言葉を借りれば、「安価な恵み」になってしまうのです。しかし、このようなメッセージは、耳に心地よく受けがいいため、人は集まりますが、人を成長させることはできません。ですから、周期的に「人がいなくなり、また別の人たちが集まる」それを繰り返す教会となってしまうのです。
「語るわたし」と「聞く相手」がいないメッセージ
「神さま、神さま」、「聖霊によって、聖霊によって」と訴えているのですが、実はその内容は「神さま任せ」の自分に責任をおかないメッセージです。

キリストと自分の確固たる交わりがあってこそ、偽りや偽善ではない、真実に心から納得したクリスチャン生活を日々続けることができます。内側から湧いてくる「いのち」なくして、「感謝だ、恵みだ、奉仕だ、人に仕えよう」と言っても、時間と共に辛さを感じるようになるだけです。なぜなら、それは「偽り」だからです。結局、「自分の立場や相手の立場に立ったメッセージ」は、「人中心のメッセージ」になってしまうのです。「人中心のメッセージ」は、その中心である「人」について語りますから、「人生訓、可能思考、哲学、教育学、成功式」といった言葉で表されるものにしかなりません。

ヨナ書3章10節~4章11節

  • 神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。
  • ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。
  • 彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。
  • 主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」
  • 主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」
  • そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。
  • すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。
  • ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。
  • 日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」
  • 神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」
  • すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。
  • それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

神の立場にたった宣教

では、宣教とはどのようなものでしょうか。それは、わたしたちが「神さまの立場に立つ」ことにあります。自分でも、相手の立場でもなく、神さま御自身の立場に徹底的に立ち続けられるか、これが宣教する上で最も大切なことです。 3章でのヨナは、自分の能力では到底無理なこと(敵国へ赴き、伝道し王を動かした)でありながらも、神さまの命令どおり行動しました。3章において、ヨナは自分の立場を完全に捨てました。聞く側のことは全く考えず、「40日後にあなたたちは滅びる」と宣言しました。自分の立場、相手の立場も捨て、ヨナは徹底的に神の立場にたちました。だからこそ、ヨナにこのような働きができたのです。

しかし、4章においてヨナはガラリと変わっています。ヨナの宣教により、ニネベの12万人が悔い改め、動物たちまで悔い改めたのです。悔い改めた動物…一度見てみたいものですが(笑)。そうであるにもかかわらず、10節でヨナは、「ハレルヤ!」と叫んだのではなく、大いに怒っています。この矛盾は何故でしょうか、ヨナは何故そうも怒っているのでしょうか。それは、ヨナが「神さまの立場」を離れ、「自分の立場」へと戻ってしまったからです。 「『あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる』と、叫び続け、ニネべの人たちが悔い改めることで神さまが介入なさった…その結果、ニネべの町は救われた…あれ?自分は滅びると叫び続けたのに…」と、自分の立場が失われていたことに気付いたのです。だから、彼は怒っているのです。

みなさん、これと同じような事が教会の中でも、頻繁に起こっているのをご存知でしょうか。たとえば、「なるほど、それは素晴らしいことですね、でも、どうしてそれを私に相談しなかったんですか?」と…、この人には「神さまがそれを願い、御心に叶った素晴らしいことだ」と、わかっているのです。でも、「自分は、それを知らなかった…」そうです、自分の立場が無視されて怒っているのです。 クリスチャン同士がお互いに祈り合うのは、素晴らしいことですが…「あの人たち、家に集まって祈り会をやってるんだって?わたし祈祷委員会なのに…」、また、別のところでは…「役員会に相談せず牧師が勝手に動いてしまった!」「わたしたちはあなたのためにがんばろうと思っているんですよ、せっかくの役員会なのに!」、「いや、これは神さまの御心だったものですから…」、「でも、神さまの決めた秩序があるんです。一体だれが献金していると思ってるんですか」というようにです。いつのまにか、「この世」になっています。これらは会社と同じで、「課長に相談したか、部長の印があったか」など、そのようなことが重要事項になっています。ヨナの言っていることは、それと同じで、神さまの御心を知ってはいても、自分の立場がないがしろにされ、怒っていたのです。ヨナは、自分の立場にこだわっていました。

神さまは、そんなヨナに「お前は怒るがそれは正しいことか」と仰いました。宣教とは、神さまの立場にたつことですから、それは正しくありません。では、神さまの立場とは、どのようなものでしょうか。もちろん、一言で神さまの立場を表すことはできませんが、その一つに「愛の立場」があります。神さまは、その「愛の立場」をヨナに知らせるため、ユニークな方法を用いました。

