キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ヨシュア記 第15章

15章14~15節

「カレブは、アナク人の子孫シェシャイ、アヒマン、タルマイの三氏族をそこから追い出し、更にデビルに上り、住民を攻めた。

神に従いとおした人カレブの姿がさらに詳しく記されます。ヘブロンを神から受け取っても、それで完了ではありません。そこから戦いが始まります。

くじにより嗣業(自分の存在と境遇や環境)を受け取ることは最も基本的な信仰であり、それを「第一の信仰(受け取る信仰)」と言うことができます。しかし嗣業は、受け取ったら自動的にその人のものになるわけではありません。それを得るには、その人自身が信仰によって戦わねばなりません。それを「第二の信仰(出て行く信仰)」と言うことができます。

「第一の信仰」は「神から受け取る(神の子の命を持つ)」ことであり、「第二の信仰」は「神と共に生きる(神の命によって生きる)」ことです。しかし多くの神の子たちは、神の命を受け取っているのに、神の命でなく自分の命で生きています。それは、神の霊によってではなく自分の肉によって生きることです。カレブはヘブロンを嗣業として得てから、アナク人の子孫を追い払い、さらにデビルという地へ攻め上ろうとしています。

神の嗣業を受けた友よ。あなたはそれを手に入れましたか。「神から生まれた人(神の子のあなた)は皆、世に打ち勝つ(打ち勝てる)からです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰(神の命によって生きること)です」(Ⅰヨハ5章4節)。

(注)( )内は筆者

15章16~17節

カレブは、「キルヤト・セフェルを撃って占領した者に娘アクサを妻として与えよう」と約束した。…オトニエルがそこを占領したので…妻として彼に与えた。

カレブは、デビル(キルヤト・セフィル)に立ち向かう時、「デビルを占領した者に、自分の娘アクサを妻として与える」と約束します。果たして、この約束は行いによる報酬でしょうか。

それに応えてデビルを占領したのは、カレブの兄弟ケナズの息子オトニエルでした。このことから、カレブの信仰は彼だけにとどまらず彼の一族にまで及んでいたことがわかります。カレブの甥のオトニエルも、ヘブロンを嗣業として受け取っただけでなく、さらに進んで「肉に死んで霊に生きる」信仰を持った人でした。カレブは、娘を与える基準を信仰におく、父としても立派な人物でした。

カレブの信仰は、四十歳の時に斥候として遣わされて以来四十五年間変わることなく、むしろ「今なお健やかで…戦争でも、日常の務めでもする力があります」(14章11節)と言えるほどでした。その四十年以上も変わらず信仰を持ち続けるカレブの姿に、彼の一族は教えられ励まされてきたのでしょう。その中で、甥のオトニエルの信仰も立派に育てられてきたと想像できます。

友よ。カレブは私たちの模範です。ヨルダン川を渡り、エリコ、アイ、そして周りの民族を制圧していた時には彼の名は出てきませんでした。しかし、ここに至って彼の信仰が真実であったことが分かります。なぜなら、彼の家族の姿に彼の信仰の質が見えるからです。

15章18節

彼女は来て、父から畑をもらうようにオトニエルに勧めた。

カレブの娘アクサは、デビルを占領したオトニエルと結婚しました。その時、アクサは夫となったオトニエルに、父から畑をもらうように勧めます。さらに、自分からも「ため池(口語訳では『泉』)」を求めました。彼女は欲深い娘だったのでしょうか。

否、命を賭けてデビルを占領した者には報酬があって当然ですが、それ以上に、カレブが、娘夫婦に分け与えるのに十分な畑とため池を持っていたことに目を注ぐべきです。神との「交わり」こそが、「ヘブロン」が意味するものでした。ヘブロンに住む者には豊かな実りが備えられています。特にそのような人は、豊かに実を結ぶ「畑」と枯れることのない「泉(ため池)」を所有します。

畑とは、聖霊の実を結ぶ畑です。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(ガラ5章22~23節)。

泉とは、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハ4章14節)という泉です。

友よ。あなたは、求めてくる者に何を与えられますか。何よりも、聖霊の実であるキリストの人格で接したいものです。さらに、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。…その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(同7章38節)と言われる、生ける水なる主イエスをその人に紹介したいものです。

15章19節 ①

彼女は言った。「お祝いをください。わたしにネゲブの地をくださるなら、溜池(泉)も添えてください。」彼は上と下の溜池(泉)を娘に与えた。

カレブの娘アクサは、ネゲブの土地を受け取る約束を得ると、ため池(泉)も求めました。カレブは畑と共に泉も与えました。良い畑は良い水から作られるものです。

ヘブロン(神との交わり)に住むカレブは豊かでした。バプテスマのヨハネが洗礼を授けていた所について、「ヨハネは…アイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた」(ヨハ3章23節)と記されています。ヨハネが多くの人に洗礼を授けることができたのは、彼が豊かな水(神の命の水)を持っていたから、と言うこともできます。

「エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川になり…。第一の川はビション(豊か)、第二の川はギホン(恵み)、第三の川はチグリス(力)、第四の川はユーフラテス(結実)…」(創2章10~14節)とあるように、人類が罪を犯す前は「豊か・恵み・力・結実」が人を満たしていました。

友よ。エデンの豊かさは、三位一体の神との豊かな「継がりと交わり」によってつくられたものでした。しかし、そこから離れた人類は、神から離れ、自然界だけで生きる者となりました。そこは、自己中心に生きるほかない世界です。「無い袖は振れない」ということわざもあるように、人は主の恵みを持たねば他人に与えることはできません。

15章19節 ②

「わたしにネゲブの地をくださるなら、溜池(泉)も添えてください。」彼は上と下の溜池を娘に与えた。

カレブ(与える側)と娘(求める側)の会話から、神の世界の恵みの原則を見ます。

結婚する時には、住まいや家具や寝具など、これからの生活に必要なものを揃えねばなりません。しかし、物質的な家具や家などよりも重要なのは、結婚する者同士が愛し合う心を育てることです。そしてそれよりさらに大切なのは、それぞれの神との関係です。

カレブの娘アクサは父から畑を得ただけで満足せずに泉(ため池)も要求しました。畑は人の食物を作る大切な手段ですが、畑だけあっても、作物の命となる水がなければ実を結べません。同じく、人の歩みにおいても、畑(この世)は神の命を守り育てる手段ですが、それを命としてはなりません。畑と水の両方が必要ですが、それぞれの役割は違います。

実を結ぶには、最初に種が必要です。次に畑が必要です。そして水が必要です。それと同じように、最初に命の種なるみことばが必要です。次に、そのみことばを受け入れる畑なる、耕された心が必要です。そして、そこに聖霊の水が注がれねばなりません。

友よ。あなたは畑(物資・出来事・その場の解決・家族問題の解決など)を得るだけで満足していませんか。神の命である聖霊の働きは、あなたの心のみならず、畑である家族や仕事や生活のすべてに必要です。聖霊の実は聖別されたところに結ばれます。また、聖別こそ聖霊の実です。

15章19節 ③

「わたしにネゲブの地をくださるなら、溜池(泉)も添えてください。」彼は上と下の溜池を娘に与えた。

カレブの娘夫婦はネゲブの砂漠へ赴くことになっていました。砂漠は、無味乾燥な厳しい所であり、人生を意味してもいます。しかし、私たちの環境がいかに厳しくても、そこにも泉があります。

生命にとって必要不可欠なものは「光」と「水」です。光は上から臨み、水は下に隠されています。主は、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハ8章12節)と言われ、また、「わたしの与える水を飲む者は決して渇かない。…その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4章14節)とも言われました。

F・Bマイヤー師は次のように書いています。

「その泉が上と下であったということは意味深長である。主の日に丘を登って教会堂の礼拝に汲む静かな泉と、やがて下って仕事の喧騒の中に発見する泉と。賞賛の上の泉と謙遜の下の泉と、健康で汲む泉と病苦の中で聞く泉と。賛美の泉と悔恨の泉と。この上の泉と下の泉と」

友よ。カレブが娘夫婦に与えたのは上と下の泉でした。それは、明るく元気な時に受け取る恵みと、暗く沈んだ悲しみの中で受け取る恵みを意味します。しかし、上の泉だけであるならば自分を忘れてしまいます。下の泉だけならば主を忘れてしまいます。父なる神は、カレブ以上に慈しみに満ちたお方です。だからこそ、上と下の両方の泉を持たせてキリストの花嫁としてくださるのです。

15章19節 ④

「わたしにネゲブの地をくださるなら、溜池も添えてください。」彼は上と下の溜池(泉)を娘に与えた。

親は子に、神のものである祝福を与えたいものです。カレブが与えた上の泉は光と復活のキリストであり、下の泉は十字架のキリストである、とも言えます。

目があっても光がなければ見ることはできません。人が、自分が何者か分からず苦しむのは、そこに真理の光が無いからです。光によって人は理解することができます。「私は新しい掟として書いています。…闇が去って、既にまことの光が輝いている」(Ⅰヨハ2章8節)。聖書こそ真理の光であり掟(基準)です。また、光の中を歩むとは、復活の命で生きることです。

下の泉は、地の深い所にある十字架のようです。一粒の種は、土に埋められ、泉からの水により発芽します。人も、自分を保つことを止め、罪を悔い改めて神の前にへりくだるとき、十字架の血潮が染みわたり、罪が赦されます。パウロはそのことを、「愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか」(Ⅰコリ15章36節)と言いました。

上の泉の光(基準)に照らされて、自分が破れます。その破れから、主の十字架の血潮が働きだします。上の泉(光・基準)は下の泉(十字架)に導き、下の泉は上の泉(復活)へ押し上げます。

神に上と下の泉を与えられている友よ。あなたは両方の泉から命を受け取っていますか。また、人々に二つの泉を紹介できていますか。

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