キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

コヘレトの言葉 第8章

8章1~2節 ①

「人の知恵は顔に光を添え、固い顔も和らげる。」賢者のように、この言葉の解釈ができるのは誰か。それは、わたしだ。

人格を作る三大要素は、

● 遺伝因子

親から受け継いだ生命的要素

● 幼児体験

サイレンの音を聞くと激しく泣く子→胎内にいた時に母が自宅の火事を消そうと必死になった

● 自由意志による選択

ある人曰く、「神は不平等である。なぜなら、親も①、幼児体験②も自分では選べなかったから」と。しかし、これら三つの中で最も大切なのは③の自由意志による選択です。なぜならば、自由意志の選択によって、①も②も乗り越える道が備えられているからです。

それは、本当の知恵、「主を畏れることは知恵の初め」(箴1章7節)」を持つことで、①の遺因子は、新しい神の子の生命(遺伝子)を受けます。②の幼児体験は、神の愛と戒めによって育て直されます。「…成長させてくださったのは神です」(Ⅰコリ3章6節)。

友よ。あなたの顔は光っていますか、それとも固く暗い顔ですか。神は人に、「自由意志」を与えて下さいました。それによって、動かせない過去も、罪の中に死ぬ者も、聖く尊い永遠の存在へ変えてくださいます。このことを理解し、賢者として歩んでください。

8章1~2節 ②

賢者のように、この言葉の解釈ができるのは誰か。それは、私だ。すなわち、王の言葉を守れ、神に対する誓いと同様に。 

「…顔に光を添え、固い顔も和らげる知恵を知っている人は誰か」と問い、「それは、私だ」と言います。それでは、彼が得た知恵とは何でしょうか。それは、「王の言葉を守れ…」でした。聖書も、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。…今ある権威はすべて神によって立てられた」(ロマ13章1節)と記します。しかし、歴史上の災いは権力者に引き起こされてきたので従うことに恐れを持ちます。勿論、地上の王(権力者)の命令は、自分が生き栄えるためでした。

彼が言う王とは、神です。神の命令は、御自分の地位や権威を振りかざすためではなく、人を愛するゆえの「愛の命令」で「仕えるための命令」です。

神が「私を信じよ」と命じる時、命じたことを実行するのは神御自身で人ではありません。「私を神とせよ」と命じた方は、御自分の独り子イエスを十字架にかけて、信じた人の罪の代価を御自分が払います。賢者は、自分の力で自分を救う人ではありません。自分を救うお方を知り、その方に自分を委ね、その方に救いを成就していただく人のことです。

友よ。神の言葉に従うことは、命じた神に神の約束を成就していただくことです。愛なる神は、愛する民へ、御自分の全てを与えようと待っておられます。

8章3~4節

気短に王の前を立ち去ろうとするな。不快なことに固執するな。王は望むままに振舞うのだから。王の言った言葉が支配する。誰も彼に指図することはできない。

神の子たちにとっての王は、愛の神です。愛の王は、神の子たちに仕えてくださいます。しかし、この世にも王たちがいて人々を自分に仕えさせ反対者の命をも奪います。その王に、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。…今ある権威はすべて神によって…」(ロマ13章1節)と聖書は言います。

初代教会の迫害の中の神の子たちは、実に神なる王とこの世の王にも仕えました。ただし、彼らは神なる王に真実に「仕えた」ので世の王に「従った」のです。

カイザルは皇帝礼拝を命じました。神の子たちは彼を礼拝することはできません。そこで皇帝に反逆し、さまざまの義務や納税を拒否し、皇帝の兵士たちを殺し、皇帝を暗殺することもしませんでした。彼らは、「神だけを礼拝せよ」に従い、「皇帝を礼拝せよ」には従わず、しかしカイザルの「主イエスを礼拝する者は死刑」には服従しました。このことで彼らは神とこの世の王の両方に従ったのでした。 

友よ。この世の王はいますが、その上に君臨する王は神です。「イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。…彼らはキリスト共に生き返って…千年の間統治した」(黙20章4~5節)と。神は、殉教者たちの責任を必ず取ってくださいます。

8章5節

命令に従っていれば、不快な目に遭うことはない。賢者はふさわしい時ということを心得ている。

王なる神の言葉を守って生きることが人の幸福ですが、戒めへの間違った従い方に注意が必要です。

アダムとエバは「善悪を知る木(戒め・十戒)」を「取って食べた(自分の手に戒めを持つ)」ので、「皮の衣(動物犠牲・主の十字架)」を着せられてエデンの園の中央から追い出されます(創3章)。彼らは息子たちに、神へ行く時は「皮の衣」を着て行くように教えたはずですが、カインは地の産物(自分の行い)を持って行き、アベルは羊を持って行きました。受け入れられたのはアベルでした。