5節でのヨナは、すっかりいじけています。この「小屋を建て、」の小屋とは、「自分の世界」を表しています。そして「いじける」というのも、「自分の世界」に入ることを指します。このときのヨナは、いじけて自分の世界に入り込み、神さまと神さまの御業から身を引いたところにいます。もし、ヨナが不満を持ちながらも都に留まっていたら、何が起こっていたでしょうか。ヨナは、神さまの栄光を見ることができたはずです。人々が悔い改め、明るく生き生きとした姿で、「ヨナさん、あなたがわたしたちにとって痛いことも真実に語ってくれたから、わたしたちは助かったんです。ヨナさん、ありがとうございます」と、みんなから崇められたかもしれません。そしてヨナは、町中で起こっている神さまの御業をはっきりと見ることができたでしょう。

しかし、ヨナはそうなる前に、その立場から身を引いてしまいました。ですから、40日経っても、彼のいない町は静まり返っていたのです。彼が町に入って行ったら、ハレルヤコーラスが歌われ、人々が喜びに満ち溢れる様子を見ることができたはずです。そして、ヨナ自身のいじけた心は、「自分が神さまに用いられて良かった」という喜びに変わっていたはずです。

わたしたちも、同様のことを目にします。たとえば、「わたしの立場が無視されたから、もうあの教会には行かない」という人は、何かと理由をつけて教会から離れて行ってしまいます。もちろん、それは「ずっと同じ教会に居続けなくてはいけない」のではなく、「教会から離れる」ということ自体に大きな意味があるのです。なぜなら、それは「神さまのもとから、神さまの御業が見れる場所から離れてしまう」ということだからです。その結果、あらゆることが見えなくなります。

神さまから離れ、見えない状態で行動したヨナは、強い太陽の光に照らされることになります。砂漠地方の日差しは、本当に厳しいものです。わたしは、8ヶ月アルジェリアの砂漠で過ごし、ペルシャ湾にほど近いアワーズにも6ヶ月滞在したことがあります。ですから、砂漠がどんなところかよく知っています。砂漠に吹く東風は厳しいものですが、ペルシャ湾からたまに吹いてくる風には、まるで体の水分が吸い取られるように、下着が絞れるほどの大量の汗をかかされました。そのような気候ですから、照りつける日差しは、ヨナにとって本当に厳しいものだったと思います。

それを見ていた神さまは、ヨナに「とうごまの木」をお与えになり、ヨナを日差しから守られました。ヨナは心底喜びました。しかし、その「とうごまの木」が枯れてしまったのです。ヨナはぐったりとなり、「生きているより死ぬほうがましです」と言いました。すると神は、「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」それに対しヨナは、「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」と答えます。この辺が、ヨナの人気の秘密なのかもしれません。わたしだったらもう少し体裁を整え、神さまに文句を言うところでしょうが、ヨナはもう怒りをブチまけています。凄いことです。

さて、それに対する神さまの返事をまとめると、こうなるのではないでしょうか。「ニネべの人々がお前の敵であったとしても、一人として滅びることをわたしは願っていない。お前はこのことで怒っているけれども、私は一人ひとりに救われてほしいのだ」この愛を、神さまは示されたのです。「お前も愛している。けれども、お前の敵の国であるこのニネベの人たち、そして家畜さえも愛している」と、神さまは愛について語りました。これが、神さまの「愛の立場」です。しかし、わたしたちが「宣教する」場合においては、もう少し奥深い「神さまの立場」を知り、そこにも立っていかなければなりません。

しかし、ヨナは3章から4章で、どうしてあんなにも急変してしまったのでしょうか。神さまの立場にたっていた人が、なぜ自分の立場に変わってしまったのでしょうか。ヨナが「自分の立場に戻ってしまった」ことは、前述しましたが、問題なのは「なぜ神さまの立場から自分の立場に変わってしまったか」ということです。その理由を知ることは、クリスチャンにとって非常に重要なことです。3章で宣教に出て行ったヨナ、それは自分が十字架につけられているヨナの姿でした。自分の呼吸が止まりそうになったとき、ヨナは十字架につけたのです。そして、彼の内側にはキリスト御自身が生きていました。

さて、ここで「わたしが十字架を負う、十字架につく」このような状態にあるとき、周りの人たちは、「厳しくて、悲しくて、痛くて、大変だろうな」と思いがちですが、実は十字架についている人は、痛みを感じていないのです。迫害されている人を見るとき、「大変だろうなぁ」と思います。石を投げつけられるステファノ※1の姿を見るとき、周りの人たちは、「痛いだろうなぁ、悔しいだろうなぁ」と思います。でも、「ステファノは平気だ」と、そのようによく言われます。事実そうでした。彼は、「天が開け、神さまの栄光」を見ることができたのです。痛みなどを凌駕した彼の心には、平安と命と喜びが満ちていました(使徒言行録7章56~60節)。このことからも「十字架につく」ことが、どのようなことかがわかります。「十字架につく」とは、「わたしが痛みを負うのではなく、キリストにわたしが負われている状態にある」ということです。「全面的にキリストに負われる」ことが、「十字架につく」ということです。ヨナが自分の十字架を背負ったとき(3節)、それはヨナが十字架を背負っていたのではなく、キリストがヨナを背負っていたのです。ですから、その時のヨナは全く違った者とされていたのです。

