キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ヨシュア記 第4章

4章1節

民がすべてヨルダン川を渡り終わったとき、主はヨシュアに言われた。

やっとヨルダン川を渡り終えました。イスラエルの民はかつて葦の海を渡り、奴隷から解放され自由を得た時、「主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現わし…」(出15章1節)と、賛美と感謝をささげました。しかし、ヨルダン川を渡った民から賛美は出てきませんでした。

すべての人は、エジプトなるこの世で、罪と死の奴隷としての人生を過ごしていました。そこから、イエスを主と信じて神の子となった時、人生に光が射しこんで明るくなり、神を賛美しました。しかし、その後の荒れ野での四十年間は、賛美よりも不平の多い年月でした。

迫るエジプト軍を尻目に、分けられた海を通り抜けた時は、罪と死から解放する救いをはっきり実感できました。しかし、荒れ野からカナンへとヨルダン川を渡るこの時は、水ははるか遠くの上流でせき止められていたので見ることもなく、干上がった川底を普通に歩いただけでした。罪と死からの救い(葦の海を渡ること)の感動に比べると、聖別(ヨルダン川を渡ること)の感動は小さく思えるものです。

友よ。原罪からの救いは自分でも目を見張るほど大きく見え、肉からの聖別は小さく見えます。しかし、葦の海を渡る代価も、ヨルダン川を渡る代価も、「御子の血によってあらゆる罪から清められます」(Ⅰヨハ1章7節)とあるように、同じ尊いイエスの血です。もっともっと目を凝らして、聖別される恵みの大きさを思い浮かべてください。

4章3節

「彼らに命じて、ヨルダン川の真ん中の、祭司たちが足を置いた場所から、石を十二個拾わせ、それを携えて行き、今夜野営する場所に据えさせなさい。」

祭司たちと契約の箱が川床にとどまる間に、民は川を渡り終えました。その時、祭司たちが立ち続けた川底の十二個の石を記念として携えるように、と主は言われました。

契約の箱は、三位一体の神の姿と働きを表していました。箱の中には「十戒」、すなわち「言」なる神から出た十の言葉がありました。箱の蓋は「贖いの蓋」と言い、大祭司が年に一度血を注ぐ十字架の贖いを表しました。贖いの蓋を覆う一対のケルビムは、聖霊の存在を表しました。「父なる神→ 贖い主・御子イエス→ 聖霊」、こうして、神は御自分を人に顕(あらわ)しました。

とりわけ御子イエスは、神と人を執り成す仲介者・大祭司として人となられました。「永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司とし」(ヘブ7章28節)。「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(同9章12節)。

ヨルダン川を渡った友よ。あなたは、その記念の石を今も持っていますか。その石は、あなたがどのような時、何の出来事を通し、どのみことばによって聖別されたかを証しするものです。

聖別は一回だけの経験ではなく、何度も繰り返されるものであり、そうして積み上げられた石が多いほど信仰の成長につながります。それらの石(みことば・証し)を大切な記念として積み上げてください。

4章5節

ヨシュアは…言った。「ヨルダン川の真ん中の、あなたたちの神、主の箱の前に行き、イスラエルの人々の部族の数に合わせて、石を一つずつ肩に担いで来い。」

契約の箱を担ぎ、ヨルダン川の真ん中に立ち止まった祭司たちの姿と、十二人が石を一個ずつ肩に担いで持ち帰る姿に、大祭司キリストの御業が重なります。

旧約聖書に登場する大祭司の衣装と行動は、やがて来られる神の御子、大祭司イエス・キリストの姿と御業の予表でした(出28章参照)。

その大祭司の衣装に、胸当てと肩当てがありました。胸当てには十二個の宝石が並べられ、肩当てには片方に六個ずつ、計十二個の宝石がはめられていました。十二個の宝石とは、イスラエルの十二部族のことで、アブラハムの子孫である神の子たちを表します。

