キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ルカによる福音書 第23章

23章3節

ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。

ピラトは、ローマ帝国より遣わされた、ユダヤ・サマリア・イドマヤを治める総督であり、ヘロデの上にいました。彼の評判は悪く、やがて訴えられ、解任され、自死したと言われます。

ピラトのもとに連れ出された主は、さまざまに訴えられますが、弁明せず沈黙を守ります。ヨハネは、ピラトと主イエスの会話を詳しく書きました。ピラトの尋問は、「ユダヤの王か否か」でした。それに対し主は、「わたしの国は、この世には属していない。もしわたしの国がこの世に属していれば、…部下が戦ったことだろう」(ヨハ18章36節)と答えます。

さらに、「私が王だとは、あなたが言っていること(思っていること)です」(同37節)と取り合いませんでした。主の目的は、彼らを論破することでも、奇跡によって信じさせることでもなく、「真理について証しをする」(同節)ことであり、十字架につくことでした。

信仰のことでこの世と論争する友よ。そこには対立こそあれ、一致はありません。信仰の問題に勝利する方法は、論争によるのではなく、「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」(ロマ12章20節)という、愛の法則による以外ありません。

23章4節

ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。

この時のピラトの心境は、「こんなことに関係したくない」だったようです。そこで、間もなく彼は、主イエスをヘロデの所へ送り出しました。

ピラトはイエスを調べた結果、「何の罪も見いだせない」と判断しました。彼はヘロデのように興味本位の質問をしたのではなく、むしろ正しい判断をしました。それでは、「ピラトは罪を犯さなかった」と言うべきでしょうか。

いいえ、彼は大きな罪を犯していました。それは、「イエスを主(神)」として信じなかったことです。どんな大きな罪でも、主イエスを信じる者は赦されますが、どんな小さな罪でも、主を信じなければ赦されません。人にとっての罪とは、「彼らがわたし(主イエス)を信じないこと」(ヨハ16章9節)です。

友よ。イエスを十字架につけろ、と叫んだ人も、ピラトのようにイエスを退けた人も、実は同罪です。罪が赦されなければ、「死」の報酬が待っているからです。何かを裁いたという罪のほかに、「決断しない」という罪があることを知る必要があります。「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です」(ヤコ4章17節)。人の善は、イエスを主として生きることです。

23章8節

彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。

主は、ピラトのもとからヘロデのもとへ送られました。ヘロデはイエスを見て喜びましたが、彼が興味を持っていた対象はイエスその人ではなく、イエスが行う奇跡でした。

マタイ福音書の8~9章には、らい病の人、百人隊長の僕、ペトロのしゅうとめ、中風の者、12年の長血の女、二人の盲人、口の利けない人…をいやし、さらにガリラヤ湖の嵐を静め、ガダラ人の悪霊を追い出す、などの奇跡が数多く記されています。

しかし、それらのいやしや奇跡は、主イエスの御人格に結びつくか否かによって、肉の喜びにも、霊の喜びにもなり得ます。肉の喜びは、主に結びつかず、さらに肉を誇る者をつくります。霊の喜びは、主を信じる者をつくります。ヘロデに対して、「イエスは何もお答えにならなかった」(9節)のは、答えても彼の肉を喜ばせるだけだと分かっていたからです。

友よ。主は、奇跡を求める者に沈黙し、主御自身を求める者に応えられます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」(8章48節)ように、イエスを主と信じたので病をいやされた人もいますし、いやしや奇跡を体験してイエスを主と信じた人もいます(ヨハネ9章の盲人)。まず主御自身を求め、次に主の御業を求め、神の栄光を見せていただきましょう。

23章10~12節

祭司長たちと律法学者たち…、ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱した…。この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。

祭司長、律法学者、ヘロデ、兵士、ピラトは常日頃敵対していましたが、ここでは一致してイエスを亡き者にしようとしています。

敵対する者同士の一致は、自分の立場を守るという一点によります。祭司長は、自分こそ大祭司と思いたいが、「御子を大祭司とした」(ヘブ7章28節)に崩され、律法学者は、「わたしが来たのは律法や預言者を…完成する」(マタ5章17節)に面目を失い、ヘロデは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」(同2章2節)に退けられます。

彼らの立場は自分を神とする自己中心ですから、真の神の出現こそが彼らの共通の敵となります。「絆」という言葉は、互いの固い結びつきに使われますが、本来は家畜を立木につなぐ綱のことで、「束縛」の意です。親子、夫婦、兄弟姉妹でも、自己中心な者同士の絆は、相手を自分に縛りつけ、やがて、恨み、怒り、不満に変化します。

友よ。聖書が、「平和のきずなで結ばれて、霊による一致」(エフェ4章3節)と言う、「平和のきずな(絆)」とは、神を中心とした交わりのことです。神に、すべての関係の中に入っていただくことです。互いが主イエスに束縛されるならば、愛の一致を保つことができます。

23章13~14節

ピラトは、…言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。…取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。」

使徒信条に、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と、今も悪人のように呼ばれるピラトですが、なぜそこまで言われるのでしょう。

福音書全体からピラトの裁判を見ると、イエスに罪を見い出せなかった(ルカ23章14節)、引き渡したのはねたみからだと見抜いた(マコ15書10節)、この裁判から逃げようと、ヘロデのもとに送った(ルカ23章7節)、鞭打ってから釈放しようとした(同16節)、しかし民衆の声に負けてしまい、(ヨハ19章12節)。自分の地位を守り(同節)。自分の罪を民衆に押し付けた(同15節)、となります。彼が恐れたのは、「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない」(同12節)の言葉でした。彼は、民衆の「殺せ、殺せ、十字架につけろ」の言葉に負けたのではなく、自分の弱さに負けたのです。

ピラトの弱い姿に自分を見る友よ。あの人、あの事、この言葉……と、私たちが嫌っているものは多くありますが、いちばん嫌っているものは「真理」です。なぜなら、真理は、私たちを裸にして、罪人の姿をあらわにしてしまうからです。さらなる理由は、私たちは自分を真理にして、「神のように」(創3章5節)なりたいからです。

23章15~16節

「この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから鞭で懲らしめて釈放しよう。」

イエスを苦しめ、十字架刑にすることを許したピラトを、主が愛していたことが分かります。

「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、私は昨夜、夢で随分苦しめられました」(マタ27章19節)と、裁判の最中にピラトの妻が伝言しました。神は人の良心に語りかけ、時に苦痛を通して忠告します。

