キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ヨシュア記 第13章

13章1節

ヨシュアが多くの日を重ねて老人となったとき、主は彼にこう言われた。「あなたは年を重ねて、老人となったが、占領すべき土地はまだたくさん残っている。」

ヨシュアは、エジプトで奴隷として四十年、荒れ野でモーセの従者として四十年を過ごしました。さらに、モーセからリーダーを引き継いでから七年(?) 過ぎたとすれば、彼は九十歳に近づいていることになります。しかし神はヨシュアに、「占領すべき土地はまだたくさんある」と語ります。

先に、「この地方の戦いは…終わった」(11章23節)とあるのに、「占領すべき地はまだたくさんある」とはどういうことでしょうか。それは、「第一の仕事は終わったが、第二の仕事が待っている」という意味です。第一の仕事は、キリストの来臨、教え、奇跡、十字架、復活、昇天によって終わりました。主が十字架上で「成し遂げられた」(ヨハ19章30節)と叫ばれたのが、このことです。事実、神の御業により、三十一人の国と王たちは神のものにされています。

主が、罪人であった者に与えた第一の仕事は完璧なものでした。そして、主が成し遂げたことを、人が信仰によって受け取ることが第二の仕事となります。

友よ。あなたの信仰年齢は何歳ですか。乳を飲む幼子ですか。固い食物を食べ善悪を見分ける大人ですか(ヘブ5章11~14節)。「父たちよ」(Ⅰヨハ2章14節)と呼ばれる成熟した者ですか。あるいはヨシュアのような老人ですか。神の子に肉体の年齢は関係ありません。なぜなら、床の上で祈るだけでも、神の恵みを受け取ることはできるからです。

13章1~2節

主は彼にこう言われた。「あなたは年を重ねて、老人となったが、占領すべき土地はまだたくさん残っている。残っている土地は次のとおりである…。」

神はヨシュアに、これから獲るべき土地を示します。これは現在のイスラエル国の領土とほぼ同じです。神の言葉は事実となっていきます。なお戦いは続きますが、それは第二の戦いです。

第一の戦いは、神御自身が十字架上で「成し遂げて」くださった御業の数々でした。しかしそれは「決定的な勝利」ではあっても、「最終的な勝利」ではないことを知らねばなりません。なぜなら、主は彼の大能をもって君臨していますが、人々がそれを十分に受け取るか否かは、各自の信仰にかかわっているからです。主が備えた恵みは、人間の側の意思と行動、すなわち信仰によって受け取らねばなりません。

愛の業に強制はなく、各自の自由な判断にゆだねられています。それが第二の戦いであり、民がヨシュア(主イエス)によって占領された地に定住することです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなた方は行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタ28章18~20節)。

友よ。神はあなたが獲るべきところ(家族・友人・知人……)を定めておられます。ヨシュアのように、年を重ねたからこそできることが多くあります。

13章2~4節

「占領すべき土地はまだたくさん残っている。残っている土地は次のとおりである。ペリシテ人の…エジプト東境のシオル…カナン人の土地全域…。」

神は、御自分が決定的勝利(十字架と復活)で獲たものをより多く獲得せよ、と言います。 この、土地を獲る第二の戦いとは何でしょうか。

各自の内側を聖霊に支配される戦い
主の勝利によって、信じる者に神の国(命)は来ていますが、なお「肉」に包囲されているところが多くあります。それを打ち破り、聖霊に支配されることです。これは自分を愛する戦いでもあります。
自分の周りに置かれた人々を神の国に導く戦い
最も近い隣人は、家族と、日頃かかわる人々です。隣人を愛するとは、彼らにイエスを紹介し、イエスを主として受け入れてもらうことです。
日本と世界を神の国にする戦い
日本のクリスチャン人口は一パーセントに及ばず、37万㎢ある国土の3700㎢以下しか神の国となっていません。もっと領土を広げ、さらに世界へ!

「みことばを宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさ。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く十分に教えるのです」(Ⅱテモ4章2節)。

主の兵士なる友よ。神の国はイエス個人から始まりました。まずはあなたの内側を聖別し、あなたが小さなキリストになることです。家族伝道は、まず自分自身への伝道からです。それが必ず、家族へ、そして世界へと広がります。

13章6節

「わたしは、イスラエルの人々のために、彼らすべてを追い払う。あなたはただ、わたしの命じたとおり、それをイスラエルの嗣業の土地として分けなさい。」

イスラエルの歴史を見ると、神が「獲れ」と命じられた所を実際にすべて領土にできたのは、二百年後の、ダビデによるイスラエル王国統一の時でした。

ヨシュアの時代からダビデの時代まで時間がかかったことの意味はなんでしょうか。例えるなら、ヨシュアの時に領土の制空権を握った、と言えます。しかし、制空権を得ても、地上の町々は誰かが行き支配せねばなりません。それを実現したのがダビデでした。同じように、主イエスが来られ、十字架と復活により罪とサタンに勝利し、支配権を確立しました。しかし、実際にそこに行って支配する人が必要です。ここから、神の子たちの第二の戦いが始まります。

