キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

士師記 第9章

9章1節

エルバアルの子アビメレクはシケムに来て、母方のおじたちに会い、彼らと母の家族が属する一族全員とにこう言った。

「神は…」から「私は…」に移った世界を支配するのは、肉と世とサタンです。ギデオンの多くの妻たちから生まれた子たちが争うのは当然です。その中の一人、異教の母を持つアビメレクが立ち上がりました。

彼は母の故郷に行き、「父の息子70人に治められるより、身内の私に…」と説得します。身内なので賛同し、彼にお金を渡し、その金でならず者たちを雇って自分の兄弟たちを殺し自分が王となりました。 兄弟の中で生き残ったヨタムは、「木々(神の民)が誰かに油を注いで王にしようとした」と語り出し、「オリーブの木に頼んだが断られ、次にいちじくの木に頼むも、ぶどうの木に頼んでも断られた。仕方なく茨に頼んだら、喜んで受け入れた」と現状を語ります。

オリーブもいちじくもぶどうも、豊かな実を結ぶ神の民の象徴なのに、人々を傷つけるだけの有害無用な茨なるアビメレクが王位に就いたと嘆きます。

しかし友よ。このヨタムも「私の父はあなたたちのために戦い、命を掛けて救いだし…」と語りますが、彼自身が先祖の罪を悔い改めていません。自分もアダムの子孫で、ギデオンの子であることを認めてこそ、その言葉に力を持ち人々を動かすことができます。悔い改めてこそ福音に力が加わります。

9章8~12節

「木々が、だれかに油を注いで自分たちの王にしようとしてまずオリーブの木に頼んだ。『王になってください。』…いちじくに…ぶどうに頼んだ…」

ギデオンの息子たちは兄弟アビメレクに殺されました。その中でただ一人生き残った末子ヨタムが、義兄の罪を知らせようと立ち上がりました。

聖書は、イスラエルの民を「オリーブの木、いちじくの木、ぶどうの木」に例えるのはなぜでしょうか。それは、三つの木々が結ぶ実の素晴らしさではなく、三つの木々にある特性に関係します。

イスラエルは砂漠の乾燥地で、ほとんどの木々は育つことができません。その環境で育ち実を結べるのは、地中深く根を張る木だけです。ぶどう、いちじく、オリーブの木は、かなり深く地中に根を張るので乾燥地でも実を結びます(2m程のいちじくの木の根は、その倍も地中に根を張ると言われています)。

神はイスラエルを生活困難な地に導きました。そこはこの世の諸々の雨(恵み)ではなく、ただ主イエスに根を張り、命の水(神の命)で生きるようにさせる恵みの地でした。「命の泉はあなた(主イエス)にあり、あなたの光に、私たちは光を見る」(詩36・10)。

友よ。神は、オリーブ、いちじく、ぶどうによって神の国を造りたいと願っています。それは、主イエスに直結して生きる者たちです。沙漠(この世)に負けない命は、地中深くにいる主イエスの中にあります。

9章14~15節

そこですべての木は茨に頼んだ。『それではあなたが王になってください。』。茨は木々に言った。『…私に油を注いで王とするなら…私の陰に身を寄せなさい。』

神が選んだのはオリーブの木、いちじくの木、ぶどうの木でした。これらは、地中深く根を下ろし、そこからの養分を得て実を結ぶ神の子たちを表しました。

しかし、神が選んだ三本の木が指導者(王)になることを拒んだので、すべての木々(国民)は、実を結ぶこともできず、むしろ人を傷つけるだけの茨なるアビメレクを王に選びました。この記事から、多くの兄弟たちを殺し自分が王になろうとしたアビメレクは最大の罪人です。しかし、三本の木々にも問題があります。オリーブは「油を捨てて」。いちじくは「良い実を捨てて」、ぶどうは「ぶどう酒を捨てて」王にはなれないと言いました。それは、神の選びと賜物を無視したことでした。

主は、「私はぶどうの木、あなた方は枝であり、私につながり豊かに実を結ぶ」と言われました。主により結ぶ実は、自分のためではなく他者に与え仕えるためでした。さらに、「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言い、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とも。

神に選ばれた友よ。神に与えられた神の子の存在や賜物を、自分のためだけに用いているならば、三本の木の罪を犯すことにならないでしょうか。

9章23節

神はアビメレクとシケムの首長の間に、険悪な空気を送り込まれたので、シケムの首長たちはアビメレクを裏切ることになった。

生き残ったヨタムは、アビメレクに加担したシケムの首長たちを責め、「あなた方は不正をしているのでアビメレクと争う」と告発し、ベエルに逃げました。ヨタムの予告どおり両者の間に争いが起こります。聖書はその理由を、「神はアビメレクとシケムの首長の間に、険悪な空気を送り込まれたので」と記しますが、神は人と人を争わせるお方なのでしょうか。

神は、義と不義を混同し、時には険悪な悪霊を送り込むお方ではありません。それは、人間が神を無視するので干渉できなった結果、「肉とサタンとこの世」という罪に支配された世界となり、争いや殺し合いは当然起こるべくして起きてきます。

神は、その結果を人が自分で受け取ることで罪に気づき、御自分に助けを叫び求めるのを待つ以外にありません。これこそ、神の不干渉という干渉です。「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせ…。神は彼らを恥ずべき情欲にまかせ…」とある「まかせ…」(ロマ1章18~32節参照)こそ、神の消極的干渉です。

友よ。自分を罪に「まかせ」て険悪な空気にせず、神に「まかせ(委ね)」てください。すると神は険悪な空気を追い出し、聖霊の支配へと変えてくださいます。

9章57節

神は、アビメレクが七十人の兄弟を殺して、父に加えた悪事の報復を果たされた。また神は、シケムの人々の行ったすべての悪事にもそれぞれ報復を果たされた。

勇者と呼ばれたギデオン物語は、息子アビメレクが死に、反抗した末子ヨタムと民も「呪いをその身に受けることとなった」の言葉で終わりました。

この残念な結末を遡れば、ギデオンの罪から始まっていました。彼が神に目を注いでいる時、神は積極的に干渉できましたが、神から自分に注目した時から神は干渉できなくなり、家族同士が殺し合いました。

それを聖書は、「神は、…悪事の報復を果たされた」と記します。ここでも、神が直接手を出して報復しているのではありません。人の罪の本質は、神が手を出すことができないこと…神との断絶のことです。断絶すると、自分の命で生きねばならなくなりますが、その自分の命こそ自己中心です。 ゆえに人の罪は行いではなく、神との角度にあります。どんなに大きな罪を犯していても、神に角度を合わせると、神は来て助けることができます。

友よ。ギリシャ語で罪は「的外れ」、ヘブル語では「包み隠す」です。包むとは、自分の責任を自分で負うことです。包みから自分を出すことが悔い改めです。そして、自分を神に差し出すことが、的を合わせることです。自分を包まず、神の前に差し出してください。悔い改めると、福音が働き出します。

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