妻が見た夢は、今は夫がイエスを裁いているが、やがて夫がイエスから裁かれ、苦しむ夢だったのでは? 神は、身近な人を通して警告されるものです。家族が苦しむ現実は、最も強い神の忠告のメッセージですが、ピラトは妻の言葉に耳を傾けませんでした。

「臆病な者、不信仰な者、…たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である…。」(黙21章8節)とある、「臆病な者」とは、自分の罪を認めない者のことであり、「不信仰な者」とは、罪を神にゆだねない者のことです。

友よ。だれかに忠告され、罪を指摘されることは恵みです。それは、あなたと主の関係を正しくするためです。ピラトへの妻の忠告が、主イエスと夫の関係を正しくさせるためであったのと同じように。すべての出来事や言葉を、主イエスにあって受けとめるとき、むしろ自分に嫌なことと思える中に、明確な神の声を聞くものです。

23章18~19節

人々は…、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。

ピラトは、イエスに死罪にあたる罪を見い出せず、釈放を考えます。しかし人々は、イエスの代わりにバラバの釈放を要求しました。

信仰の課題は、常に「霊と肉」の問題の解決にあります。それは、「御心と自我」「命と罪」などとも表現できます。それがこの場面では、「イエスとバラバ」のどちらを殺し、どちらを生かすか、となります。

命と罪、霊と肉は共存できません。そのことを、「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです」(ロマ8章5~8節)のみことばが表します。

主イエスとバラバの選択に悩む友よ。「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(マコ4章25節)の言葉に注意してください。持つ者はイエス(神・霊・命)を持ち、持たない者はバラバ(自我・肉・罪)を持つことになります。霊を優先すると、肉のものも清められて持つことができ、肉を優先するとすべてを失います。

23章20~21節

ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。

ピラトの思いに反し、人々の「十字架につけろ」の声は高まります。二千年前のこの場所にいなくても、今も「十字架につけろ」の叫びは続いています。

聖書は、「正しい者はいない。一人もいない、悟らない・神を求めない・善を行わない・のどは開いた墓・舌で欺き・唇に蝮の毒・口には呪いと苦み・足は血を流す…」(ロマ3章10~16節参照)と、罪人の心を記します。このような心は、主を「十字架につけろ」と叫びます。なぜなら、罪には神の裁きが待っているので、その前に神を葬り、自分を守ろうとするからです。

しかし、罪人の叫びよりももっと大声で、罪人の叫びをかき消す叫びがありました。それは、「新しい仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血」(ヘブ12章24節)の叫びです。このお方・イエスは、十字架の上で、「父よ、(わたしが彼らの罪の罰を受けますから)彼らをお赦しください」と天の父に叫びました。

かつて自分を義とし、主を「十字架につけろ」と叫んだ友よ。しかし今は、「主よ。あなたの十字架を感謝します。どうか、日々自分の十字架を背負って、あなたに従わせてください」と祈る者に変えられたことを感謝しましょう。

23章23~24節

ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。

ピラトはイエスに罪を見い出せません。彼の思いは釈放することですが、人々の声は十字架刑です。そこで、自分の思いと人々の思いの折衷、「鞭打ち刑後の釈放」を考えましたが……。

人には三つの耳があります。

第一の耳は、自己中心を貫こうとする、いちばんの大声である自分の声を聞く耳です。第二の耳は、他者と折り合いをつけるために、仕方なく他者の声を聞く耳です。

これら二つの耳は別々のものではなく一つです。ピラトは、イエスを十字架につけよ、との民衆の声を仕方なく聞き入れたように見えますが、本当は自分の罪を人々に転嫁し、自分を守ろうとしていたのです。

しかし彼の耳は、最後には、「何ということをしたのか、お前の弟の血が土の中からわたしに…叫んでいる」(創4章10節)という、罪の告発の声を聞かねばならなくなります。

友よ。神の声を聞く第三の耳を大きくしてください。この耳で神の声を聞き続けていると、自分の声と人々の声を正しく聞き分け、正しい判断ができるようになります。そうすると、第一と第二の耳も、聖い耳に変えられていきます。

23章25節

そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。

イエスの代わりに、バラバを釈放することになりました。これで、ピラトは自分を守ることができ、宗教家たちは自分の思いを遂げられます。

ピラトも宗教家たちも、偽りの天秤を用いています。ピラトが用いたおもり石は人々で、神に明らかに反逆する人々を自分の反対側に乗せると、自分が重くなります(価値ある者となり、自己保存できる)。宗教家たちのおもり石はバラバで、彼を自分の反対側に乗せると、極悪人を憐れむ自分が重くなれます。これらは、相対的真理と呼ぶもので、自分より軽いおもり石を探しては、自分を重くしているだけです。「おもり石を使い分けることは主にいとわれる。天秤をもって欺くのは正しくない」(箴20章23節)。正しいおもり石は主イエス御自身であって、このお方が真理の基準です。

友よ。主をおもり石とすると、あなたの罪はあらわにされ、罪人の自分が浮き上がります。ピラトや宗教家たちは、自分を重く価値ある者としました。しかし、イエスはあなたの罪を引き受け、自分を罪人・価値の無い者とし、十字架へ上げられました。そして、罪人のあなたを重く価値ある者としたのです。

23章26節

人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。

主は自分の十字架を担いで、ゴルゴタへ向かいます。鞭打ちと茨の冠で体力を消耗し、重い十字架を担ぐ力は尽きていました。

兵士らは一人の青年に、強制的に主の十字架を担がせます。彼は過越の祭りに参加するためにキレネ(現リビア)から出てきた、シモンと言うユダヤ人でした。彼の願いであった聖なる祭りの日は、汚れた災いの日となりました。

《推測》

自分の前を行く主に代わって、ゴルゴタまで十字架を担いでいったシモンは、十字架刑の一部始終を見る羽目になりました。やがて全地が暗くなり、十字架上のイエスの、父への祈りと、赦しの叫びを聞いたとき、彼の魂は打たれました。この日から、彼は主の弟子に加わり、やがてローマへ福音を携えて行き、とどまりました……。聖書には「アレクサンドロとルフォスの父であるシモン」(マコ15章21節)とあり、後にパウロが「…ルフォス、およびその母によろしく」(ロマ16章13節)と書いた息子と母(妻)は、シモンの家族のようです。