大祭司イエスの胸当ての宝石は、主が民を胸に抱いていること(愛)を表し、両肩の宝石は、民を肩に担いで父なる神のもとに連れて行くこと(力)を表しました。聖別の恵みは、人の努力や行いによるものではなく、大祭司であるイエス・キリストの愛(胸)と力(肩)によるものです。

神に愛される友よ。あなたはヨルダン川を自分の足で渡ったのではなく、主イエスの胸(愛)に抱かれ、肩(力)で担いでいただいて渡ったのです。そしてそれは一回だけの経験ではなく、今日もあなたは主の胸に抱かれ、肩に担がれ続けているのです。「だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります」(ヘブ10章35節)。

4章8節

「主がヨシュアに告げられたように、イスラエルの人々の部族の数に合わせて、十二の石をヨルダン川の真ん中から拾い、それらを…野営する場所に据えた。

ヨルダン川の川床から携えてきた石は、「主の契約の箱の前で、ヨルダン川の流れがせき止められた記念」(7節)でした。

すなわちそれは、「肉」という激流、「姦淫・わいせつ・好色・偶像礼拝・魔術・敵意・争い・そねみ・怒り・利己心・不和…」(ガラ5章19~20節参照)が主イエスによって無力にされ、人が復活の命に生きるようになったことの霊的な記念でした。「…わたしは神に対して生きるために…キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラ2章19~20節)。

前記の「キリストと共に十字架につけられる」とは、「自分の十字架を負う」ことでもあります。それは、弱さや悪癖や生きる上での重荷を、自分の努力や決意で解決するのではなく、主に自分をゆだね、主の御心のままに自分を取り扱っていただくことです。

友よ。信仰は、神と人の継がりと交わりです。そこで人ができることは、神に全存在をもって依存することです。「自分の十字架を負う」ことは、神に対して、「あなたは私を思いのままにして良いです」という「許可書」ともなります。人格と人格の関係には相手の許可が必要です。許可書があってこそ、主は私の肉という激流を止めることができます。

4章9節

ヨシュアはまた、契約の箱を担いだ祭司たちが川の真ん中で足をとどめた跡に十二の石を立てたが、それは今日までそこにある。

ヨシュアは、祭司がヨルダン川に立ち止まった所にも十二の石を立てました。「それは今日まで残っている」と聖書は記しますが、本当なのでしょうか。

もちろん、石そのものではなく、霊の石となって残っています。「神は霊」(ヨハ4章24節)ですから、霊の世界は時間と空間を超えます。ヨシュアの時代から約千三百年後に主が御降臨され、さらにそれから約二千年経ったのが現在です。

ヨシュアの時も現代も、ヨルダン川は肉の力では渡れません。しかし、昔も今も変わらず同じ手段と方法によって、ヨルダン川を渡って聖別の地カナンへ行くことができます。手段とは主イエスの「十字架」であり、方法とは自分の肉を十字架につける「信仰」です。肉に生きる所から霊に生きる所に行くための通路は、ヨルダン川の川底に残っている霊の石・主イエスの十字架と復活です。

ヨルダン川を渡れず失望している友よ。諦めないでください。ヨルダン川には、あなたのために今も石が立てられています。信仰とは、「主よ、この私を自由に取り扱ってください」という許可書でした。今一度、力を抜いて、主に自分をゆだねてください。「十字架」とは主があなたに御自分を与えてくれた確証であり、「信仰」とはあなたが主イエスに自分を与える約束です。神とあなたが互いに与え合う交わり、そこにはすでにカナン(聖霊の支配)が実現しています。 

4章11節

民が皆、渡り終わると、主の箱と祭司たちとは民の先頭に立った。

「急いで出る必要はない。逃げ去ることもない。あなたたちの先を進むのは主であり、しんがりを守るのもイスラエルの神だから」(イザ52章12節)とあります。これは、「過去も現在も未来も主があなたの責任を取ってくださる」との約束です。主は民(あなた)をエジプト(過去)から導き出し、荒れ野の四十年(今)を守ってくださいました。そしてカナン(未来)へと出発するこの時も、主の箱と祭司たちが先頭に立ちました。まさに「民の先頭に立って進む神」です。

