キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ヨシュア記 第24章

24章1節

ヨシュアは、イスラエルの全部族をシケムに集め、イスラエルの長老、長、裁判人、役人を呼び寄せた。彼らが神の御前に進み出ると(共に神の前に進み出た)。

ヨシュアは自分の最期の時が来たのを知って、もう一度人々をシケムに集めて語りました。この個所を口語訳聖書は、「つかさたちを召し寄せて、共に神の前に進み出た」と記しています。

ある神の人いわく、「三種類の説教家がいる」と、

  1. 人々を自分の前に進ませる…自分を語っている
  2. 人々を神の御前に進み出させる…人々を神の前に出させるが、自分は神の前に出ない
  3. 人々と共に神の御前に進み出る…人々と一緒に自分も神の前に出る

「さらに、四番目があります。それは、『そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい』(Ⅰコリ4章16節)とあるように、だれよりも先に主の御前に自分が出て行く人です」と続きます。かつてヨシュアは、モーセがシナイ山で主の御前に出ていた姿を見ていました。ペトロやヨハネは、主がゲッセマネの園で一人、父なる神の御前に出て祈る姿を見ていたので、後に自分もそれができました。

愛する友よ。あなたは家族や友人や知人の中で先に召された先駆者です。神の法則の順番は四番目の、「自分が神の御前に出る」ことから始まります。神の御霊は、神の器を通して働きます。「根が聖なるものであれば、枝もそうです」(ロマ11章16節)。

24章2節

ヨシュアは民全員に告げた。「イスラエルの神、主はこう言われた。『あなたたちの先祖は、アブラハムとナホルの父テラを含めて、昔ユーフラテス川の向こうに住み、他の神々を拝んでいた。』」

ヨシュアは、集まった民に何を語っているのでしょうか。一般的に、老人が若者たちに語る時は、「アブラハムもモーセも偉大だ。そのモーセにこの私は選ばれ、皆に仕えてきた」という具合に、アブラハムやモーセさえも自己アピールに用い、結局自分自身を語るものです。

しかしヨシュアは、自分を語るのではなく、「イスラエルの神、主はこう言われた」と、まず神の御計画と導きの真実さを伝え、その中に入れられた自分の事実を語っています。アブラハムもモーセもヨシュアも謙遜でしたが、その謙遜はどこから来たのでしょうか。

謙遜は、キリストの御人格(神格)に向かうと与えられ、御業に向かうと忘れてしまいます。それは、「祈り」を信仰の「手段」にするか「目的」にするかの違いとも言えます。祈りを「手段」とするならば、それは、イエスを用いて自分の目的を果たそうとすることです。祈りを「目的」とするならば、それは、祈ることそれ自体が神との交わりなので、それを何より大事にすること、すなわち主の御人格との交わりを求めることです。

友よ。主が最も求めていたのは、私たちを救うこと以上に、父なる神御自身を愛することでした。父に愛され、父を愛していたので、私たちのために十字架で自分を捨てることができました。謙遜は、御霊の実である以上に、御霊の実を入れる「かご」です。

24章3節

「しかし、わたしはあなたたちの先祖アブラハムを川向こうから連れ出してカナン全土を歩かせ、その子孫を増し加えた。彼にイサクを与え、」

ヨシュアは、イスラエルの歴史を振り返って語り始めました。その文章の中に十三回繰り返される「わたし」とは神御自身のことでした。

ノアの洪水の後、セム族はメソポタミア地方に住みましたが、そこでは他の神々を拝んでいました。「しかし、わたしは…先祖アブラハムを川向こうから連れ出し」(3節)「わたしは…あなたがたが労せずして得た土地…町を与えた」(13節)。ヨシュアは、今あるものはすべて神の恵みによるのだと強調します。人は、人生の意味を現在の「幸・不幸」によって決めています。過去が悲しくとも今が幸福ならば、「だから今幸福になれた」と、過去を善とできます。過去が豊かであったとしても今が不幸ならば、「だから今不幸になっている」と、過去を悪と思うものです。

今の「幸福・不幸」の基準をお金や健康や家族に置くならば、それは時の経過と社会の変化によって崩れます。人の幸・不幸の本当の基準は、「だれと継がり交わるか」です。ヨシュアは、「神と継がり交わった」イスラエルの歴史を語り聞かせています。