最終的に世界が完全な神の国になるには、キリストの再臨を待たねばなりません。その再臨のキリストを、ダビデによる王国統一が啓示しています。領土獲得がヨシュアによって始まりダビデによって完成したことは、キリストの来臨とその後の再臨による神の国の完成の予型です。

神に招かれた友よ。神の国は主イエスの来臨と御業によって始まりました。しかし、だから指をくわえて待っていればよい、とはなりません。あなたは、あなたに分けられた土地に遣わされ、戦い、それを獲るようにと命じられています。その使命を果たす戦いをすることで、あなたが神の国に深く根付いていくのです。そして、最終的完成は御国に召されてからになります。

13章6~7節

わたしの命じたとおり、それをイスラエルの嗣業の土地として分けなさい。この土地を九つの部族とマナセの半部族に嗣業の土地として配分しなさい。

神は、カナンの土地を各部族に分配するようにと言いました。分けられた土地を部族ごとに獲り、それらが合わされて王国(神の国)となります。

神の国がつくられるために最初に必要なのは、「主のしもべたち」、すなわち「良い人材」です。次に必要なのは、それを達成するための能力と技術である「賜物」です。

初代教会の時代においても今日においても、神の国を作るのに一番必要なものは、「ヨルダン川を渡った人々」、すなわち「聖霊に満たされた人=支配された人」(エフェ5章18節)です。次に、目的を達成する能力がないと、キリストの体の建設は現実的に進みません。その能力こそ、「聖霊の賜物」(Ⅰコリ12章参照)です。聖霊の「満たし」はその人をつくり、「賜物」は教会をつくります。

良い人材(聖霊に支配された人)と能力(聖霊の賜物)を持つ人々が多く集められ組み合わされるならば、神の国はより早く、大きく、堅固に実現します。

友よ。神はカナンを各部族に割り当てられました。キリストの体も、一人ひとりが聖霊に支配され、賜物が組み合わされて実現します。あなたが聖霊に満たされることは全体の益になり、他者が神の国を獲ることはあなたの益にもなります。世界に教会は一つだけです。「一人一人に、『霊』の働きがあるのは、全体の益となるためです」(Ⅰコリ12章7節)。

13章8節

マナセの半部族…ルベン人とガド人は、ヨルダン川の東側にモーセが彼らに与えた嗣業の土地を既に持っていた。それは、主の僕モーセが彼らに与えたもので、

イスラエルの十二部族の中で、ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、ヨルダン川の東側に領地を得ていました。そこは、最初からの神の御心の土地ではなく、彼らが強く欲した土地でした。

愛である神は、人を御自分の御心に強制的に従わせることはできません。愛は自由意志の下に成り立つからです。神の子であっても、ヨルダン川を渡らずにいるならば、肉の力によって歩まねばなりません。彼らに割り当てられた嗣業の地を獲るためには聖霊の力が必要でしたが、彼らはそれを肉の力で獲ろうとしています。結局、十二部族の中で、割り当てられた嗣業の地を最初に失ったのは、東側に残ったルベン族、ガド族、マナセの半部族でした。

故F・Bマイヤー師は、「私たちの魂は、まずキリストによって所有される。すると、キリストを所有し始める」と言いました。「キリストに所有される」とは、ヨルダン川を渡る経験、聖霊の満たしのことです。それでこそ、神の嗣業を受け取ることができます。

愛する友よ。あなたの信仰姿勢は、「恵みを得てキリストを得る」ですか、それとも「キリストを得て恵みを得る」ですか。もちろん、恵みを多く得るのは後者です。神の恵みは、もろもろの恵みではなく、「わたしたちの主イエス・キリスト…」(ロマ6章23節)御自身です。主を求めてください。恵みは後からついてきます。

13章14節 ①

レビ族には嗣業の土地は与えられなかった。

占領地を嗣業の地として各部族に分配することになりましたが、レビ族への嗣業の土地はありませんでした。嗣業に関して、十二部族は三つのグループに分かれました。

  1. 自分で要求して得る部族
  2. 自分の要求を超えて、神から割り当てられる部族
  3. 割り当てのない部族

このことから、信仰者の三つの姿を見ます。

1.は「幼い神の子」

自分の願いを神に認めさせ、自分を通す人。しかし、東側の荒れ野にとどまってはならず、ヨルダン川を再度渡り、カナンに戻らねばなりません。

2.は「成長した神の子」

自分の願いを超えて、今置かれている現実(家族、伴侶、経済的現実、能力など)を、神からのものとして受け止め、そこを神の支配下にしようと祈り続ける人。

3.は「神のしもべ」

「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(ヨハ21章18節)とあるように、神に自分を服従させ、自分の十字架を負うことができる、成熟した人。

