キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ルカによる福音書 第15章

15章1~2節

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

ルカ福音書15章には多くのメッセージがありますが、それらは特に三位一体の神の姿を明確に見せてくれます。「父なる神」と「御子イエス」と「聖霊」の立場と役割と相互関係をよく表し、同時に、それぞれの存在と人との関係も明確に見せてくれる、大事な一章です。

聖書が告げる命とは、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」(Ⅰヨハ1章3節)のことであり、それは、三位一体の神とつながり交わる中にあります。

父にゆだねられた羊の中の一匹を捜し出す御子イエス(4~7節)。御子に贖われた人をキリストの花嫁として整える聖霊なる神(8~10節)。聖霊と御子の愛の御業によって神の子とされたのに、なお反抗して出て行った弟息子を待つ父なる神(11~24節)。父の恵みの中にいるのに、父に従いきれない兄息子を諭す父の愛の姿(25~31節)。これらを章の中に見ることができます。

友よ。捜し(御子)、整え(聖霊)、待つ(父)、三位一体の神が、あなたを愛しています。「神様、私を捜し出して招いてくださったことを感謝します」と祈りましょう。「神の霊に導かれる者は皆、神の子なのです。…どんな被造物も、主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを離すことはできないのです」(ロマ8章14・39節)

15章4節 ①

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、…見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」

100匹の羊の中の一匹が迷い出ました。羊飼いは、99匹を置いてまで、迷った1匹の羊を血眼になって捜し歩きます。

羊飼いが世話をする羊は、自分の物ではなく主人の所有物です。この物語の中の、羊飼いは主イエス、羊の所有者は父なる神、羊は人です。迷った羊は、父なる神が「…御子を愛して、その手にすべてをゆだね」(ヨハ3章35節)られた、父の財産(命)です。羊飼いイエスの心は、父の信頼を裏切るまい、父を悲しませまいと必死です。もちろん、迷った羊自身の悲しみも、羊飼いイエスはだれよりも知っています。愛は一つになることを求めます。なぜなら愛は命であり、命はあなたと私が継(つな)がり交わる中にあるからです。御父と御子は一つであり、三位一体の神は、人と一つになることを何よりも望んでいます。

友よ。一匹の羊が迷い出たために、所有者なる父なる神も、羊飼いなるイエスも、迷った羊なる人自身も、皆が痛み苦しんでいます。一つとなった命と愛には喜びと感謝が満ちますが、それが崩れると痛みと悲しみが生まれます。だれか一人の悲しみは、全体の苦しみです。父なる神と御子イエスは、あなたと一つになって、あなたと喜びを共にしたいと願っておられます。

15章4節 ②

「その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(詩23・1)のに、どうしてこの羊は羊飼いのもとから逃げ出したのでしょうか。

動物の羊を壁や柵などで一か所にとどめることはできますが、人なる羊を閉じ込めることはできません。愛なる神は、人の自由を奪う人格無視は決してなさいません。

愛は、相手に全き自由を与えなければ成り立ちません。羊が羊飼いから離れたのは、「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角へ向かって行った」(イザ53章6節)からで、これは羊である人の自由意思から出た行動です。そのことをヤコブは、「誘惑に遭うとき、…だれも『神に誘惑されている』と言ってはなりません。…人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ…」(ヤコ1章13~14節)と記しています。神は人に、御自分から離れる自由さえも与えました。

友よ。罪は愛があるから存在するものです。見知らぬ人の不貞は自分への姦淫罪とはなりませんが、伴侶の不貞であれば自分への大罪となります。罪とは、愛に対する不真実と反抗です。神を愛することのアルファからオメガ(初めから終わり)までのすべては、「わたしにつながっていなさい」(Ⅰヨハ15章4節)との主のみことばの中にあります。

