キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ヨシュア記 第20章

20章1~2節

主はヨシュアに仰せに…。イスラエルの人々に告げなさい。モーセを通して告げておいた逃れの町を定め、

各部族への嗣業の土地の分配が終わりましたが、レビ族には嗣業の土地はありませんでした。レビ族は各部族の嗣業地の中に点在し、四十八か所の町と放牧地が与えられました。その四十八の町の中の六か所が「逃れの町」に定められ、それらの町はどこからでも一日で到達できる距離でした。

逃れの町は、誤って人を殺した者が「命には命、目には目…」(出21章23~24節)の復讐から逃がれるために逃げ込む場所でした。「誤って」とは、斧が柄から抜けて他者の命を奪ってしまうなど、敵意(故意)なしに人を殺してしまった場合でした。

そこに逃れた人はもはや復讐されることはありませんが、すぐにその町を出ることもできず、「彼は聖なる油を注がれた大祭司が死ぬまで、そこにとどまらねばならない。…大祭司が死んだ後はじめて、人を殺した者は自分の所有地に帰ることができる」と定められていました(逃れの町については民数記35章参照)。

「罪の価は死」という裁きから、逃れの町に入れていただいた友よ。昔は大祭司が死ぬまで罪に束縛され、家に帰ることもできませんでした。しかし今は、「キリストは…恵みの大祭司として…御自身の血によって…永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブ9章11~12節)。ハレルヤ。私たちは大祭司キリストにより、完全に自由な者とされているのです。 

20章3節

意図してでなく、誤って人を殺した者がそこに逃げ込めるようにしなさい。そこは、血の復讐をする者からの逃れの場所になる。

罪の価は死ですが、死から人をなんとか救い出そうとする神の配慮を、逃れの町に見ることができます。

聖書は裁きをどうとらえているでしょうか。旧約聖書では、刑事上の罪の罰と償い(目には目、命には命)としての裁きが目につきます。しかし新約聖書には、刑事上の裁き以上に、「裁きは行われなければならない」「聖なるものを犬にやるな」「偽預言者を警戒せよ」「忠告して…異邦人同様に扱え」「あなた方の中には兄弟を仲裁できるような知恵ある者がいないのですか」など、真理を真理とする判断がより重要なこととして取り上げられます。

故意の罪も、過失の罪も、無知の罪も、生まれながらの原罪も、その価は等しく死です。「正しい者はいない。一人もいない」(ロマ3章10節)のです。しかし、その罪を主イエスは贖ってくださり、御子を信じる者をすべて義としてくださいました。「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」(Ⅰコリ1章30節)。

友よ。あなたも罪の罰から逃れねばなりません。しかし、感謝してください。主イエスがあなたの「逃れの町」となっておられます。そして、この逃れの町(十字架)から離れてはなりません。

20章4節

これらの町のいずれかに逃げ込む場合、その人は町の門の入り口に立ち、その町の長老たちの聞いている前でその訳を申し立てねばならない。

逃れの町にたどり着けばそれで良し、とは行かないようです。町の長老たちの前で、自分の過ちを告白し、弁明しなければなりません。

「人を裁くな」と言う聖書の中で多くの裁きが実行されていますが、それらは「真理」に対するものであり、人格に向けられたものではありません。人格に向けられていると見えても、実際には、その人が真理に服従しないこと、すなわち罪に向けられています。聖書は、「罪人」を探すのではなく、「罪」を探します。罪とは真理に反するものです。したがって、裁き(真理に対する判断)がなくなると真理は見えなくなります。

その真理とは、「わたしは真理である」と言われるイエス御自身と主の御業です。聖書の裁きは、主イエスに対する人の態度に向けられます。ただし、その裁きは人を主に結びつけるために行われます。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている」(ヨハ3章18節)。

友よ。逃れの町という主イエスの救いの御手の中に入れていただくためには、「その訳を申し立てねばならない」とありました。その「申し立て」とは、あなたと主イエスの関係についての告白のことです。「何をしたか」ではなく、「主イエスとどんな関係か」によって判断される(裁かれる)のです。