友よ。彼は強制的に主の十字架を背負わされましたが、後に、それ以上に主が彼と彼の家族を背負ってくださいました。主の重荷を負ってください。主があなたと家族を負われます

23章28節

イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」

ピラトの官邸からゴルゴタへと向かう道に、大勢の群衆がひしめいていました。嘲笑う者、罵倒の声を浴びせる者がいる一方で、泣き叫ぶ女性たちもいました。

弱った主が歩く後に、多くの嘆き悲しむ婦人たちが従っていました。彼女たちの泣き声を聞いた主は、「…わたしのために泣くな…自分と自分の子供たちのために泣け」と言われました。

女たちの悲しみは、茨の冠と40に1つ足りない鞭で傷ついたイエスへ向けられていましたが、主の悲しみは人々の「罪」に向けられていました。主の痛みと悲しみは、やがて父なる神に解決されますが、神を信じない者は、いずれ御自分と同じように、痛みさげすまれてゴルゴタに向かう道を辿らねばならないからです。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(Ⅱコリ7章10節)。

友よ。病気や家族のことや生活のことなど、さまざまの悲しみがあるものです。その中で、自分の罪と家族の罪、さらに子孫の罪のことで悲しんでいますか。罪が解決されるか否かが、命と死、幸福と不幸、希望と絶望を分けます。それには、まず、自分の罪を悲しんでください。すると、家族の罪とそれに続く子孫の罪を悲しみ泣く(祈る)ことができます。

23章29節

「人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。」

女性は、結婚して祝福され、子供を胎に宿して「良かったね」と言われ、赤ちゃんを産んで「おめでとう」と言われます。しかし、それら一切が災いに変わる時が来る、と言います。

イエスは先に、「自分と自分の子供たちのために泣け(自分と自分の家族の罪を悲しめ)」と言われました。茨の冠で頭から血を流し、鞭打ちで背中からも血を流し、十字架へ向かう主の姿は、罪人が受けねばならない罪の罰の恐ろしさを教えます。主は今ここで、罪人たちがやがて受ける罰を体験していました。もしも、やがて自分の子供がこの罪の罰を受けねばならないなら、子を産み、乳を与える母親とならないほうが良かった、と思うのは当然です。それを、「子を産めなかった女の方が幸いだ」と言ったのです。

友よ。主が、「子供を産めない女は…幸い」と言ったのは、「愛する者よ。あなたも子供たちも、今のわたしの姿になってはいけない。罪の恐ろしさをわたしの姿に見て、罪から救われよ」との叫びです。ピラトの裁判からゴルゴタへの道は、罪人の人生行路のようです。だから、悲しく苦しいのです。さらに主は、「この道はわたしが歩いたから、あなたはもう歩く必要はない」とも言っているのです!

23章30節

「そのとき、人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める。」

この叫びは、俗に言う地獄での叫びです。これを、「この人々は、その期間、死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く」と黙示録が記します(9章6節)。地上で人に与えられた「自死」という最後の決断もできない、最後の審判におののきます。

地獄が苦しいのは、重い罰があるからでしょうか。いいえ、「神がいないから」が、最善の答えです。

この苦しみは、間違った選択をすることで受け取ることになります。それは、「私がイエスを殺すか」、「イエスに私が殺されるか」です。前者は、律法学者たちやピラトであり、自分を神として生きるためにイエスを殺す人々です。後者は、罪人の自分を知り、十字架のイエスに自分を殺してもらい、悔い改めて福音を信じる者たちです。

友よ。イエスを主と信じる者からは、この最後の叫びは除かれましたが、日常生活の中には、なお小さな苦しみの叫びが起こります。その時の解決も同じです。それは、自分の肉を主によって殺してもらうことです。イエスを退け自分が主になることではなく、主に自分が砕かれ(殺され)、イエスを主とすることです。

23章31節

「『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」

刑場へ向かう途中に、婦人たちへ語られた最後の言葉でした。それらの一つひとつは、罪の恐ろしさについて教えるもので、それは、この罪から逃れるように、との勧めでした。

ヨブは、試練の苦しさから神を見失い、「わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。…なぜ、膝があってわたしを抱き、乳房があって乳を飲ませたのか」(ヨブ3章3~26節)と呻きました。

人は、自分が不幸だと感じると、さまざまの出来事や周りの責任にしますが、それもできなくなると親を否定します。それは、自分自身の存在を否定したいからです。さらに、親否定から進んで神を否定し、親と自分の両方の存在否定を試みます。人の不幸とは、自分以外のだれかから、あるいはそれ以上の存在からの受容を感じられないことです。自分の存在を自分でつくり出すことはできません。なぜなら、人は、神にかたどった、愛に生きる(だれかと継がり交わる)者だからです。

友よ。父と共に生きている「生の木」のイエスでさえも罪を負うことは苦しいのですから、「枯れた木(命の無い人)」が自分の罪を負うことは、それ以上に苦しいことです。だから主は、「あなたの重荷をゆだねよ」と言われます(マタ11章4節参照)。

23章33節

「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。

イエス様はなぜ一人ではなく、他の二人の犯罪人と一緒に十字架につけられたのか、と素朴な疑問もわいてきます。

ある本に、「ギリシャ神話の神の本質は分離であり、キリスト教の神は一体化である」とありました。そして、ギリシャ神話の神の姿を、「神々は美酒によって眠り、家の戸をかたく閉ざしている。はるか眼下には…。神々は秘かにほほえみつつ、荒れはてた下界を見下ろす。害虫、飢饉、疾病…」と、ある文から引用していました。

主イエスが他の二人と、しかも極悪人と同じ身分にされていることで、「キリスト教の神は一体化である」が鮮明にされます。神が人の姿になられたことは、「人と一体化」された神の姿ですが、犯罪人と一緒にされた姿は、「罪人と一体化」された神の姿であり、さらに十字架は、「人の罪と一体化」された神の姿です。

友よ。主は、ただ単に罪を背負われたお方、というだけではありません。「神はあらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださる」(Ⅱコリ1章4節)。それができるのは、主イエスも人として悲しみと痛みを経験し、「私たちの悲しみと一体化」しておられたからです。

23章34節 ①

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

犯罪人と共に十字架につけられた主の口から出た言葉は、四福音書の中に七つあります。それらを大きく二つに分けることができます。

最初の3つは、十字架につけられた午前9時から12時までに言われた言葉で、残りは、全地が暗くなった12時から息を引き取る午後3時までに言われた言葉です。

  1. 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです
  2. 「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)
  3. 「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。…あなたの母です」(ヨハ19章26~27節)