15章4節 ③

「その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」

魂の羊飼いである主イエスは、父の囲いから逃げた罪人を捜します。それは、父の悲しみと迷った羊の悲しみを、自分の悲しみとしているからです。

迷い出た羊がどこにいるかは、羊ではなく羊飼いが知っています。「あなたはどこにいるのか」(創3章9節)。迷った羊はサタンに囚われ、死の牢獄に入れられています。牢獄の入り口には、「罪の価は死なり」と記されており、「ただ一つ、罪の無い命だけが、この者を贖い、解放することができる」とも記されています。

羊飼いが羊を捜しに行った場所は、野原でも谷底でもなく、地獄です。羊飼いイエスは、そこに羊を救いに行くために、人となり、地上で生活し、ゴルゴタの丘へ辿り着きました。そこに立てられた十字架の上で、イエスは死の国の支配者と命の取引をしました。罪の代価は「罪の無い命」だけです。それを用意するためには、神が人となるしかありませんでした。

羊飼いに見つけていただき、肩に担がれ、父の御もとに戻された友よ。「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家に、喜びの祝いに連なることを許す」(イザ56章7節)と主は言われます。

15章8節 ①

「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、」

父と御子と聖霊の関係は、次のみことばの中に要約されています。

「わたしは去って行く…弁護者をあなたがたに遣わす…その方は、罪・裁き・義について教える…その方は真理の霊であり、真理に導く…その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなた方に伝えるからである。父の持っているものはわたしのもの…わたしのものを受けて、あなた方に告げる」(ヨハ16章5~15節)。 

御子イエスは、父なる神からゆだねられた羊を捜し連れ戻すと、羊を聖霊にゆだねます。聖霊は神の子たちを、キリストの体なる教会に整えます。

十枚の銀貨とは、結婚式で首に巻く首輪のことで、花婿からのプレゼントです。私たち一人ひとりはキリストの花嫁であり、十枚そろってキリストの体なる教会としての花嫁を表します。十枚そろった状態が完全であり、一つでも失うことは花婿に対する不忠実になります。そこで女(聖霊)は、失った一個の銀貨(神の子)を必死に捜します。

友よ。あなたは十枚の銀貨の中にいますか。それは、組織や形としての教会を超えた、父なる神と御子と聖霊との命の交わりによる、真実な兄弟姉妹同士の霊の交わりです。その交わりこそ真実な教会です。あなたもその輪の中に入ってください。

15章8節 ②

「銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。」

婚約指輪を無くしたら必死で捜しますが、聖霊なる神は、キリストに贖われた「神の子」を捜しているのですから、さらに命がけです。そうするのは、価値があり、愛しているからです。

ある人が、この個所を次のように説明しました。

十枚の銀貨は、穴を開けられ、ひもで結ばれたものでした(穴が開けられた五百円硬貨を想像してください)。すると、この硬貨は使い物になりません。それは死んだ硬貨であり、「罪と世に死んだ」ことを表します。当然、この世では価値を失いますが、一つの目的のためにだけ存在します。それは、「キリストのために」です。さらに、硬貨を結んでいるひもは、真理の帯であり、真理の御霊に支配される「キリストの体=教会」のことです。

前記の説明は、然り、アーメンです。私たちはキリストに贖い出され、キリストの体なる教会とされ、キリストの花嫁となる存在です。ですから、一つを失って嘆くのは、聖霊なる神だけでなく、他の硬貨(兄弟姉妹)たちも同じです。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(Ⅰコリ12章26節)。

キリストの花嫁とされた友よ。教会から離れている兄弟姉妹のことを祈り続けましょう。

15章8節 ③

「銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。」

婚約指輪を無くしても、再度買いそろえることは出来ますが、失った子供の代役は、だれも、どんなことをしても、絶対にできません。

前ページに引き続き、ある人のさらなる説明

この銀貨が失われた理由は、

穴を自分でふさいでしまった
十字架につけられたのに、キリストによって生きることをやめ、自分で生きようとした。
ひもを切ってこの世に入って行った
自分の存在をキリストではなく、この世で認めてもらおうとした。
真理のひもを拒否した
キリストへの服従を拒み、自分の考え通りに生きることを選んだ。