友よ。両親のことや幼い時や青春の日々の、辛いことや悲しい時などが思い出されますか。しかし、それらの上に神が見える人は幸いです。その人にとっての過去は、すべて益とされるからです。

24章4節

「イサクにはヤコブとエサウを与えた。エサウにはセイルの山地を与えたので、彼はそれを得たが、ヤコブとその子たちはエジプトに下って行った。」

イサクの双子の息子、ヤコブとエサウの関係は、弟が上になると兄が下になり、兄が上になると弟が下になることを繰り返しているようにも見えます。

最初に、弟ヤコブは兄エサウの長子の権利と父の祝福を奪って兄より上になり、兄は下げられました。しかし、兄から殺されそうになり弟は父の家から逃げ出します。ここでは兄が上がり、弟が下げられました。しかし兄エサウは、自分の結婚問題からセイルの山地に下げられて行きました。

下げられた弟ヤコブは、二十年後にヤボク川で神に出会い、「イスラエル(神の王子)」に引き上げられましたが、兄エサウは神から離れたセイルの地で下がったままでした。イスラエルとなったヤコブは、家族の建て直しのためにヨセフに期待しますが、彼は兄たちに殺され(売られ)、その二十年後、激しい飢饉のためにヤコブはエジプトに下ります。後の時代には、下がりも下がりヤコブの子孫は奴隷にされましたが、エサウの子孫は首長として領地を治めていました。この時、エサウの子孫はヤコブの子孫よりもはるか上にいるように見えましたが、人の目と神の目は違いました。

人生の浮き沈みの中にいる友よ。エジプトに下り奴隷となった彼らが得たのは、罪と裁きを過ぎ越す十字架と、葦の海を渡る復活でした。出来事の上下を見るのではなく、神との上下(関係の良し悪し)を見ることこそ大事です。

24章5節

「わたしはモーセとアロンを遣わし、エジプトに災いをくだしたが、それはわたしが彼らの中にくだしたことである。その後、わたしはあなたたちを導き出した。」

聖書には記されていませんが、モーセがエジプトに戻ってきた時、ヨシュアの霊は燃え、その後はいつも神の人モーセのそばにいたのではないでしょうか。

モーセは神の杖を用いてさまざまな奇跡を起こしました。奇跡の始まりは、「杖が蛇に」「ナイル川の水が血に」「蛙・ぶよ・あぶの災い」でした。それらは、エジプトの神々が無力な偽物である証明でした。それ以後の奇跡、「疫病・腫物・雹・いなご」は、健康と経済への干渉でした。

しかしモーセの出現は、民の解放とは逆の事態を招きました。ファラオの怒りと迫害がさらに激しく神の民に下されたことで、長老たちはモーセに反発し、ファラオに直談判するまでになりました。それは、「主がファラオの心をかたくなにされた」(出10章20節)からでした。

神がファラオの心を頑固にしたのは、それによってイスラエルの民が徹底的に世(エジプト)に失望するためでした。失望の強さは神の国を求める強さとなります。また、民がこの国に戻りたいと願わないためでもありました。 

友よ。神がエジプトに災いを下したのは、エジプト人に真の神が御自分であることを知らせるためであり、神の民にエジプトを出るための信仰を与えるためでもありました。まさに、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(Ⅰコリ1章25節)のみことばを知らされます。

24章6節

「わたしがあなたたちの先祖をエジプトから導き出し、彼らが葦の海に着くころ、エジプト軍は戦車と騎兵を差し向け、後を追って来た。」

神は、入口に血が塗られた家を過ぎ越されました。それは、十字架の血による罪からの解放でした。さらに、エジプトという世の力からの解放でもありました。

しかし、その状態は長く続かず、民が葦の海に到達するころには後ろにエジプト軍が迫って来ました。「人々は非常に恐れ…我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないから…荒れ野で死なせるためか」(出14章10~11節)と、失望の叫び声を上げました。それに対してモーセは、「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために戦われる主の救いを見なさい。…主があなたたちのために戦われる」(13~14節)と答えました。

