キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

コヘレトの言葉 第12章

12章1節

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留め苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。

この聖句は、「汝の若い日に汝の造り主を知れ」と文語調で響いてきます。長年一生懸命生きて、「喜びはない」と悟るのはよいが、遅すぎることもあります。

人として何よりも大切なことは、「創造主を知ること」です。創造主を知らない太陽の下の生活を続けても、「空の空」から抜け出ることはできません。

とても大きく主に用いられたイギリスの老説教者が、「信仰生活が長いと、苦しみから遠ざかると考えるのは間違いです。私は若い時よりも年を取った今ほど信仰の試みは大きいと気づいた。それは、若い時は自分で出来たが老いた今は誰かに依存せねばならない…」と言いました。彼は一年前に妻を天に送っていました。

冒頭の御言葉は、「年を取ってから信仰をもってもだめだ」と言うのではありません。むしろ、老年ほど困難は大きくなる。だから若い時に創造主を知り、訓練を受け、年老いても信仰を奪われず、むしろ自分で出来なくなった分だけもっと主に信頼して歩むために」と言っているかのようです。

愛する友よ。70才の人はやがて迎える80才よりも若く、50才は60才より、20才は30才より若いのです。すると、「今、今日、今月、救い主にもっと近づいて共に生きよ」となりませんか。

12章2節

太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。

神を知らない人々は、太陽が隠れて光を失い、星と月明かりも消え、大雨に流されて失せることを恐れて生きています。まさに人生の晩年のことです。それらに備え、その時に負けずに生きるには何が必要なのでしょうか。勿論、「神を知っている事」です。

神を信じる人にとっての神とは、

  • 父です…だれから産まれたかは、自分の最大の存在を決めます。「アバ、父よ」呼べる父です
  • 主です…私の上にいて、これが道だこれを歩めと導き、最後の責任を取って下さるお方です
  • 牧者(羊飼い)です…諸々の敵から守り、常に先頭に立って進み、羊のため命を捨てて下さる主です
  • 伴侶です…御自分の血潮で罪を清め、義の衣をまとわせ、「私の花嫁よ」と言ってくださる花婿です
  • 友です…決して威張らず、友として小さな些細なことでも真剣に耳を傾けて何でも聞いて下さる友です。
  • 僕です…仕えさせるためではなく仕えるために来たと言い、十字架に至るまで僕として歩まれました

この世の太陽や月や星が光りを失い真っ暗になろうとも、「父、主、牧者、伴侶(花婿)、友、僕」であるお方が決して離れずに共に歩んでくださいます。

友よ。あなたの救いは誰をパートナーにするかです。あなたの力でなく、その方の力が救って下さいます。

12章3節 ①

その日には、家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。

コヘレトは多くの格言(知恵の言葉)を集め、吟味し編集しました。彼は学問としてではなく、自らこの世のあらゆることを実行しました。そして得た結論は、「太陽の下、人は労苦するが空しい」でした。ここから、より具体的にその空しさを記して行きます。

男性の生涯をかけての生きがいは、「家を守る」ことでした。家を持ち、妻を持ち、子供たちを育て上げることは自存心を満足させました。

そのためには、「力ある男」とならねばなりません。高学歴、高収入、高い地位…を目指し努力して自分を強くし、それを保つことがプライドでした。しかし、老年になり、家を守ることも、力を保つこともできなくなり、家族からさえ邪魔者扱いにされます。

「家を守る男」であった「腕」は震え、「力ある男」であった「脚力」は、飛び跳ねることもできず身を屈めうずくまります。自分の力、能力、賜物に頼る自己満足の人生には終わりがやって来ます。

「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな」と(エレ9章22節)。

友よ。誇るものを間違わないでください。「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える(誇る)」(詩20篇8節)。

12章3節 ②

粉ひく女の数は減って行き、失われ、窓から眺める女の目はかすむ。

高齢は、家を守る男(手)も、力ある男(足)も衰えます。それと共に、粉ひく女の数(歯)と表されている「受け入れる力」も、窓から眺める女の目なる「好奇心」も衰えます。肉体的にも精神的にも衰えます。