友よ。確かにその通りです。私たちも、何度ひもから抜け出て、自分の好きなところへ逃げ込み、そこから何度連れ戻されたでしょうか。愛は、ともし火をつけ、掃き、念入りに探す熱情を持っています。しかし、悲しい愛もあります。それは、手を出せず、沈黙して待つだけの愛です。銀貨を捜す女である聖霊に、愛の不足と不備は決してありません。あなたの方から聖霊の前に出て行ってください。「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エフェ4章30節)。

15章8節

「ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。」

聖書は、女(聖霊)がどのように一枚の銀貨を探し出したかを丁寧に説明しています。

「ともし火をつけ」
神の子が主の体なる教会から離れるのは、心が光(キリスト)を失い闇になるからです(「闇」の字は、「音」が「門」に閉ざされた状態)。キリストの福音を伝えるみことばが失われることで、闇が作られます。聖霊の働きは闇の中に光を届けることから始まります。「みことばが開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます」(詩119・130)。聖霊はみことばを薪にして、その中で火となって燃え、キリストの光を輝かせます。
「家を掃き」
銀貨を探すには、邪魔物を片付け、ゴミを取り除く作業が必要です。間違った知識や、命を失った人々や、この世の交わりを取り除くことも必要です。聖霊はそこから、命ある真理の交わりに連れ出します。

 迷う友よ。「御霊も…弱いわたしを助けてくださる。…御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。…御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである」(ロマ8章26~27節・口語)。御霊の促しに身をゆだねてください。

15章9節

「見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。」

羊飼いは失った羊を、女は無くした銀貨を見つけました。すると両者とも、友達や近所の人々を招いて喜びを表しました。

普通は、自分の羊や銀貨が見つかっても他人を呼び集めたりはせず、むしろ密かに喜ぶものです。しかし、羊飼いも女も自分の発見を皆に知らせました。なぜなら、失った羊も銀貨も、羊飼いや女だけのものではなく、皆のものであり、皆の重大な関心事だったからです。

それは、「神の家族」(エフェ2章19節)だからです。「神の家族」には、父なる神・御子イエス・聖霊の三位一体の神、そして、御子に贖われ、聖霊に導かれた者すべてが入ります。

友よ。あなたは神の家族の中にいますか。あなたが三位一体の神の中に入っていることが、神の家族の最初です。そしてそこは、兄弟姉妹が主にある霊の交わりを持つところです。礼拝や集会でみことばを聞き、賛美し、それを分かち合い、「あの兄弟が、今、○○さんを捜しに行っていますから、祈りましょう。あの姉妹が再び教会に戻れましたから、共に喜び感謝しましょう」と言い合う交わりが、霊の家族です。だれかが捜しに行き、だれかが背後で祈り、見つけたら共に喜ぶのが、神の家族です。

15章10節

「このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

羊が戻り、銀貨が元のひもに結ばれることを「悔い改め」と言います。悔い改めが起こる時、天でも喜びが湧き上がります。

逃げた羊と失われた銀貨では、悔い改める場所が違います。主に戻された羊は、神を信じない原罪の中にいた人ですから、「イエスを神と信じます」と告白することが悔い改めです。 

失われた銀貨とは、主に贖われ、聖霊にゆだねられた神の子なのに、キリストの体から離れた者のことです。ヨハネはそのような者のことを、「闇の中を歩む」(Ⅰヨハ1章6節)人、と言いました。闇の中を歩む人は、「神の子の命を持っているが、肉によって生きている者」です。光の中を歩む人は、「神の子の命を持ち、御霊によって(満たされ=支配され)生きる者」です(ガラ5章16節参照)。闇から光に移るには、「これからはイエスを主とします」という告白が必要です。それが、「自分の罪を言い表すなら…」(Ⅰヨハ1章9節)の個所です。

