キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ヨシュア記 第18章

18章1~2節

…この地方は彼らに征服されていたが、イスラエルの人々の中には、まだ嗣業の土地の割り当てを受けていない部族が七つ残っていた。

カナンに入った神の民は、すでに部族ごとにくじを引いて嗣業の地を得ていたと思いがちですが、実はまだ七つの部族がくじを引いていませんでした。それどころか、彼らはくじ引きを拒んでいたことが分かります。そうすると、十二部族の中に三つのグループがあったことが分かります。

① ルベン、ガド、半マナセ

神より先走って自分の土地を要求してヨルダン川の東側を得たが、やがて滅んで行った。

② ベニヤミン、シメオン、ゼブルン、イサカル、アシェル、ナフタリ、ダン

くじを引こうとしなかった。歴史的に見ると、その後これらの部族はユダとマナセの間に埋没してしまった。

③ ユダ、ヨセフ(マナセ、エフライム)

神の指示に従ってくじを引いて嗣業の地を得た。それ以後、イスラエルの中で中心的役割を果たした。

3つのグループの姿は、①は出エジプトを拒み滅びた民、②はヨルダン川を渡れず、荒れ野にとどまり続けて迷いから出られない民、③はヨルダン川を渡りカナンに定住できた民、とも言えます。

友よ。あなたはどのグループにいますか。グループ②に多くの部族が属しているように、多くの神の子たちもそこにいます。神の恵みをどれだけ得られるかは、ヨルダン川を渡るか否かで大きく変わります。くじを引き、嗣業を得てください。

18章3節

ヨシュアはイスラエルの人々に言った。「あなたたちは、いつまでためらっているのだ。あなたたちの先祖の神、主が既に与えられた土地を取りに行くだけなのだ。

ヨシュアは、くじを引こうとしない部族を責めています。彼は、「神があなた方に備えた恵みをどうして受け取ろうとしないのだ」と言っているかのようです。

士師の時代、イスラエルはミディアン人の手に渡されていました。神は民を救うためにギデオンを選びます。集った兵士三万二千人の中で恐れている者たちを帰すと残りは一万人でしたが、なお彼らをテストします。水辺に連れて行き、「犬のように舌で水をなめる者」と、「膝をついてかがんで手で水をすくって飲む者」と、水の飲み方で選別しました。膝をついて手ですくって水を飲んだ者は三百人でした(士師7章参照)。

ここから、くじを引いた部族を手で水をすくって口で飲んだ三百人の兵士に、くじを引かなかった七部族を舌で水をなめた兵士にたとえることもできます。違いは、口と舌にありました。それは、神の恵みを、口で飲むのと舌で味見する違いであり、恵みを大胆に受け取った者と、手で触れただけの者の違いとも言えます。

神の恵みを受け取るのをためらっている友はいませんか。ためらう者は、主の与える聖霊を知っているだけの者と同じです。また、自分の舌で好き嫌いを決める、自分が主人の信仰者に似ています。神の前に膝をかがめ(謙遜)、手ですくって(畏れ)、惜しみなく飲んで(受け取って)ください。

18章4節

各部族から三人ずつ出しなさい。わたしは彼らを派遣し、この地方を巡回させ、嗣業の土地の記録を作り、戻って来てもらおう。

ヨシュアは、くじを引かない部族に業を煮やし、嗣業の土地を偵察するために各部族から三人ずつ送り出しました。

それらの部族は、「嗣業の地を望んでいないわけではなく、今のままでよいとも思っていないが、なおためらう」という中途半端な状態にあります。そのことについて、ダグ・ハマーシャルド氏は次のように言いました。「お前が決して耳を傾けたがらないなら、聞こえるという能力をお前はどうして保持してゆくことができようか。神が暇をかけてお前にかかずらうべきだ、と言うことが、お前には当然のように思われるらしいが、そのくせ、お前の方では神にかかずらう暇がないとは」(『道しるべ』より)。

それは、「神がもっと自分にかかわってくれれば、自分はこの賜物もあの使命も御心と受けとめるだろう。しかし、あえて自分から犠牲と恥を覚悟してまで求める必要もない」という信仰者です。

友よ。あなたは神に選ばれて、神の戦場の手前まで来たのです。しかし、水を飲まず、舌でなめて神に帰された九千七百人の兵士の一人になっていませんか。「神がするならばすればよい、しかし私は自分からはしない」という消極的無責任の虫に取りつかれていませんか。神に間違いはありません。あなたを選んだ神は後の日まで完成してくださいます。一歩踏み出してください。

18章6節 ①

土地を七つに分割したら、その記録をわたしのところに持って来なさい。わたしたちの神、主の前で、わたしはあなたたちのためにくじを引く。

ヨシュアは、ためらう部族にもなんとかして嗣業の地を割り当てたいと願っています。

神が喜ぶ人は、単純に「行きなさい」と言われたら行き、「来なさい」と言われたら来る人です。神が人に対してためらって場所を用意しなかったり、遅れたりすることはありません。人が神に対してためらっているだけです。

人がためらう理由の一つに、「孤独への恐れ」があります。ヨルダン川を渡った時も、エリコを攻略した時も、ほかの民族を打ち負かした時も、イスラエルは皆が一緒でした。しかしここにきて、部族ごとに分かれてそれぞれの場所で戦わねばならない、となった時、彼らはためらい始めました。

