キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

士師記 第5章

5章1~2節

デボラとアビノアムの子バラクは、その日次のように歌った。イスラエルにおいて民が髪を伸ばし、進んで身をささげるとき主をほめたたえよ。

5章は「デボラの歌」と呼ばれ、最初に「民が髪を伸ばし…身をささげるとき主をほめよ」と歌いました。

「髪を伸ばし…身をささげる」は、献身を表しました。「男であれ、女であれ、特別の誓願を立て、主に献身してナジル人となるならば、 ぶどう酒も絶ち…。ナジル人の誓願期間中は、頭にかみそりを当ててはならない。…髪は長く伸ばしておく」(民6章参照)。

献身とは、だれかに身を献げることで、自分の上に「主人・権威」をいただくことです。旧約の時代の幕屋で仕えた大祭司は、頭にターバンをかぶりました。大祭司はイエス・キリスト御自身の予型でしたが、その神であるイエス・キリストも父なる神の権威の下にいることを表しました。

献身は、神に仕えることではなく、神に用いていただく許可書です。イスラエルの民はデボラの言葉により神を信じ(同意)、信じただけではなく髪を伸ばして身を捧げました(許可)。その時、神はその人々を自由に用いて御業を行うことができました。

友よ。いつも霊の髪を長くふさふさに保ち続けてください。献身者とは神学校を出た、按手礼を受けた云々ではなく、イエスを主とする者です。だれでも献身者になれますし、ならねばなりません。

5章3節

もろもろの王よ、聞け、君主らよ、耳を傾けよ。わたしは主に向かって歌う。イスラエルの神、主に向かってわたしは賛美の歌をうたう。

神に献げて勝利を得たデボラとバラクは、勝利に酔うのでなく、周りの国々に自分たちの神を誇りました。 この勝利は、神が真実な真の神であるからでした。

ここで彼らは自分たちの神を、イスラエルの「神・主」と呼んでいます。日本では八百万の神と同じ漢字を用いるので混乱します。そこで、聖書の「主・神」を原典から明確にする必要があります。

「主(ヤーヴェ)」
名詞でも動詞でも形容詞でもなく、「……させる」の言葉。そこから「自存(自分で存在する)、創造主(無から有を造るお方)を表します。
「神(エロヒーム)」
聖書は、「神は言われた。我々にかたどり、我々に似せて…(創2章26節)」と。人間の創造前から複数「我々」で存在する神。そこから、愛の神・三位一体の神を表します。

諸々の神々は、自然や人の考えや欲望から作られ、自存も創造もできません。また、権威を振りかざし怒りと罰と人の欲の代理を担うだけです。デボラたちは、主(創造主なるお方)であり、神(三位一体の愛なるお方)こそ、真の神であると皆に宣言し賛美しました。

友よ。賛美は讃美歌を歌うことではなく、聖霊により、イエスを主として日々生きることです。それを父なる神は一番喜ばれ、賛美する者を祝福されます。

5章8節 ①

新しい神々を選び取ったので城門に戦いが迫ったがイスラエルの四万人の中に盾も、槍も見えたであろうか。

デボラは、神がエジプトから導き出した歴史を振り返ります。あの時、「地は震え、天も滴らせ、…イスラエルの神、主の前に溶け去った」ほどの激しい神の御臨在がありました。しかし、つい最近までは、「新しい神々を選び取った」。ゆえに、敵が迫っても戦う者もいなくなっていたと回顧します。

デボラの時代に民が選び取った新しい神々は、バアルなどであったと思われます。バアルは豊穣の神と呼ばれますが、それは人の肉を満たす以外の何ものでもありません。日本で人々に拝まれている神々も、バアルなる御利益の神と言えます。

それでは、今日のクリスチャンたちはバアルを持っていないでしょうか。子どもが神を信じることよりも…塾へ。みことばに対する時間よりも…テレビ・ゲーム・インターネットへ。パウロの、「霊によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」(ガラ3章3節)との厳しい声が聞こえてきます。

だれも新しい神の責任にはできません。新しい神を選ぶのは、自分自身の肉を満たすことだからです。

主の兵士になれない友よ。その原因を日本の社会や風習、さらに教会におくのを止めてください。「あなたは…奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられる父に祈りなさい」(マタ6章6節)。