主に贖われた友よ。イエスを主と告白し、神の子になっている者に必要な悔い改めは、「イエスを主としていない罪」を告白することです。闇の中には「姦淫、偶像礼拝、敵意、争い、そねみ、怒り…」などがあり、光の中には「愛、喜び、平和、寛容…」(ガラ5章19~25節)があります。

15章11~12節

「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。」

主イエスが罪人を捜し、聖霊が、命を失いかけた神の子を捜します。そして父なる神は、御子と聖霊に連れ戻される人を待ちます。放蕩息子の物語は、父なる神と人の物語です。

「人の本質は何か」とは、「自分は何者か」でもあります。聖書は、人は「父なる神から生まれ、父に愛される神の子」だ、と告げます。

さらに、「神の子」は、父の生命を受け、愛され、財産を継ぐ者です。子は、父と継がって交わることで、父の「命・愛・財産」を受け取ることができます。弟息子が、「分け前をください」と申し出た財産(ギリシャ語で「生存」)こそ、人の生命であり、神からのみ受け取れるものです。財産を父の手から奪い、自分の手に握る時、父と断絶し、孤独になります。これが人の死です。彼は父の子(神の子)から、人の子(罪人の子)になろうとしています。

友よ。健康、家族、金銭の豊かさなどを財産(生存)とするならば、罪の内に死ぬことになります。人の本当の財産は、「イエスを主と信じ、イエスを主として生きる」信仰です。信仰は、父とあなたを一つにし、父の財産で生きる者にしてくださいます。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」(ヘブ11章6節)。

15章12~13節

「『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。」

父のもとにいても十分に暮らせるのに、なぜ財産分与を求めたのでしょうか。また父は、息子がそれで命を失うことを分かっていながら、なぜ簡単に財産の分け前を与えたのでしょうか。

父が息子の願いを聞き入れたのは、父が愛に生きる人だったからです。愛は人格の自主的な交わりに存在します。息子が財産を求めたのは、父の「愛と束縛」を間違って理解したためでした。十戒に「…してはならない」とあるのは、人を束縛するためではなく、「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハ8章32節)とあるように、人を自由にするためでした。

さらに、息子の「自己過信」が、彼に財産を要求させました。人は神に似せて造られ、自由に考え、創作し、行動することができます。いつしか人は、自分の知恵・力・体力・技術で…と過信し、自分が神であるかのように思い上がります。

父の財産使用許可を得ている友よ。その中で、あなたがいちばん欲しいものは何ですか。神の子にいちばん必要な財産は、「私につながっていなさい」(ヨハ15章4節)と言われる、「主イエス御自身」です。「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(ロマ6章23節)を心から離してはなりません。

15章14節

「何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち…」

この時の息子は何歳だったのでしょうか。長年親子で築いた信頼も、「何日もたたないうちに」壊れてしまう儚さに、胸が痛みます。

人間の堕落物語は、「(財産の)全部を金に換えて、遠い国に」から説明できます。財産(原文では「生存」の意)は、神が持つものであり、人の自由にはなりません。しかし、「金に換える」と人の自由になります。それは、まことの神を捨てて偶像に換えると、偶像が「その人の思い通りになる命」になったように思えるのと似ています。自分の自由を持つ者が神ですから、私たちは自分を神とするために、神の財産(生存)を「金(世のもの)」に換え、神の支配する神の国から出て「遠い国(この世)」へ行くことになります。

幸福をつくる基盤は、自由を持つことです。しかし、自由を手に入れたとき、最も恐ろしい環境に入ることになります。それは、自分が神の位置に立つからです。息子の姿は、アダムとエバが「その日…神の顔を避けて、園の木の間に隠れ」(創3章8節)た姿と同じです。

友よ。自立と孤立を間違わないように。親や世への依存から独立し、イエスを主とすることが人の自立です。神からの独立は「断絶と孤独」であり、それが人の「死」です。放蕩息子とは逆に、金と世の支配するところから離れ、三位一体の神の愛に向かって旅立ってください。

