キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ヨシュア記 第14章

14章2節

すなわち主がモーセを通して命じられたように、くじで九つ半の部族に嗣業の土地を割り当てた。

各部族に土地を割り当てる方法は「くじ」でした。こんな大事なことが「くじ」で決められるとは、はなはだ無責任にも見えます。そのように考えるのは、自分の意思が反映されていないと思うからです。

しかし、人間の存在と人生のほとんどは、しかも最も大事と思えること(時代、民族、国籍、両親、性別、能力など)は、くじで決められています。パウロは、「『兄は弟に仕えるであろう』とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いによらず、お召しになった方によって進められるためでした」(ロマ9章11~12節)と言います。

それでは、自分の親や性別や能力を自分で選ぶことができるならば、人はどうなるでしょうか。まずは、神を必要としなくなります。次には、さらに自己中心を肥大させ、今以上に人同士で殺し合うようになるでしょう。自分の思い通りになることは自分自身を見失わせるからです。人は、自分の能力や意思を超えたところで神に出会い、神に出会って自分を知ります。無力と限界こそ、神への通用門です。

友よ。「それでは、人間はロボットなのか?」と言っていませんか。否、あなたには、割り当てられた領地における自由が与えられています。くじによって神を知り、置かれた嗣業の地で神に依り頼んで生き、さらに神を深く知るのです。神こそあなたの嗣業です。

14章3~4節

モーセは既に他の二つ半の部族にはヨルダン川の東側に嗣業の土地を与えていた。…ヨセフの子孫がマナセとエフライムの二つの部族になっていた。

イスラエル史において、偉大な功績を遺したヨセフの存在は大きく、彼の子マナセとエフライムは十二部族に加えられました。しかし、マナセ族はヨルダン川の東と西に分かれることになります。

マナセの半部族は自ら進み出てヨルダン川の東側を得、もう半分の部族はくじで割り当てられた西側に嗣業を得ました。結果、東側の民はいち早く姿を消し、西側の民は十二部族の中で重要な働きを担いました。くじで定められた嗣業は神による一方的なものであり、不自由に見えます。しかし、半分に分かれたマナセ族の歴史が、祝福を受けるのはどちらかであるかを教えます。人には、神への服従と、自分自身の責任である自由の両方が必要です。そして、「神への服従」が「人の自由」をつくり、神に服従しないことは、むしろ人間を不自由にします。

「…罪の奴隷(自由を主張)であった時は、義に対しては自由の身でした…どんな実りがありましたか…行き着くところは、死にほかならない。…今は罪から解放されて神の奴隷(神への服従)となり、聖なる生活の実を結んでいます」(ロマ6章20~22節)

友よ。神のくじを重んじましょう。割り当てられ、今置かれている所を受け取ってください。すると、そこから何をするべきかが示されます。それが、あなたを自由にします。「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハ8章32節)。

14章5節

イスラエルの人々は、土地を割り当てるにあたって、主がモーセに命じられたとおりにした。

イスラエルの長い歴史の中で、核心は常に同じで一貫していました。主なる神は実在する真実なお方なので、民は長く変わらず一貫した歩みを続けた、とも言えます。その歴史は、神が御自分の御心を常に明確に民に教え、服従させ、不服従に対してはバビロンに捕囚にやってでも人と戦われた歴史でした。

これほどの一貫性と永続性はどこから来たのでしょうか。その答えの一つは、「律法と神殿」に探すことができます。律法は神の御心を、神殿は神の姿と神と人のかかわりを教えました。内なる命が外側をつくりますが、外側を見ることによって内なる命を知ることもできます。律法と預言とは、神への服従であり、人の自由を制約することで神を知らせる恵みでした。

「主体性とは、自分のしたいことをすることではなく、与えられたものを進んで受け取ること」と定義した人がいます。自由は自分をわがままにしますが、主体性を持つと使命感が湧いてきます。

「結局人間にできることは、何か呼ぶ声が聞こえた時に、それにすぐに応じることができるように、耳を澄ませながら自分を用意してゆくことであろう」(神谷美恵子著より)とは真実です。

神に造られた友よ。あなたが自分の自由を捨て、自分に与えられた使命を主体的に受け取るならば、神が用意された、神の持つ自由を自分のものにすることができます。神に供えられる自由をもって生きてください。

14章6節

…エフネの子カレブがこう言った。「主がカデシュ・バルネアで私とあなたのことについて神の人モーセに告げられた言葉を、あなたはご存じのはずです。」

ここに本当の自由を持った人物、カレブが登場します。彼は四十五年前に、ヨシュアや他の仲間たちと共に斥候としてモーセに遣わされてカナンの地を偵察した人物です。

その時の斥候の中で、カレブとヨシュア以外の十人が報告したのは、次のような「自分から見た現実」でした。「その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ…アナク人(巨人)の子孫さえ見かけました」(民13章28節)。しかしカレブは、「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます」(30節)と主張しました。彼は「神から見た現実」を報告したのでした。