20章6節 ①

彼は、共同体の前に出て裁きを受けるまでの期間、あるいはその時の大祭司が死ぬまで、町にとどまらねばならない。殺害者はその後、…帰ることができる。

逃れの町に逃げ込んだ人は、復讐者の手に引き渡されることはありませんが、大祭司が死ぬまでその町から出ることはできません。町を出てしまえば、復讐されても仕方ありません。

「故意の殺人の罪は死をもって償わねばならないが、殺意の無い過失による殺人の罪は軽い罰でよい」とはなっていません。故意であっても過失であっても、代価は同じ「死」です。神は、故意と過失を区別せず、同じようにゴルゴタで御子イエスに代価を支払わせてくださいました。

だから無罪放免かというと、そうでもありません。「逃れの町に入った者=死を赦された者」は、「その時の大祭司が死ぬまで町から出てはならない」という束縛を受けねばなりませんでした。

この束縛が存在するのは、赦しが不完全だからではありません。また、罪への償いをするためでもありません。この束縛は、赦してくださったお方(大司祭イエス)に対する「服従」、信仰の従順を意味します。この束縛は、主イエスの罪の赦しを受けた人を主から離さないためにあります。

聖書に聴こうとする友よ。「旧約聖書は律法で、新約聖書は福音だ」などと区分けしないでください。旧約聖書も完全な福音です。事実、「逃れの町」「大祭司が死ぬまで出られない」などの一つひとつは、人を救い、救った人を守り完成するための福音です。旧約聖書も「福音書」の中の一部として親しんでください。

20章6節 ②

彼は、共同体の前に出て裁きを受けるまでの期間、あるいはその時の大祭司が死ぬまで、町にとどまらねばならない。殺害者はその後、…帰ることができる。

厳しく律法的に見え、かつ赦しが見えにくい旧約聖書の記事ですが、むしろ旧約聖書の方が、より具体的に、救いを見えるように表しているとも言えます。

「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。…ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ロマ3章22~24節)。これは、人の救いについての核心のみことばです。

しかし、「キリストの恵みは支払いがすでに終わっている、あらゆるものがただで手に入れられる。そういう支払い済の費用は無限に大きく、従って、その使用や浪費も無限に大きい」と、ボンヘファーが言いました。 それは、恵みだけを見て、恵みに至った過程を無視するからです。「神は愛なのだから当然だ」と、「神なのに十字架についてくださった」では、恵みの価値が違ってきます。前者は十字架抜きの復活の恵みを欲し、後者は十字架を経由した復活の恵みを受け取ります。

友よ。逃れの町に入っても、「大司祭が死ぬまで、町にとどまらねばならない」とのみことばは、「あなたの肉体が父なる神の御もとに召される時まで、逃れの町(十字架の大祭司主イエスの御もと)にとどまり、いつまでも主に仕えなさい」と置き換えることもできます。

20章6節 ③

彼は、共同体の前に出て裁きを受けるまでの期間、あるいはその時の大祭司が死ぬまで、町にとどまらねばならない。殺害者はその後、…帰ることができる。

逃れの町に保護を求めた人が、大祭司が死ぬまで町にとどまらねばならないことについて、さらに耳を傾けましょう。

「行いによらず、信仰によって救われる」という神の赦しは、恵みが大き過ぎて人の理解を超えてしまいます。そこに人間の自己中心性が重なって、「神であれば、人間を受け入れ赦してくれるのは当たり前」と開き直ることすらさせます。

ところで、神の大き過ぎる恵みとは、「罪の義認」を超えた「罪人の義認」のことです。それは、私の中にある「罪の赦し」をさらに超えた、「罪を犯し、これからも犯し続ける私自身の贖いと聖化」とも表現できます。神は、神を信じる者の過去も現在も将来も、肉体を脱いだ先の霊の世界にいる時までも、すべての責任を御自分が取ってくださる、という恵みをくださいます。

「罪の義認」にとどまるなら恵みは小さく安価なものになりますが、「私自身の義認(過去も現在も未来も義としてくださる)」は大きく高価な恵みとなります。

主の十字架と復活によって「義認」され、「義人」とされた友よ。この恵みから出てはなりません。それが、逃れの町にとどまり続けることです。そしてその町で、義としてくださった主のために生きることです。「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい」(ロマ12章1節)。

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