15章13~14節

「そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。」

放蕩とは、収入を得ず支出することですから、やがて息子は、財産を使い果たしたあげく、飢饉に遭遇します。経営者が自分の力量不足を棚に上げて、「不況下で銀行の貸し渋りにあって倒産した」と言うのは、「あの人が…。あの事がなければ…」と、自分の罪を何かに責任転嫁しているのと同じです。放蕩息子も、「飢饉が来なければ」と言ったことでしょうが、実際には、父から離れた時から彼の飢饉は始まっていました。

彼の問題は、「天の父から、イエス・キリストを通し、永遠の命を得ることこそが、生きるための収入である」と気づかなかったことです。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」(ヨハ6章54~55節)。

友よ。たとえ酒に酔わず、ギャンブルに囚われていなくても、「地上に宝を積む」(マタ6章19節)人は皆、放蕩息子です。「あなたの富のあるところに、あなたの心(命)もある」(マタ6章21節)のです。あなたに必要な財産は、神からのもろもろの恵みではなく、「わたしは…命である」と言われる、主イエス御自身です。

15章15~16節

「…ある人のところに身を寄せた…、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。」

人は命のために行動するので、食糧が無くなれば、だれかに乞わねばなりません。同じように、心の飢饉になれば、家を出て他者に愛を求めねばなりません。

放蕩息子は、「食べるにも困り始め」(14節)、生きる命を求め出しますが、今度は「その地方に住むある人のところに身を寄せ」る過ちを犯しました。それは、彼が命を正しく理解していないからです。健康も家族も収入も神の恵みですが、人の本当の命ではありません。その証拠に、死に直面する時、それらは人に命を与えることができません。

彼は命が分からないので、罪を犯します。罪とは、神から的が外れていることです。それで、「この世」と、ある「人」に求めました。「悔い改め」とは、世や人や自分に向けていた目を神に向けること、生きる方向を神に合わせることです。

友よ。日々の歩みが神と一緒でなければ、息子と同じに、豚を飼い(異邦人と同じ生活をし)、しかし、食べ物をもらえない(霊の命の満たしがない)、難民のクリスチャンになってしまいます。神の子とは、キリストの体である神の宮(教会)に住み、神の畑を耕し(奉仕、伝道、家族に仕える、社会に出て働く……)、有り余る恵みを神の家族と共に享受する者です。

15章17節

「彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ。』」

弟息子は、自分が考えた自由は実は不自由であり、豊かさは貧しさであり、自立は孤立と孤独であり、自分を神とすることは罪の奴隷になることである、と気づきました。

天の父のところには、大勢の人が食べて余るほどのパンがあります。その命のパンについては次のように教えられています。「エデン(歓喜)から1つの川が流れ…園を潤し、そこで分かれて、4つの川となっていた。第一の川の名はピション(豊か)、 第二の川の名はギホン(恵み)、第三の川の名はチグリス(結実)、第四の川はユーフラテス(力)であった」(創2章10~14節)。

「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(15節)。そこは、命のパンが満ちあふれる場所です。人の「豊か・恵み・結実・力」のすべての命は、一本の川から分かれ出た支流に依存します。その川とは、父なる神と人とをつなぐ主イエスであり、水は「命」の聖霊です。

莫大な神の財産を受け継いだのに、貧しい中にいる友よ。貧しいのは、エデンの園の果実だけを求めているからです。それらはこの世に現れた神の恵みであり、恵みは川の源流の神に導くためにあります。恵みの目的は、神御自身との命の交わりにあなたを入れることです。

15章18節

「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。』」

放蕩息子は、天の父から離れた人間の姿であり、クリスチャン二世たちの姿でもあります。

クリスチャン二世は親の信仰に守られて人生を始めます。しかし神の命は、親が子に引き継がせることはできず、子が自ら神に求めねばなりません。子は親から離れ、自分が神に直面して生きる場所に身を置かねばなりません。それが、この世です。