若い時は知識や新しいもの、未経験のこと、難解な事でも噛み砕き自分のものにしようとしました。しかし、高齢と共に噛み砕く歯が少なくなり、むしろそれらを恐れ敬遠するようになります。

また若い時は、さまざまの本や、メディアや、海外まで足を運ぶほどの好奇心で目を輝かせていました。しかし高齢と共にその目はかすみ、見る事、究める事がどうでもよくなり今を生きることで精一杯です。

なぜ高齢と共に歯が欠け、目はかすむのでしょうか。それは、その人の内側に持つ命の質によります。この世と自然界を自分の命としていた者は、肉体の衰えと共に食欲も知識や好奇心も必要なくなるからです。

しかし、神からの命で生きる者には、高齢と共に若い時以上に神の恵みが分かり、更に神を必要とします。

友よ。あなたの「歯」と「目」の健康度はいかがですか。若い時より衰えていますか、それとももっと健康になっていますか。「モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった」(申34章7節)。モーセに倣いたいものです。

12章4節

通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。

どのような人生を歩んでも、高齢と共に肉体も精神も衰え公平に死が訪れます。死後の世界があるならば、生きて来た目的は死後に備える事であったはずです。

若い時は、人生の「門」は大きく開かれ、大声で人生を語り合った会話、「粉を引く音」も止まりませんでした。朝の太陽が昇っても「小鳥の声」も聞こえないほど熟睡し、「人生は楽しい」と歌っていました。

しかし高齢になると命の「門」は狭まり、死の門が大口を開けて待ちます。友人や家族からも孤独になり会話も途絶え、小鳥の声にも目が覚め、「さて、今日は何をしようか」と考えると眠れなくなります。

神が、「人が独りでいるのはよくない、彼に合う助ける者を…」(創2章18節)と言われたのは、単なる伴侶の必要性のことではなく「孤独」のことです。人生の最大の敵は、体と精神の衰えではなく「孤独」です。その孤独にならないように助ける人こそ救い主です。

友よ。「この神は救い主、助け主。天にも地にも、不思議な御業を行い、ダニエルを獅子の力から救われた」(ダニ6章28節)お方で、「晩年」という獅子を黙らせ、「孤独」という穴から引き上げる助け主です。

何もできなく晩年は、神を求めるための祝福の日々となります。神は、神を求める者と共に歩み、「死の陰の谷」(詩23篇4節)を希望の谷に変えられます。

12章5節

人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負い、アビヨナは実をつける。人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る。

この個所も人生の晩年を語ります。若い時は、目の前に立ちはだかる問題も恐れず乗り越えられましたが、今は困難な道におののき避けようとします。

黒かった頭髪も、アーモンドの花のように白くなります。強い脚で飛び跳ね羽を広げて飛ぶ若いイナゴのようでしたがその力は失せ、大きな賜物がむしろ重荷となり疲れさせます。そして迎える自分の最後の存在証明は、脱ぎ捨てた肉体を葬ってもらい、何人かの人々に涙を流してもらうことです。

なぜこのような空しい最期を迎えねばならないのでしょうか。それは、「主なる神は、土の塵(自然生命)で人(アダム)を造り、その鼻に命の息を吹き入れられ…生きる者となる」のが人でしたが、命の息を受け取らず土の塵で生きてしまうからです。

罪の中に生を受けた人は、土の塵だけの命でした。その塵は主の十字架で洗われ(赦され)、復活の命の息を受け取ってこそ生きることが出来ます。晩年の生き様は、その人の命の質で決められます。

友よ。重病で死を宣告されたある姉妹が、「もうすぐイエス様の花嫁ですね!」と明るく言いました。晩年こそ、土の塵を少しずつ脱ぎ捨てて、命の息をもっと吸い込み、天の都に旅立つ準備の日々です。

12章6節

白銀の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける。泉のほとりに壺は割れ、井戸車は砕けて落ちる。

右の聖句も人間の体の機能を表すと言われます。それは、「白銀の糸(神経の継がり)は断たれ、黄金の鉢(脳)は砕ける。泉のほとりに壺(肺)は割れ、井戸車(心臓)は砕けて落ちる」となります。