このためらいや孤独への恐れは、ヨルダン川を自覚的に渡っていない人に出てきます。それは、本人の信仰によってではなく、教会の流れの中に自分も入れていただいた結果、ヨルダン川を渡れた人です。聖霊の満たしも、表面上は皆と同じことをしているので渡った(満たされた)気になっているだけ、ということもあり得ます。そのため、「いざ、自分自身の信仰で」となると、恐れてしまい、進んで行けません。

恐れている友よ。自分の恐れを知ることが出発点です。信仰の世界に「遅い」ということはありません。なぜなら、自分で神に到達するのでなく、神が来て、救い、成長させてくださるからです。

18章6節 ②

土地を七つに分割したら、その記録をわたしのところに持って来なさい。わたしたちの神、主の前で、わたしはあなたたちのためにくじを引く。

くじ引きをためらう理由の一つに、「孤独への恐れ」がありました。皆で同じようにしていると安心でき、自分だけ違う方に向かうと不安になる、とは日本人の特性でもあります。しかし、「孤独こそ恵みの門」であることが、聖書の随所に記されています。

とある自死した老人が残したメモに、「今日も誰も声をかけてくれなかった」と書いてあったそうです。孤独は人の死を意味します。ただし、誰からも声をかけられなかったことではなく、「神の声を聞けず、神に祈れなかった」ことが人の死の原因です。むしろ、神との継がりと交わりは、「人との継がりと交わり」が断たれ、人から神に方向を変えさせてくれる「孤独」によって作られます。

ヤコブは兄と父に対して賢く立ち回りましたが、そのためにかえって家から離されることになりました。彼は叔父ラバンのもとへ逃げる途中、日が暮れた(行き詰まった)ので石を枕にして眠りました(孤独)。その時に、天からのはしごを降りて来た神と出会い、その場所を「べテル(神の家)」と呼びました。(創28章)。

友よ。孤独になる時が、自分の十字架を負う時です。そこから、神とあなたのさらに強い継がりと交わりが始まります。聖書の登場人物の「記録(人生)」を知っているあなたは、この「孤独の恵み」をもっと積極的に用い、さらに主に近づいてください。

18章9節

その人たちは出発し、その地方を巡回し、町々を七つの割り当て地に分けて、記録に書き留め、シロの宿営にいるヨシュアのもとに帰った。

ヨシュアは、くじを引かない七部族から三人ずつ計二十一人を選び、これから彼らが受け継ぐであろう土地の調査に向かわせます。そして彼らに地図を作らせ、そこの産物(恵み)を記録させて持ち帰らせました。ヨシュアの行動から察せられるのは、七つの部族がおじけづいた理由の一つに「知識不足」があったことです。

信仰とは、現実も将来も超え、「神が言われた」ことに服従し、行き先も知らず出て行くことですが(ヘブ11章8節参照)、いつしかそれが、「人のビジョンを神に実現させる」ことにとって代わります。

教会の中で委員会を作り、無理なくできるか、担当する人材が十分か、失敗しないかなどを調査した結果や、教会員の互いの合意の方が、いつしか神の命じたことよりも重くなり、聖霊を悲しませてしまいます(エフェ4章30節)。しかし、信仰の知識とは、「人に何ができるか」ではなく「神に何ができるか」です。それは、神のビジョンを自分のビジョンとすることです。

友よ。あなたが書き留めねばならないことは、自分の目で見、耳で聞き、経験したことを超えた現実、すなわち神の国(支配)の現実です。それは、アブラハムやヨシュアが経験したことを自分の霊の世界の知識にすることであり、それが聖書を読むことです。今日のこの時も、あなたの心に霊の知識を書き留めてください。

18章10節

ヨシュアは、主の前で彼らのためにくじを引き、イスラエルの人々に決められた割り当てに従って土地を分配した。

くじを引かない七つの部族のために、ヨシュアが代わりにくじを引いたことが、ここを含め三回(6・8・10節)記されています。「ヨシュアが彼らのために」とは、どういうことでしょうか。

くじを引こうとしない彼らには、積極性のなさ、ビジョンのなさが見て取れます。そのような人は、割り当てられた嗣業を、「積極的信仰」によって受け取るのではなく、「仕方がない」という「消極的信仰」によって受け取ることになります。積極的信仰に立つ人は神に顔を向けていますが、消極的信仰にとどまる人は神から顔を背けています。背けると、必ず神以外のものが目に入り、心も分かれます。

ユダとエフライムと半マナセは全面的に嗣業を受け取ったので、全力で戦い始めました。しかし他の七部族は、本意ではないが受け取る以外ないのでしぶしぶ……という態度だったので、戦う力は出てきませんでした。積極的に神の前に歩んでも、消極的に歩んでも、同じく失敗することはあり得ます。しかし、前者は必ず何かを得て、より神を受け取ることができます。一方、後者は何も得ることがなく、むしろ世に深入りするようになります。

友よ。「心の清い者は幸いである」とある中の「心の清さ」は、積極的に失敗する者にあります。主に自分を賭けて失敗してください。主が必ず支えて下さいます。

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