そこで、世に出た子が世に不自由を感じるか、自由を感じるかが問題です。神の基準で育った子は、社会に不自由を感じ、父の家(神の国)に自由を感じます。神と世の二つの基準の中に育った子は、この世に自由を見つけます。そして、だれでも自由を選ぶものです。

ここで放蕩息子が「家に帰ろう」と思えたのは、彼が父の正しい愛によって育てられていたからでした。彼がこの世を「不自由(飢饉)」と感じたのは、父の家に本当の「自由(豊かさ)」があったことを思い出したからです。

子供を持つ友よ。まだ家族みんなが神を信じていなくても、あなたは主に真実に従ってください。その真実こそが、子の心をいつか正気にします。子供たちはいつか社会で行き詰まります(飢饉)。その時思い出すのは、あなたが信じている神の豊かさです。

15章19節

「『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてくださいと。』」

彼は、「わたしは天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました」と告白しました。「息子と呼ばれる資格はなく、雇い人の一人にしてください」の中に、真実な悔い改めを見ます。

彼が、「お父さん。わたしは失敗しました。世を甘く見ていました。もう一度やり直したいので帰らせてください」と言ったならば、彼は自分の行為を「後悔」しただけです。彼の悔い改めの真実さは、自分の存在を悲しみ、憎み、捨てたいと願ったところにあります。

捨てたいのは、「自分を主(神)とするわたし」です。それが、「息子と呼ばれる資格はありません」の言葉です。そして、「雇い人の一人にしてください」とは、「あなたの僕になります=あなたを主とします」という意味です。自分を主とする生き方(罪)から、神を主とする生き方へと方向転換することが、真実な悔い改めです。

友よ。「悔い改めて福音を信じる」をさらに解説するならば、「…古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しい清い生活を送るようにしなければなりません」(エフェ4章22節)となります。悔い改めの本質は、神から頂いた新しい服を身に着けて生きることです。

15章20節 ①

「彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」

父と息子は何年離れていたのか…息子は何歳で父は幾つか…教会から離れて何年か…神について話し合えたのは何年ぶりか…。

イザヤは、「主を尋ね…、呼び求めよ、近くにいますうちに」(55章6節)と言いました。…なぜなら、主があなたを尋ね求めているからです。エレミヤは、「わたしを尋ね求めるならば見出し…わたしに出会う」(29章13節)と記します。…なぜなら、わたし(神)の方があなたにもっと会いたいからです。「息子は父親のもとに行った」…なぜなら、羊飼いイエスが息子を見つけ、聖霊が彼の帰り道を導いたからです。「父は息子を見つけた」…なぜなら、父は彼が家を出た時からずっと門で待っていたからです。

息子が戻って来られたのは、彼の思いや決意を超えた、父の愛と祈りがあったからでした。

迷った羊、ひもから外れた銀貨であった友よ。あなた(放蕩息子)が苦しんでいた時、父なる神はあなた以上に苦しんでいたことを知ってください。あなたが父のもとに帰ることができて喜んだ時、父はあなた以上に喜んだのです。父なる神は、独り子イエスと引き換えにするほどに、あなたを愛していたからです。さあ、もっと父の愛の中に飛び込んでください。

15章20節 ②

「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」

父は、いつ帰るか分からない息子を待ち続けていました。これは、息子は必ず戻ってくると確信し待ち続けた父の愛の勝利なのでしょうか?

否。父は、家を出た息子を信頼することはできません。それでも信頼するとしたら、人の罪を軽く考えていたことになります。罪は犯されたその時から、人の力を完全に奪い、人間同士の愛も無力なものにします。

父が信頼したのは、息子の良心でも自分の愛でもなく、罪人を捜しに天から出かけて行った独り子なるイエスであり、彼を助けるために同伴させた御霊です。親は子が本当に罪人だと知ったとき子離れし、子は親が本当に罪人だと知ったとき親離れします。そして、主イエスに依存するようになります。それが、親子の正しい自立です。