神の子も、主の血によって罪と世から脱出したのに、より困難が増す現実に直面しますが、それはなぜでしょうか。それは、「わたしが主であることを知るようになる」(18節)ためだ、と主は言われました。

信仰の友よ。信仰の恵みとは、主イエスのもろもろの祝福を得ることではなく、主御自身と一つとされて生きることです。問題がなくなることではなく、主から離れずに共に歩むことです。ですから、本当の恵みとは、自分の願いがかなうことではなく、「自分を主に追いやってくれる出来事」そのものです。すると、前を遮る海も、後ろに迫るエジプトの軍隊も、恵みそのものとなります。

24章7節

「彼らが主に助けを求めて叫ぶと、主はエジプト軍との間を暗闇で隔て、海を彼らに襲いかからせて彼らを覆われた。…その後、長い間荒れ野に住んでいた。」

民は、迫るエジプト軍に怯え、必死に主に叫びました。その叫びに応え、主は民とエジプト軍を暗闇で隔てました。この暗闇は、イスラエルの民には「救い」となり、エジプト軍には「裁き」となりました。

「暗闇」は神の裁きを表します。主が十字架についたのは朝の9時であり、昼の12時に全地は暗闇に覆われました。

12時になる前の主は、
  1. 「父よ、彼らをお赦しください…」
  2. 「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」
  3. 「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。…あなたの母です」
との、3つの言葉を語られました。 暗闇に覆われた12時からは、
  1. 「我が神、我が神、どうしてお見捨てに…」
  2. 「私は渇く」
  3. 「成し遂げられた」
  4. 「父よ、私の霊を御手にゆだねます」
との、4つの言葉を語られました。

主が12時より前に語られたのは大祭司の言葉であり、まだ人類の罪を負っていなかったと分かります。しかし、暗闇となった12時以後に語られたのは、罪を背負った者の言葉でした。暗闇は父なる神と御子イエスの断絶を表し、これこそ神による罪の裁きでした。

友よ。神の民にとっての暗闇は、主が身代わりになって罪の代価を払ったこと(救い)でした。エジプト軍にとっての暗闇は、彼らが自分自身の罪の代価を払ったこと(裁き)であり、彼らは葦の海の底に沈みました。暗闇を引き受けてくださった主イエスに、心からの感謝をささげましょう。

24章8節

「…わたしは、ヨルダン川の向こう側の住民アモリ人の国に導き入れた。…あなたたちは彼らの国を得た。」

葦の海を渡った先は天国ではなく、アモリ人やモアブが住む敵地でした。

聖書の数字は不思議です。天地創造は「七日」かかりました。出エジプトした民は、「兵役に就く…二十歳以上の者…総計は六十万三千五百人」(民1章46節)とあり、女子と老人を加えると200万人を超えます。一方、「あなたたちが他のどの民よりも多かったからではない。…どの民よりも貧弱であった」(申7章7節)ともあります。数字を字義どおり受け取るか、メッセージとして受け取るかは、各自の信仰にゆだねるほかありません(筆者は後者)。

小民族が、大巨人エジプトから脱出し、先に土地に住み着いていた民族を打ち破れた理由は、「あなたたちに対する主の愛のゆえに、あなたたちに誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し…救い出されたのである」(同8節)とあるとおりです。そしてそれは、「主は地の面にいる全ての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」(同6節)からです。

友よ。「洗礼を受けてエジプトを出た先にはアモリ人がいて、彼らと戦わねばならないのに、救われる前と何が違うのか」と言っていませんか。そう言うのは、「主が力ある御手をもって…救い出す」(同8節)ことを忘れ、自分の力で戦おうとしているからです。神が、御自分の血をもってあがなった「宝の民(あなた)」を捨てることはありません。

24章9~10節

「モアブの王…バラクが立ち上がり…戦いを挑んだ。彼は…バラムを呼び寄せ…呪いをかけようとしたが、…彼はあなたたちを祝福することになった。わたしはこうして、あなたたちを彼の手から救い出した。」

ヨシュアはイスラエルの歴史をたどっています。アモリ人を退けると、次はモアブが立ち塞がりました。モアブの王バラクはバラムに、イスラエルを呪うように命じます。しかし、バラムに神が介入し、「この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ」(民22章12節)と言いました。それでも結局、彼は王の圧力に負けて出かけました。その時、神はろばの口を開いて語り、抜き身の剣を持った天使を見せて道を塞ぎました。