5章8節 ②

新しい神々を選び取ったので城門に戦いが迫ったがイスラエルの四万人の中に盾も、槍も見えたであろうか。

イスラエルの民は、アブラハムの時代から神の力強い御手に導かれた体験を数知れず経験してきましたが、それでも偶像の神々に命を奪われてきました。

世界の潮流に、「へブル的人生論(神中心)と「ギリシャ的人生論(人間中心)」、さらに「東洋的人生論(自然界中心)があります。つい数十年前までは、キリスト教的国家を中心とした価値基準が重んじられていましたが、最近は急速に人間中心へ移っています。

人間中心はさらに過激になり、「ポピュリズム(一般大衆の利益や権利、願望、不安や恐れを利用し、大衆の支持をテコに、今までの体制を変えようとする政治姿勢)」が台頭し、各国の指導者に就いています。

「世界中は同じ言葉を使って」いましたが、「人々は…シンアルの地に…住み着いた」と。これは地理的移動ではなく、「言」の移動で、「イエスが主(神が基準)」という基準(言葉)を「人が基準」へ移したことでした。そこで彼らは「塔(シンボル・権力者)を建て、「町(団結・社会体制)」を造り「有名になる(自分を誇る)」ことを願いましたが崩壊しました(創11章)。

友よ。「初めに神が…」こそ最も重要です。神あっての自分です。聖書を読む時も同じで、「自分から見た神」を求めるとバアル礼拝に陥ります。自分を退け、「神が見た私」に自分を置くと命を得ます。

5章16節

なぜ、あなたは二つの鞍袋の間に座して、羊の群れに吹く笛を聞くのか。ルベンの諸支族には大いに心に究めるものがあった。

ルベンは族長ヤコブの最初の子として生まれ、イスラエルの長子として期待されたが、ヨルダン川を渡りカナンに入る時、「私たちにヨルダン川を渡らせないでください」と懇願した。理由は、「おびただしい数の家畜を持っていた」ためでした(民32章参照)。

信仰生活で、「紅海」はエジプト(世)から救われるキリストの十字架の贖いを表し、「ヨルダン川」は肉に死んで霊に生きる聖別を表しました。しかし、ルベン族は聖別の恵みを拒否しました。彼らは、一旦は兵を出し他の部族と歩調を合わせて戦いましたが、それ以後はヨルダン川東側に住み続けました。

「羊の群れに吹く笛」とは、主からの神の子たちへの言葉です。しかしルベンには、「この世」と「神の国」の二つの鞍袋がありました。語られた言葉をどちらに納めるかを決めるのは、勿論ルベンです。それは、神に従って「自分の益か」、世に従って「自分の益か」が基準です。どちらにしても主人は「自分」です。

友よ。だれも自分で「世なる鞍袋」を捨てられません。捨てるには、自分と言う主人がイエス御自身に代わっていただいた時だけです。「あなたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」のですから、どうぞ神の声を、神の命の皮袋(心)に受け取ってください。

5章31節

このように、主よ、あなたの敵がことごとく滅び、主を愛する者が日の出の勢いを得ますように。国は四十年にわたって平穏であった。

デボラとバラクの信仰からもたらされた国の平穏は40年に及びました。それは、神と民の間が正しい関係=平和になっていたから、とも言えます。

神はアブラハムを砂漠の国に導きました。沙漠は人に死をもたらす敵です。そこで必要なのは、全能であって人格を持ち、呼べば応える神です。神がカナンを神の国として選んだ目的がそこでした。

やがて遊牧から農耕へ移ると、農耕の神バアルの方が、見えない神よりも確かに見え民を悩ませました。 日本は多雨多湿が命の源なので自然が神となり、生と死を自然の中に得ようとしますが、それも実体がありません。そこで、人を神として崇める方がわかりやすくなります。日本は教祖信仰の国です。

ギリシャ的世界は、優秀な人が生を得続ける世界となり、ギリシャ神話の神々が人であるように、人間中心の世界となります。どの世界にも偶像は出現します。

友よ。冒頭の「あなたの敵」とは、「主(創造主)なる神(愛の神)」以外に自分を向かわせる、自分の中にある敵・肉そのものです。「悔い改めて福音を信じる」悔い改めとは、自分を神とすることを止めることです。しかしイエスを主とするならば、試みの40年でも、主の平和の中で過ごすことができます。

ページトップへ