カインの行動は自分で業(義)を差し出し、アベルは神の業(義)を受け取りました。アベルは自分の羊を差し出したのではなく、神が備えた神の贖いの小羊(イエス)を受け取ったゆえに義とされたのでした。

神は人と愛に生きるために、人に自由意志なる人格を与えました。だからこそ、「善(神と継がる)と悪(神から離れる)」を教えるために、「善悪を知る木」を園の中央に置かねばなりませんでした。

友よ。神の戒めは、「神を愛しなさい(神の小羊を受け取る)」と、「隣人を愛しなさい」です。「…してはならない」ではなく、「…しなさい」です。愛を受けるためではなく、愛されているから戒めを守るのです。すると、より神を愛する者とされるためです。

8章9節

私はこのようなことを見極め、太陽の下に起こるすべてのことを、熱心に考えた。今は、人間が人間を支配して苦しみをもたらすような時だ。

前の数節には、…時、災難、出来事への予見、霊の支配、戦争を免れ得ない…など、人が解決できないことが記されていました。それを見極めたコヘレトは、「人間が人間を支配しているから苦しむ」と言います。

主と弟子たちがガリラヤ湖の向こう岸に渡るために舟で出かけた時、激しい嵐が起こり波に飲まれそうになります。彼らはこの湖の漁師で、天候も舟の操作も知り尽くしていたのに、天候の予測も、舟の操舵もできなくなり主に助けを求めました。

ところが、主は弟子たちの狼狽を気にもせず眠っていました。なぜ眠っていたのでしょうか。イエスは神なので、嵐も波も恐れなかったからでしょうか。否、主は自ら眠ったのではなく、弟子たちに眠らされていたのでした。それは、漁師としての自信とプライドから、弟子たちは自分たちで何とか乗り越えられると信じていた分、主を必要としませんでした。それこそ、主が眠らされていた原因です。

イエスを主と告白した友よ。あなたが、イエス以外の方を主とする時、「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない」(詩121・4)お方を眠らせます。イエスを主とする時、主はいつでも起き上がって嵐を静めてくださいます。

8章10節

だから、わたしは悪人が葬儀をしてもらうのも、聖なる場所に出入りするのも、また、正しいことをした人が町で忘れ去られているのも見る。これまた、空しい。

人々は、「この世は変だ。悪人が豪華な葬儀をしてもらい、聖なる場所に出入りする。しかし善人は忘れられる」と。そして、「本当に神はいるのか?」と問います。「悪事に対する条令が速やかに実施されるなら(11節参照)」神はいると言えるのだが…と。

パウロは人類の罪を、「不義によって真理の働きを妨げる人間の不信人と不義」(ロマ1章18節)だが、神はその罪人に対し、「…なすに任せられ(24・26節)・無価値な思いに渡された(28節)」と言います。

それは、神は人と愛の関係を求めているので、人に自由意志を与えました。ゆえに神は、「仕方がないので放っておく」というのではなく、人間のすることに「手出しができない状態」だと言います。でも、神は罪人から離れているのではありません。神のない世界では、人間はさらに罪の中に入り込み、やがて必ず行き詰まり、神に助けを求めるその時を神は待っておられるのです。

友よ。この世は変で、神はいないと感じますか。いいえ、変なのは人間であり、神はいつでも変わらず人を救おうとしています。悪人が高ぶり、善人が虐げられるような矛盾を感じるのは、神が愛なるお方で、忍耐して人の悔い改めを待っているからです。 

8章12~13節

…神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり。悪人は神を畏れないから、長生きできず、影のようなもので、決して幸福にはなれない。

コヘレトがこの世の様々な不公平や不条理を指摘しますが、そのことが目的ではありません。鋭い指摘は神の真理を知らせたいからです。その真理とは、「神を畏れるか否か」の一事によって、「長生き(神の国)」か「短命(この世)」かが決まると。神を畏れるとは、神が人のために用意したものを受けること、すなわち神の愛を受け取ることです。

神は、人祖アダムが罪を犯したその時点から、救いを用意しました。それは、エデンの園の中央から追放する時、「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(創3章21節)ことからわかります。皮の衣こそ、動物犠牲であり、御子イエスの十字架でした。  

神は、彼らを追放する前に罪の贖いを用意しました。そして、「ここは義と聖の神の国ですから、罪人を裁き(義)退け(聖)ねばなりません。追放は、あなた方を守るためです。あなた方を追放するが、皮の衣(主の十字架の贖い)を用意したのでそれを着て帰って来なさい」と言ったと思われます。