神に戒められたバラムは、「主が私の口に授けること、私はそれだけを忠実に告げる」(12節)と言い、「神は人ではないから偽ることはない。…言われたことを、なされないことがあろうか。告げられたことを、成就されないことがあろうか」(19節)と主を弁護します。そして、「神の祝福されたものを、私は取り消すことができない」(同23章20節)とまで言います。神は、異邦人で異教の神に仕える者さえ用いて、「御自分の宝の民」(申7章6節)を守ろうとしています。

友よ。神は私たちをエジプトなるこの世から脱出させたのみならず、これからも御自分の御手で救い出してくださいます。「神は人ではないから偽ることができない…告げたことを成就されないことはない」。バラムの語ったこの言葉を心に留めて、今日も歩んでください。

24章11節

「あなたたちがヨルダン川を渡り、エリコに達したとき、エリコの人々をはじめ、アモリ人、…戦いを挑んだが、わたしは彼らをあなたたちの手に渡した。」

ヨシュアの使命は、民にヨルダン川を渡らせ、カナンに定住させることでした。

信仰生活において、

① 葦の海を渡る、② ヨルダン川を渡る、③ カナン定着

これらの霊的意味は明確です。「わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラ2章19~20節)のみことばを3つに区切ってこれらに当てはめると、以下のようになります。

葦の海を渡る=「キリストと共に十字架に」
主の十字架の贖い=原罪からの解放
ヨルダン川を渡る=「生きているのはわたしではない」
自分の十字架を負う=肉に死ぬ
カナン定着=「キリストがわたしの内に」
聖霊に支配され、聖霊によって歩む

特に、ヨルダン川を渡ることは、自分の十字架(マタ10章38節・16章24節・マコ9章23節・ルカ14章27節)を負うことです。それは、人生の苦しみや重荷(病気、経済・家族・奉仕……)を負うことではなく、主に服従する(自分よりも主を優先する)ことです。愛は互いに自分を与え合い、そこに命が生まれるものです。

友よ。カナンにおける戦いで勝利できるのは、ヨルダン川で肉に死に続ける者です。なぜなら、あなたが死ぬからこそ、主イエス自ら戦うことができるからです。

24章13節

「わたしは更に、あなたたちが自分で労せずして得た土地、自分で建てたのではない町を与えた。あなたたちはそこに住み、…オリーブ畑の果実を食べている。」

カナンに入った神の民は、自分で労せずに得た土地に住み、自分で建てたものでない町に住み、自分で植えなかった地の産物を得ている、と言いますが、果たしてそのようなことが可能なのでしょうか。

これは神の世界における霊的現実です。なぜなら、
  • 罪からの救い
  • 神の子の命を持つ
  • 聖別された歩み
  • キリストの体とされる
  • 他者に仕える(愛する)
  • 肉体を脱ぎ捨て霊の体をまとう……

などの、罪人が救われ神の子として完成されるまでの全ては、人の能力や行いによってではなく、神御自身が人に備えた「恵みの御業」によって実現するからです。

しかし、「生まれたら自動的に神の御心が実現して天国に行ける」とは記されていません。パウロは、「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われた」と要約しています。恵みは「神の働き」、信仰は「人の応答」です。カナンまで到着したのも一方的な「神の恵み」でした。それを聖書は、「労せず」、「くじで分けられた」などと表現しています。

しかし友よ。「労せず」の次の言葉、「…町を与えた。…食べている」とは預言過去であり、それは、「あなたが神の恵みを『信じて受け取るならば』、町を得、果実を食べる」との約束の言葉です。人は、神が先に備えたものを受け取る信仰によって生きるのです。

24章14節

あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、…先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。

上述のみことばの「だから」とは、「神は約束通りに、エジプトから連れ出し、カナンの地を与えてくださったの『だから』」ということです。普通、「だから」の次の言葉は、「……しなさい」と続きます。この個所でも、「主に仕えなさい」と続いていますが、一般的な意味とは全く違います。一般的には、「『だから』、これからはあなたが私に仕えなさい」となりますが、ここでは、「私はあなたに仕えたい。『だから』、偶像を除き去りなさい」という意味です。