族長ヤコブは神の約束を得ていたのに、自分が神に先立って進み、その結果二十年も肉に支配され続けました。ヤボク川の渡しでついに主に負かされたヤコブは、主にしがみつき、主を自分の前に置いて歩むように変えられました。

友よ。あなたの主はどこにいますか。過去にですか、現在の出来事の中にですか、これから歩む人生の中にですか。イエスを主として歩むなら、過去も現在も未来も主に支配して(守って)いただけます。「過去の事実は変えられないが、意味を変えることはできる」とは素晴らしい教訓です。それが可能なのは、過去と現在と未来を支配できるお方だけです。そうです、「主は…万事を益としてくださいます。」(ロマ8章28節)。

4章13節

約四万の武装した軍勢が主の前を進み、戦うためエリコの平野に向かって行った。

聖書に出て来る数字はとても不思議です。聖書の初めから、世界が「七日」で造られ、「アダムは九百三十年、セトは九百十二年生き…そして死んだ」との数字に驚きます。聖書の数字を字義通り受け止めるか、それとも神のメッセージとして受け取るかは読む人によって分かれます。

聖書における完全数は「7」と「12」であり、時にはその倍数(「24」人の長老・「49」年目のヨベルの年など)も含みます。「7」と「12」はどちらも「3」と「4」からなります(3+4=7、3×4=12)。「3」は、「三位一体の神」などのように、神の数字です。「4」は人間を表します。モーセの40年×3(エジプト・ミデアンの地・荒れ野)=120年の生涯や、40日40夜の断食など、聖書には数多くの例が記されています。神が「3」だけでなく「7」と「12」も完全数にしたことは、「神と人が一体になってこそ完全である」とのメッセージです。

イスラエルの民はエリコと戦うために四万の武装兵を送りますが、どんなに人(4)を多く備えても、霊の戦いには敗北します。しかし、7日目(3+4)に7回(3+4)城壁を回り叫んだ時(7×7=49)、城壁は崩れました。

友よ。人(4)は不完全なので、試みられてこそ完全になれます。その試みは、人を鍛えあげて完全な者にするためではなく、人(4)を神(3)につなげるためです。それは、「たとえあなたが弱く不完全でも、神につながるならば強く完全な者になる」とのメッセージです。

4章14節

「その日、全イスラエルの見ている前で、主がヨシュアを大いなる者とされたので、彼らはモーセを敬ったように、ヨシュアをその生涯を通じて敬った。

イスラエルの人々は、モーセを敬ったようにヨシュアを敬いました。彼はモーセと共にエジプトを出て、四十年もモーセに仕え、この度はリーダーとしてヨルダン川越えを見事に成し遂げました。

聖書全体からのモーセとヨシュアの関係は、「律法(モーセ)と福音(ヨシュア)」を示し、さらに「旧約と新約」を表しているとも受け取れます。「律法と福音は相反し、旧約は不完全であり新約において完成された」などと言う人もいますが、それは大間違いです。

「律法あっての福音」であり、「旧約聖書あっての新約聖書」です。さらに、「律法が理解されないでは福音の命は小さくなる」「旧約聖書を軽んじるならば、新約聖書を正しく受け取ることができなくなる」とも言えます。

「モーセを敬ったように、ヨシュアを敬った」とは、「モーセを敬えない人は、ヨシュアも敬えない」となり、さらに「律法を軽んじる者は、福音が理解できない」ともなります。三十九巻の旧約聖書と二十七巻の新約聖書は、同じ重さをもつ一冊の聖書です。

