キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ヨシュア記 第21章

21章1~2節

レビ人の家長たちは、…「主は、わたしたちに住む町と家畜の放牧地を与えるよう…お命じになりました」。

各部族への割り当てが終わり、今度はレビ族の番です。彼らは他の部族と違い、一か所に嗣業の地を得ることはできません。各部族の嗣業地の中に、彼らの分を得るように定められていました。

神はレビ族(レビ人)に特別な使命を与えていました。「主はレビ族を選び分けて、主の契約の箱を担ぎ、主の御前に立って仕える」(申10章8節)役目を与えていました。レビ人は農耕や牧畜や商業に携わる以上に、イスラエルの民が主を礼拝するために働きました。神殿の管理や儀式を行う祭司たちもレビ人でした。旧約の時代にはレビの血統の者が礼拝に携わりましたが、今日、レビ人の務めをする人は誰でしょうか。

それは、先に神に召された人です。家族の中で先に主に出会った人、職場や学校で先に主に出会い、主を知った者はレビ人です。ルターはそのことを、「万人祭司」と言いました。もちろん、レビ族のすべてが祭司になったわけではないように、その中にさまざまの賜物を持つ人も必要です。

レビ人とされた友よ。教会の中で献身の表明をする・しないにかかわらず、神の子たちの存在はレビ人です。レビ人の最大の仕事は主に仕えることであり、それは人々を神の御もとに導く務めです。レビ人の中でさらに賜物を持つ人が、さらなる専任の働き人になります。しかし賜物に関係なく、あなたがレビ人です。

21章3節

イスラエルの人々は、主の命令に従って、自分たちの嗣業の土地の中から…町々と放牧地をレビ人に与えた。

イスラエルの部族の中で、レビ人の位置は特殊でした。自らの嗣業を持たず、他部族の領地の中に町と放牧地を与えられていました。だからと言って、他の部族に依存して養ってもらっていたわけではなく、自分たちで生活の資を得ていたようです。

現代の教会では、教職者と信徒を分ける所が多くあります。教職者は教会からの謝儀をいただき、牧会・教育・伝道に専心し、メッセージを語り、聖礼典を執り行う人。信徒は教職者の生活を支え、さまざまの奉仕をする兄弟姉妹。各教会の歴史や所属グループ、各リーダーへの聖霊の導き、これらによって形態に違いはありますが、しかし根本的なスピリットとして、神の子たちは皆が主に仕えるレビ人であるべきです。

神に仕えるレビ・スピリットとは、「謙遜と賜物」によって人々に仕えることです。謙遜とは、人格がキリストに似た者となることです。賜物とは、聖霊の能力と、その人が持つさまざまの能力が聖別されることです。教職者だけがレビ人ではなく、主に仕えるすべての兄弟姉妹がレビ人です。

友よ。あなたは自分がレビ人である自覚を持っていますか。この世のただ中で、あなたの存在が聖なるものとなっていますか。あなたが聖なる存在となる時、「あなた方は世の光、地の塩である」と言われたとおりの役割を果たすことができます。あなたの存在は聖なるものです。

21章4節

まず、くじで割り当てを受けたのは、ケハトの諸氏族である。祭司アロンの子孫であるレビ人は、ユダ族、シメオン族、ベニヤミン族から十三の町をくじで得た。

レビ人は、各部族が得た嗣業の地の中に住む場所を得ました。そのレビ人も家族単位で、どの部族の領地のどこに居住するかをくじで決めました。神に仕えるレビ人がくじによって主に仕える場所を得たことは、まさに「聖霊の導きによって」ということになります。

ペトロは、屋上で祈っていた時、獣や地を這うものや鳥(ユダヤ人にとって清くない物)を包んだ大きな布が天から降りてくる幻を見、「屠って食べよ」「神が清めた物を清くないなどと言ってはならない」との声を聞きました。幻の意味を考えていると、百人隊長のコリネリウスから遣わされた人がペトロの所に到着し、ここからカイサリアの異邦人への福音宣教が始まりました(使10章参照)。

パウロは、アジア州でみことばを伝えようとしたところ聖霊に禁じられたので、場所をビテニアに移して伝道しようとしましたが、それも禁じられました。その夜パウロは、一人のマケドニア人が、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と願う幻を見ました(同16章9節)。

友よ。あなたも用意されたくじを引いていますか。それは、自分の意思を超えた聖霊の導きのことです。くじを引くとは、「あのこと・このことは聖霊の導きか否か」と求める以上に、自分ではなくイエスを主とする生き方そのものです。それは、自分が決めるのではなく、神に決めていただく人生です。

21章43節

主が先祖に誓われた土地をことごとくイスラエルに与えられたので、彼らはそこを手に入れ、そこに住んだ。

ここに至るまでのヨシュア記は、息つく暇もない信仰の決断の連続でした。ヨルダン川を渡ってカナンに入ってからは、たくさんの敵と戦わねばなりませんでした。このことを見ると、「神の子は、天国に入るまでは安息を与えられないのだろうか」と思わされますが、どうでしょうか。