しかし、伝道している間に、ヨナの心に変化が起こりました。それは、ヨナが十字架を背負う立場にたってしまったのです。「足跡」※2という有名な詩の逆になってしまったのです。伝道していると、わたしたちはいつの間にか、自分でキリストを背負っていることがあります。それは、「『みことば』に対し、自分で責任を取ろうとしてしまう」ということです。「あなたもあなたの家族も救われる」このみことばにより、「家族がまだ救われていない、わたしが何とかしてこの家族を救わなければ、証しを立てなければ、これをしなければ、あれをしなければ」と、自分自身で何とかしようともがいてしまいます。これが「自分でキリストを背負っている」状態です。また、病床にある場合などは、なおさらキリスト御自身に自分を背負っていただかなければならないのですが、「このように困ったときにこそ、いい証し人にならなければ、苦しくても喜んでいる姿を訪問してくる人たちに見せなければ」と一生懸命やってしまいます。これも、自分でキリストを背負っていることになります。自分でキリストを背負うと、不平不満が出てきます。たとえば、自分が積極的に動き、教会で新しい方を受け入れたとします。受け入れたときには「キリストがこの人を愛し、キリストが責任を取ってくださる」と思い受け入れたはずなのですが、いつの間にか「その責任は自分でとらなければいけない」という思いが芽生え、一生懸命やればやるほど思い通りに事が運ばず、不平不満が出てしまう、ということになってしまいます。いつのまにか自分の責任であるかのように、それを持ち運んでしまうのです。

すなわち、宣教とは、「キリストがわたしを負ってくださる」ことであり、伝道とは、「キリストに負われる立場に自分をおく」ということです。イエスさまは、「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マルコによる福音書10章45節)と仰いました。それは、救われる前も、救われた後も、霊のクリスチャンになった後でも変わることのない真理であり、「神さまに背負っていただかなければならない」ということです。それをヨナは、いつのまにか「自分で神さまを背負い、みことばの責任を自分でとり、そして自分でどうにかして…」と頑張ってしまいました。神さまを背負ったヨナの心には、不安が芽生え徐々に大きくなっていきます。そんなとき神さまは、ニネべの人々が悪の道を離れたのをご覧になり、災いを下すのをやめられました。ヨナにとってみれば、「やっぱり…そうなると、思っていたんだ!」と、今までの心の中での葛藤も努力も、全く意味のない不必要なことだったとわかり、ヨナの口から不平不満が出てきます。ですから、いくら素晴らしい御業が起こっていたとしても不満しか出てこないのです。

聖書にはこの後の記述はありませんが、おそらく神さまは、「ヨナよ、自分の立場に戻る必要はないんだよ」と言っておられるのではないでしょうか。ヨナは、「ああ、わたしは神さまに担われたからあんなこともできた。そして、担われている自分はなんて素晴らしいのだろう。こんな御業を見ることができるとは…私はなんて幸せだろう…」と、感嘆の声をあげたに違いありません。

ヨナ書 完

※1ステファノはギリシャ語を話すユダヤ人であり、初代教会において彼はヘレニストの代表であった。初代教会においてヘブライ語=ユダヤ語を話すユダヤ人(ヘブライスト)とヘレニストの間に摩擦が生じたため、問題解決のために使徒たちによって選ばれた7人(他にプロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、ニコラオ、フィリポ)の一人である。ステファノは天使のような顔を持ち、「不思議な業としるし」により人々をひきつけたため、これをよく思わない人々により訴えられ、最高法院に引き立てられた。そこでもステファノはユダヤ人の歴史を引き合いにしながら「神殿偏重に陥っている」とユダヤ教を批判したため、ファリサイ派により石打ちの刑に処せられた。この場にサウロ(後のパウロ)が立ち会っていたという。(使徒言行録6章~7章)

Wikipediaより抜粋

※2ある夜、わたしは夢を見た。神さまと二人並んで、わたしは砂浜を歩いていた…

砂の上に、二組の足あとが見えていた。一つは神さまの、そして一つはわたしのだった…

しかし、最後にわたしが振り返って見たとき、ところどころで、足あとが一組だけしか見えなかった…

「わたしの愛する子どもよ。わたしは、けっしてお前のそばを離れたことはない。お前がもっとも苦しんでいたとき、砂の上に一組の足あとしかなかったのは、わたしがお前を抱いていたからなんだよ」

マーガレット・F・パワーズ

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