キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ヨシュア記 第1章

1章1節

主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた。

聖書において、「ヨシュア記」は、モーセ五書の次に位置します。ヨシュアは、偉大な指導者モーセの従者でした。

モーセに与えられた使命はイスラエルの民をエジプトから導き出し、シナイ山で神を礼拝させることでした。そしてヨシュアに与えられた使命(神の御心)は、そこからさらに進んで「広々としたすばらしい土地、乳と密の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所(カナン)へ彼らを導き上る」(出3章8節)ことでした。

モーセに率いられたイスラエル民族は、ファラオ(世の支配者)が支配するこの世なるエジプトから子羊の血(過越しの祭り)によって脱出しました。彼らは荒れ野に導かれ、神を礼拝するために律法と儀式を与えられました。そしてモーセの死後、ヨシュアに率いられた民は荒れ野にとどまらず、父祖アブラハムに約束された「カナン・神の国」を獲得するためにヨルダン川を渡りました。このことは、教会と神の子一人ひとりに対する神の啓示でもあります。

友よ。あなたは罪から救われ、神を礼拝しています。しかし、あなたが神の子の命を持っていても、肉に属するクリスチャン状態ならば、荒れ野でモーセに反抗しエジプトを慕った民と同じです。荒れ野にとどまってはなりません。ヨルダン川(肉の死・自分の十字架)を渡り、聖霊の支配の中に進まねばなりません。

1章2節

「私の僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、…人々に与えようとしている土地に行きなさい。」

神は、カナン一帯を一望できるピスガ山頂にモーセを導き、「あなたはしかし、そこ(カナン)に渡って行くことはできない」と言った。と聖書は記します。モーセは「百二十歳であったが、目はかすまず、活力も失せてはいなかった」とあり、また「今日に至るまで、だれも彼らが葬られた場所を知らない」(申34章4~7節)とも書かれています。

一連の記事から、モーセは死んだのではなく使命を果たし終えたのだと理解できます。一国の歴史における指導者の交代に永遠の意味はありません。それらはただの「幸運」「時の流れ」「偶然」であり、あえて理由を探すならば、人間の自己中心こそが最大の理由です。そこに歴史の主人である真の神はいません。

しかし、モーセからヨシュアへの引き継ぎは、今までの状態から次の状態へと導く、神の永遠から永遠への御計画の中にありました。歴史の意味は、神が登場した時に正しく分かります。 

友よ。あなたはエジプトから救い出され、荒れ野に導かれています。そして、これからどこへ行けばいいのかを教えてくれるのは、モーセからリーダーを引き継いだ指導者ヨシュアです。あなたを導くリーダーはモーセ(律法)からヨシュア(恵み・イエス)へと代わらねばなりません。モーセからバトンを受け取ったヨシュアこそ、あなたがこれから従っていく主イエス御自身です。

1章3節

「モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。」

神は、モーセに与えた使命をヨシュアに引き継がせました。そのことは、主イエスが三人の弟子を連れてヘルモン山に登られた時の光景が啓示しています。

そこではモーセとエリヤが現れ、主イエスと語り合っていました。モーセは律法を、エリヤは旧約の預言全体を、それぞれ代表する存在でした。この時の三人の会話は、どのようなものだったのでしょうか? (以下は推測)

モーセ
「主よ、私はあなたから預かった律法を皆に知らせました。それを成就するのは、これからあなたが進まれる十字架です」 
エリヤ
「主よ、私たちが語ったのはあなたのことです。どうぞ、あなたの十字架によって救いを成就してください」
イエス
「エリヤよ、私はあなたの預言どおり今ここにいる。モーセよ、私は律法の一点一画すべてを成就させるためにこれから十字架に進み、復活し、私を信じる者に命を与える。あなたたちの今までの働きを感謝する」…すると二人は消え、主だけが残りました。(マタ17章1~8節参照)

友よ。律法(モーセ)と預言(エリヤ)はイエスによって成就しました。「ヨシュア」という名は「主(ヤーヴェ)は救い」という意味であり、これは「イエス」に通じる名でした。このことは、「モーセ(旧約)からヨシュア(新約)へ」を意味します。モーセとエリヤに語られたことを成就する主イエスは、今、あなたと共におられます。

1章4節 ①

「荒れ野からレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる。」

神は、モーセからリーダーを引き継いだヨシュアに、彼がこれから行うべきことを指示しました。それは、大河ユーフラテスに至る全地を領土とすることでした。

これは、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マコ16章15節)、また、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らを父と子と聖霊の名によって洗礼を授け…なさい」(マタ28章19節)との御命令でもありました。神の御心は、この世を神の国にすることです。

