キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

士師記 第13章

13章2~3節 ①

…マノアという一人の男がいた。…彼の妻は不妊の女で、子を産んだことがなかった。主の御使いが彼女に現れて…「あなたは…身ごもって男の子を産む…」。

有名なサムソンがここから登場します。彼の出生は、子を産むことのできない夫婦から生まれる不思議から出発しました。

《以下、榎本保郎著一日一章より抜粋》

…私たちは「今までどうであった」ということにとらわれ易い。主の使いが「来年の春…あなたの妻サラには男の子が生まれ…」と告げた。それを聞いたサラは「心の中で…言葉を笑った」。信仰の世界とは神の言葉によって「今まで」から解放されることである。

「先生、私たちは夜通し働きましたが何も取れませんでした」と抗議したペテロも、「あなたの娘はなくなりました…先生を煩わすには及びません」と言ったヤイロも、「主よ、もう臭くなっています」とつぶやいたマルタも、みんな「今まで」にとらわれた人であった。主イエスはそれらの人たちに対して「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと言ったではないか」と叱責され、「恐れることはない、ただ信ぜよ」と激励されたのである。

信じるとは、私の今までがどんなものであろうとも、…語りかけられたみ言葉を何よりの確かなものとして生きることである。そのとき、「主にとって不可能なことがありましょうか」と語りかける聖書の真実を知ることができるのである…。

13章2~3節 ②

…マノアという一人の男がいた。…彼の妻は不妊の女で、子を産んだことがなかった。主の御使いが彼女に現れて…「あなたは…身ごもって男の子を産む…」。

信仰とは、「今まで』に捕らわれず、神の言葉を信じること」と先(前回)に記しました。それこそ、「悔い改めて福音を信じる」との聖書の基本です。

(絵を思い浮かべてください)…太陽なる神の命の光が人を照らしていますが、人は太陽に背を向けて自分の道を歩んでいます。その人の前に影があり、それはアダム以来の原罪を負う親から生まれ、罪人に育てられ、自分自身も罪を犯し続けた罪々という影です。その影を歩むことは不安です。さらに、その先に待つ「罪の価の死(魂の死)」はさらなる恐れです。

「悔い改めて福音を信じる」とは、先に待つ魂の死と罪々なる影を歩む方向を太陽なる神に向けることです。すると、

  • 最後に待つ死は無くなります
  • 今まで歩いていた影は後ろになります
  • 自分の前には光が広がりその中を歩みます

愛する友よ。「今までに捕らわれず」を無責任信仰に代えてはなりません。それは、「今までの自分」を消し、ただ神の恵みを求める信仰です。「今まで」の影は、すぐに消えず常に自分の後ろに着いています。その影は、あなたを後ろに戻さないブレーキとなり、より前に進む原動力にします。「今まで」が後ろにあっても、前にある光なるみことばは必ず勝利を与えます。

13章4~5節

今後、ぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物も一切食べないように気をつけよ。あなたは…男の子を産む。その子は胎内にいるときから、ナジル人として…。

神は、ペリシテから解放する器を得るために、マノア夫婦を選び男の子を与えると約束します。そして御使いは、妻に冒頭の生活をするように教えました。

神は御自分の器として、「ナジル人」を必要としました。ナジル人は、

ぶどう酒も濃い酒も絶ち、頭にかみそりを当てず、死体に近づかない、などのことを求められました。(以下民数記6章より)

ぶどう酒を飲まない(酒に酔う=支配)
この世に支配されないこと
髪の毛を剃らない
髪の毛は権威を表す。自分の上に常に神を権威として仰ぐこと
死人に近づかない
命のないものから分けること

そして、「その子は胎内にいる時から、ナジル人として神にささげられている」と。神は御自分の器としてナジル人を必要としますが、そのナジル人はナジル人(サムソンの母)から生まれるとも理解できます。 じつに、すべての神の子はナジル人から生まれました。そのお方こそ主イエスです。主が「彼らのために、わたしは自分自身をささげます」(ヨハ17章19節)とナジル人の生涯を送られたから人は救われました。