主は、全人類の罪の代価を払うために十字架につかれたのでした。そのことからすると、前述の3つの主の言葉には疑問がわきます。それは、3つの言葉、「①罪の赦し・②天国への許可・③神の家族への勧め」は、罪を背負った罪人が言える言葉ではないからです。むしろ、これこそ大祭司だけが言える言葉です。すると、主が肉体的に十字架についたのは午前9時であったが、全人類の罪を霊的に背負ったのは12時だった、と分かります。

友よ。12時に真っ暗になったのは、罪を背負った御子が父から離された瞬間でした。

23章34節 ②

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

横たわる十字架の上で仰向けにさせられ、両手首と両足の甲に太い釘を打たれ、十字架が立ち上げられます。痛む手足にさらに体重が加わり、その痛みは……。

横たわる十字架の上で仰向けにさせられ、両手首と両足の甲に太い釘を打たれ、十字架が立ち上げられます。痛む手足にさらに体重が加わり、その痛みは……。

しかし主は、その痛みの中から、人々の血迷った怒声を遮って、「父よ、彼らをお赦しください…」との言葉を発しました。イエスが父なる神に赦しを嘆願したのは、彼らが「何をしているか分からない」からです。

イエスを十字架につけた宗教家たちやローマの役人や民衆は、なぜイエスを十字架につけているのかを、彼ら自身が本当は知りません。表面的には、彼らのねたみであり、権益を守るためですが、さらに奥にあって彼らを悪へと動かす罪の根源、「原罪」には気づいていません。

その罪は、アダムとエバの時より、人の中に流れる罪の血に起因します。主は十字架上で、「父よ、彼らは自分の罪を超えた罪に動かされていることを知らないのです。だから彼らを赦してください」と弁護しているかのようにも聞こえます。

友よ。自分の罪を超えた罪に気づいても、「豹はまだらの皮を変ええようか」(エレ13章23節)とあります。しかし、「彼らをお赦しください」との主イエスの祈りは、「悪に馴らされたお前たちも正しい者となりえよう」(エレ同節)に変えてくださったのです。

23章34節 ③

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

日本語の「ゆるす」には、「許・赦」の二つの漢字が使われます。人が人を「ゆるす」場合は「許」。神が人を「ゆるす」場合は「赦」を用います。この二つには、大きな違いがあります。 「許し」は許可を与えることです。相手が「悪かった」と謝ったとき、それを受け入れる(許可する)ことです。

「赦し」は、「恩赦」などの言葉で使われ、天皇即位記念恩赦などのように、赦すためには何らかの「理由・価・見返り・それを補うもの」があることを示します。

神が罪を赦す場合は、罪に対する代価があってこそ可能です。それが、イエス・キリストの十字架です。「命には命」(出21章23節)とあるように、「等価の償い(命→命・目→目)」によって「贖い(買い戻し)」が成立します。したがって、「人の命=罪=死」の代価には、「人の命=罪の無い聖い命」が必要です。人類に義人はいないので、神が人(罪の無い人)とならねばなりませんでした。

友よ。私たちが許し合うには口先だけでもできます。しかし、主が人を「赦す」と言うとき、主は御自分の命を代価にせねばなりませんでした。「父よ、彼らをお赦しください」がどんなに重いものかは、ピラトの庭→悲しみの道(ドロローサ)→十字架刑がすべて現しています。

23章34節 ④

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

聖書の核心は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」の言葉で表されます。そして、旧約聖書すべてが成就したことを表す言葉は、「父よ、彼らをお赦しください」です。

人類の祖先が罪を犯した直後に、「彼(男性単数=人となるイエス)はお前(サタン)の頭を砕く」(創3章15節)から始まり、エデンの園から追放する時も、神は人に「皮の衣(動物犠牲=神が人となって罪の代価のために償うこと=十字架による贖い)」(21節)を着せました。

カインとアベルの時、主は、地の産物を献げたカインではなく、羊(罪の贖い)を献げたアベルを義とされました(4章)。ノアは、「焼き尽くす献げ物(十字架のキリスト)」(8章20節)で祝福を受けました。

旧約聖書のすべてのメッセージは、この一点、「見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て救われる」(イザ35章4節)に集約されます。その成就こそ、十字架上の、「父よ、彼らをお赦しください」です。

友よ。聖書全体が、「父よ、あなた(彼ら)をお赦しください」です。歴史を貫いた、あなたへの神の愛の真実を受け取ってください。

23章35節 ①

民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

民衆や議員が主に言い立てていることは、もっともというほかありません。自分を救えない人に他者を救うことはできないはずですが?

その前に、十字架上の主は、十字架から降りて自分を救えるのでしょうか。もちろんできますが、そうしないところに、神の愛の姿と人への救いがあります。十字架にはさまざまなものがあります。今、主がついている、人の罪の代価となる「贖いの十字架」。自分の罪や肉を主の十字架につける「己が十字架」。さらに、「十字架から降りない十字架(?)」もあるのでは。

それは、自分の力を行使しない十字架であり、当然要求できる権利を放棄する十字架であり、その権利を、自分の罪や弱さのためにではなく、他者のために放棄し、あるいは行使しない十字架です。主が十字架から降りたならば、イエスを神と思う人もいるでしょうが、罪の赦しが無くなるので、その人は救われません。

友よ。己が十字架を背負うことから、さらに一歩進んだ十字架こそ、「十字架から降りない十字架」であり、それは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハ15章13節)のことでは! 「十字架から降りない十字架」は、愛の十字架です。

23章35節 ②

民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

主は、十字架から降りようと思えば降りられたのに、それをしませんでした。それでは、他者のために自分を献げ切って死んだイエスに、救いはないのでしょうか。

主が十字架から降りて自分を救わなかったのは、人々を愛していたからです。同時に、もう一つの理由がありました。それは、父なる神に救っていただけると確信していたからです。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブ5章7節)。

それに反し、人はすぐに自分で自分を救いたがります。「平和がないのに、『平和、平和』と言う」(エレ6章14節)、汚れた生活をしながら、「この神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言う」(同7章10節)、などの偽りによって、自分を救おうとします。