信仰とは、「神に働いていただく」ことです。ですから、信仰は最もネガティブ(消極的)な行為であり、同時に最もポジティブ(積極的)な行為です。ネガティブとは自分を「しもべ」とすることであり、ポジティブとは神を主人とすることです。そうすると、神はその人の中で御自分が主権を得て働くことができ、約束の恵みを成就できるようになります。

「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エフェ4章30節)とは、人が「イエスを主」としないので、人の中で聖霊が閉じ込められ、自由に働けないことを表します。

神に愛される友よ。愛する者同士で最も大切なことは、「あなただけ」になることです。互いに「あなただけ」の関係になる時、自分に対する相手の自由が許されます。神があなたに自由に働く権利が生まれます。「だから」、偶像を捨て、「主だけ」になってください。

24章15節

もし主に仕えたくないというならば、…あなたたちの先祖が仕えていた神々でも、…今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」

ヨシュアが民に伝えたかったことの締めくくりがここに記されています。その言葉に、リーダーたる者の毅然とした、しかも聖なる姿を見ます。

神に立てられたリーダーとは、人々を自分に従わせる人ではなく、自分自身が神に従う人です。神に従う人は神に仕えていただける人なので、その人の人格に御霊の実が大きく表れ、キリストの御形(みかたち)のようになります(Ⅱコリ3章18節参照)。

リーダーに必要なものは、賜物以上に聖なる品性です。それがあってこそ、人々に信頼され、神に与えられた賜物を十分に用いることができるようになります。なぜなら、神の御業は「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」(ゼカ4章6節)行われるからです。神は、神に献げられた人格を用いて御自分の御心を実現します。

自分に他者を従わせようとする人は他者の自由を認めず、制限し、圧力をかけます。神に立てられたリーダーは他者の自由を認めますが、しかし自由奔放を是認するわけではなく、その人に本当に自由を与える主を必死で知らせ、その上での自由を認めます。

友よ。あなたもまた主に立てられたヨシュアですから、あなたとあなたの家族は主に仕える者になってください。「ヨシュアのごとく、我も言わん、我が家と我は主に仕えん」(聖歌584番)。

24章16~17節

民は答えた。「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。…私たちが通って来た全ての民の中で、私たちを守ってくださった方です。

ヨシュアの勧めに、民は固い決意をもって応答しました。しかし、この決意は長く続かなかったことを聖書は記しています。同じく、私たちの神への決意も彼らと変わらないことに気づきます。

「安価な恵みとは罪の義認のことであって、罪人の義認のことではない。しかも、恵みがすべてのことをひとりでなすために、すべてのものが依然として旧態にとどまることができるのである」とは、ボンヘッファーの言葉です。これは、「神の恵みは、自分が努力して得るのではなく、無代価で与えられる。そのため、恵みの重さがわからなくなる。罪の赦しとは、過ちの赦しを超えたあなた自身の赦しである。そのため、安価な恵みに引き下げられてしまう」とも理解できます。

人を傷つけた罪を許されたこと、多くの借金を帳消しにしてもらったことなら、そうは忘れません。しかし、存在の罪(罪人)を赦していただいたことは見え難いので、三歩進むと忘れてしまうものです。実に、神の最大の恵みは、私の存在のために主イエスの命の代価が支払われたことであり、これを忘れてはなりません。

友よ。あなたが神に感謝しているのは、行き詰まっていた問題が解決したからですか。それとも、地獄へ行くと定められていたあなたが天国へ行けるようになったからですか。前者はイエスから簡単に離れますが、後者は離れるどころかさらに主を求めて近づいて行きます。

24章19節

ヨシュアは…「あなたたちは主に仕えることができないであろう。この方は聖なる神であり、熱情の神であって、…背きと罪をお赦しにならないからである。」

民はヨシュアの質問に応えて固い決意を表明しましたが、ヨシュアの返答は厳しく、右のように、「仕えることはできないであろう」と言います。なぜでしょうか。

その理由は、「この土地に住んでいたアモリ人をはじめ、すべての民をわたしたちのために追い払ってくださいました。わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です」との民の答えにあります。彼らにとっての神とは、生活を保障してくれる「力の神」であり、罪を赦してくださる「愛の神」ではないのです。神はモーセに、御自分は「熱情の神・ねたむ神」(出20章5節)である、と言いました。「ねたむ」という表現が出てくるのは、「愛の神」だからです。愛は、愛する者が自分以外の者のもとに行くことを一番嫌います。それ以上に、神は御自分から離れて行く人の行き先を本当に知っているゆえに、偶像礼拝の罪を厳しく戒めます。