神の国とは、神に支配されている所です。「『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17章21節)とあるように、最初の神の国は個人の中に来なければなりません。次に、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」とあるように、神の国は神の家族の中に実現します。

友よ。この御命令はヨシュアにだけでなく、あなたにも下されています。ある伝道者が、「家族伝道とは自分自身への伝道である」と言ったとか。それは自分自身が神に支配されて生きることです。あなたが神に服従するとき、神があなたを用いて、家族へ、そして周りの人々へと神の国を広げてくださいます。

1章4節 ②

「荒れ野からレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる。」

神はヨシュアに、「必ず神の国を与える」と宣言されました。同じく、神はすべての神の子たちにも神の国を約束しておられます。ところで、どこに神の国の現実を見るべきでしょうか。

神の国は「あなたがたのただ中に」「二人、三人がわたし(キリスト)の名によって集うところに」「キリストの体なる教会に」ある、と言えますが、それ以上に確かな神の国は、主イエス御自身の中にあります。

そして主は、「わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところに来た」(マタ12章28節)とも言われました。しかし、この世では神の国は小さく見えます。人の世界は支配者たちの権力や武力や財力によって牛耳られており、どこに神の国があるのか探せないほどです。

神の約束よりも現実を見て憂える友よ。主イエスを私たちの中にお迎えする以上に、私たちが主の中に入って生きるところに、神の国はあります。そこは、自分ではなくイエスを主として生きるところです。さらに、みことばを自分で解釈するのではなくみことばに自分を解釈させるところです。そのようなところは、どこであっても神の国(バシレイア・支配)です。神に支配されたあなたの行くところ、そこも神の国です。

1章5節

「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はない…。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」

上述のみことばは、「神の国を獲ってゆくためには、次々と起こる戦いに勝利せねばならない」という意味に思えます。確かにその要素もありますが、戦いの根本的要素は反対方向にありそうです。

神の国を獲るための戦いとは、私たち自身の戦いではなく主の戦いです。エジプトのファラオに打ち勝った過越の祭は、主御自身の十字架による戦いでした。さらに、葦の海を二つに分けて民を解放したのも、荒れ野で四十年の間パンと水を絶やさずに民を養ったのも、主の御業でした。

モーセが民を導き出すための戦いとは、彼が神の力を受け取って戦うことではなく、彼が「主の中にとどまり続ける」ことでした。霊の戦いにおいては、悪霊に向かって宣言する以上に、自分自身が主の中に入り続けることこそが重要です。

友よ。一枚の絵があります。そこには、聖餐式の机の上に立っている一頭の雄羊が描かれていて、周りに描かれた人々はその雄羊に目を注いでいます。しかしその雄羊をよく見ると、心臓から血が噴き出ており、聖餐式の時に用いるカップがその血を受けています(ファン・エイク兄弟作『ヘントの祭壇画』)。血を流している雄羊なる主イエスは私たちに語りかけています。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。もろもろの敵と戦うのはあなたではなくわたしだ。あなたの戦いは、十字架上で血を流し勝利したわたしの中にとどまることだ」と。

1章5~6節

「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。」

神はモーセを召し、導き、勝利させてくださいました。そして今、ヨシュアを召した神は、モーセと同じようにヨシュアにも勝利を得させる、と言います。

人は、天国に入るまでに二つの大きな戦いを経験しなければなりません。最初の戦いは、ファラオに支配されたこの世から出る戦いであり、原罪から解放されるための戦いです。それは、神の民が四百年捕われていた世(エジプト)と死(罪の束縛)からの解放でした。

エジプトから出るときの勝利は、一人一人の民が戦っての勝利ではなく、神の僕モーセの信仰による勝利でした。それは、主イエスが来臨し、彼一人が十字架で戦ってすべての人の罪を滅ぼし、死に勝利されたことに通じます。エジプトを出た民の次の戦いは、荒れ野から出てヨルダン川を越え、カナンを征服することでした。それは、すでに勝ち取られた勝利を自分の中に、家族の中に、遣わされたところに広げる戦い、すなわち「聖別」の戦いです。

友よ。あなた自身もヨシュアです。モーセが直面した戦いは、絶大なマイナス(罪と死)をゼロ(無力))にするものでした。あなたの戦いは、ゼロをプラスにする、神の子の命を豊かにするための戦いです。もうすでにマイナスは消されたのですから、恐れず、強く、雄々しく立ち向かってください。

1章6節

「強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる…。」

「がんばれ! 雄々しく! 強くあれ!」とエールを送るのは誰でもできるとしても、どこをどうがんばり、どう雄々しくせねばならないかを具体的に教えてくれる人はいません。