友よ。自分で自分をいやし、恐れや不安をごまかして自分を救おうとしていませんか。ひたすら父なる神に救っていただいていた主の姿は、私たちへのメッセージです。隣人を愛するために自分を十字架につけるあなたを、主はだれよりも救わないはずがあるでしょうか。

マタイ27章42節

「他人は救ったのに、自分は救えないイスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」

人々はイエスに、「十字架から降りるなら、信じてやろう」と言った、とマタイは記しました。この言葉には一見説得力がありますが、降りるのを見たら信じられるのでしょうか。

科学による証明には説得力がありますが、人にとっていちばん大切な問題である、「命・死・愛」は解明も解決もできません。科学は、「見たら信じる」の世界であり、信仰は、「信じたら見る」の世界です。

進化論を突き詰めても「命・死・愛」は分かりませんが、神を信じれば「命・死・愛」を理解し、納得して生きることができます。これは科学不要論ではなく、信仰によって神を信じ、科学によって神の確かさをさらに確信し確認できる、というものです。

友よ。「見たら信じる」とは、自分の側から神を見ることです。これは、荒野で民が、「水を飲んだら・マナを食べたら・肉を食べたら…信じる」と言ったのと同じで、実はいつまでも信じられません。一方、「信じたら見る」とは、神の側から自分を見ることです。そうすると、罪人の自分が見え、十字架上から自分を愛する神が見えてきます。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」(ヨハ11章40節)という主の言葉を思い出してください。

23章36~37節

兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

十字架刑は、両手足に釘を打ち込まれ、痛みに耐えながら死んでいきます。その間、「酸い(没薬入り)ぶどう酒」と言われる、当時の麻酔薬が差し出された、と記録にあります。

しかし、「没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった」(15章23節)とマルコは記します。苦しい時、痛い時に欲しいのは麻酔ですが、主がそれを拒まれたのは、苦しみと刑罰の痛みをごまかしたり和らげたりしないためでした。

人はいつでも、この没薬入りぶどう酒を欲しがります。これを飲んで、神によらず、自分で自分をいやします。怒り、恨み、環境や周りに責任転嫁する外側への反応は、この没薬入りぶどう酒です。自分を悲しむ自己憐憫、病気や弱さに逃げ、心の傷を盾に引きこもる内側への反応も、没薬入りぶどう酒になります。苦難や痛みや悲しみに耐えるために、自分を無感覚にし、感情を抑え、良い子クリスチャンを演じ、自分の苦しみを自分の十字架だと称して、我慢を美徳とするのも、このぶどう酒を飲むことです。

弱い友よ。私たちには、「キリストの血」という最高のぶどう酒が与えられています。それを飲むと「キリストの命のパン」を受け取り、いやしと解放が与えられます。

23章38節 ①

言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

主は十字架から降りず、没薬入りのぶどう酒(麻酔)も拒否しました。その力はどこにあったのでしょうか。

それは、「本当に自分自身を救うことができたから」との逆説だけでしか説明できません。イエスにとって、父の御心を行うことが彼の食物でした(ヨハ4章34節参照)。父なる神は、御自分の御心を行う者に力を与え、耐えられない試練には遭わせず、逃れの道を備えます。

「天の父に服従すること」こそ、彼が自分を救うことでした。さらに、人々を愛する愛によって、痛みと孤独から自分を救い出していました。愛は、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(Ⅰコリ13章7節)力を持っています。

一方、自分を何一つ救えない人間は、十字架から降り、没薬入りのぶどう酒を飲まねば生きて行けません。

友よ。「自分を救うことが出来ない」のは、「主イエス」か「人」か。また、「神を信じる人」か「信じない人」か。自分で自分を救う世の没薬入りのぶどう酒は、一時しのぎのごまかしです。「救いは主のもとにある」(詩3章9節)こそ、私たちの確信です。「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」(Ⅰヨハ5章5節)は、さらなる確信です。

23章38節

イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。

ユダヤ宗教家たちは、イエスの頭上に掲げる罪状に、「『ユダヤ人の王』と自称した」(ヨハ19章21節)と書きたかったようですが、いみじくもピラトが、「ユダヤ人の王」と書くように命じました。ユダヤ人の王こそ、「神」です。

誰の頭上にも、その者の所有者の名前が掲げられているのではないでしょうか。人々がねたみでイエスを裁くのを知りつつ、自分の地位を守ったピラトの頭上には「ローマ皇帝が王」と書かれ、律法学者の頭上には「律法が王」、ファリサイ派の人々の頭上には「宗教が王」、キリスト教的御利益信仰者の頭上には「恵みが王」、主ではなく教会につながる者の頭上には「教会が王」と書かれているのではないでしょうか。

平安・病のいやし・経済・家族・能力などは生きる上で必要ですが、それらを王(支配者)にしてはなりません。

友よ。あなたの頭上の札には何と書かれていますか。パウロは、「(主イエスは)罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」が最も大事だと言いましたから、「私の罪のために十字架で死に、復活したイエス」が、私たちの頭上に掲げられるのに最もふさわしい札です。「わたしは福音を恥としない」(ロマ1章16節)からです。

23章39節

十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

二人の強盗も十字架につけられましたが、主に対する二人の反応は大きく違いました。

「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」という言葉には開いた口がふさがりませんが、宗教家たちに比べれば、天国に近いのは彼の方です。それは、「自分自身と『我々』を救え」と、自分も罪人と認めているからです。

「非難」は自分を外した評価で、「批評」は自分も加えた評価です。聖書を読むとき、聖書全体の真理を知ることと同じくらい不可欠なのは、聖書の中に自分を入れることです。

  1. 自分を義とするためにののしる宗教家 
  2. 自分を罪人と認めつつも主をののしる一人の強盗 
  3. 自分が罪人だから、「…私を思い出してください」と願うもう一人の強盗

自分はその三人の中の誰なのかを知ることが、聖書の中に自分を入れて読むことです。

友よ。人間のすべての問題と解答は、既に聖書の中にあります。聖書の中に自分の問題を探し、解決を求め、祈るとき、自分(肉の人)でない自分(霊の人)になっていることに気づきます。あなたがみことばに真剣に向き合う時点から、聖霊が神の御業を遂げようと働き出します。みことばと聖霊が一体となるとき、その人の中にキリストが生きて働かれます。

23章40~41節

「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

十字架刑は、人々のあざけりや女たちの泣き叫ぶ声の中で執行されました。そして、「父よ、彼らを赦したまえ…」と天の父に祈る主の声が、もう一人の強盗の心を震わせました。