友よ。「力の神」は、人の心をいつまでもとどめることはできません。なぜなら、思い通りに行かない出来事に直面すると人は離れてしまうからです。「愛の神」は、どこまでもその人をとどめます。力の神には「恵み」がありますが、愛の神には「命」があります。恵みは「出来事」であり、命は「人格」です。恵みは失せますが、命は永遠に続きます。あなたの神はどちらですか。あなたを「ねたむ」ほどに愛してくださる神を愛してください。

24章20節

もし、あなたたちが主を捨てて外国の神々に仕えるなら、あなたたちを幸せにした後でも、一転して災いをくだし、あなたたちを滅ぼし尽くされる。」

ヨシュアの最後の勧めは、「神を愛せよ」の一言に尽きます。それだけに、愛に反する偶像礼拝への忠告が、この章の中で3回(14・20・33節)も繰り返されます。

人が偶像を慕うのはサタンと「肉」が存在するためですが、サタンの存在を「肉」の上に置くと間違います。「『肉(罪)』が生きる時、サタンがその中で働ける」と理解すべきです。未信者の偶像とは主なる神以外の神々のことですが、神の子の根本的偶像は「肉」です。「肉」とは、神を差し置いて自分が生きることです。

「あなたがたは、それほど物分かりが悪く、『霊』によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」(ガラ3章3節)。また、「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反する」(同5章17節)ともあります。ここで、「望む」とは「決断する」とも理解できます。

神もサタンも、その人の決断(信仰)によって働くことができます。「幸せにした後でも…災いをくだし…滅ぼし尽くす」の言葉に、神を信じて行くことに終わりがあってはならないことを教えられます。

友よ。あなたはすでに神の救いの中にいます。神が滅ぼし尽くしたいのはあなたではなく、あなたの「肉」です。神の懲らしめは、あなたにではなく、あなたの「自分を主とする肉」に向かいます。

24章21~22節

民が…「いいえ、わたしたちは主を礼拝します」と言うと、ヨシュアは民に言った。「…主を選び、主に仕えるということの証人はあなたたち自身である。」彼らが、「そのとおり、わたしたちが証人です」と答えると、…

ヨシュアと民の信仰決意問答が続きます。民が「主を礼拝します」と言うのに対しヨシュアは、「言ったことは必ず実行しなさい」との思いを込めて、「証人はあなたたち自身だ」と言います。

「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(Ⅰコリ12章3節)のですから、主への信仰は聖霊によるものです。しかし、皆が同じ聖霊の働きを受けていても、それぞれの成長には大きな違いが出てきます。

それは、第一に信仰の「質」の違いです。すなわち、主との継がりと交わりに焦点を絞った、「イエスを主」とする信仰であるか否かです。主だけを徹底的に見つめることをせずに、牧師や教会や奉仕や知識が大きくなるようではいけません。成長するために必要な二番目は、正しい「権威」の下に身を置くことです。正しい権威とは、特定の教職者や教会組織のことではなく、徹底的に「イエスを主」とする真理のみことばを聞くこと、そして、それを受けて実践しようとする兄弟姉妹の交わりのことです。そこでこそ、肉に死んで主の霊に生きる神の子として成長できるものです。

友よ。あなたの信仰の「質」と「権威」を点検してください。聖書全体の真理のみことばを求め、それを実践しようとする仲間を求めてください。そこにおいて、聖なる者に造り変えられます。

24章23~25節

「イスラエルの神、主に心を傾けなさい」と勧めた。民は…「わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います。」その日、ヨシュアはシケムで民と契約を結び、彼らのために掟と法とを定めた。