神のもとから離れている子を待つ友よ。子を信頼している親は、子の魂のために心から祈ることができません。子たちの心を信頼してではなく、子たちを捜しに十字架に行かれた御子イエスと、子の魂をキリストの花嫁にするまであきらめないで捜し続ける聖霊を信頼して、祈ってください。子ではなく神を、親子の愛ではなく三位一体の神の愛を信頼して祈るのです。

15章21~22節

「『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。』」

父と息子は抱き合い接吻し、涙を流して再会を喜び合いました。それは、今まで二人を隔てていた「罪」が解消されたからです。

罪は霊的なものです。霊的とは、神の御業以外の何ものも通用しないということです。だれでも聖霊によらなければイエスを主とは言えないように、だれでも聖霊によらなければ罪の告白もできません。息子が、「息子と呼ばれる資格はありません」と自分に失望したことも、「雇い人の一人にしてください」と、自分を主とすることから引き下がったことも、彼から出た思いではなく、聖霊の力によるものです。そこで、父は息子の言葉を遮るようにして、服と指輪と履物を用意させました。「服」は子供の栄誉であり、跡継ぎが着るもの、「指輪」は権威であり委任状である実印、「履物」は奴隷ではなく自由人であること、をそれぞれ表しました。

友よ。あなたが聖書を読み、礼拝し、祈ることに歩み出すならば、父が息子に用意したように、神はあなたに神の子のアイデンティティー(服)と権威(指輪)と自由(履物)を備えてくださいます。神は「ヤーヴェ・イルエ(主は備えてくださる)」です(創22章14節)。

15章23節

「『それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。』」

この家で催された宴会では、魂の爆発的な喜びがありましたが、その祝宴が開かれるためには、血を流す前代未聞の悲しみが必要でした。

《ある人に聞いた、英国であった本当の証し》

……母と娘がいた。母は貧しく教養もなく礼儀作法も知らない。貧しさも手伝い、娘は母を軽蔑し、罵り、ついに家を出て行った。不幸な娘が行き着く先は歓楽街で、彼女はさらに底へ底へと転がり落ちて行った。それを聞いた母は、娘を助けようと探し始めた。そこで母は、娘の写真でなく、年老いやつれた自分の顔写真の下に、「娘よ、待っている。帰っておいで」と書いてそれを貼り歩いた。ある時、それを見た娘は、涙と共に母のもとへ帰って行った……。

放蕩息子なる友よ。罪には代価が求められます。それこそ、屠られた「肥えた子牛」であるイエスです。父なる神は、罪の代価を、放蕩した息子には求めず、「肥えた子牛」であるイエス・キリストに求めました。天の宴会の喜びは、大きな犠牲によってつくられます。天の父は、証しの中の、娘に恥をかかせず自分の恥をさらした母のようです。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」(イザ53章3節)。

15章25節

「ところが、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。」

ルカ15章の一節は「弟たち(徴税人や罪人)」を、二節は「兄たち(律法学者やファリサイ派)」を表していると言えます。この兄こそ、見えない罪に支配された人々です。

弟を放蕩息子と呼び、兄を「隠れ放蕩息子」と呼んではどうでしょうか。弟は悪行を重ねた末、食べる物さえ事欠いて帰って来ました。一方兄は、畑で父の仕事をする忠実な息子でしたが、宴会の音楽を聞き、弟の帰りを知り、皆が喜ぶ様子を見たとき、怒って家に入ろうともしませんでした。彼の怒りの言葉は、「ところであなたの息子が、娼婦どもと…」と、弟にも父にも向けられます。徴税人や罪人は礼拝も献金もしませんが、律法学者やファリサイ派の人々は神の畑で働き通しです(礼拝・祈り・断食・施し)。

しかし、その心は弟と同じく、否、弟以上に父から離れていました。両者の違いは、弟は自分が父から離れていることが分かったが、兄はそれが分かっていない、という点にあります。自分の罪が見えて泣く人は、他人の罪の赦しを喜びます。自分の罪が見えない人は、他者の罪を責め、それを赦す神さえ責めるものです。