罪と死の地エジプトから大勝利して脱出した民でしたが、荒れ野での生活は敗北に近い歩みでした。同じく、原罪から解放された神の子たちも、多くはイスラエルの民のように敗北に近い信仰生活を送っています。社会という壁や教会自体の問題もありますが、最大の原因は「神の子たちが真理を学んでいない」ことではないでしょうか。「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハ8章32節)ことができます。

神の子たちは、律法(荒れ野)から福音へ進む道(真理)を知らねばなりません。律法が教えるのは「人は神に対して何ができるか」であり、福音が教えるのは「神は人に何ができるか」です。神の子として生きるための真理を身に着けるより前に、献金・奉仕・伝道などを要求されることは、霊の命を弱らせます。また、恵みを強調する福音もバランスを欠きます。

友よ。律法は、神の子たちを福音へ進ませるために必要不可欠な神の恵みです。律法から恵みに進むキーポイントは、「自分の十字架を負う」(マタ10章37~39節・マコ8章34~38節・ルカ9章23~26節)ことです。律法はあなたに罪を示すことによって、あなたを徹底的に主イエスへの依存へと導きます。主イエスに依存するとき、イエスがあなたの中で主権を得て行動します。それが福音です。

1章7節

「ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。」

上の言葉を、「律法を守り、ただひたすら神に従えば、大きな祝福を得る」という意味に受け取ってしまうと、律法主義に陥ります。この励ましは、「真理に対して雄々しく忠実であれ」という意味に受け取りたいものです。

「ところが今や、律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(ロマ3章21節)と聖書は言います。律法と預言者が不要なのではなく、むしろ律法と預言者によって、神の義である「福音」が表されたということです。

神の義とは、自分の力で律法を守ることではありません。むしろ、自分の力では守れないこと(自分が罪人であるということ)を律法によって最初に知ることです。すると、「わたしが来たのは律法や預言者を…廃止するためではなく、完成するためである」(マタ5章17節)という主イエスのみことばが聞こえてきます。

友よ。「どこに行っても成功する」秘訣は、自分の中に主イエスを取り込むことではありません。それだと、自分が神を用いることになります。そうではなく、罪も欠点も恥も弱さも持ったまま、主イエスの中に飛び込むことです。主の中に飛び込むことに「強く、雄々しく」あるべきです。それが、神があなたに与えた戒めです。あなたが神を用いるのではなく、神にあなたを用いていただくのです。

1章8節 ①

神は、ヨシュアを祝福すると約束しましたが、条件も提示しました。それは、「善い行い」に関するものではなく、「みことばに対する姿勢」に関するものでした。

ある信仰の人いわく、「聖書を読まない強い信仰者も、みことばへの服従なき強い信仰者もいない。信仰は、みことばに対する服従である」と。まさに、「律法の書をあなたの口から離すことなく(みことばを読み)、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい(みことばに服従せよ)」と書かれている通りです。

信仰とは、神に私の願いや計画を実現していただく打ち出の小槌ではなく、むしろ神が私に願うことが実現することです。よって、「あなたの願いを神に叫び続けよ」ではなく、みことばを「口から離すことなく、昼も夜も思い続け、それに従え」となります。

さらに友よ。「そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する」というみことばの意味も取り違えてはなりません。私たちの幸福は、自分の願いが実現することではなく、神の御心が自分に成就することです。したがって、ヘブライ人への手紙11章1節は、「信仰とは、『神が私に』望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」となります。

(注)『 』は筆者加筆

1章8節 ②

「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。」

みことばを忠実に守る信仰によってあなたは成功する、と神は言われました。しかし、「信仰」ほど解釈が多様な言葉はありません。「イワシの頭も信心から」に始まり諸宗教に至るまで、「信仰」の理解は千差万別です。

先に、「信仰とは『神が私に』望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです(ヘブ11章1節)」(注・『 』は筆者加筆)と記しました。こう表すことで、諸宗教の信仰と区別できます。

諸宗教の信仰とは、自分の願いを遂げてくれる神に祈り、実現させることです。ここでの主役は自分であって、神ではありません。しかし聖書の信仰とは、「私が願うこと」ではなく「神が私に願うこと」を聞き、それが自分に成就されるのを祈ることです。もちろん、神の願いと人の願いは違うので、自分の願う心を制して神に服従せねばならず、そこに霊的戦いが起こります。