友よ。人との比較でない絶対の基準があります。それは人の業(義)でなく、神御自身が造られた「神の義」です。それを受け取るのが信仰です。まさに、「正しい者は信仰によって生きる」(ロマ2章17節)です。

8章14節

この地上には空しいことが起こる。善人でありながら悪人の業の報いを…、悪人でありながら善人の業の報いを受ける者がある。これまた空しいと、私は言う。

悪人が悪人の報いを、善人が善人の報いを受けるは当然ですが、善人なのに悪人の業の報いを受け、悪人なのに善人の業の報いを受け取るとは? しかしここで大事なことは、「業」の理解です。業とは、生きて行動した「結果」であることに気づかねばなりません。聖書に「実(結果」によってわかる」とあるのは、実を強調したのでなく、実が出来た原因である「イエスに繋がることの命」を強調したのです。

ある人が親から愛され良き人格を持ち、努力し、良き社会人、良き父(母)として、しかも裕福に生きることが出来た。それは、彼が善人であったから良き業を得た」と。しかし、次の結果(実)にも目を注ぐべきです。「そのために、彼に神は必要なかった」と。

またある人は、「出生からして不幸で、どん底を通らされて死んだ。彼は悪人であったに違いない」と。しかし次の結果(実)は、「それだから彼は神を信じ頼らねば生きられなかった」と。

友よ。人生で大切な業は、イエスを主と信じる信仰の業です。それは、全身全霊を傾けて神を求め、神に依存することです。人生の見える結果ではなく、結果を作る見えない霊の命です。「信じる者すべてに与えられる神の義です」(ロマ3章22節)。

8章16~17節

私は知恵を深めてこの地上に起こることを見極めようと心を尽くし、昼も夜も眠らずに努め、神のすべての業を観察した。…悟ることは、人間にはできない。

人間の学術名は、「ホモ(人)サピエンス(知恵)」で、「知恵」が定冠詞のようです。その知恵を尽して地上のことを見極めようとしたが不可能だと言います。科学の発達が天体から遺伝子までも解明できるようになりましたが、未だに決して解明できないことがあります。それは、神の御業です。

カルデアのウルに居たアブラム夫婦には子がなく、「あなたを大いなる国民とする(子孫が与えられる)」との神の声を聞き、約束の地カナンに到着したのは75才でした。しかし、子は得られませんでした。

彼らに約束の子イサクが与えられたのは、さらに25年後、彼の100歳の時でした。聖書の数字は、数を明確に表す以上にメッセージです。「アブラムの100歳」のメッセージは「人の可能性100%ゼロ」であり「100%神の業」を表しました。イサクは、アブラムの息子である以上に、「永遠の御国の跡継ぎ=永遠の命=人の救い」でした。罪人が神に救われて永遠の御国に入ることは、人には100%不可能で100%神の御業です。神の御業は、人の知恵を完全に超えます。

友よ。人の100%ゼロに神の100%が加入できるのは、ただ一つ信仰です。人の知恵を愚かにするのは信仰です。信仰は神の御業を成就させる本当の知恵です。

8章17節

神の全ての業を観察した。…太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは、人間にはできない。…賢者がそれを知ったと言おうとも、彼も悟ってはいない。

どんなに科学が発達し人工知能が進んでも、解明できないことは神の御業です。そして人間にとって一番大切なことは、解明できないところにあります。肉体の命の解明が出来ても、それで人の命は解明できません。人の命は肉体を超えた霊だからです。しかし、理解できない神の御業を悟らせるのが信仰です。

サムソンの父マノアの妻は不妊の女でした。そこに主の御使いが現れ「身ごもって子を産むであろう」と告げます。彼らは御使いの言いつけを守り、酒や汚れたものを食べず、さらに生れた子をどのように育てるかまで尋ねます。そして礼拝しました(士13章)。

ヘブライ人への手紙11章には、「信仰によって…アベルはカインより…、エノクは天に移され…、ノアは箱舟を造り…、アブラハムは死んだも同様の一人の人から空の星のように子孫が生れ…、モーセは紅海を渡り…、ギデオン、サムソン…」と連ねます。彼らは、この世が理解できないことを、理解する知恵を得たのでなく、神の事実を見て生きた人々でした。

友よ。彼らは神の約束を見ましたが、「約束されたものを手に入れませんでした」(39節)とあるのは、「彼らが地上で得た神の恵みより、もっと大きな恵みをまだ見なかった」との意です。信仰は神御自身を見ます。

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