友よ。あなたは、天の父の弟息子と兄息子のどちらですか。罪に気づき、もがき、泣き、降参し、恥と外聞を捨て、とぼとぼ帰り、父の胸に飛び込む弟息子になってください。

15章29節

「しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに…』」

近くにいる他人と遠くにいる親戚がいます。前者は心の通じない家族で、後者は心の通じる他人です。他人は相手を三人称に見ますが、親戚は常に二人称で見るものです。同じように、一人でいる孤独と二人でいる孤独もあり、父と兄は、二人でいる孤独の中にいました。

兄は父に、弟を「あなたの息子」と三人称で呼びました。さらに、自分は「何年も父に仕え、言いつけに背かなかった」と主張する一方で、弟に対しては「娼婦どもと…」と軽蔑して裁き、「弟のために子牛を屠り…わたしには子山羊一匹くれない」と父を責めたてます。

だれでも自分が理解されることを願いますが、自分を理解の基準にしてしまうことが問題です。相手のことを考えるところに愛は育ちますが、自分を基準にすると愛は育たないどころか壊れます。弟と父の心が兄に分からなかったのは、彼が自分を基準としていたからです。

友よ。神は、「わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(サム上16章7節)と言い、ダビデを選びました。神が見る心とは、神に向けられる視線の角度です。兄は、近くにいるのに父と目を合わせない他人でした。弟は、遠くから父に目を向ける親戚になっていきました。神は他人には干渉できませんが、親戚には干渉することができます。

15章31節

「父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。』」

人を慰め、しかも同時に真実を伝えることは難しいものです。天の父なる神は、律法学者やファリサイ派の人々(兄)を責めるだけでなく、心の底から愛していることを伝えていました。

父はここで兄息子に、「お前は人の気持ちが分からない鬼のような奴だ」などとは決して言わず、「子よ」と呼びかけました。この言葉、「子」は、「親愛なるわが子(ラクーン)」であり、先に弟に呼びかけた「子」(22節)とは違う、より親しみを込めた言葉だと聞きます。

父は兄を愛していましたが、兄は、自分の外面の行いによって父の子供と認められる、という自己欺瞞に陥っていました。どんなに父の近くにいて、父の仕事を落ち度なく行っていても、神には喜ばれません。「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」(Ⅰサム15章22節)からです。

心をかたくなにしている友よ。信仰生活が長いのに何の恵みもない、と言っていませんか。神は既にあなたを「ラクーン(親愛なるわが子)」と呼んでいます。ただ、あなたが兄息子(近くにいる放蕩息子)になっていたのではありませんか。父と父の物は、すべてあなたのものです。遠慮せずに、天の父なる神に「アバ(父ちゃん)」と呼びかけてください。

15章32節

「『だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

放蕩息子の物語が多くの人に感動を与えるのは、短く単純なこの物語が、まさに神と人の物語であり、神と自分の関係そのものを語っているからです。

「神は愛です」(Ⅰヨハ4章8節)は一言で神を表し、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハ3章16節)は数行で神の御業を表し、放蕩息子の物語は一章を使って神の愛を表します。

父と御子と御霊の神は自分たちの愛の中に人を入れようとしますが、人は己を過信してそこから出て行きました。その結果、神から離れた断絶と孤独の死を受け取らねばなりません。

しかし父は、御子を遣わし、罪の代価を御子に払わせて贖い、その魂を聖霊にゆだねてキリストの体を造りました。今の私たちは、キリストの体の教会で花嫁となるのを待つ時です。

 神の家族とされた友よ。教会が地上の天国であることを祈りましょう。「汝ら、キリストの心を己が心とせよ」(フィリ2章5節・文語訳)を愛の憲法にしましょう。その時、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ロマ12章15節)が成就します。「私こそ、放蕩から戻された息子です」と、いつも皆に証ししましょう。

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