だから友よ。自分の聖別が大切です。神はあなたというナジル人が出てくることを待ち望んでいます。

13章5節

「ナジル人として神に献げられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう。」

サムソンは胎児の時からナジル人となるために、母親自身が聖別の道を歩んでいました。ナジル人と称される聖別された人とはいかなる人のことでしょうか。

濃い酒もぶどう酒も飲まない
酒は世の快楽の代名詞で人を酔わせ(支配)ます。「酒(世)に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ」(エフェ5章18節)なさいとは、聖霊に支配されなさいとの勧めです。
頭の髪の毛を切らない
髪の毛はかぶり物と同じで権威の代名詞。大祭司(主イエス)がターバンをかぶったのは、父なる神の権威の下にあることを表しました。イエスを主とすることです。
死人に触れない
「人の死体であれ、それに触れた者は…汚れる」(民19章11節)の「触れる」を「交わる」にすると理解できます。この世、命のないものと交わっては命を失います。「わたしは道であり、真理であり、命である」主イエスと交わるべきです。

友よ。なぜ主は聖さを求めるのでしょうか。それは「聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」(ヘブ12章14節)とあるように、神はあなたとより強く一つとなりたいからです。さらに、あなたを用いて御自分の栄光を現わしたいからです。

13章17~18節

「そこでマノアは主の御使いに、「お名前は何とおっしゃいますか…」と言った。主の御使いは、「なぜわたしの名を尋ねるのか。それは不思議と言う」と答えた。

最初に御使いに出会ったのはマノアの妻でした。夫マノアは自分の責任で、今一度神の御心を確かめようと御使いに会い、名を尋ねました。「名」は、単なる記号ではなく「存在」を表すからです。

御使いは名を「不思議」と告げます。原語では、「理解を超える」「超人間的」「それは不思議」の意とか?この物語の文脈から推測して「不思議」とは、名前(人格)以上に、御使いのなす「わざ」を表し、「不思議な業をなす者」とも理解できます。

この後のサムソンの生涯は、敬虔な信仰の親に育てられ立派な聖人に~と、否、彼の人格は破滅的です。破滅的人格だから、主のわざなど何もできまいと考えるが、ペリシテを苦しめ最後には民を救います。また、彼の犯す罪が敵を苦しめ、こんな人が士師(霊的・政治的指導者)であると認めることも難しい人物です。

その人格と行動は神が作るのでしょうか。否、神の望みではなく人類と彼の罪から出てきます。しかし、なお、神はそこにも働いて御自分の御業をなしていきます。ゆえに、「不思議な業をなす者」です。

友よ。この「不思議」は、サムソンだけにでしょうか。いいえ、あなたにも「不思議なお方」です。不思議なお方だからこそ、今日も支えられているのです。

13章24~25節

この女は男の子を産み、その名をサムソンと名付けた。子は成長し、主はその子を祝福された。主の霊が彼を奮い立たせ始めたのは…。

マノア夫婦に主の約束通り男の子が与えられ、サムソン(小さな太陽)と名付けました。ところが聖書は、彼がどのように成長したかは省略し、「主の霊が彼を奮い立たせ始めた…」と記します。

救世軍を創設したウイリアム・ブースの母は、揺りかごの息子に「全世界があなたを待っているのよ」と言って育てたと聞きました。彼も「神の霊」を注がれて神の人となり大きな働きをしました。しかし、前記二人の成長後は大きく違いました。成人したサムソンの行動が支離滅裂なことから、生育における何かの欠陥を持ったとも考えられますが、大きく神の業を行いました。それこそ、「神の賜物と召命とは変わることがありません」(ロマ11章29節)です。

ここで注意すべきことがあります。それは、「聖霊の満たし」と「聖霊が奮い立たせ」の違いです。前者の「満たし」は、聖霊にその人の人格が支配されることです。「聖霊が奮い立たせ」は、聖霊の賜物(能力の付与)と言うことができます。

友よ。聖霊に満たされた人は、自分も他者をも幸せにします。満たしなくて「賜物」を持つ人は、他者を助けても自分は高慢の罪に陥る危険性を併せ持ちます。なによりも聖霊に満たされた人になってください。

ページトップへ