友よ。「幻がなければ民は堕落する。」(箴29章18節)とは、「信仰の目標がない人は荒れ野に戻る」とも言えます。レビ族は、神を所有するために、地上の所有が許されませんでした。「行きたくないところへ連れて行かれる」ことこそ、神を最も多く所有することではないでしょうか。

13章14節 ②

レビ族には嗣業の土地は与えられなかった。主の約束されたとおり、イスラエルの神、主に燃やしてささげる献げ物が彼の嗣業であった。

神は、信者も未信者もすべての人を愛しています。エジプト、荒れ野、カナンのいずれも神の所有地です。しかし、エジプトと荒れ野にいつまでもとどまり続けることは神の御心ではありません。

神を信じた者たちはエジプトから荒れ野に入り、そこからカナンに移り、そこで嗣業(主から与えられ受け継ぐべき財産、土地など)を与えられます。

しかし、さらにもう一歩進んだ嗣業があることを、レビ人の存在から教えられます。それは、この世に嗣業を持たず、専ら神に仕えるという嗣業です。アイデンティティーとしての「レビ族嗣業」は、物理的な物や賜物といった嗣業以上に大切です。それは、会社員や主婦や学生といった立場や年齢、家族の有無にかかわらず、主に仕えることを自分の本業とする人の姿です。

レビ族が神から受ける恵みは、「主に燃やしてささげる献げ物」でした。それこそ、祭壇に供えられる「屠られた神の小羊イエス」です。主イエス・キリストを嗣業とすること以上の祝福はありません。

友よ。ある多くの子供を持つ家庭が、「我が家はレビ族です」と言って子供たちを育てました。子供たちは、レビ族スピリットをアイデンティティーとして育ち、神の子であるだけでなく、主に仕える者たちになっています。あなたもレビ族であることを忘れないでください。

13章24~32節

ルベン族…ヨルダン川の東側地域であった。…ガド族…ヨルダン川の東側である。…マナセの半部族…ヨルダン川の東側にあるモアブの平野…の土地…。

聖書は、カナン征服の区切りがついて後、荒れ野に戻ったルベン族らについて、ことのほか「ヨルダン川の東側である」ことを強調するかのように記しています。

「聖霊の賜物」を求める神の子たちも多くいますが、賜物より大事なのは「聖霊の実」です。「聖霊の実」によって「聖霊の賜物」がより良く生かされ、「聖霊の賜物」によって「聖霊の実」を結ぶ、と相乗効果が生まれることは事実です。しかし、優先順位が高いのは「聖霊の実」の方です。東側に戻った部族は賜物を求めることを優先しました。聖霊の実は、ヨルダン川を渡った西側、カナンにあります。聖霊の実とは、聖霊に支配されること、キリストの人格に似ることです。

そこから、聖霊の実とは「主御自身を持つこと」、聖霊の賜物とは「主の恵み(御業)を持つこと」とも言えます。ルベン族らには、「西側で嗣業が何もなくても、東側に戻らないで欲しかった」と言いたくなります。なぜなら、聖霊の実がないと、聖霊の賜物は失われるからです。事実、東側の人々は、誰よりも早くその存在を失いました。

友よ。命の豊かさは、賜物(能力・働き)にではなく、実(神の子であるアイデンティティ)の中により多くあります。賜物は多いが命が貧しい人がいる一方で、賜物は少ないが命が豊かな人がいます。後者は、聖霊の実によるものです。

13章33節

モーセはレビ族に対しては嗣業の土地を与えなかった。主の約束されたとおり、彼らの嗣業はイスラエルの神、主御自身である。

ある無精ひげを生やした貧しい格好の男が、毎日正午に礼拝堂に来て祈るようになった。牧師は怪しげに思いつつ、「君は一体何をしているのか」と尋ねた。男は答えた。「ここにひざまずいてね、祈るんです。神さん、あなたがおいらの罪を取り除いてくださって以来、おいらはずーっと嬉しくて仕方がないんです。おいらの大親友になってくださって、すごく嬉しいんです。イエスさん、ジムです。顔を出しに来ました、とね」。

ある日から、ジムが祈りに来ない日が続いた。彼は、病気で入院していた。牧師が見舞いに行くと、病院では皆がジムの噂をしていた。ジムは見舞客一人来ないのに、いつも笑顔で喜び一杯だったので、周りの人々にも喜びが伝染していた。牧師が、「見舞い客もないのに、いつも喜んでいることを皆が不思議がっていますよ」と言うと、ジムは答えた。「毎日、昼になるとね、あの方が来てくださるんですよ。おいらの大親友のあの方がね。ここに座って、おいらの手を握って仰るんです。『ジム、私があなたの罪を取り除いて以来、私はずーっと嬉しくて仕方がないんですよ。あなたの大親友になってすごく嬉しんです。ジム、イエスです、顔を出しに来ました』ってね」と。(出所不明)

友よ。このジムのように、「あなたの嗣業はイスラエルの神、主御自身である」と言われるならば、貧しくとも人生の最高最大の嗣業を得ていることになりませんか。

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