ヨシュアと民は、主なる神を信じ続ける契約を結び、そのための掟と法を定めました。偶像礼拝に走らず、神を信じて歩み続ける掟と法とは、何でしょうか。

初代教会で、ペトロの説教の後に洗礼を受けた者は三千人いました。彼らは、「①使徒の教え、②相互の交わり、③パンを裂くこと、④祈ることに熱心であった」(使徒2章42節)とあります。ここに、掟と法を見ます。

何事にも基本がありますが、信仰の基本はここに表されています。

使徒の教え
みことば。旧約・新約聖書全体からイエス・キリストについてのメッセージを受け取る。語る側に責任があるが、受け取る側には見分ける責任がある。
相互の交わり
神の子同士の交わりが世間話であってはならない。みことば(メッセージ)が日々の生活で生きるための交わりとならねばならない。
パン裂き
礼拝・聖餐式。初代教会において礼拝の中心は聖餐式だった。良い説教も賛美も超えて、救いの原点である「十字架と復活」に立ち続けるため。
祈り
神への応答。祈りは神へのお願いではない。祈りこそ神との最大の交わり

信仰によって生きる友よ。生きるための「掟と法」をいつも自覚していますか。そしてこれらの「掟と法」は、他の誰でもない、神とあなたの約束であり責任です。

24章27節

民全員に告げた。「見よ、この石がわたしたちに対して証拠となる。…この石は、あなたたちが神を欺くことのないように、あなたたちに対して証拠となる。」

ヨシュアが最後に取り出した、信仰によって生きるための証拠物件は「石」でした。日本各地にも、しめ縄を張った大きな石が無数にありますが……。

聖書は主イエスを「石・岩」に例えます。「岩から水」(出20章10節・Ⅰコリ10章4節)「隅の親石・かなめ石」(マタ21章42節他)「つまずきの石・岩」(Ⅰペテ2章8節)「岩の上に家」(マタ7章24節)。何よりも、岩(イエス)の上に家を建て、その家の隅の親石としてイエスを据えることこそ、堅固な信仰の家を建て上げるために必要なことです。ヨシュアが石を取り出してそれを「証拠」と言ったのは、このことではないでしょうか。

すると、堅固な信仰は、人間が持つ才能や経験や修練の上にではなく、主イエスの上に、主イエスに支えられることで成り立つことが分かります。ヨシュアは次のように言っているかのようです。「あなた方は今、心からの決意を表したが、それで信仰を全うすることはできない。ここにある石を見よ。信仰とは、あなたの決意ではなく、主イエスに徹底的に依存することである」。

友よ。「『見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない』と書いてあるとおりです」と、パウロは言いました(ロマ9章33節)。彼自身にとって主イエスは最初つまずきの石でしたが、やがてどんな境遇の時も支える「救いの石」となりました。

24章28節

ヨシュアはこうして、民をそれぞれの嗣業の土地に送り出した。

モーセの後を引き継いでイスラエル民族を導いて来たヨシュアの使命は終わりました。

聖書に出てくる人々は、皆等しく使命を与えられていました。アブラハムは信仰の父として、イサクは信仰の継承者として、ヤコブはイスラエル十二部族の父として、ヨセフは家族をエジプトに迎える者として。

「幻なき民は堕落する」(箴29章18節)とありますが、正しくない幻は無意味です。その幻は、自分からではなく神から出たものでなければなりません。同様に、人が持たねばならない使命は、自分から出たのではなく神から与えられた使命でなければなりません。

しかし、神からの使命を受け取ることは、神の制約を受けることでもあります。「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(ヨハ21章18節)。それは、自分が主として生きることをやめて、イエスを主として生きることでもあります。

ヨシュアの使命は、民にヨルダン川を渡らせ、カナンに入植させることでしたが、それ以上に「主に従うこと」こそ、彼の最大の使命でした。

友よ。イエスを主として歩み出すと、すべての立場が使命となります。「使徒」とは「遣わされた者」の意です。実に、あなたも主に遣わされた者です。

24章29~30節

これらのことの後、主の僕、ヌンの子ヨシュアは百十歳の生涯を閉じ、エフライムの山地にある彼の嗣業の土地ティムナト・セラに葬られた。

ヨシュアの百十年の生涯が閉じられたのは、「これらのことの後」とあります。これは、「与えられた使命を果たしたので」という意味にも受け取れます。

彼の人生は、エジプトでこの世の君ファラオに支配された「罪の奴隷」としての四十年。葦の海を渡り荒れ野に入って律法を与えられ、「霊と肉」の戦いの中にいた四十年。そして、自分の十字架を負うヨルダン川を渡り、約束の地カナンに入ってからは、「神の国」を得る戦いの中にありました。