確かに神の子の歩みは、決断の緊張・血を流す戦い・貧しさ・たかぶり・痛みと悔い改めの連続ですが、それらすべての底に流れているものがあります。それは、「あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリ4章7節)とのみことばです。聖書は、「神の子となり聖霊に満たされたなら、『平安』に過ごすことができる」とは言わず、「『平和』があなた方を守る」と言います。

人が神に望むものは「平安」ですが、神が人に望むものは「平和」です。「平安」とは、何事もなく自分の思い通りになることを願う「人の思い」です。「平和」とは、試練や戦いがあっても、それらを通してでも人が神の御心から外れずに歩むことを願う「神の思い」です。

友よ。「思い煩うのはやめなさい」(同6節)と言われる理由は、「主がすぐ近くにおられる」(同5節)からです。「平和」という言葉は、政治用語では「正しい関係」のことだと聞きます。戦場のただ中であっても、主に継がり交わる「平和」を持つことはできるのです。

21章44節

主はまた、先祖に誓われたとおり、彼らの周囲を安らかに住めるようにされたので、彼らに立ちはだかる敵は一人もなくなった。

ここに至るまでの神の民の導きは、「私は降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し…乳と蜜の流れる土地…彼らを導き上る」(出3章8節)とモーセに告げた神の約束によるものでした。

神の子たちは、今いるところが安息の地であると気づくことが少なすぎるようです。ヨルダン川を渡ってカナンの地に入ったのに、家族・仕事・家計・健康など、ストレスばかりの日々だと嘆いています。それは、カナンの地にいるにもかかわらず、エジプトにいるかのように振る舞っているからです。

エジプトにいた時、民を支配していたのは、「否定の霊」とでも言うべきものでした。ファラオの奴隷、煉瓦造りの重労働、希望のない将来……。神が遣わしたモーセに対しても、「…あなたたちのお蔭で、我々はファラオの家来に嫌われ…、我々を殺す剣を彼らの手に渡したのと同じです」(出5章21節)と吐き捨てます。それは、尖った悪い所を探し歩き、見つけると喜んで踏みつけ、怪我をしては元に戻る人のようです。

カナンに導かれた友よ。あなたはカナンにいるのに、エジプトに心を置いていませんか。「乳と蜜」とは完全食を表し、それこそ「エルシャダイ(母親の乳房=完全食)」の神です。不平不満が出てくるのは、カナンに満ち満ちているエルシャダイの神に求めていないからではありませんか。

21章45節

主がイスラエルの家に告げられた恵みの約束は何一つたがわず、すべて実現した。

前節の言葉、「安らかに住めるようになった」(46節)も、右の「恵みの約束は何一つたがわず、すべて実現した」も、素直に受け入れるのは難しいものです。

信仰の確信は、自分の理解や感情にではなくみことばに置くべきです。みことばから目を離し、自分の理解と感情にそれを移すと、カナンにいながら、エジプトにいた時の否定的な霊に支配されてしまいます。また、荒れ野にいた時のように、「パンはあるか・水はあるか・肉はあるか・エジプトで死んでいた方がよかった……」と、つぶやきの霊に支配されてしまいます。

聖書は、神から人への「契約書」です。この契約は、神と人が互いの合意によって結んだ契約ではなく、神が御自分の御名にかけて結ばれた一方的契約です。双方の合意で結ばれなかったからこそ、この契約には救いがあります。それは、人がいかなるものであっても、神は御子イエスの十字架によって罪を贖うという契約だったからです。

友よ。「恵みの約束は…実現した」とは、主イエスにおいて実現したのであって、あなたに自動的に実現したのではありません。主によって成就した神の約束は、主イエスに結ばれている人に実現するのです。 「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(ロマ6章11節)。

21章44~45節

主はまた、先祖に誓われたとおり、彼らの周囲を安らかに住めるようにされたので、彼らに立ちはだかる敵は一人もなくなった。主がイスラエルの家に告げられた恵みの約束は何一つたがわず、すべて実現した。

カナンに入った神の子が得たのは「安息」です。ただしそれは「平安」ではなく「平和」です。しかし、ヨルダン川を渡って平和の中を歩むには、「この日はかの日に言葉を伝え」るように、経験という蓄積された声を聞けるようになる必要があります。

主イエスと弟子たちが舟で湖の向こう岸へ渡ろうとした時、大嵐になり舟が沈みそうになりました。ところが、主は眠っていました。弟子たちが主を起こすと、主は風と荒波を叱り、静めました。

主が共にいたのに、なぜ弟子たちは危ない目にあったのでしょうか。彼らは漁師だったので、舟の扱いには自信を持っていました。そのため、「主よ、これは私たちの力で出来ます。あなたの力は不要です」と言って、主を眠らせてしまったのです。主はその後、「あなた方の信仰はどこにあるのか」と言われました。不信仰とは、風や波を静められないことではなく、主イエスに依り頼まないことです。よって信仰とは、主を起こし続ける(依存する)ことです(ルカ8章22~25節参照)。

友よ。カナンに入ったならばもう嵐に遭遇しなくなるのではなく、嵐を静められるようになるのです。もちろんそれは、主イエスを起こし、主に働いていただけるからです。自分で働くことが律法で、主に働いていただくことが信仰です。「カナンで生きる」とは、信仰によって生きることです。

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