キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

士師記 第10章

10章6節

イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行い、バアルやアシュトレト…に仕えた。彼らは主を捨て、主に仕えなかった。

士師記全体のテーマを、「罪・裁き・悔い改め・救い」と言えます。十章は悔い改めについて教えています。 特に、「主の目に悪」という罪を知らねばなりません。それは、主がその人に干渉できないことです。神はどんな大罪でも赦すことができますが、些細な罪でも神の干渉がなければ赦されず死に至ります。

パウロは、コリント教会の中でみだらなことを止めない者に対し、「このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。(Ⅰコリ5章5節)と言いました。自分の罪の結果を見させなければ、悔い改めさせることができないことを教えました。

そのことをこの章では、「主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らをペリシテ人とアンモン人の手に売り渡された」(7節)と記します。ヨハネは、「御子を信じる者(干渉される者)は裁かれない。信じない者(干渉されない者)は既に裁かれている。」(ヨハ3章18節)とも言い表しました。

友よ。「主の目に悪」とは、罪の大小や質の問題ではなく、神の元に罪を持ってこないので赦せない罪のことです。それは、「悔い改めないこと」とも言えます。悔い改めが起こるとき、全てが神により義とされます。

10章10節

イスラエルの人々は、主に助けを求めて叫んだ。「わたしたちはあなたに罪を犯しました。わたしたちの神を捨て、バアルに仕えました。」

偶像礼拝に走ったイスラエルは、ペリシテ、アンモンの人々の手に渡されます。苦境に立った民は、主に助けを求めて叫びました。

● 悔い改め ①

フェリクスはパウロから「正義や節制や来るべき裁き」について聞き恐ろしくなり、パウロを帰しました。

アグリッパ王は、フェリクスとは違いパウロの話しに興味を持ち最初喜んで聞きました。しかし、「彼らは退場して…」行きました(使24~26章参照)。

多くの人はフェリクスのように裁きと地獄を恐れ、またアグリッパ王のように興味を持ち納得までしますがこれは悔い改めの半分で、その後の解決は自分の努力や節制に頼るほかありません。

悔い改めは、「犯した罪」を恐れるのではなく、「犯させる罪」を恐れることです。その罪とは、神から目を話し、神以外のものに目を向けたこと、イエスを主としなかった罪を恐れることです。

友よ。イスカリオテのユダは、自分の犯した罪を深く自覚し、受け取ったお金さえも返しました。しかし、その責任を自分で受け取り自死しました。犯した罪を悔いることも悔い改めの半分です。悔い改めは、主イエスとの関係を正しくすることから始まります。

10章12節

シドン人、アマレク、マオンがあなたたちを圧迫し、あなたたちがわたしに助けを求めて叫んだとき、わたしは彼らの手からあなたたちを救ったではないか。

● 悔い改め ②

悔い改めには、罪への痛み悲しみが伴いますが、その大小は人によって違います。ゆえに、感情が激しく伴わなかったから不完全だったとしてはなりません。 痛み苦しむことが悔い改めそのものではなく、そこから神に向かわねばただの悲しみで終わります。

完全な悔い改めはありません。「私はあの人より悔い改めた…」と言った瞬間に、その悔い改めは消えます。悔い改めは生涯かけて行われ、一回悔い改めたら、二度とその罪を犯さないということでもありません。

一つの悔い改めが、次の悔い改めに導き、さらに次へ導きます。悔い改めは繰り返すことで、悔い改めのベテランになれます。それは、最初大きな罪を犯してちっぽけな悔い改めをし、繰り返すうちに、小さな罪で大きな悔い改めができるようにされることです。

聖フランシスは、老人になるほどに「私は罪人です」と言い、パウロも、「私は、その罪人のかしらなのである」(Ⅰテモ1章15節)と言いました。両者とも悔い改めのベテランと言えないでしょうか。

友よ。罪の痛み悲しみにとどまってはなりません。そこから進み、「私は主により頼み、主によってしか生きられない」こそ、悔い改めた者の姿では!

10章15節

…人々は主に言った。「私たちは罪を犯しました。私たちに対して何事でも御目にかなうことを行ってください。ただ、今日私たちを救い出してください。」

● 悔い改め ③

彼らが罪を告白し、「私たちに対して何事でも御目にかなうことを行って下さい」と言い、さらに「救って下さい」と祈った悔い改めは主が喜ばれるものです。

悔い改めは、救いの条件ではなく神の恩寵です。ですから、自分から始まる悔い改めは、取引になり、さらに自分を誇ることへも繋がります。悔い改めは神の恵みと聖霊に導かれ、諭されてこそできるものです。従って、聖霊に導かれた悔い改めには悲しみと痛みが伴いますが、それらは人々に対するものを超えて神に向かいます。その痛みと悲しみとは、神の愛に対する不従順や裏切り行為だからです。

神の人への最大の賜物は、御子イエス・キリストと彼の十字架と復活の御業です(ロマ6章23節)。それは私たちに御自分を百パーセント献げ尽した愛でした。

夫婦間における最大の罪は、不親切や暴言を吐くなど以上に、伴侶以外の異性を愛することです。様々の罪は許されますが、姦淫の罪は愛を引き裂きます。愛は命ですから、姦淫は命を失わせます。

友よ。神はあなたを十字架(御自分を全て捧げ)で起きたこと愛してくださいました。その愛に、あなた自身を委ねることが神を愛することで、これが悔い改めです。

10章16節

彼らが異国の神々を自分たちの中から一掃し、主に仕えるようになったので、主はイスラエルの苦しみが耐えられなくなった。

● 悔い改め ④

人はどうしたら悔い改められるのでしょうか。それに対しては、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(一ヨハ4章10節)が答えです。

悔い改めは、神から始まる神と人の愛の関係です。そのための方法論(断食・祈り方…)は重要でなく、相手・神御自身を良く知ることが必要です。知ることは聖書によります。聖書に永遠の命があるのでなく、「聖書はわたし(主イエス)について証しをする」(ヨハ5章39節)とあります。聖書に聞こうとする者を聖霊は喜んで助けてくださいます。 

神御自身と神の恵みを知るに比例して、自分の罪もわかります。そして罪の本質は、「私を愛してくださる神を、私が愛さないこと」だとも。そして神を愛することは、先ず「異国の神々を自分の中から一掃」することとも知らされます。聖霊は私たちがもっと神を愛せるように、人の罪を暴き、十字架へ進ませ、主イエスに直結させようと助けます。

愛する友よ。悔い改めは、他のだれよりも神のみを愛することです。愛することは委ね切ることです。

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