友よ。あなたは律法と旧約聖書を軽んじ、福音と新約聖書を重んじていませんか。それは、モーセを敬わず、ヨシュア(主イエス)に救われようとすることです。確かに主は救ってくださいますが、それでは神の救いの高さ・深さ・広さを理解することはできません。

4章18節

「主の契約の箱を担ぐ祭司たちはヨルダン川から上がり、…乾いた土を踏んだとき、ヨルダン川の流れは元どおりになり、以前のように堤を越えんばかりに流れた。

契約の箱を担いだ祭司たちが最後に陸に上がると、ヨルダン川の流れは元に戻りました。

人の力で渡ることを拒むヨルダン川は、民が渡り終わった時、再び堤を越えんばかりに激しく流れました。それは、一度ヨルダン川を渡った者が、元の所に戻ることが困難になったことでもあります。戻った激流は、荒れ野での肉に負けていた聖別されない生活に戻ることを阻止する力になります。

ただし、ヨルダン川を一度渡れば、二度と荒れ野に戻ることはない……とはなりません。葦の海を渡ることは、一回の経験で十分でした。モーセは民に、「恐れてはならない。…あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない」(出14章13節)と言いました。しかし、ヨルダン川を渡る(肉に死に、霊に生きる)ことは何度も経験せねばなりません。

聖別を求める友よ。これは日々の信仰の戦いです。一度渡ったならば、その後の肉欲は消される……というものではありません。一度渡り終わった後に、後戻りすることもできます。ただし、ヨルダン川を渡る一回一回の経験を積み重ねるごとに、ヨルダン川の水かさが増え、肉に支配された荒れ野に戻ることを差し止める壁になります。それが、「信仰に成熟した人」(Ⅰコリ2章16節)、大人の信仰者になることです。

4章19~20節 ①

民はヨルダン川から上がって、エリコの町の東の境にあるギルガルに宿営した。ヨシュアはヨルダン川から取った十二の石をギルガルに立て、…

ヨルダン川を渡り終えた民が宿営した場所は「ギルガル」と言う地でした。ヨシュアはそこに、川床から運んだ十二個の石を積み上げて記念としました。

「ギルガル」という名は、「転がし去る」が原意であり、そこから、「恥辱を取り除いた」(5章9節)という意味に理解できます。エジプトを出てから四十年間、イスラエルの民の、神への不従順……つぶやき、不信仰、モーセへの反抗、偶像礼拝、エジプトへの愛着など……は枚挙に暇がありませんでした。ギルガルは、そのような敗北の信仰生活を転がし去らせた記念の地でした。

不信仰を生み出していた「肉の命」が「霊の命」に代わったのは、契約の箱がヨルダン川の中にとどまり、水をせき止めたからであり、これこそキリストの十字架の御業でした。さらに、水がせき止められた川床を民が通ってきたことは、民が主の十字架と一体となったことを意味しました。「私たちがキリストと一体となってその死の姿にあやかるならば」(ロマ6章5節)が実現したのです。

過去の傷や恥辱を抱えている友よ。あなたにも解放の道・ヨルダン川が備えられています。傷、恥、無力感に敗れ続けた荒れ野を後にして、神の命によって生きる地に踏み出してください。肉に死ぬヨルダン川を恐れないでください。ヨルダン川をよく見てください。そこでは主があなたの恥辱を引き受けて十字架についています。あなたは乾いた川床を歩くだけです。

4章19~20節 ②

民はヨルダン川から上がって、エリコの町の東の境にあるギルガルに宿営した。ヨシュアはヨルダン川から取った十二の石をギルガルに立て、…

ギルガルはカナンの入口でしたが、民にとってはそれ以上に重要な場所になりました。民はここに女子供を置いて戦いに出ては戻って来ました。ギルガルは橋頭堡(きょうとうほ)、「戦いの陣地」でした。民はここで作戦を立て、補給を受け、回復し、敵との戦いに再度出て行きました。