彼は、痛みが増すほどに、自分を十字架へ追いやった、愛の無い親や、不条理な社会と権力者たちを呪ったことでしょう。しかし、いくら呪っても、死なねばならないのは彼自身であり、そこはまさに地獄の底でした。

その時、隣の十字架のイエスが、神を「父よ」と呼び、自分を苦しめる者たちを「赦したまえ」と祈り、御自分を殺す者を執り成すかのように、「自分が何をしているのか分からないのです」と声を上げました。そのイエスの姿を見た彼は、初めて本当に自分の罪を知り、「我々が(罪の)報いを受けるのは当然だ」と、もう一人をたしなめました。

友よ。罪(死)と愛(命)は真逆にありますが、十字架がそれをつなぎます。神の愛から罪を知り、罪を知って愛を求めます。十字架は、罪人の命を、義人の命(神の命)と交換します。このもう一人の強盗は神の愛を知り、自分の罪が分かり、神を求めました。「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は罪に定められることはありません」(ロマ8章1節)。

23章42~43節

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」

ぶどう園に夕方五時に来て、賃金を頂いた人がいました(マタ20章)。このもう一人の強盗こそは、門が閉まる数秒前に天国に入った人でしたが、彼は健全な悔い改めを告白していました。

「神を恐れよ」
自分が主でも神でもない-今までは自己中心を貫いて生きてきた。
「我々は、自分のやったことの報いを受けている」
自分の罪を認めている-今までは、他人のせい・自分に殺された者が悪い、としてきた。
「この方は何も悪いことをしていない」
イエスに罪のないことを認めている-この方は全き神。
以上40~42節

彼は十字架上の主イエスを見た時、「神への恐れと畏れ・自分の罪の姿・イエスの正しさ」が分かりました。実に、この三つこそ悔い改めに必要なものでした。彼が悔い改めた時、聖霊の神が、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」との叫びを彼に与えました。

友よ。このもう一人の強盗の姿に、人は「行いによらず、信仰によって救われる」ことが、どこまでも真実であることを見ます。だから、信仰を持つのに「遅い」はありません。夕方五時からでも一秒前でも、気づいたここからが、神の国への出発です。

23章43節

イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

このもう一人の強盗が悔い改めたと言っても、十字架から降ろされ、天使と共に天に昇ったのではありません。何が変わったのでしょうか。

  1. 悔い改めと後悔は違う
  2. 後悔は、自分の心の転換(悪かった、今度はやめる)
  3. 悔い改めは、神以外に向けていた心を、神に向けること

しかし、心を神に向けていても、自分の力で歩く(生きる)のは律法主義になります。悔い改めの適切な表現は、「自分の命で生きることをやめ、神の命で生きる」ことです。

悔い改めてイエスを主と信じたもう一人の強盗は、依然として十字架上で苦しみ、死に向かっていますが、地獄から天国へ移されました。神の救いは、「キリストの命を持ち、キリストの命によって生きる」という、命の変化であって、周りの変化ではありません。救いとは、十字架で罪を赦し三日後に復活する主が、その人の中に住まわれることです。

友よ。救いの証拠を何に求めますか。十字架から降りることですか、それとも十字架と復活のイエスの内住ですか。周りの変化が救いならば、さらなる変化によって救いを失います。内住のキリストを救いとするならば、周りの変化がさらなる救いの確信へと導きます。

23章44節

既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。

朝の9時に十字架につけられた主から、「父よ、彼らを赦したまえ」「今日わたしと共に楽園にいる」「婦人よ…あなたの子…あなたの母です」と、3つの言葉が語られました。それらはいずれも、罪人が言える言葉ではなく、罪の無い大祭司、神だけが宣言できる言葉でした。

昼の12時に、全地は暗闇になりました。この暗闇こそ、神が罪を裁く始まりでした。神であり完全な人でもある神の独り子イエスは、この時に全人類の罪を背負い、人類史上最大の罪人となり、神性を失いました。この暗闇は、父なる神と御子イエスの断絶を意味します。

「神は光であり、神には闇が全くない」(Ⅰヨハ1章5節)とは、父なる神と御子イエスの、義と聖を満たした愛の交わり・アガペー・完全愛そのものでした。

これを破り、断絶と孤独と死をつくり出すのが、罪です。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいる」(ヨハ17章20節)と言われるほどに強く結びついている、父と御子と聖霊の、三位一体のつながりを、罪が壊しました。

神の御子イエスを十字架につけ、心痛む友よ。身代わりとして十字架につけられた主に、どのように向き合えばよいのでしょうか。それは、愛を100パーセント受け取ることです。そして、相手に自分を100パーセント献げて生きようとすることです。

23章45節

太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。

天地万物が存在する前から、父なる神と御子イエスは一つでした。しかし、アダムとエバが罪を犯して以来、神と人との間に生じた裂け目は、どうしようもないほど大きくなりました。

「わたしたち(父と御子)が一つであるように、彼ら(人間)も一つになる」(ヨハ17章22節)ためには、人の罪を償うために、一度、父と御子が離されなければなりませんでした。

神殿の聖所と至聖所を隔てる幕は、神と人を隔てる罪による断絶を表していました。そこに、年に一度、大祭司が動物の血を携えて入り、贖いの蓋に注ぎました。

しかし、罪の贖いは、動物の血ではなく、罪のない完全な人であるイエス自らの血によらなければなりませんでした。「このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられ」(ヘブ7章27節)るものでした。イエスの十字架が、神と人を隔てた「罪の幕」を真ん中から裂き、命を回復させました。

友よ。「父なる神は、十字架で苦しむ御子を助けなかった」と言う人がいますが、それは違います。十字架上で苦しむイエスと、苦しむ御子を見つめる父なる神と、どちらがより苦しく辛く悲しいでしょうか。もちろん、父です。「太陽は光を失っていた」ことは、父なる神の悲しみの大きさを表していたのでは!