まさにヨシュア自身が、エジプトでは原罪という罪と戦い、荒れ野では肉という罪と戦い、カナンの地では神の国を獲得する霊の戦いを経験してきた人でした。一人の信仰者の歩みも、過越を経て葦の海を渡ること、すなわち十字架の血で罪を赦され神の子となることから始まります。律法を与えられた荒れ野での生活は、神の子に挑む古い人との戦いでした。そこからヨルダン川を渡り、自分の十字架を負って従う歩みは、神の約束の地を獲得する、聖霊に満たされるための戦いでした。

友よ。イスラエル民族の歩みとヨシュアの生涯は、あなたの歴史でもあります。あなたも、エジプト、荒れ野、カナンと進み、やがて「これらのことの後」が来ます。それは、神のパラダイスに入るためです。ヨシュアの百十年は、あなたにも訪れます。どうか、あなたの百十年の信仰生活を豊かなものにしてください。

24章31節

ヨシュアの在世中…ヨシュアの死後も生き永らえて、主がイスラエルに行われた御業をことごとく体験した長老たちの存命中、イスラエルは主に仕えた。

偉大な指導者モーセと、その後を継いだ、これもまた偉大な指導者ヨシュア。イスラエルの民は二人の神の人によって約七十年間導かれました。その影響もあり、ヨシュア召天後も長老たちによって信仰は引き継がれていきましたが、「長老たちの存命中」という言葉が気にかかります。

指導者の重要性はいくら強調してもし過ぎることはありません。優れた指導者の霊性(聖さ・ビジョン・忠実)は、文字である聖書の言葉を、現実に生きた出来事にして見せるものです。なぜならそれは、「聖書は、わたしについて証しする」(ヨハ5章39節)とあるように、イエス・キリストを見えるように表すからです。この世界と教会には多くのヨシュアが必要です。

「モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました」(ヘブ3章2節)。モーセとヨシュアは自らの上に立てられた権威に忠実に従い、人々(教会)に対しても忠実であったので、神と人々の両方から権威を与えられました。この権威により、ヨシュアは長老たちに絶大な影響を与えていました。

しかし、友よ。素晴らしい指導者を見つめてはなりません。私たちが見つめるべきお方はただ一人です。ヨシュアの指導を受けた長老を通し、ヨシュアを通し、モーセを通して、イエス・キリストを見つめてください。

24章32節

イスラエルの人々がエジプトから携えてきたヨセフの骨は、…ヤコブが百ケシタで、シケムの父ハモルの息子たちから買い取ったシケムの野の一画に埋葬された。

民は、500年前にエジプトで死んだヨセフの骨をカナンの地に埋葬することができました。聖書の不思議ですが、ヨセフとヨシュアの生涯はどちらも110年でした。

ヨセフは、「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときは、わたしの骨をここから携え登って…」(創50章24~25節)と遺言しました。それは、いずれ必ず、民がエジプトを出てカナンに戻ることを示すためでした。遺言どおり、「モーセはヨセフの骨を携えて」(出13章19節)エジプトを出ました。彼らの姿は私たちへの預言と勧めです。私たちも、アブラハム・イサク・ヤコブ・ヨセフ・モーセ・ヨシュアの「信仰の遺骨」を携えましょう。彼らが神に出会って応えた「信仰の遺産=遺骨」を、私たちがカナン(天国)に入るまで持ち続けねばなりません。

ヨシュア記と共に歩んできた友よ。神の人ヨシュアの遺骨であるこのヨシュア記を神に感謝しましょう。 神と共に歩んできた友よ。あなたの遺骨(遺産・証し)も、尊く大切なものであることを忘れないでください。あなたの遺骨が、神が憐れみ深いお方であることを、家族や周りの人々に語ることができます。モーセやヨシュアの名が残されたように、神はあなたも御自分の尊い器として用いてくださいます。ハレルヤ!

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