友よ。信仰とは、行って自分の欲しいものを取り出す神の倉の鍵ではなく、神があなたに差し出す手紙(御心)を受け取る私書箱の鍵です。神は毎日必ずあなたに手紙(聖書)を送っていますが、読む・読まないはあなたの自由です。また、読んだ後にその手紙を捨てることもできます。しかし、それを読んで御心を受け取り祈るならば、その手紙の内容を実現してくださるのは神です。神こそ、約束を守られるお方です。

1章9節

「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」

神は二度も「雄々しくあれ」と言ってヨシュアを励まします。その励ましは、「あなたがどこへ行ってもあなたの神、主は共にいる」という神の約束でした。

聖書に登場する人々が求め、今日の私たちも求めている救いとは、病のいやしや悪霊からの解放や経済的問題や家族の問題などの解決を超えて、「神が共にいてくださる」ことです。

主は族長ヤコブと(創26章24節)、ヨセフと(39章3・21・23節)、イザヤと(イザ41章10節)、共におられました。ダビデも主と共にいることを願いました。「主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまる」(詩23・6)。そして、主の昇天前の最後の言葉も、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28章20節)でした。人の救いとは、問題が無いことではなく、「問題を解決できるお方と共にいる」ことです。

友よ。「雄々しくあれ」は命令でした。神がそう命じたのは、私たちが雄々しくできる根拠を神がお持ちだからです。神は「その独り子をお与えになったほどに(御自分の愛する独り子を捨てるほどに)」私たちと共にいてくださるお方です。主イエスは十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びました。そうです、神はあなたの罪のその中にも共にいて、「父よ、彼らを赦し給え」と叫ばれるお方です。

1章11節

「…おのおの食糧を用意せよ。あなたたちは、あと三日のうちに、このヨルダン川を渡る。あなたたちの神、主が得させようとしておられる土地に入り…。」

イスラエルの民がエジプトに滞留していた間、カナンの地にはいくつかの民族が住み続けていました。その地に攻め込む準備をせよ、と神は命じますが、準備期間は「三日」だと言います。

ヨルダン川を渡った先にいる敵には、人の力で勝利することはできません。勝利できるとすれば、それは神御自身に戦っていただく時だけです。その神に自分をゆだねない心こそ本当の敵、肉という敵です。戦う前の三日間は、敵と戦う武器を用意する期間ではなく、むしろ自分の中に住む敵に対する準備の期間です。

「三日」は聖書の大事な所に登場します。アブラハムがイサクを献げるまでの道のりは三日かかりました。神から逃げたヨナは三日三晩魚の腹の中にいました。何よりも、主御自身が十字架の後、三日間墓の中に置かれました。三日の準備とは「死ぬ覚悟」です。ヨルダン川こそ、「自分の肉に死に、神の霊に生きる」場所であり、「死ぬ覚悟(三日)」がなければ渡ることはできません。

友よ。あなたの勝利とは、主と一体になることです。なぜなら、「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きる」(ロマ6章8節)からです。霊の戦いとは、「①自分ではできない →②だから主に依存する→ ③そして主に勝利していただく」ことです。主イエスに継(つな)がり続けることこそが、根本的な信仰の戦いです。

1章12~13節

「ヨシュアは、ルベン人、ガド人、マナセの半部族に告げた。「主の僕モーセが命じた言葉を思い起こしなさい。」

十二部族の中のルベン人、ガド人、マナセの半部族の人々はモーセに、「わたしたちが恵みを得ますならば、この土地を所有地として、僕どもにお与えください。わたしたちにヨルダン川を渡らせないでください」(民32章5節)と約束させていました。彼らは神の命の道から外れようとしています。

神が与えたいヨルダン川の向こうにあるカナンの地とは、聖霊に支配された神の子の生活です。彼らはエジプトでは罪の奴隷でしたし、ファラオと死から解放された後の荒れ野での四十年間はなお肉に負けている神の子でした。

新約聖書全体が伝える命令は、①神の子となれ。②聖霊に満たされよ。③互いに愛し合え。④全世界に出て行って福音を伝えよ。……の4つに要約できます。

そして①~④の順番は大事で、②である「ヨルダン川を渡ってカナンを得る(聖霊に満たされ・支配される)」があってこそ、次にキリストの体である教会の建設へ、さらに世界伝道へと進むことができます。

エジプトから脱出した友よ。あなたは荒れ野(神の子であるのに肉に支配された場所)にいつまでもとどまろうとしていませんか。今あなたが神と約束していることは、あなたが神に押しつけた約束ではありませんか。神に押しつけた約束でも神は受け入れますが、それは神があなたに一番に与えたい祝福ではなく、二番目のものです。常に一番目の祝福にあずかってください。