ヨハネ福音書19章28節

イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。

全地が暗くなって3時間ほどたち、苦しみの中で沈黙していた主は、3時前に最後の4つの言葉を発しました。その1つが「渇く」でした。

十字架刑に喉の渇きはつきものと言われますが、主の渇きは、それ以上の霊の渇きでした。神の御名は「ヤーヴェ=主」と「エロヒーム=神」ですから、「ヤーヴェ・エロヒーム=主なる神」が正式な御名です。そして、「エロヒーム」は、「我々にかたどり、我々に似せて」とあるように、三位一体の神の姿を表しました。

命とは「継がりと交わり」のことであり、父なる神と御子イエスは一時も離れることなく一つの命に生きていましたが、今、人の罪を引き受けることでイエスは神性を失い、天の父の命は閉ざされました。それが霊の死であり、死は「断絶と孤独」です。完全な愛の中にいたイエスだからこそ、父なる神から離され、命が途絶えた時の渇きは死の苦しみでした。

友よ。人にとっての命の水は愛です。あなたが愛を求めるのは、命を求めるからです。愛の枯渇は命の枯渇であり死です。その命の水については、「槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血(赦し)と水(命)とが流れ出た」(ヨハ19章34節)と記されています。「命・愛・水」は主イエスの中にありました。

マルコ福音書15章34節

三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

主のこの言葉には、さまざまの風評が付きまといます。「救い主なのに女々しい・初めから分かっていたのに・最後に父に捨てられた・やはり神ではなかった…」などなど。

愛する者同士ほど別れる痛みと悲しみは強く、愛のない者同士の別れは安堵と解放です。

主御自身は自分のこと…皆のために死ぬ救い主・初めからの計画・父に捨てられねばならない・神から罪人になる…、それらすべてを知っていました。

しかし、事実、父なる神から離された時、「なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と叫びました。親から・恋人から・伴侶から・子供から・死を目前にし・戦地で・愛する人から捨てられ、孤独になる時、だれもが叫びます。何よりも、罪を持ったまま最後の審判に臨んだ人が、神の前から追放される時に叫ぶ言葉こそ、「なぜ、私をお見捨てになったのですか」です。人が何よりも求めたのは、命と愛だったからです。

友よ。偽りの愛からは、このような叫びは出てきません。父なる神と御子の愛が真実だからこそ、この叫びがあります。そして、イエスが父に向けたこの叫びは、同時にあなたへの愛の真実さを教えています。主はあなたのために叫ばれたのです。

23章46節

イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。

主は大声で「…御手にゆだねます」と言い、呟くように「成し遂げられた」(ヨハ19章30節)と言われ、そして父なる神に御自分の霊をゆだねられました。

主の死はトリックではなく、罪の償いとしての霊の死ですから、彼の命はここで完全に終わりました。しかしその死は、父なる神への服従と罪人に献げた死であり、これこそ愛です。

この愛には、愛する相手がおり、それが父なる神です。その父なる神の愛が、御自分と人々に献げた御子の愛に応えます。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブ5章7節)。主イエスの、死からの復活は、ただただ、父なる神の権能によるものでした。

友よ。イエスが父なる神に従い続けたように、私たちも御心に生き、生きるも死ぬもすべてをゆだねて、人生を終えたいものです。「あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです」(Ⅰペテ1章21節)。

ヨハネによる福音書19章26~27節

「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」…「見なさい。あなたの母です。」

十字架上のもう一つの言葉

これは、主が人々の罪を負う昼の12時より前に語られました。婦人はイエスの母マリアで、弟子は使徒ヨハネのようです。この時から、ヨハネはイエスの母を引き取りました(27節)。

主のこの言葉は、「神の家族として生きよ」とのメッセージでした。人は、伴侶、子供、兄弟、さらに親族、知人友人との出会いを持ちます。そこで喜び、悲しみ、苦しみも得ます。

それは、人の命が「継がりと交わり」にあるので、出会いと交わりに自分の幸福(命)を求めるからです。だから、家族こそ幸福を作り、家族だから不幸も作ります。人間同士の出会いの目的は、素晴らしい伴侶、子供、兄弟を超えて、一人ひとりが神につながるためです。

友よ。アメリカやヨーロッパにおいて、養子を受け入れる家族の多さに驚かされます。そして、「あなたの母です・子です」のみことばの成就を見ます。このメッセージは十字架上から語られました。主は「十字架を通して、両者を一つの体として神に和解させ…敵意を滅ぼされ…聖なる民に属する者、神の家族…」(エフェ2章16~19節)としてくださいました。人間の血は、自己中心なる罪人の血です。しかし、主イエスの赦しの血は、「神の家族」を作る、神の命が通う血です。日々、主の血によって神の家族として歩んでください。

23章47~49節

百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。…群衆も皆…ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

人々は主イエスが息を引き取るのを見ましたが、そこから何を得たのでしょうか。

百人隊長は、主イエスが罪人ではないと告白し、群衆は、さまざまの感情を持ちつつ家に帰り、ガリラヤから主に従ってきた婦人たちは、なおも離れず見ていました。

皆が十字架のイエスを見ましたが、彼らの見方には違いがありました。ある人はそこに不条理を見、ほとんどの人はただその場の現実を見、ある人は罪の赦しを見ます。「彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです」(ヘブ4章2節)。

「信仰によって結び付く」ことが、聖書を読むうえで必要なことです。それは、みことばが三人称(事実・記録・出来事)から二人称(イエスと私の関係)になることです。事実、神の言葉である聖書は、神の御人格と同一です。

十字架のイエスを聖書で知った友よ。みことばを「聞く」と「聴く」、十字架のイエスを「見る」と「観る」は違います。「聞く・見る」は、自分をそこから離せる三人称ですが、「聴く・観る」は、命の交わりが持つ関係です。あなたは、イエスの言葉を聴き、イエスを観ていますか。

23章50~51節

さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。

「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」(ヨハ19章)ヨセフという議員が、イエスの遺体の引き取りを申し出ました。

ヨセフはイエスの弟子でしたが、議員だからこそ周りを気にしつつ信仰を持ち、主が十字架につけられた時も、遠くから見ていたのではないでしょうか。その彼が、大胆にイエスの遺体の引き取りをピラトに申し出ました。

イエスを信じていても、十字架の主を見て離れて行く人もいますが、ヨセフは十字架の主を見て、もっと近づいて行きました。パウロは、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(Ⅰコリ1章18節)と言い、さらに、「福音を恥としない」(ロマ1章16節)とも言いました。この世を求める者は十字架を恥とし、ヨセフのように「神の国を待ち望む」者には、十字架こそ神の力です。

友よ。十字架は本当にあなたの誇りとなっていますか。十字架こそ、永遠と地獄、霊と肉、神の国とこの世、希望と失望…などを分ける分水嶺ですから、あなたの中の十字架をさらに大きくしてください。