その時、主はカレブに、「しかし、わたしの僕カレブは、別の思いを持ち、わたしに従い通したので、わたしは彼が見て来た土地に連れて行く。彼の子孫はそれを継ぐ」(民14章24節)と約束しました。「自分から見た現実」は自分中心の判断によるものですが、「神から見た現実」は神中心の判断によるものです。

友よ。第二次世界大戦後、最初の国連事務総長に選ばれたダグ・ハマーショルドは、「我々が使命を探しているのでない、使命が我々を探している」と書き残しました。人が果たす使命は、自分の中から出て来るものではなく、神に従う人に備えられるものです。カレブは、年老いてなお使命に生きようとしていました。天に召されるまで神の使命に生きる者こそ、本当に自由な人です。

14章7節

「主の僕モーセがわたしをカデシュ・バルネアから遣わし、この地方一帯を偵察させたのは、わたしが四十歳のときでした。わたしは思ったとおりに報告しました。

神の指示に従って、各部族に嗣業の地が割り当てられました。そこに突然、ユダ族のカレブが進み出て、自分からある土地を欲求しました。皆がくじに従っているのに、一人だけこのような申し出をするのは、常軌を逸した高慢でしょうか。

彼は、ユダ族が得た嗣業の中の土地を欲求したのであり、ヨルダン川東側の土地を求めた人々とは違います。「カレブ」とは、「獅子の子」という意味の名でした。この獅子は、弱い者に吼える獅子ではなく、不義と罪に対して吼え、戦う獅子です。

カレブの主張は、高慢どころか謙遜から出た主張でした。「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる」(黙5章5節)。彼の欲求は、神の約束から出ていました。「わたしの僕カレブは、…わたしに従い通したので、わたしは彼が見て来た土地に連れて行く。彼の子孫はそれを継ぐ」(民14章24節)。彼は神の約束を欲求しました。

友よ。聖書は神の契約の書であり、約束で満ちています。それを切に欲求していますか。神の約束の成就を求めないのは高慢であり、求めるのが謙遜です。神から与えられた家族は、すでにくじで割り当てられた嗣業です。その家族の一人ひとりの救いを神に求めることが、カレブのように嗣業の中の土地を求めることです。

14章10~11節

主がモーセにこの約束をなさって以来四十五年、…今日わたしは八十五歳ですが、今なお健やかです。モーセの使いをしたあのころも今も変わりなく…。

彼は八十五歳なのに健康で、まだまだ戦えると言います。ここでの健康とは、病気が無い・若々しいなどといったことではなく、霊的健康のことです。

霊的に健康な人とは、ビジョンのある人です。ビジョンとは、神が自分にしてほしいことを知っているだけでなく、「神の心」を「自分の心」とすることです。それは霊的成長に伴って備えられるものです。

霊的成長段階は、「神の民→神の子→キリストの花嫁」と進みます。「神の民」は、罪人が主を信じて神の国に入った段階であり、神と人々の両方に心を向けます。「神の子」は、親の財産や守りなどの恵みは喜びますが、苦しみは知りたがりません。「民」の心も、「子」の心も、自己中心から抜け出せません。しかし「花嫁」は、夫なる主イエスの喜び、悲しみ、痛み、重荷などを共有します。

キリストの花嫁に召された友よ。「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです」(フィリ2章5節)とのみことばを、文語訳は、「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」と記します。「主イエスの心を、自分の心とする」ことこそ私たちの最大のビジョンであり、健康なクリスチャンでいるために必要なことです。そうすれば、肉体的病と体力の衰えに直面していても霊的に健康でいられます。その人から出てくる祈りは、主の勇猛な勇士が持つ剣となります。

14章12節

「…そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々がありますが、主がわたしと共にいてくださるなら、約束どおり、彼らを追い払えます。」

カレブは四十歳の時に、カナンに斥候として入りました。今は八十五歳になっていますが、若者たちに後を任せて隠居しようなどとは考えていません。彼の信仰は、四十年前よりももっと燃やされていました。

その証拠に、彼が求めたヘブロンは巨人の子孫と言われるアナク人が城壁を築いている場所であり、「大きな町々」とありますから、多くの兵士もいます。さらに、緑多い豊かな地ではなく山岳地帯でした。彼は神の約束を握って、大胆にヘブロンを求めました。彼が大胆に求めることができたのは、「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」(フィリ2章5節・文語訳)というビジョンを持っていたからです。主の御心を知っていたので、「主があの時約束してくださったこの山地」(12節)と言えました。そして、「主がわたしと共にいてくださるなら、…彼らを追い払える」と確信しました。