大きな家の豪華な応接間(存在場所)の天井から白銀の糸(血筋・能力・多くの収入・大会社、家族…)で吊るされた黄金の鉢(燭台)。人々の羨望の目と尊敬の的となり、人々を教え諭す指導者としての栄光でもありました。しかし、一つ、また一つと糸が切れて落下し壊れます。それでも生きるための水(命)を得ようとしますが、井戸車も砕け力尽きました。

主は、「どの戒めが一番大切か」との問いに、「神を愛すること、そして自分を愛するように隣人を愛すること」と答えました。自分を愛するには、自分に価値が無ければ愛せません。そこで人は、学歴、能力、高収入、美貌…などで価値ある自分になろうとします。

しかし、それらは本当の価値とはなり得ません。人の価値は「愛されている自分」の一点に尽きます。価値は他者から与えていただくもので、自分で造る価値は、相手から奪う欲望と高慢に変わります。

友よ。太陽の下に自分で積み上げた価値は、最後に「壺は割れ、壊れた井戸車」になります。神から与えられる愛こそ、自分を本心から愛せる価値となります。

12章7~8節

塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と。

「なんという空しさ」から始まったコヘレトの言葉の最終結論がこの節から始まります。

彼は、全ての人生は空しいと言うのでなく、ある生き方をすると空しくなると言います。その区分が「塵(自然界)」と「霊(神の世界)」という言葉です。彼が「太陽の下」と定義したのは「塵の世界」です。

塵と霊の世界はどこが違うのでしょか。聖書は人間を羊に例えました。太陽の光を受けて自然界は豊かに命を育みます。そこに置かれた羊は自由に行動し草を食べ、群れ(家族・社会)の中で生きています。

その羊たち(人類)の中の、ある羊は太陽の上(霊の世界)に、別の羊は太陽の下(この世)にいます。周りの条件は同じなのに命と死の違いができました。その違いはただ一つ、「羊飼い」と共にいる羊か、羊飼いを持たない羊か、です。羊飼いから与えられる恵みは、豊か、病気せず、家族団らんなどではありません。それは太陽の下にも用意された神の恵みです。羊飼いが与えるのは「恵み」ではなく「命」です。

友よ。神が約束した救いとは、恵みではなく命です。命とは、「継がりと交わり」のことです。人と人の継がりと交わりは、人の命・土の塵・自然生命を造り、御子イエスとの継がりと交わりは神の命を受け取ります。

12章8~9節

…コヘレトは言う。すべては空しい、と。コヘレトは知恵を深めるにつれて、より良く民を教え、知識を与えた。多くの格言を吟味し、研究し編集した。

彼は、知識と知恵を深めるほどに「空しい」ことが分かりました。また、与えられた境遇を用い、権力、富、事業、快楽、酒、女性…などを実行もしました。そしてさらに、「すべては空しい」と分かりました。

しかし、「空」が彼の結論ではなく、真理を悟るために「空」を知ることが必要だと言います。そこで彼が、「より良く民に教え、知識を与え、多くの格言を吟味し、研究し編集した」のがこの本でした。

東洋思想では、「空」を悟ることが真理となります。空を悟り、自分を制する。そのために自分と自然を一体化し無自我になることが救いとされました。

「空しさ(死)」と「命」、相反するかに見える両方を知ってこそ本当の救い道に入ることが出来ます。太陽の下の空しさを知ってこそ、太陽の上にある神の霊の命を求めて与えられるからです。

友よ。「十字架と復活」「死と命」を一つにまとめ、太陽の下の結末(罪・死・空)を処分し、新しい復活の命で満たしてくださるのは主イエスです。

12章10~11節

コヘレトは望ましい語句を探し求め、真理の言葉を忠実に記録しようとした。賢者の言葉はすべて、突き棒や釘。ただひとりの牧者に由来し、収集家が編集した。

コヘレトは、この書物を著した理由を記します。彼の言葉は、優しく人を包み希望を与える言葉とは思えず、むしろ刹那的人生論にさえ聞こえました。

実は、「空の空」と語る言葉は、「突き棒」でした。羊飼いが持つ杖は、羊の首を曲げられた杖で強く引き邪道から戻します。突き棒は、牛飼いが先の尖った棒で牛を後ろから突いて追いたてました。