23章53節

遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。

返済不能な莫大な借金を抱えていた人が、「あなたの借金は私が払いました」という手紙を受け取ったらどうするでしょうか。手紙の主は父なる神で、返済金はイエスの贖いです。

ヘロデ大王
「ユダヤの王が産まれた」と聞いた時、自分の地位を守るために、ベツレヘムの二歳以下の男の子を殺した。
ヘロデ・アンテパス
イエスの奇跡だけに興味を持ち、主を追い返した。
ポンテオ・ピラト
「この男を釈放するなら…」との民衆の声に負け、保身に走った。
百人隊長
「あなたは私の神です」とは言えなかったが、「正しい人だ」と認めた。
ニコデモ
人々の目を避けて日が暮れてから、どうしたら神の国に入れるか聞きに来た。
アリマタヤのヨセフ
人目をはばからず、イエスの遺体を引き取って自分の墓に納めた。

友よ。先の人々の中で、ニコデモとヨセフは、罪の代価(莫大な負債)を返済できました。ヨセフは、自分が入る墓(罪の価の死)に、イエスに代わりに入っていただきました。誰も、自分の墓を小さくすることも無くすこともできません。ただし、ふさぐことはできます。それは、自分の代わりに主イエスに墓に入っていただくことです。

23章50~53節

ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、…神の国を待ち望んでいたのである。…ピラトのところに行き、…遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、…岩に掘った墓の中に納めた。

ヨセフがしたのは、その後の自分の地位を危うくする行為でしたが、実に正しい判断でした。なぜなら、人の救いは「交換(置き換え)」によって実現するからです。

死と命の交換
は、産まれて、生きようとして死ぬ。主は、死ぬために生まれ、死んで復活した(イザ53章5節)。
闇と光の交換
人の命の本質は暗黒。主は世の光、光が闇を追い出す(ヨハ8章12節)。
裁きの交換
人は罪の裁きを受ける。代わりに、罪のない主が裁かれた(ルカ23章34節)。
血の交換
アダムの血と、新しいアダム=イエス・キリストの血(Ⅰコリ15章22・45節)。
墓の交換
ヨセフが入る墓に、主イエスに入っていただき、墓をふさいでいただく。

友よ。ある主の聖徒が次のように言いました。

「人生は出生から死まで(カッコ)でくくられ、(カッコ)の前にマイナス記号(-)がついているので、必ず裁きと死を受ける。しかし、そのマイナスに主イエスが来られ、そこに御自分が一体となり、プラス記号(+)に変えてしまった。それは人の罪の死と主イエスの永遠の命の交換でした」と。主にあって、人生は+(命・永遠・感謝・喜び…)になりました。

23章55~56節

イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。

ガリラヤから主に従ってきた信仰深い婦人たちは、墓を見届けてから家に帰りました。そして、安息日が終わってから、イエスの遺体に塗る香料と香油の準備をしました。

彼女たちの行動は、主を愛してのことでしたが、しかし、的外れでした。それは、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」(9章22節・口語訳)と言われていたのに、「よみがえる」を忘れていたからです。

同じく、罪の赦しを受け取りながら、そこから自力で生きる神の子たちがいます。それは、人生の罪を消していただいても、次に生きる命を主に求めないことと同じです。

福音には、罪の赦しとともに、神の子として生きる命も含まれています。罪の赦しと復活の命は、同時に受け取りますが、復活の命が現れてくるまでには少し時間がかかります。

友よ。「婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ」(56節)とあります。十字架と復活の間に「安息日」が入るのは、神のメッセージです。罪の赦しと復活の命は、安息日によって一つになるからです。毎週の礼拝の中で賛美し、みことばからのメッセージを聞き、祈りますが、その礼拝の中心が、パン(復活の命)とぶどう酒(十字架の赦し)の「聖餐」とされますように。

23章54~56節

イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、…墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、 家に帰って、香料と香油を準備した。婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。

早く香料と香油を主の遺体に塗ってあげたい、と思う婦人たちの気持ちは、安息日に邪魔されました。しかし、それが必要でした。

もしも、次の日に彼女たちが墓に行ったなら、腐り始めたイエスの遺体を目にすることになったでしょう。そしてさらに悲しみを増し、失望し、「神だったのに…やはり人間だったのか…でも良い人だった…かわいそうなイエス様…」となったはずです。

同じようにだれでも、「神が十字架で私の罪を赦してくださった。だから、この問題はすぐに解決するはずだ」と思いたいものです。そして、自分で行動を起こし、人と世の方法を用いることは、死んだ遺体に香料を塗って満足するに等しいものです。それは、復活の主を待てず、自分の行為を先立てることであり、結果は失望に終わります。

友よ。待ってください。問題の解決を…いや、復活の主を待ち続けてください。自分の香料と香油を塗って主を葬るのではなく、復活の主が私たちに聖霊という香油を塗ってくださる時を待ってください。あと二日待つならば、主は復活し、助け主の聖霊を遣わしてくださいます。だから、今日も神の前に静まり、主と聖霊を待ち望みましょう。

マタイ福音書27章63~66節

「生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのをわたしたちは思い出しました。」…そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵を置いた。

「死人が生き返る」ことは、おめでたいどころか、それが事実ならば、人生にコペルニクス的転回を迫られることです。そこで、自分の存在と生き方を守るために墓を封印します。

東洋文化は「円人生論」です。初めもなく終わりもない・春夏秋冬・冬が過ぎれば春が来て花が咲く・そのうち運も回ってくる・輪廻転生…と、繰り返すことが前提にされています。

キリスト教的西洋文化は「直線人生論」です。初めと終わりがある・罪が死を与える・罪の悔い改めと赦しがあってその先の人生へ続く・天国も死(罪の代価を払う)の先にある…と、神から始まり、神に導かれ、神に帰ることを前提として生きます(ロマ11章36節参照)。

東洋的人生論は、「自然界」を神とすることで成り立ちます。キリスト教的人生論では、「自然界を創造したお方・人(神)格をもった神」を相手に生きることになります。死者が復活するならば、そこに生きている神が存在しなくては成り立ちません。彼らが墓を封印したのは、生ける神を封印し、自分を神として生きるためでした。

友よ。神から生を受け、神によって生き、神に帰る人生は、罪を告白し、その度に赦しを受け、そこから復活の命で生きることです。このことの連続こそ「永遠の命」です。

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