友よ。老いや病や貧しさや環境の厳しさを超えた世界、「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザ40章30~31節)、そのようなカレブの世界にあなたも入ることができます。そしてこの恵みは、若者よりも年を重ねてこそ、より強く持てるものです。大切なのは体力ではなく霊の力です。霊の力とはキリストと直結する力のことです。

14章13節

ヨシュアはエフネの子カレブを祝福し、ヘブロンを嗣業の土地として彼に与えた。

カレブが求めたヘブロンは、エルサレムから30㎞南にある岩山の地で、強力な敵もいました。

ヘブロンは、かつてアブラハムが滞在した地です。アブラハムはカナンの地で飢饉に見舞われた時、エジプトに下りました。そこから主の憐れみにより多くの財産を与えられてカナンに戻って来ましたが、その財産の多さゆえにロトと共に生活できなくなりました。アブラハムはロトに、住みたい場所を先に選ばせました。そこでロトは、ヨルダン川沿いの緑の多い低地を選びました。

その時主は、「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地をすべて与える」(創13章14節)と言われました。まもなくアブラハムは天幕をヘブロンに移し、主のために祭壇を築いて住むことになります(18節参照)。

またヘブロンは、「いと高き方の祭司であったサレムの王メルキゼデク」からパンとぶどう酒を受け取った所でもありました(メルキゼデク=主イエス・キリスト)(ヘブル7章1~3節参照)。さらにこの地は、後に彼自身と、イサクとリベカ、ヤコブとレアが葬られた場所でもありました。ヘブロンは、信仰の父アブラハムとその家族にとって重要な土地でした。

友よ。信仰の父アブラハム以来、神が語り、交わる恵みの場所はヘブロンでした。そして、今日の私たちにとってのヘブロンの一つが「聖書」です。そこは、主に出会い、御声を聞き、祈るところです。ヘブロンをあなたの嗣業の地とし、そこで主と交わってください。

14章14節

ヘブロンはケナズ人エフネの子カレブの嗣業の土地となって、今日に至っている。彼がイスラエルの神、主に従いとおしたからである。

カレブが求めて得たヘブロンが「今日に至っている」と記す一言に重さを感じます。「ヘブロン」の原意は「交わり・親交」だと聞きます。ヘブロンは、神と「継がり交わる」場所です。聖書で最も大事な言葉の一つは「命」です。その定義は、心臓が動いていることでも、脳が生きていることでもありません。

「命」とは、「継がりと交わり」のことです。人と人が継がり交わって「人の命」がありますが、その命は罪人の命であり、自己中心の命です。人の本当の命は、「わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命」(ロマ6章23節)でなければなりません。 

神と交わるヘブロンがある場所は、ロトが得た低地でも、マナセ族らが得たヨルダン川の東側でも、敵のいない所でもありません。そこは山岳地で、アナク人が住んでいる所です。詩編二十三篇には、「敵の前で食卓を整える」とあります。敵がいるからこそ、主の権威と力を知ります。しかし、敵に囲まれた中にある食卓に供えられた食物は、「屠られた小羊イエス」(黙5章12節)です。

友よ。あなたは神の命を持っている確信がありますか。自分の思いに反する山岳地(険しい環境)でこそ、また、アナク人などの敵の真ん中でこそ、「命」を確信するものです。そこに供えられた小羊を食べる(信じる)所、それがヘブロン(交わり)です。

14章14~15節

彼がイスラエルの神、主に従いとおしたからである。…ヘブロンはかつてキルヤト・アルバと呼ばれ…偉大な人物アルバの名による。戦いはこうして収まった。

ヘブロンはかつて、アナク人の中で最も偉大な人物アルバなる者の支配下にあったようです。神と交わるためにヘブロンを求める過程では、住む場所・仕事・学校・教会選びなど、この世の制度や経済問題も含めた選択と戦いが起こり、大きなエネルギーの消費と犠牲が伴うものです。

しかし、本当のヘブロンは私たちの中にあり、偉大な人物アルバなる者によってすでに支配されています。その人物の正体は「肉」です。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです」(ガラ5章17節)。

カレブが敵を征服できたのは、「彼がイスラエルの神、主に従いとおした」(8節・14節)からでした。「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります」(9節)。それは一時の決意ではなく、日々の戦いです。

ヘブロンを嗣業にしたいと願う友よ。人生は終わりのない戦いですが、唯一、戦いを終える場所があります。それは、ゴルゴタの丘にある主イエスの十字架です。

「主の十字架」に私たちがつく時、冒頭の聖句、「こうしてこの地に戦いは止んだ(口語訳)」が成就します。ただし、主の十字架につくためには、「自分の十字架」を負わねばなりません。それこそ、「主に従いとおした」カレブの信仰でした。

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