キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ヨシュア記 第16章

16章1節

ヨセフの子孫がくじで割り当てられた領土は、エリコに近いヨルダン川、エリコの水の東から荒れ野を経て、山地を越えてベテルに至る。

15章はユダ族に、16章と17章はヨセフの子孫(エフライム族とマナセ族)に、それぞれ割り当てられた嗣業の地について記されています。

創世記を読むと、すべてのものが出来上がってから人が創造されたことが分かります。そのことは、私たちが存在する前に神が場所を用意してくださっていることを教えています。しかし、人の側から考えると、貧富の差、健康と障害、能力の差など、神が用意したとは考え難いことが多くあります。

しかし、歴史が下り、神が独り子イエスを遣わして十字架につけたのは、すべての人に神の子の場所を備えるためでした。するとこの世での差は小さく見え、すべての場所が尊く、最善であると分かります。さらに、五タラントンの者には五タラントン、三の者には三、一の者には一が求められています。各自が与えられた分を果たせば、同じ幸福の量を得ることができます。ここから、神はユダ族にも他部族にも公平に嗣業を割り当てていると分かります。

友よ。「タラントン=賜物」は人により違いますが、「ムナ=信仰」は皆が公平に一ムナずつです。そして、人の幸福を作るのは、賜物(タラントン)ではなく信仰(ムナ)です。賜物は神から受けて他者に渡し、ムナは自分を神に直結させます。ムナはタラントンを超えさせます。

16章4節

ヨセフの子ら、マナセとエフライムは嗣業の土地を受け継いだ。

族長ヤコブに生まれた男の子は十一人でしたが、イスラエルは十二部族とされました。それは、ヨセフの神への従順による報酬として、彼の二人の子たちが独立した部族とされたからでした。

召天前のヤコブは、預言者として神の言葉を子供たちに伝えました。その中で、「ヨセフは実を結ぶ若木。泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は石垣を超えて伸びる」(創49章22節)と預言しました。その成就として、ヨセフから二つの部族が起こされました。

ヨセフは、兄たちによってエジプトに売られても、自暴自棄にならずに神を見上げ、牢獄の中でもひたすら耐えて神に望みを置き、エジプトの宰相になっても神の前にへりくだっておごらず、兄たちと再会しても仕返しもせず、神の愛をもって仕えました。彼は「泉のほとり」である神から決して離れず、豊かな実を結びました。

神は「人をかたより見ることをなさらない」(エフェ6章9節)のですから、「与えられる人」「与えられない人」の差別はありません。すべての人が、その人にいちばん良いものを与えられています。ただ、その人がそれをどれだけ受け取ったかです。

友よ。責任を神に押し付けてはなりません。若い時のヨセフは、神を呪いたいほどの厳しい現実に置かれましたが、「泉のほとり」から離れませんでした。命なる神にとどまってください。神が実を結ばせてくださいます。

16章5~6節

エフライムの子孫が氏族ごとに得た領域は次のとおりである。その嗣業の土地の境は、東のアトロト・アダルから上ベト・ホロンを経て、西へ向かう。

エフライム族とマナセ族は十二部族の中でユダ族に次ぐ中心的地位に立つようになります。その祝福は、彼らの神への応答と深くかかわっています。

人の生き方には「能動的」と「受動的」があります。人間社会では、能動的な人が受動的な人よりも評価されがちですが、信仰の世界は違います。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる」とのみことばが示すものは「積極的受動」です。それは、自分の願うものを求め探すのではなく、神が与えたいと願うものを知り、それを求めることです。人には神という主人がおり、人は神に服従して生きるものだからです。

人は、能動的なだけでは自分が主人になり、受動的なだけでは奴隷になります。自分の全存在を神に向けて従い(積極的)、神から受け取ります(受動的)。エフライムは、「…上ベト・ホロンを経て、西に向かう」とあるように、「得た領地」を広げるためにさらに先に進んだことが分かります。

友よ。自分自身と家族や境遇という嗣業を神から全面的に受け取る「第一の信仰」に固く立ってください。次に、その嗣業の中に用意された家族や友人・知人の救い、使命、働きなどの、神があなたにゆだねた恵みを獲得する「第二の信仰」を積極的に働かせてください。神があなたに用意されたものを積極的に求めてください。

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