1章14節

「モーセがあなたたちに与えたヨルダン川の東の地に妻子と家畜を残し、あなたたち、勇士は皆、隊伍を整え、同胞たちに先立って川を渡り、彼らを助けなさい。」

ヨルダン川東岸に領地を求めた部族へのヨシュアの言葉は、彼らに与えたい第一の祝福の言葉ではなく、不本意な第二の祝福を授ける言葉でした。同じに見える祝福の言葉でも違いがあります。

神が人に最も与えたい祝福は、「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(ロマ6章22節)の中にあります。このみことばから、神の賜物とは、①「主キリスト・イエス御自身」と、②「永遠の命(主イエスの恵み)」のことだと言えます。

「神を信じて約束の土地を得る」は第二の恵みです。第一の恵みは、神の恵みを得ることではなく、「恵みの与え主である主イエス御自身との『継がりと交わり』を持つ」ことです。それは、川向こうの土地を得ることではなく、川を渡り敵と戦うことであり、まことの神をさらに深く大きく受け取ることです。

友よ。「聖霊に満たされなさい」との命令の目的は、満たされることそのものではなく、それによって主イエスとより深く親しく交わることです。聖霊の満たしは、主イエスの御人格に結びつくための手段であって、目的ではありません。川の東側に土地を求めた部族は、キリスト御自身を求めずにキリストの恵みを求めた人々でした。キリストの恵みであってもそれはやがて消えます。いつまでも残るものはキリスト御自身です。

1章15節

「あなたたちはその後、主の僕モーセがあなたたちの領地としたヨルダン川の東、すなわち太陽の昇る側の土地に帰り、それを得なさい。」

ルベン人、ガド人、マナセの半部族がモーセと交わした約束は、家族を置いてヨルダン川を渡り、他部族を助けて戦い、戦いのめどがついた時に、家族の待つ川の東側に戻って来ることでした。そもそも、彼らがカナン定住を拒んだ理由は、「おびただしい数の家畜を持っていた。そこ(ヨルダン川東側)は家畜を飼うのに適した所であった」(民32章1節)からでした。

彼らの目的は、神の最大の賜物である「イエス・キリスト御自身」よりも、主から受け取る「恵みなる家畜」になっていました。神が彼らをカナンに導いて与えたい恵みは、約束の土地と経済的繁栄ではなく主イエス・キリスト御自身であることが、彼らには分かっていませんでした。

これは聖霊の賜物とその実についても同じことです。人の目に魅力的に映るのは御霊の実(人格・命)よりも賜物(業・働き)ですが、賜物を優先すると実を失います。しかし、実を求めると賜物が生きて働きだします。

ルベン人、ガド人、マナセの半部族になっている友よ。信仰の目的は、健康でも家族の平和でも豊かさでもありません。たとえば家族は大事ですが、それはあなたがより深く主イエスと継がり交わるために備えられた恵みであり、命そのものではありません。恵みを優先する信仰は主イエスを見失います。しかし主イエス御自身を求める信仰は、主が持っておられる恵みも受け取ります。

1章16~18節

彼ら(ルベン人、ガド人、マナセの半部族)はヨシュアに答えた。「我々は、御命令を行います。遣わされる所にはどこへでも参ります。…どうぞ、強く、雄々しくあってください。」

彼らの勇ましい決意に「アーメン」と唱和してしまいそうですが、神はとても心を痛めています。神の痛みは、彼らが将来つまずくと分かっているのに手を出せない、「悲しい愛」です。

神の恵みは、神の御心(カナンを与える)を知り、御心への信仰を持ち(モーセが命じた律法を守る)、服従する(立ってヨルダン川を渡る)ことによって成就します。しかし、神はこれらを人に強要することはできません。神自らが「愛」ですから、人の愛の応答を待たねばなりません。ルベン人、ガド人、マナセの半部族は御心を知り信仰を持っていましたが、服従はしていませんでした。

士師デボラは、「ルベンの諸支族に…なぜ、あなたは二つの鞍袋の間に坐して、羊の群れに吹く笛を聞くのか」(士師5章15~16節)と言いました。ロバの鞍袋の片方には神の御心、もう一方には自分の願いが入っています。彼らの姿は、ヨルダン川の東側(自分)と西側(神)の両方に足をかけて、川をまたいで立っているかのようです。これぞ「不釣り合いな軛」(Ⅱコリ6章14節)です。

友よ。このことについてパウロは、「正義と不法…光と闇…キリストとベリアル…信仰と不信仰に何の関係がありますか」(同14~15節)と問いかけます。ルベン人、ガド人、マナセの半部族のように指導者や共同体に対して「強く、雄々しくあってください」と勇ましく振る舞うのではなく、あなたが神に対して潔い神の子となってください。

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