後の時代に、「サムエルは民に言った。『ギルガルに行こう。そこで王国を起こそう。民は全員でギルガルに向かい…』(Ⅰサム11章14節)とあるように、イスラエル王国が始まった地もギルガルでした。その後も、民は何か出来事があるごとにギルガルに集まりました。

霊の戦いにおいても、橋頭堡・ギルガルが必要です。霊の戦いは、ファラオと死に支配されたエジプトでは不可能でした。神の子にされてなお肉に負けている荒れ野でも不可能でした。そこでは不信仰との戦いで精一杯だったからです。死(エジプト)と肉(荒れ野)から離れた者にこそ、霊の戦いができます。主の弟子たちが霊の戦いを始めたのはペンテコステの後でした。それは、「霊に満たされ」(エフェ5章18節)て、肉の支配から霊の支配に入った時でした。

友よ。霊の戦いに最初に必要なものは、「私は葦の海を渡った=原罪(罪と死)から主の血潮によって救われた」という確信です。次に必要なものは、(自分が弱く、肉に悩まされていても)「私はイエスを主として歩む=自分を十字架につける=ヨルダン川を渡る」という決意です。

4章19~22節

十二の石をギルガルに立て…、後日、あなたたちの子供が、これらの石は何を意味するのですかと尋ねるときには、子供たちに…教えねばならない。」

戦いの陣地ギルガルに据えられる記念の石は、後の子孫のための記念でもありました。霊の戦いの陣地ギルガルは、神の子たち一人一人にとって重要な場所です。

戦いの準備をする所
相手は「暗闇の支配者、天にいる諸霊」ですから、それらに対して「人の何か」で戦うことはできません。ここは戦うための「霊の剣・みことばの剣・正義の胸当て・平和の福音の履物・信仰の盾」を整える場所であり、教会でもあります(エフェ6章参照)。
戦いに出て行く所
悪魔は、進化論や人間中心主義などの偽りを武器とします。戦いとは真理の戦いであり、「本当の神はだれか」を明らかにする戦いです。真理によってみことばと聖霊が一つになり、相手を降参させ、「イエスは主」と告白させます。
戦いから帰る所
「疲れた者、重荷を負う者、だれでもわたしの元に来なさい。休ませてあげよう」との言葉は、神から遣わされて出て行った者たちにこそ必要です。ここも教会です。
補給する所
戦いとは自分を整えることです。それは、主イエスの中にさらに深く入り、主と一つとなることです。

友よ。敵に勝っても負けても、ここに戻るのです。この霊の戦いの陣地とは、イエスの十字架と復活の場所、イエスとさらに深く継がり交わる場所です。

4章24節

「それは、地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬うためである。」

アブラハム以来、イスラエル民族は「選民」とされました。「選民」とは「証し人」の意であり、神はこの民族を用いて、御自分が真の神であることを伝えました。

世界は混乱し、戦争・民族対立・宗教対立・富の格差などは相互に絡み合い、さらに深刻になっています。原因を求めて「あの人(国・指導者・宗教・貧しさ・政治…)が悪いからだ」と罪人探しをすると、さらなる憎しみ、怒り、自己中心へと進み、もっと激しい殺し合いへと発展します。

主は、生まれつきの盲人について、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」と言われましたが、それは「だれの罪でもない」と言ったのではありません。盗みも殺人もだれかの罪であり、それは「人類の罪(原罪)」です。罪探しではなく罪人探しをするなら、責め合うだけで解決はありません。人類皆が犯罪者であり被害者です。解決は、「神の業がこの人に現れるためである」(ヨハ9章3節)にこそあります。

友よ。原因を追究して責め合うのではなく、より積極的な解決を示すべきです。それは、葦の海とヨルダン川を渡ることであり、主の十字架による、原罪と肉からの解放です。人類の根本的問題は、主によって解決されています。「すべての民が主の御手の力強いことを知る」のは、あなたが「世の光・地の塩」になる時です。

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