羊飼いの杖も、牛飼いの突き棒も、「ひとりの牧者に由来し」とある一人の牧者こそ、主イエス・キリストです。コヘレトは、神からの啓示を彼の人生に照らし合わせ、神の突き棒となって語ってきました。

この突き棒は、園の木の間という太陽の下に隠れた者たちを突っつき、「釘(天幕を止める長い鉄棒)」でしっかりと固定された「神の幕屋」、神と人が共に住む神の国に追い出します。

「見よ。神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(黙21章3~4節)。

友よ。「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれる」。突き棒を感謝して受けましょう。

12章11節

賢者の言葉はすべて、突き棒や釘。ただひとりの牧者に由来し、収集家が編集した。

ただ一人の牧者である、「初めに言があった」と言われる御子イエスが、御自分の御心を伝える「言葉」としてコヘレトに語り、それが編集されました。

この言葉は、突き棒と釘として働きます。聖書の言葉こそ自分を神へ追いやる「突き棒」であり、神の御元にとどめる「釘」です。

この突き棒と釘を、エデンの園の中央にある、「善悪を知る木」と「命の木」に当てはめることもできます。

突き棒は、人に善悪を知らせる「戒め」として罪を指摘し、命の木に行くことを教えます。その命の木は、「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」(ヨハ6章34~35節)と言う主イエスです。

釘は、人を主イエスの居る場所にとどめるものです。羊は自分を救えないし、他の羊も救えません。羊の救いは、ただ一か所、羊飼いと共に居ることです。羊に能力が無くても、羊飼いに知恵と力があります。

さ迷う羊なる友よ。「言」なる方の突き棒であるみ言葉を日々受け取ってください。「御言葉の釘」で打ち込んでもらうと、「神の知恵となり、義と聖と贖い」となられた主イエスに結び一体化します。

突き棒と釘は、ひとりの牧者から出て、ひとりの牧者・主イエスに導き、そこにいつまでも留めます。

12章12節

それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。

この言葉に「ホッとした」という者も、「それじゃ、どうすればよいの」と問う者もいます。英語の良くできる人が、中学の先生の言葉「教科書を百回繰り返し読みなさい」を実行したと言いました。それは、本当に良いものを徹底的に学ぶことを教えています。

物事を見分けるのはその人にある基準です。その基準が世間ならば「人々」、特定の個人ならば「あの人」、ある思想ならば「…主義」、聖書であるならば「神の真理・イエス・キリスト」となります。

ある牧師曰く、「現代は多くの情報が押し寄せています。それはあたかも大洪水で家が水没しているようです。しかし飲み水(命)がありません」と。

そうです、人に必要なのは、「命を作り、保ち、豊か」にするもの、教えや知識でもなく人格でなければなりません。なぜなら、知恵や知識はその人格に「導き,結び、交わり」を与えるための手段だからです。「学びすぎれば疲れる」のは、手段を目的とするからです。

友よ。パウロが、「全ての人がキリストに結ばれて完全な者となるように」(コロ1章28節)と言いました。聖霊とみ言葉が一つになると、人格のキリストが現われます。その主イエスは、罪人を「新生」させ、肉の人を「聖別」し、キリストの御形に「栄化」してくださいます。聖書を学ぶ者は、キリストを得ます。

12章13節 ①

すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。 

「戒め」と聞くと「モーセの十戒」が頭に浮かび、次には「…してはいけない」が頭を占領します。しかし、モーセの十戒を含む神の戒めは、「…してはいけない」の否定ではなく、「…しなさい」の肯定です。

どの戒めが一番大切か、との律法学者の質問に、「「第一の掟は…、私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽し、思いを尽くし、力を尽くして…神である主を愛しなさい。』。第二の掟は…『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マコ12章29~31節)と言われました。

そこで重要なのは愛する順番「①神を…②自分を…③隣人を」です。神を愛することが「神を畏れ」ることで、それは神との正し関係のことです。

「畏れ」は「恐れ」ではなく、犠牲を惜しまず愛して下さるお方への畏敬の心であり、そこからその方を信頼し、委ね、従いたいと願う神への愛です。

自分を愛するのは、自分に価値があるからです。しかしその愛を自分で造ることはできません。人の中に造られる自分の価値は、「愛されている自分」です。

友よ。神に愛される私こそ、自分を愛することです。神の愛を知ると他者をそのまま認め受け入れられます。隣人の救いのために働くことこそ、隣人を愛することです。それは、自分が神の愛を知るからです。

12章13節 ②

すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。

一般的な神(偶像)と人の関係は「神の戒めを守れ、そうすれば神に愛される」となります。これはキリスト教律法主義もこの道です。しかし聖書は、「神を畏れよ(神の愛を受け取れ)、そうすれば「戒めを守れる(神を愛する)」となります。

主が十字架上で人々の罪を受け取った時、「私は渇く」(ヨハ19章28節)と叫びました。主の渇きは、人々の罪を背負ったために、父の神と一つであった関係を切られて渇き、父の愛を求める叫びでした。

その渇きは、人々の魂への渇きでもありました。それは、「私が…来たのは…私をお遣わしになった方の御心を行うため」(同6章38節)と言い、その御心は「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ること…終わりの日に復活させる」(同40節)ことでした。

神の御子イエスこそ、誰よりも父を畏れ、父の愛を求めて受け取っていました。だからこそ、主は「その戒めを守れ」とある戒め、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(同15章13節)を忠実に実行できました。

友よ。戒めを守ったら神の愛を受けるのではなく、神の愛を受けた者が戒めを守れる者となるのです。神の愛を受けて神を愛する「神を畏れる」ことが、神の愛によって隣人を愛する「戒め」を守ることです。

12章14節

神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう。

三位一体の神は、自分たちの愛の中に人々を入れるために人間を造られました。愛は、人格(自由意志を持つ存在)と人格の継がりと交わりによります。神は、全てを備えて人の「信仰」という応答を待ちました。

神が人の「善も悪をも一切の業を…裁く」という時、それはその人の「行動の結果」に対するものではなく「生き方」に対する裁き(判断)です。その生き方こそ「主イエスに対する信仰」のことです。

全ての人は「皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」(ロマ3章23節)その罪とは、主イエスを信じないことです。姦淫、盗み、殺人、怒り…など、大小の違いがあっても皆が犯している罪です。

信仰は、神に罪人を一体化させ、どのような罪でも神がその責任を取りあがなって下さいます。しかし、神は不信仰の者とは一つになることは出来ません。

故に、神が裁く人の「善」とは信仰によって生きること、「悪」とは不信仰となります。「善」に生きる者は命を、「悪」に生きる者は死となります。

友よ。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」(ヘブ11章6節)。信仰は、神の御業(十字架、復活、聖霊の働き…)で作られるものを受け取ります。不信仰は、自分の行いの結果を自分で受け取らねばなりません。全てのよきものは天の父からきます。

1章1節,12章13節

「なんという空しさ、なんという空しさ…すべては空しい」。…すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ」

権力、財力、学力、実行力を実際に用いて生きたコヘレトの言葉に聞いてきました。そして彼は、「空」と「神」の二つの結論を得ました。

世界には人の数ほど人生論がありますが、行き着くところは彼が得た二つ、「空」か「神」かです。そしてそれは、「太陽の下(自然界)」か「太陽の上(神の霊の世界)」かであり「死」か「命」かになります。

太陽の下を選ぶと、太陽の上は無くなり「無」となり死の世界に追いやられます。

太陽の上を選ぶと、太陽の下である自然界も人間同士の交わりも、「恵みの命」となって喜びに満ちます。

父なる神は、太陽の下に落ちた人間を太陽の上に引き上げるために御自分の愛する御子イエス・キリストを遣わされ、彼を十字架に渡しました。

主の十字架は、神と人の間に入って執り成して下さいました。また、人と死(罪)の間にも入り、罪と死を無力にして滅ぼしてくださいました。

友よ。太陽の下に生まれた私たちですが、ここから神を見上げるのです。すると「キリストは私たちの平和であり…二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」(エフェ2章14節)、私たちを太陽の上に引き上げてくださいます。

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